日本 プロライフ ムーブメント

性的虐待と中絶

ハイジは、小柄な外見と、辛抱強い性格を持ったかわいらしい子どもだった。三つ編みにした金褐色の長い髪に縁取られるように、彼女は大きなブラウンの瞳を持っていた。 

兄である15歳のエリックから性的ないたずらを受けるようになった時、ハイジはわずか7歳だった。エリックは、夜になると「お化けごっこ」をしようと言って、ハイジの部屋に忍び込んできた。彼はベッドの下に隠れ、部屋の電気が消えると、恐ろしい唸り声を出したり、ベッドを下からドンドンと叩いて、ハイジを笑わせたり、叫び声をあげさせたりした。その後、彼はマットレスの端に上り、ハイジを捕まえた。ハイジはエリックがつかみかかってくると悲鳴を上げて彼を蹴飛ばし、はしゃぎながら彼と取っ組み合いをした。ある夜、エリックはハイジのパジャマのズボンを下ろし、彼女を愛撫しはじめた。最終的に、エリックは、ハイジと性的交渉を持つようになった。この秘密の儀式は、沈黙を守るという約束により包み隠された。エリックは、ハイジに「誰にも言ってはいけないよ。言ったら大変なことになるよ。」と言い含めた。 

兄は何度も何度も「いいか、ハイジ、お前が僕をこんな風にしているんだ!」と言った。心のどこかでハイジは責任を感じていた。彼女の気持ちは、恐怖から服従と無力感に変わっていった。セックスは痛みを伴うことが多かった。彼女は、何か楽しい場面を思い浮かべることで、性的虐待に耐えようとした。時には、時計のチクタクという時を刻む音に集中し、無限とも思える拍子を数えることもあった。「すぐに終わる。」彼女は自分に言い聞かせた。「すぐに終わるわ。」エリックが果てた後、ハイジは自分の中の何かが汚れてしまったような羞恥心を常に感じていた。 

ハイジが成長しても、エリックは彼女に対する性的虐待を止めなかった。ハイジがティーンエージャーになる頃には、エリックの友達が交替で、彼女とセックスをするようになっていた。ハイジは、どの男の子もこんなことをしていると誤解した。彼女は、これが男女の普通の行為だと思い、この虐待を受け入れた。誤った概念を植え付けられた上、男性の理性を失わせ、欲望のままに走らせるのは女性なのだという不幸な言葉まで信じるようになった。ハイジは、他の男の子からも「お前が僕をこんな風にさせるんだ!」という同じような言葉を聞くようになった。わずか12歳のハイジが過剰に大人びていて、男性を誘惑するようなしぐさをしていても不思議ではなかった。子ども時代の性的虐待と近親相姦が原因で、ティーンエージャーになったハイジは乱れた生活を送るようになり、男性の快楽と倒錯の対象として自分が利用されることも容認した。ハイジは、幼いころから、女性は性によってその価値が認められ、受け入れられるのだと教え込まれた。彼女は、男性との間に境界線を引く術を知らなかった。彼らはハイジから自分の欲しいものだけを奪い、彼女には何も与えなかった。最も秘密であるべき身体的な境界線を侵されたことで、ハイジは誰かが自分の体を望んだときに制限を加えるべきこと理解できなかった。さらに、ハイジは、成長するにつれて、自分の身に起こったことのすべてを自分の責任と考えるようになっていった。 

ハイジは、わずか15歳で初めて中絶を経験した。待合室の椅子に腰掛けながら、ハイジは聞きなれた言葉を思い出していた。「誰にも言ってはいけないよ。言ったら大変なことになるよ。」 

その後、ハイジは、足をベルトで固定され、中絶台に仰向けになった。中絶を行う医師が部屋に入ってきたとき、ハイジは恐怖を感じた。「脚を広げて」医師の指示が聞こえた。彼女は、不本意ながら言われた通りにした。医師はすぐに処置を開始し、冷たい器具を挿入して彼女の体内に宿ったいのちを破壊した。「時計の音を聞くのよ。ひとつ、ふたつ」という聞きなれた言葉が頭をよぎり、「すぐに終わるわ。」と囁いた。ハイジは、自分に辛い事が起こっているとき、その状況から意識を逸らす術を身に付けていた。 

21歳の誕生日を迎えるまでに、ハイジはすでに5回の中絶を経験していた。その後、彼女は数えるのをやめた。中絶手術を受けるたびに彼女は自己嫌悪と羞恥心を強く感じるようになった。しかし、ハイジにとって、こうした感情は普通のことだった。彼女は、尊厳や敬意をもって扱われたことがなかった。彼女は、自分の生活に踏み込んできた男の子や男性にとって、使い捨てのおもちゃでしかなかった。彼女の体は、本来の彼女とは切り離された物体であり、本当の彼女自身は体の内側に隠れて小さくなっていた。彼女の体が作り出したものは、もっと大切にされるべきではないのか?彼女の体の影に潜んでいる小さないのちは、これまで彼女が受けてきたどんなものよりも尊重されるべきではないのか? 

