日本 プロライフ ムーブメント

自殺について

自殺に関する考え方も、公会議前と公会議後では大きく変わった点の一つです。公会議前は、教会法によって、教会での葬儀は認められていませんでした。それは、自殺した人が、「大罪のまま死んで、地獄に行ったので祈ってもしょうがない」、という考え方からだったのでしょう。 

でもその後、精神医学や心理学の発達により、自殺に至るメカニズムが解明されてきました。そのため、教会は、新しい教会法において、「自殺者を教会で葬儀してはならない」という規定を削除しました。また、カトリック教会のカテキズムにおいても「自殺した人々の永遠の救いについて、絶望してはなりません。神はご自分だけが知っておられる方法によって、救いに必要な悔い改めの機会を与えることがおできになるからです。教会は自殺した人々のためにも祈ります」(2283)とあります。また、日本の司教団も「いのちへのまなざし」の56から63にかけてこの自殺の問題を取り上げ、「心を込めて葬儀ミサや祈りを行うよう」(62)呼びかけています。 

自分の命を絶つこと、それに至るためには、いろいろな過程があり、人それぞれの苦しみがあります。そして、自分の持っている全エネルギーを死ぬことにあて、亡くなっていくのです。それほどまでにして、死んでいくには、言葉では言い表せないほどの大きな苦しみと悲しみがそこにはあったことでしょう。 

また、そこまで自殺に追い込まれていく、その背景には、周りの影響も大きいものがあります。失業などによる経済的困苦や、将来への悲観、また身体における障害や病気による苦しみ、また一生懸命にやっているにもかかわらず、周りの無理解による孤独感、いじめなど、数え上げたら枚挙にいとまがありません。 

でも、ここで言えることは、地獄に行くかどうかを決めるのは、公会議前までは、教会であり、その中にいる人間だということです。それに対して、公会議後は、地獄に行くかどうかは神様の憐れみ次第であって、この世で大罪を犯したからすぐ、地獄という考え方はできないということです。これこそが、本来の福音の姿でしょう。わたしたちは、神様より偉くはありません。偉くないばかりではなく、神様とは、雲泥の差がありすぎるのです。そんなちっぽけな人間が、自分たちの知り得た情報だけで人を裁くというのは、言語道断のことです。 

聖書に、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ7.1,2)とあります。このように、「あの人は、良い」とか「あの人は悪い」ということを、わたしたちの知り得た情報だけで裁くのではなく、その人のために神様に祈ること、それが、自殺者に対してばかりではなく、すべてのことにおいて求められているのです。 


聖書の引用は、新共同訳聖書1988年版を使用。 

Shimazaki, Hiroki (シマザキ・ヒロキ) 
出典:『LOGOS(みことば)』 2003年掲載より 
http://www.geocities.jp/hs_ocd/ca_02.html 
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