あなたが浜辺に居ると想像して下さい。子ども達が親の監視の中で、水をぱちゃぱちゃと飛ばして遊んでいます。ティーンエイジャー達は日光浴をしています。何人かの若者はバレーボールをしています。
突然あなたは海からの悲鳴を聞きます。小さな子どもが遠くへ行き過ぎて、引き波に飲まれてしまったのです。その女の子は狂ったように母親に助けを求めて叫んでいます。一人の女性が数人の子ども達のかたまりから飛び出し、海に飛び込みました。彼女は小さな頭が最後に見えた場所まで突進し、波の下に潜ります。
あなたは二つの顔が海面に現われるまで、息を飲んで見守っていました。母親は小さな我が子を抱いて安全な浜辺に意気揚々と上がり、怪我がないか調べます。子どもの幼い両腕はママの首に巻き付き、泣いたり笑ったりの声があなたの耳に聞こえてきます。
浜辺にいた他の誰とも同じように、あなたは悲劇に終わるかもしれなかったこの幸せな結末を喜んだでしょう。母親は子どもを救った勇気を褒められ、彼女はそれに対して、他の親でも同じ事をしたでしょう、と謙虚に答えるでしょう。子どものいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしたのだと言われれば、母親ならそうする、と彼女は答えるのです。更に、神様が自分と子どもを助けてくれると信じていたと付け加えるでしょう—そして神は助けてくれたのです。
この様な話は毎日起こります。自分の身の安全もかえりみず、火事で燃えるビルの中に居る子どもを救うために飛び込んでいく親の姿を目にする事もあります。そして自分に怪我や死がともなう危険があっても、子どもを救う事が親の役目だというのは、もっともだと思うのです。
浜辺で自分の子どもが溺れているのを見ながら、もし助けようとして自分が死んでしまったら、他の二人の残された子ども達の母親がいなくなってしまうから、この子を救うために自分のいのちを危険にさらす事はとてもできない、と思案しながら立っている親を想像できますか?自分の家族にとってこの子より私のいのちの方が大切なんです、と説明しながら、逃げ遅れた子どもがまだ中にいるのに、燃えさかるビルの外で立っている母親を理解できますか?
そのような状況は想像する事さえ阻まれます。私達はそのような行動をとる人を最も軽蔑するでしょう。でもその子どもがまだ生まれていない場合は…
その場合には「母親のいのち優先」の妊娠と言われ、その通りの議論がなされます。しかし立場は同じではないですか?違いといえば、経た年月と子どもが見えるかどうか、だけなのです。
「母親のいのち優先」はいかにももっともに聞こえるので、そのスローガンの裏にある真実はあまり検討されません。けれど検討してみればそこには三つの全く違ったケースがあり、それぞれに異なった対処があるのです。
一番目は、母親が持つ妊娠前からの医学的問題に関わります。母親は糖尿病、癌、心臓病かもしれません。その場合には、子どもを生もうとする事で、病状が悪化するかもしれないのです。今日の医学の世界では、医者が何か不本意な結果になって訴えられるのを恐れるために、無理やり中絶させられる女性が多くいるのです。しかし、母親が神を信じて子どもを生もうとし、健康な赤ちゃんに恵まれた話があるのも知られています。
医学上、このような状況を担当する医師達は、母親と子どもに平等な保護をしなければならないとしています。治療方針を決めるにあたって、医師は両方の患者からのニーズを常に考慮し、両方のいのちを救うようベストを尽くさなければなりません。時には一つのいのちしか救えない事もあります。例えば癌の進んだ子宮は、妊娠初期に取り除いてしまわなければなりません。この世で一番小さな子どもを、子宮の外で生きさせる方法を私達はまだ知らないので、この場合その子どもは自然死する事になります。これは中絶ではありません。誰もばらばらにされていないのですから。
中絶とは意図的胎児殺人です。平等な保護の概念には、子どもを殺す意図など入っていません。ただ医学の現実として、自分のすべての患者のいのちを救える医者はいないのです。医師はできるだけのいのちを救うでしょう。彼等の判断基準は、いのちを殺す事でなく、いのちを助ける事にあるのです。
