日本 プロライフ ムーブメント

尊厳を持って生きる

(定義によれば、文明社会は弱者を権力で押さえつけたり殺したりしないとしている。それを行う社会は、自らを文明社会と称する権利を失うのである。)—マーク・ピックアップ 


活動的なたくましい父親で、政府職員であるマーク・ピックアップにとって1984年3月7日は典型的な一日であった。ベッドから跳び起き、仕事に急いで出掛け、帰宅後は子ども達と取っ組み合いをし、ギターを奏で、絵を描き、そして妻にお休みのキスをした。まさか一夜で人生が変るとは夢にも思わず。 

翌朝、燦燦と輝く太陽に迎えられた彼の腰から下は突然無感覚な状態になっていた。廊下を不安定に歩きながらも、足の感覚は全くなかった。何が起きたのだろうか?数々の医者が訪れ、検査を重ねた結果、望ましくない診断が下された。治療方法がない進行性の衰弱病の多発性硬化症(MS)である。「成人して以来、もっとも激しいショックを受けました」とマークは言う。何の予告も無く、マークは30歳にして障害者の世界に入ったのである。最初の数年はひどいものだった。視力、話す力、聴力、記憶力が次々と失われ、右手を思うように動かす事ができなくなった。体が不自由であるために発生する疲労が、自発的で独立した生活様式に取って代わった。妻のラレーが着替えを手伝わなければならなかった。彼にはステッキ、松葉杖、あるいは車椅子が必要になった。 

肉体的症状よりもっとひどかったのが感情面の苦悩である。マークは常に、すべての人間の授精から自然死にいたるまでの価値を信じていた。彼は妊娠中絶合法化に反対する運動に積極的に参加したり、「危険妊娠センター」を共同設立するなどした。今、彼は自分自身が障害者になった事で、より深いレベルでその信念が問われることになった。「私は生きるに値するのだろうか?私はまだ価値があるのだろうか?社会は私を歓迎するのだろうか?」 

「私の悲しみは底深く、想像を絶するものであり、身を切るような心痛により判断力が鈍りました。1980年代の半ば、死にたいという願望を社会が容認していなくて良かったと思います。ケボーキアン博士がいたらどうなっていたかと考えるとぞっとします。」 

マークは、死の願望に取りつかれることなく、深く悲しみ、泣き、とんでもないことを口走ったりするための時間が人間には必要だと言う。そうした時期を経て、ほとんどの人は生きる楽しみを再発見する。マークが精神的に立ち直れたのは妻のおかげであると振り返る。「私が自分自身の存在価値に疑問を抱いていた時、彼女は私を尊重してくれたのです。」結婚の時に誓った「病める時も健やかなる時も」を実践した彼女を称えた。 

マークの病気のため、一家は二階建ての家から車椅子でも生活可能な家へ引越する必要があった。1988年までにはMSの症状もかなり緩和し、鎮静期に入った。しかし、足は不自由なままだったためステッキや杖をついて歩いた。彼はカナダの公務員として半分はオフィス、半分は自宅で仕事をした。この時期、彼は障害者の雇用機会促進に一役かった。1991年には病気が進行したため退職を余儀なくされ、彼はうつ病と戦わなければならなかった。「38歳で退職」、その当時を振り返り、彼は顔をしかめた。 

1994年の春、安楽死という言葉が新聞の見出しを飾った。ルー・ゲーリック病を煩っていたスー・ロドリゲスが自殺の幇助を認めるようカナダ最高裁に請願したためである。主唱者の言い分は、障害者たちは死を望んでおり、苦痛から逃れるために手助けを得るべきである、というものである。マークの意見は違っていた。「私の知る障害者仲間は誰一人としていわゆる“尊厳死”を望んでいる人などいません。我々は生きたいと思っているのです。」この一件をきっかけにマークは裁判長宛の短い手紙を書く事になった。 

彼の“短い”手紙は18ページにわたり、“カナダでの安楽死および自殺幇助を認めた事例:慢性的退行性病にかかったある男性の所見”と題された。彼はカナダカトリック教会司教委員会(CCCB)やカナダ福音派団体(EFC)へコピーを送った。このことで彼はオタワの上院委員会へ出席する事になり、はたして安楽死が合法化されるべきるかどうか検討されることになった。彼の必死の証言により安楽死合法化の決定はなされなかった。彼はスピーチを次の様に締めくくった。「一つの解決策として安楽死や自殺幇助を受け入れようとするこの心の闇に我々は断固として抵抗しましょう。文明社会はそれを行ってはいけないのです。殺人の話を止め、自分たちのいのちをお互いに、人生に、依存にもう一度委ねようではありませんか。」 

