主の降誕を祝った、次の1 2 月の主日は、聖家族の祭日となっています。今年の場合、主の降誕の二日後にあたる今日、お祝いすることになります。
( 今日の聖書朗読箇所)
第一朗読サムエル記上( 1 章2 0 ー 2 2 , 2 4 ー 2 8 節)
第二朗読ヨハネの手紙I( 3 章1 ー 2 , 2 1 ー 2 4 節)
福音朗読ルカによる福音書( 2章4 1 ー 5 2 節)
主の降誕を祝った、次の1 2 月の主日は、聖家族の祭日となっています。今年の場合、主の降誕の二日後にあたる今日、お祝いすることになります。 ここで、聖家族とは何かということを、皆さん、おわかりかとは思いますが、復習のつもりで聴いてください。 聖家族と呼ばれるのは、イエスとその母マリア、そして養父のヨセフのことです。なぜ、聖家族と呼ばれるのかというと、 神の独り子であるキリスト・イエスが神から人間として派遣されてこの世に来たときの家族だからです。 もう一つ付け加えると、キリストは、神そのものであると同時に人間でもあります。つまり、 同時に神と人間の両方を持ちあわせているということです。ですから、 神を子どもとして与えられたヨセフ一家が聖家族と呼ばれるようになったのです。そして、この聖家族が、 わたしたちの家族のモデル、見本となります。そこで、今日は、家族について皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
その前にひとつおさえておきたいのは、家族という複数の人の共同体が通常いっている家族ですが、 ここで扱うのはたとえ単身世帯であってもその考え方は同じですので、「わたしには関係ない」 と思わずに耳を傾けていただきたいと思います。
標準的な家族をモデルに話をはじめていきたいと思います。その標準的な家族とは、聖家族と同じく父親と母親、 そしてお子さんがいらっしゃる家庭です。それは、おかしいという声が今にも聞こえてきそうですが、 一番話をしやすいので、この家族構成をもとに話していきます。家族のはじまりは、男女の出会いからはじまります。( 男女とはいっていますが、けっして性的マイノリティーの方を排除するものではありません。) そして、お互いが愛の絆を確かめあいます。この確かめで必要なのは、 ただ相手のことが好きだということだけではありません。相手のすべてを知ることは難しいですが、でも、 相手の方との考え方、価値観、宗教観、性格、傾向、また、欠点や短所、家族など、 できるだけ相手の方と自分とが一生涯添い遂げることがきるかどうかを見極めることが必要です。昔、 成田離婚ということばが流行しましたが、実際に一緒に暮らしはじめるとお互いのそれまでの生活スタイルがあるので、 必ずぎくしゃくする場面があるでしょう。ただ、そのようなときにでも、お互いが話しあい、受け入れあい、 理解しあえるような関係を築いていく覚悟が結婚には必要となります。少なくとも相手の表面的なことだけをみると、 その方の良い面しか見えてはきません。
そして、男女が結婚し、同じ屋根の下に住むようになります。そうすると、お互いの行き違い、誤解、偏見、 思い込みなどでお互いが衝突することもあるでしょう。そのようなときにでも、お互いが赦しあい、 話しあえる関係を築いていくという努力が必要です。そのためには、コミュニケーションが大変必要となります。 人というのは、黙っていては相手のことを理解できません。お互いが辛抱強く話しあうことによってこそ、 コミュニケーションは成立します。他にも病気や事故、リストラなど思いもよらない出来事に遭遇することでしょう。 その一つひとつが、お互いの人間性を高め、完成された人間へと成長していくのです。そして、 二人の愛の結晶であるお子さんが誕生します。