中絶と性的虐待

私の知るところ、中絶後トラウマに苦しむ女性の内、かなりの割合が性的いたずら、性的虐待、近親相姦の経験を持っている。私が知るカウンセラーのほとんどが、中絶後のカウンセリングにおいて同様の事実を確認している。エリオット研究所の調査では、中絶を受けた女性の21%が子ども時代に肉体的な虐待を経験し、子ども時代の性的虐待経験者は24%に上ることがわかっている。一般国民を対象にした無作為化サンプル抽出調査において、ダイアン・ラッセルは、18歳までに性的虐待を受ける少女が3人に1人、14歳までに虐待を受ける少女が4人に1人に上ると報告している。こうした恐るべき統計結果は、虐待と危機の様相に深く関係している。 

性的虐待は、それが行われた年齢にかかわらず、健全な自己発現の能力を妨げることになる。性的虐待は、発育期の子どもに対して行われた場合、性的虐待による悪影響がより強く、深刻になるため、子どもの人格形成に根深い影響を及ぼすことになる。性的虐待からくぐり抜けてきた人たちは、自己喪失、傷ついたインナーチャイルド、傷ついた心、奪われた魂などを訴えている。 

テレビのトークショーで性的虐待の経験が語られるようになって以来、何百万人もの女性たちが自分の過去を告白できるようになった。女性たちは性的虐待の実態と発生度に関する調査を始め、それが彼らの人生にどのような悪影響を与えてきたかをオープンに議論できるようになってきた。 

一見、中絶は性的虐待の延長であるという考えは不自然に思われる。しかしながら、中絶により心に傷を受けた女性と接した私の経験からすると、同一グループ内では共通のテーマが再浮上しているように見える。親のアルコール依存症や性的虐待など、似たような苦しみを背負ったグループでは、集団で痛みを分かち合うことで、危機的妊娠や中絶の裏に潜む深い意味が明らかになってくる。健全、不健全に関わらず、人の行いは、葛藤や生理学的欲求、満たされない要求、あるいは習慣化しているために普通と思われがちな強要行為によって突き動かされているのである。 

中絶の前に性的虐待があった場合、女性は、中絶をその前に行われた自身への暴力の続きに過ぎないと認識する。中絶の方法と性的虐待とは驚くほど似ている。中絶を受ける際、女性の子宮という守られるべき神聖な部分に医師の手や器具が挿入される。中絶を行う医師は大抵男性で、器具や手を挿入する場所も女性が過去に男性によって侵害された場所と同じである。中絶によって体内で育っている子どもが殺されることは、女性自身の無垢な人格が性的虐待によって破壊されることの繰り返しである。このような場合、中絶は自殺を象徴する行為に見えてくる。無垢な「インナーチャイルド」の死は、虐待された女性が自分自身を失うことに他ならない。 

トラウマの影響として、さまざまな危機が考えられる。欲望、信念、切望、過去の経験、恐怖が、幻想、再現、繰り返しという形で傷を負った人の心に残り、そのトラウマの周りを無意識のうちに取り囲んでいる。トラウマや虐待の専門家の多くは、被害者がさまざまな形で受けた虐待やトラウマを再現すると考えている。被害者にとって事件は過去のことではなく、それが何らかの形で解決されるまで、こうした再現を繰り返すのである。虐待やトラウマの再現は儀式化され、それを通じて、女性は強い悲しみや悲嘆の気持ちを抱くのである。 

中絶の悲しみは、近親相姦の悲しみと同じように、声に出せない秘密の叫びとなる。それは、性的虐待の最中に女性に強いられた強要行為を思い出すことであり、その中で彼女は再び仰向けになることを要求され、自分の体が侵略されることに黙って耐えるのである。性的虐待が行われた直後、彼女は、それが正常なのだと偽ることで、羞恥心、罪の意識、絶望、悲しみを隠そうとする。 