二番目はもっと一般的です。それは子宮外妊娠と言われます。赤ちゃんが子宮に到達せず、代わりに輸卵管の壁に着いてしまうのです。この場合、輸卵管を取り除いてしまわないと、やがて管が破裂して母子共に死をもたらす事になります。他に治療の選択肢はないのです。ここでも、赤ちゃんのいのちを救う手だてがわからないために、赤ちゃんは自然死する事になります。
これ等のケースと中絶との違いは、医者の意図と行動です。中絶では、意図とは子どもを殺す事であり、行動もその意図をそのまま実行しています。これ等の難しいケースでは、例えすべて成功するのは無理でも、意図とは、できるだけ沢山のいのちを救う事なのです。
それは誰かが事故を発見した場合にも似ています。車は横転し、辺りはガソリンの匂いでいっぱいで、二人の人が車の中に閉じ込められています。もしある人が、その内一人を救い出しもう一人を銃で撃ったら、それは中絶する心理状況と同じです。そこでは殺人が行われたのです。しかしもしある人が、車のドアに近い方の人を先に救い出し、もう一人も助けようとしたとたん、車が炎に包まれてしまったとしたら、それは平等な保護になるのです。そこには両方のいのちを救おうという立派な努力があったのです。時によっては二人の犠牲者を助ける事ができ、時によっては出来ません。しかし助けようとする人が、犠牲者を殺す事は決してないのです。
三番目は最も珍しいケースです。それは妊娠そのものが問題になる事で、子宮に異常があり、子どもを育てるのに耐えられないかもしれない場合です。それが私の経験です。治療法はありませんでした。私達はただ、どうなるか見守るしかなかったのです。
それはまさに子どものいのちを救うために進んで親のいのちを危険にさらすケースです。それは、子どもを救うために自分の治療を遅らせた癌の母親の決断と、同じです。子どもを助けるのに数分かかるか十ヶ月かかるかの違いこそあれ、それは海に飛び込んだ親といっしょなのです。そして溺死や焼死があるように、この様な母親の何人かも子どもを救うにあたって、自分のいのちを落とすのです。
もう一つの選択肢は、母親のいのちを救うために故意に子どものいのちを奪う事です。しかし親には海に飛び込んだりビルに駆け込んだりする事を選べても、子どもにはその様な選択権はありません。「母親のいのち優先」の中絶では、子どもは母親のために無理やり死に追いやられるのです。それは必然的に親のいのちより子どものいのちの方が、価値が低いということを意味する事になります。そして一度子どものいのちが母親のそれより価値がないと認められると、要求次第の中絶がどっと流れ込んでくるのです。これで法の前でのすべてのいのちは平等ではなくなりました。
一部の人達は、母親には自分のいのちを救う権利がある、自分を守る権利があるから「母親のいのち優先」は許されるべきである、と唱えます。その意見では子どもを攻撃者と位置付けています。そうではありません。赤ちゃんも母親と同じ、妊娠という状況による犠牲者なのです。そして、母親と同じように、生き延びる権利があるのです。
母親の姿は目に見えますが、赤ちゃんは私達の前に姿があるのではないので、「母親のいのち優先」の立場は美辞麗句に陥りがちです。私達は目で見る事で人を確認するからです。事実は、神の目から見れば平等である二人の人間が、そんな訳で考慮の対象になっていないという事です。これら二人の人間は法律の目から見ても平等でなければならず、そうしなければ私達は神聖とするいのちから実質的ないのちへの境界線を超えてしまう事になってしまいます。
この様なケースで意外なのは、例外があるといくら一部の人達が主張しても、張本人である母親達が自分の子どもを救いたいと主張する事です。例えそれが自分の死を意味していても。私達は目でしか物が見えないので、子どもの姿は見えないままなのです。母親達は心の目で見るので、子ども達はすでに家族の一員なのです。そして誰だって、その目に映る子どもを殺そうと言う人はいません。
Luksik, Peg (ルークシック・ペグ)
Celebrate Life 7-8/96p32
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