最近の医療は進んでいて、出生前診断というのがあり、遺伝子やその他の検査によって、 生まれてくるお子さんが健常なのかそうでないのかが確率的にわかるそうです。ただ、 胎児が障がいをもっている確率が高いと、中絶を選ぶ人が多いそうです。 わたしも何人かの知的障がいの方と出会っていますが、その親御さんたちはとても大変で苦労しているのは事実です。 とはいっても、人間の勝手な理由で一人の人間を殺すことはどうでしょうか。 いつから人間として認められるかという議論はあるかと思いますが、少なくともその子の障がいがわかり、 中絶するということになると、胎児はかなり人間らしく成長しているはずです。その子は、この世の中に生まれ、 愛するお父さんとお母さんと暮らしたいと思っていることでしょう。また、このようなことばが日本語にはあります。 それは、「子どもは、天からの授かりもの」ということばです。授かるということは、誰かが与えなければなりません。 その誰かこそが神なのです。お子さんを授かるのは、人間の行為だけでできるものではありません。 いくら両親とも健康で健全であったとしても、お子さんを授かるかどうかはわかりません。ということは、 どのようなお子さんであれ、そのお子さんを孕( はら) んだということは、神から何かしらの使命がその夫婦には与えられていることになります。
お子さんが無事にこの世に誕生したら、お母さんだけで育てていくことは困難です。 イクメンということばが流行していますが、お父さんも何らかの形で育児に参加しなければ、 育児のすべてをお母さんに押しつけることになり、極端な言い方をすれば、奥さんが一種の奴隷のようになってしまいます 。そこには結婚のときに誓った、愛など微塵も感じられません。お二人のお子さんなので、お二人が協力しあい、 配慮しあって育てていくのが本来の育児ではないでしょうか。
お子さんは、当然ながら、日々成長していきます。昨日までできなかったことが、今日にはできるようにもなります。 そうこうするうちに、ご両親とお子さんとの間でコミュニケーションも成り立つようになってきます。子育ては、 いつも順調にいくとは限りません。お子さんが反抗したり、わがままを言ったり、 いたずらをしたりと親の手を焼かすこともするでしょう。その場面だけを思えば、子育ては大変かもしれません。しかし、 子育てを通して人間は、成長していきます。子どもにどのように接したら、 子どもが自分の言っていることを理解してくれるのかを考えること、それは、子どもに限らず、 大人に対してどのように接したら、理解してもらえるのかという訓練にもなります。また、子どもは、 自分の家のことを外で話します。それは、いくら口止めしてもダメです。その子どもが話していることは事実です。 ですから、子どもが外で家庭のことを話しているのを耳にしたとき、子どもに注意する前に、まずは、 自分たち自身のことを振り返ってみることです。
最近よく見かけたり、聞いたりすることですが、子どもがいくら騒いだりして、他の人の迷惑になっていたとしても、 親御さんがその子どもを注意しない人が多いような気がします。場合によれば、他の人が注意したら、 注意した人がその親御さんに怒られるとも聞きます。子どもは、親の鏡です。良いことであれ、悪いことであれ、 親のやり方などが子どもに影響を与えています。また、一部の親御さんは、子どもに対して虐待をしています。 おそらくこれらのことは、親御さんが真の大人、親になっていないということではないでしょうか。
ここまで、家庭についてみてきましたが、聖家族の一番の特徴は、いついかなるときでも、自分勝手に物事を判断せず、 目の前で起こっている出来事を受け止め、なぜその出来事が起きているのかわからないときには、 心に納めて思い巡らしていました。おそらく、育児や子育てにおいては、 ヨセフもマリアもわたしたちと同じ苦労をしていたでしょう。しかし、そのようなときでも、彼らは、常に神が第一で、 どのように自分の子どもを、 神がわたしたちを愛してくださっている愛で愛することができるのかを祈りのうちに識別していました。 今日の聖家族の日というのは、今一度、自分の家族、生き方を振り返り、 より完成された人間となっていくためにはどうすれば良いのか。そして何よりも、何をするのが神の望みに一番近いのかを 、祈り、識別していく謙遜さを聖家族から学んでいきたいものです。
わたしたちが聖家族に倣い、いつも、神とともに歩み、神の思いと自分の思いを一致させ、 より完成された人間となっていきますように、聖霊の導きと照らしを祈り求めましょう。
Shimazaki, Hiroki (シマザキ・ヒロキ)
嶋崎 浩樹
出典:LOGOS(みことば)
福音のすすめ
2016年度 C年 12月27日
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