虐待の再現

シーラは、子どもの頃、性的および肉体的虐待を受けた。当然のことだが、彼女は虐待を加えるパートナーたちと最終的には別れた。彼女は「間違ったところに愛を求めた」結果、パートナーのサポートが得られないまま何度も妊娠した。彼女は、5回の中絶について、次のように書いている: 

(私の心には大きな穴があいていて、そこから子どもを失った悲しみがあふれている。私は、休暇、特にクリスマス休暇の時に、気分が大きく落ち込む。私にとって中絶は、私が経験した虐待関係と同じくらい残酷なものだった。中絶を行った医師は、私を虐待した父やパートナーと同じだった。少女時代も、そして成人してからも、私が真に求めていることが理解されることはなかった。今、私は、自分にできたこと、自分がするべきだったことを意味もなく考えることで、罰を受け続けている。私にとってそれが現実なのだ。私の人生の現実は忌まわしいものである。私が受けた中絶は、私の子ども時代と同じように、消えることのない痛みとして残っている。) 

中絶の経験は、愛、子どもらしさ、そして人生を奪われ、彼女自身も深く傷ついた少女時代をシーラに思い出させ、彼女のインナーチャイルドに与えられたダメージを象徴する出来事になった。シーラは、大きな悲しみと心の痛みを抱えながら妊娠を終わらせ、彼女自身を不幸な環境の被害者として見るようになった。無力感の中で、彼女はその行為を災難のひとつとして納得しようとした。シーラにとって、トラウマを繰り返すことは普通のことであり、それが習慣であったと言ってもいいだろう。中絶は子どものころに始まった習慣が継続し、結果、大人になっても続いた。中絶によってトラウマが再現されただけでなく、彼女の人生に希望や意味を与えてくれたであろう子どもを持つ喜びさえをも奪っていった。 

マギーは、児童買春集団で4歳のころから長年にわたって激しい性的虐待を受けてきた。後に彼女は、中絶は自身への裁きとその執行だったと語っている。 

(クリニックに入っていきながら、私は、自分の在るべき場所である電気椅子に向かうような気がしていた。私は、自分の一部が死んでしまうことがわかっていた。私はその子どもを産みたかった。私は自分の子どもを全て生みたかった。でも、中絶のたびに、そうすることが私の義務のように感じていた。) 

マギーは、虐待を受けてきたために、中絶によって自分の子どもを犠牲にするよう強いられている気がしていた。彼女自身の「インナーチャイルド」は、少女時代に繰り返し受けた激しい性的虐待の犠牲になっていた。マギーにとって、中絶は、彼女が子どものころ何度も受けた虐待のように、いのちを脅かすほどショッキングな出来事であり、電気椅子に相当するものだった。マギーが、妊娠を全うし、母親になることの責任を持つことに消極的だったこと、あるいはその能力を持たなかったのは、虐待を受けた子どもとして人格形成にハンデを負っていたからである。彼女は自分自身を虐待経験のある半人前の人間と考え、どうすれば責任感のあるやさしい親になれるのか分からなかった。彼女は感情面で行き詰まり、中絶を繰り返す状態に追い込まれていた。そして、中絶は、悲しみ、喪失感、無力感、暴力という彼女自身が子ども時代に受けてきたトラウマを思い出させることになった。 

バーバラは、彼女がわずか7歳のときに母親が中絶したことを契機に性的虐待を受け始め、その後、6回の中絶を経験することになった。 

(中絶をした後、母は別人のようになってしまった。うつ状態からヘロイン中毒に陥った。両親の薬物中毒が原因で家族はバラバラになり、家族に捨てられた私は児童養護施設に入れられたが、そこで私を世話してくれる人から性的虐待を受けるようになった。 私は売春婦になった。私は、セックスを通じて愛と人間としてのふれあいを求めた。大勢の男性が私を何度も買った。彼らが私を賭けの商品にしてカードゲームに興じていたことも覚えている。彼らは、中絶のために私を病院につれていく役もカードで決めていた。私は、ハイになることで、痛みを感じないための無駄な努力を重ねていた。) 

中絶は、バーバラがその人生で受け入れ、耐えなければならないもうひとつの試練になった。それは、彼女を絶望と心の痛みに陥れた。当時7歳だったバーバラは、自分の兄弟が中絶によって亡くなり、その一方で理由もわからないまま自分が生き残ったことを知り、生きていることに罪悪を感じるようになった。母親の人生が堕落していく中で、バーバラの人生も落ちていった。性的虐待と売春行為により、バーバラは何度も中絶を繰り返すという悪循環に陥った。売春婦であること以外に自分の価値を見出せなかった彼女は、売春という絶望の場所に戻り続けた。母親の中絶、自分自身が生きていることへの罪の意識、幼少期の性的虐待が、バーバラが性を軽んじ、複数回の中絶を受ける原因になっていた。 

彼女が耐えてきた事を理解し、受け入れてくれる人々によるカウンセリングとサポートによって、現在、バーバラは自分を呪縛してきた秘密から解き放たれた。今、彼女は、破滅的な行為を繰り返す代わりに、これまで秘密にしてきた自分の不安や恐れについて語り、その原因について理解できるようになってきている。彼女は、常に愛情とサポートを示してくれる忍耐強い男性と結婚し、精神面を充実させることで、希望と強さにあふれた人生を築こうとしている。バーバラが失ってきたものすべてに深い悲しみを感じるときも、こうした愛とサポートがいつも彼女を支えている。 

マーサは、叔父とその友人から常習的に性的いたずらを受けていたことを記憶している。成人したマーサは、低俗なナイトクラブのトップレスダンサーになった。ナイトクラブで、彼女は男性の欲望の対象という屈辱を再び味わうことになったが、予想外の味方と力を得た。ステージでは、マネージャーや警備員が彼女に触ろうと手を伸ばしてくる観客からマーサを守ったため、彼女は子どものころと同様に彼らを興奮させる一方で、彼らの侵攻を抑えることができた。また、トップレスダンサーとして、マーサが受けた屈辱の経験で、多額の報酬を受け取ることができた。ナイトクラブは、マーサにとって彼女が子どものころ虐待によって受けたトラウマをに打ち勝つための場所だった。ナイトクラブは、彼女が挑発的な態度を再現しつつ、興奮した男性をある意味支配できる場所だった。それは、子ども時代の彼女には持ち得なかった力だった。しかし、トップレスダンサーとして踊ることが、子ども時代に受けた傷に対する一時的な精神的・経済的償いになったとしても、それが彼女に真に力を与え、癒すことにはならない事実にマーサは気づいていなかった。ステージ外での彼女の生活は、彼女が強く望んだ権力も尊厳もないままだった。 

乱れた関係の結果、マーサは8回の中絶を経験した。長い間、マーサは、中絶という権利は、自分や他人の人生に命令を下し、権力を示し、それを支配することだと考えていた。それは、虐待を止めさせることができなかった子ども時代から彼女が切望してきたある種の権力でもあった。しかし、中絶を経験する度に、破滅的な関係が新たに生じ、危機的な妊娠、そして中絶へとつながっていった。マーサは、その後も、彼女に何の愛情も示さない男性たちに利用され、捨てられ続けた。彼女が助けを求めたのは51歳になってからだった。自分の人生と失った子どもたちへの彼女の悲しみは大変なものだった。しかし、失ったものに向き合うことで、彼女は人間としての自分本来の価値、そして本物の愛と尊厳を求める気持ちを認識し始めている。 

性的虐待を受けた女性がすべて売春婦やストリップダンサーになるわけではないが、彼女らが絶望や屈辱を伴うような行動に溺れる可能性は高い。性的虐待を受けた場合、表面上はごく普通で日常生活に問題がないように見えても、ストレスを受けることで、押し込めていた羞恥心が表に出てくる場合がある。こうしたストレスが、摂食障害、アルコールや薬物中毒、婚外性交渉、万引き、幼児虐待などの形で本人を苦しめることになる。 

複雑な要求が素朴な欲求を妨げる

すべての女性がそうであるように、性的虐待を受けた女性も真実の愛を求めている。ただ、彼女たちの場合、若いころに性的な境界線が侵害されているために、自分の体を使って愛を得ようと考える点が他の女性たちと異なっている。無秩序に男性を誘惑するような態度は、彼女たちが過去に経験した性的虐待と犠牲の表れである。簡単に言うと、虐待の経験を持つ女性は、愛、尊厳、トラウマの解決という複雑な要求を満たす手段を模索している。 

残念ながら、性が解放された昨今では、単純な衝動、すなわちしがらみのない性交渉を望む男性が無数に存在している。性的虐待を受け、複雑な要求を抱えた女性が、彼女らを自分の性的欲求のはけ口としか見ない略奪者に遭遇した場合、悲惨な結果になることは目に見えている。性的虐待を受けてきた女性は、そのトラウマを癒し、愛と尊厳に対する欲求が満たされる関係を得るのではなく、愛情に対する裏切り、尊厳の侵害、過去のトラウマの再現を新たに経験することが多い。悲しいことに、性的虐待を受けた女性と虐待的な男性は惹かれ合う傾向にある。こういった女性の脆さは、パートナーを支配し、屈服させたいという男性の破壊的な欲求にとって好都合なのである。 

欲求が強い女性と子どもを欲しがらない乱暴な男性の関係において、女性が妊娠した場合、中絶を強要するために、その女性に対する言葉による虐待や肉体への虐待がさらに加速する。こうした劣悪な状況下で、多くの女性は男性側の強要に屈することになる。しかし、中絶することで女性が自由になったり、権力を得ることはない。それどころか、中絶によって、自己嫌悪、羞恥心、孤独感がさらに増し、彼女たちは虐待関係にますます閉じ込められることになる。カレンがまさにその例で、彼女は、数々の虐待関係に遭ってきた。 

(私の場合、中絶は性的虐待のひとつに過ぎなかった。中絶は私に対する虐待の手段の一つだった。彼は力ずくで私に中絶を迫った。 私が妊娠したことで、彼は私に対する「興味を完全に失った」。彼は烈火のごとく怒り、私を罰した。私は、代償を払わなければならないと感じた。私たちが共に作り出した生命に関心を持つ人はいなかった。彼と私のセックスは、彼の心と同じように空虚なものだった。私は、彼にそれほどまでの仕打ちを許した自分が今も信じられない。) 

同じく性的虐待の犠牲者であるドリンダは、近親相姦の恐怖と中絶のトラウマはよく似ていると語っている。 

(私の体に起こったことは問題じゃない。近親相姦の被害者だった私は、自分の希望がどうであれ、誰かが私の体を望み、それを奪うことについて、自分の意思ではどうすることもできなかった。中絶の時も、体と心が一体のものであることを全く理解していなかった。中絶という行為が私をどれほど傷つけるかという考えもないまま、過ちを犯してしまったが、それが誤りだったことは明らかであった。) 

(しかし、体内に宿った新しいいのちをその体から切り離したにもかかわらず、生涯にわたる悲しみと思慕に苦しまない人がいるのだろうか。だとしたら、それは、自分の体、あるいはそこに宿る魂や性が相互に関係しあい、意味を持つとは考えない女性だけだろう。) 

(私は一人ではなかった。中絶という同じ経験を持つ女性たちは、私たちの体とその体が作り出したものは無意味であり、私たち自身も無意味であるという考えを持っていながら、無意味であるはずの中絶という行為から、大きなショックを受けていた。私たちの経験はよく似ていた。それは、近親相姦や中絶(さらにレイプ、乱交、昔からの性に対する認識)を根幹とする、私たちの体や他人の体に対する恐ろしいまでの冷酷さという共通点があるからではないだろうか。) 

中絶はもうひとつのレイプである。

ニーナは出張中のある夜、レイプされた。恐ろしいことに、彼女は妊娠してしまった。レイプの記憶を消し去るために、ニーナは中絶を決意した。 

(レイプによって妊娠したことは、嫌悪以外の何物でもなかった。その状態から何とか抜け出さなくてはと思った。とにかく妊娠したのだから、その状況を楽しまなければとも考えた。でもどうしてもできなかった。私は妊娠したことを恥じ、誰にもわからないように州外で中絶を受けた。) 

(レイプは、中絶とは比較にならない。私は、感染を予防する抗生物質の投与を受けていなかったために、重度の骨盤内炎症性疾患(PID)を発症した。婦人科の医師は、感染の恐ろしさに加え、中絶手術によって私の子宮頸部がひどく傷ついていると私に告げた。私は、PIDのため不妊症に陥り、将来、自分の子どもを持つことができないだろう。) 

(レイプは辛い出来事だったが、私は乗り越えられたと思う。でも、中絶については、その苦しみを克服できないと思う。中絶の事実が私の人生にとってどれほど辛いことか誰にもわからないだろう。私は、私をレイプした男が憎いし、中絶を行った医師も憎い。もう一度レイプされるために代金を支払ったなんて信じられない。このことは、私の残りの人生にも影響してくるだろう。) 

他のレイプ犠牲者と同じように、ニーナも自分に何らかの隙があったからレイプされたのだと考え、自分を責めた。中絶を受けたことで、自分を責める気持ちがなくなるどころか、恥じ入る気持ちと罪の意識がさらに強くなった。彼女は自分に過失があったと考えている。書面で中絶に同意したのだから。 

ニーナは子ども好きで、家族を持つことにいつも憧れていた。中絶したことで、将来子どもを持つという夢は、粉々に砕けてしまった。中絶を受けた病院で、中絶による「副作用」について教えてくれる人は誰もいなかった。 ニーナが中絶によって失った子どもは、彼女が受胎できた唯一の子どもだった。この現実が、ニーナの悲しみと心痛をさらに強くした。彼女は、たとえレイプによりできた子どもだとしても、中絶で失ったその子を欲しいと願ったが、時すでに遅しだった。彼女は、自分自身が罪人で、子どもはその暴力による犠牲者だと考えるようになった。レイプ犯への怒りは、皮肉にも彼女自身に向けられるようになった。こうした悲惨な経験により、彼女の回復への道のりは長く困難なものとなっていた。 

ニーナの経験は、決して特別なことではない。レイプや近親相姦によって妊娠した女性を対象に行われた大規模な調査結果が、「犠牲者と勝者:性的暴行による妊娠、中絶、出産の告白」という書籍として、先日、出版された。約200名を対象にしたこの調査で、性的暴行によって妊娠した子どもを中絶した89%の女性が、中絶したことを後悔していると答えている。彼らの多くが、性的暴行よりも中絶によって心に深い傷を受け、それを乗り越えることの難しさを告白している。90%以上の女性が、性的暴行の被害者に中絶を選択しないよう勧めている。性的暴行の場合に、中絶が「必ず」女性のためになると答えたのはわずか7%であった。一方、性的暴行の被害者で、妊娠を全うした女性たちは、出産という道を選択したことは正しかったと回顧している。中絶しなかったことを後悔した女性はいなかった。 

致命的な思い込み

現代社会の多くは、虐待の悪循環を断ち切ることには熱心だが、暴力の加害者が自分自身の虐待の記憶に反応している事実については認識していない。 被害者が加害者になるという問題は、家庭内暴力に関する論文や臨床研究でも多く取り上げられている。精神的なトラウマという面から、無数の論説や介入プログラムも開発されている。 

犠牲者が加害者になるという概念は、幅広い社会的情況においても行動に表されている。たとえば、中絶の権利を先導し、それを求めて戦う、あるいは戦っている女性の多くは、虐待され、見捨てられ、辛い人生を一人で背負わされた上、愛情を受けられないまま被害者になった経験を持つ。こうした女性たちにとって、中絶の権利を求めることは、打ちのめされた自分の人生に対する尊厳と、それを自分で支配する力を回復する上での象徴的な行為なのである。 

合法的な中絶を最初に提唱した人の多くが、性的、肉体的、精神的虐待の被害者である事実を考えると、中絶の権利が「自分自身の肉体をコントロールすること」をテーマとしていることも当然と言える。多くの女性にとって、中絶の権利を求める戦いは、政治的なレベルにおいてさえも、過去のトラウマと虐待を克服するための闘いを象徴する行為なのである。 

残念なことに、過去のトラウマを克服する手段として中絶を利用する女性は、自己破壊的な暴力という悪循環に陥り、落胆とさらに泥沼化した関係に傷つくことになる。他の人間を非人格化したり、破滅させることで、犠牲を強いられた自分の過去を克服することはできないのである。 

過去の虐待に何らかの解決を求める女性にとって、中絶は幻の権力を与えるに過ぎない。虐待の被害者は、尊厳、愛、そして正義を求めている。中絶は、本質的に破壊的で否定的な行為であるため、こうした欲求を満たすことはできない。中絶は何も生み出さず、ただ破壊するだけである。中絶が被害者の心にあいた穴を埋めることはなく、新たな穴を作るだけである。しかし、欲求や渇望が理性を上回っている人にとっては、このような自明の理さえも見えなくなっている。たとえば、凶作に苦しむ無知な被害者にとって、山のように詰まれた綿菓子は、戦ってでも手に入れたい賞品に見える。たとえそれを勝ち取ったとしても、一時その甘さを堪能できるだけで、すぐに消えてなくなる綿菓子が継続的な幸せを運んでくることはない。同じように、中絶にも傷心を癒し、無力な人に力を与える効果はないのである。 

中絶からは何も得られない。そこにあるのは破滅だけである。そして、その他の破壊的なツールと同じように、中絶は私たちが思っている以上に破壊することもある。 

Burke, Theresa (バーク・テレサ)
David C. Reardon 共著
Forbidden Grief: Chapter 12
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