1994年のラティーマ事件は、思いきって意見を述べたいというマークの情熱に再び灯を点した。カナダの農場主が、障害のある12歳の娘を殺害したのである。通常であれば第二級殺人罪で仮釈放なしの終身刑となるところだが、ラティマーに対する判決は刑務所に一年服役後、一年の自宅監禁というものだった。愕然とした、とマークは語る。「ラティマーの判決は明白なメッセージを発進したのです。カナダでは、障害者のいのちは健康な人間のいのちより価値が低い、と。」彼は次のように問う。「もしロバート・ラティマーが健康な子どもを殺害していたら、ノーブル裁判官は合法的免責を認めていただろうか?」マークの答えはノーである。 

法的費用支払いの為の信託資金を含め、ラティマーに対する世論の支持は溢れかえり、この事も障害者の社会に衝撃を与えた。マークはこの現象を価値の退廃ととらえ、恐怖心を募らせた。「北アメリカで障害者として生きるのは恐ろしい時代です。死ぬ権利は死ぬ義務となるのでしょうか?」そしてこの疑問が常に付きまとった。「私は社会に歓迎されるのだろうか?」 

この懸念がマークを駆り立てた。彼は障害者の権利のために大胆な発言を行い、希望を与え、死ぬことよりも希望を持って生きることを提唱した。カナダ全土から講演の依頼を受け、地域団体や教会、医療関係者、障害者組織、そして大学等で講演を行った。彼は聴衆に、「尊厳とは人が最も弱っている時に、その人の血液に有毒物質を注入して得られるものではありません。尊厳を持って死ぬと言うことはそれを持って生きてこそできるのです。」 

1997年、リチャード・ドアフリンガーはワシントンDCで開催されたカトリック教会司教の全国協議会での講演をマークに依頼した。これを契機に、マサチューセッツ州にあるセントアン病院での倫理シンポジウムなどを初めとして、米国で講演する機会が増えた。すべてのいのちの重要性と保護を訴え続けてきたマークは力強く語った。「定義では、文明社会は弱者を権力で押さえつけたり殺したりしないとしています。それを行う社会は、自らを文明社会と称する権利を失うのです。」 

マークの人道的な努力は彼に様々な表彰をもたらした。1995年には、地域社会奉仕をした人に与えられる知事勲章や、カトリック・ソーシャル・アワード、またカナダの国営テレビでは彼の人生を取り扱った特別番組が編成された。 

現在は健康状態が悪化しつつあるため、妻や同伴者の手を借りて月1回だけの講演を行なうにとどまっている。しかし彼の活動は執筆を通じて続けられている。体調の良い日もあれば悪い日もある。悪い日はベッドに寝たきりだが、「私は失われた体の機能のことをさほど悲しんでいません。むしろ人間のいのちの神聖さを重んじない文化に悲しみを感じます。」と語った。社会が何と言おうと神には彼の存在価値が見えている事を彼は知っている。彼は確信を持って次のように述べた。「退行性の病気のおかげでここ数年は以前に比べて一人前とは言えません。しかし私は神のイメージを持ち続けているので、人間性は損なわれていないのです。障害、痴呆、奇形、不治の病、年齢、いずれも私からそのイメージを取り払うことはできません。来年私は寝たきり、あるいは全身不髄になっているかも知れませんが、神の創造物であるという正当な立場にいる権利を剥奪する事は誰にもできないのです。」 

将来のことを考えた時、マークが一番恐れているのは療養所での生活だ。しかし彼は自信を持って言った。「もしそうなったとしても、神は決して私を見捨てたり見放したりしないと信じています。」病気によって得たものは何ですか?という質問に「神への絶対的かつ完全なる信頼です。プライドやうぬぼれは捨て去りました。」個人的な望みは何ですか?「物質的にはもう何もありませんが、今後は神の意志に従い、私欲は追求しません。」 

45歳、目鼻立ちの整った、白髪交じりの髪にやさしい微笑みをたたえてマーク・ピックアップは障害があっても生きる価値を見出した。「生きていてよかった」とマークは言う。先日彼は結婚25周年を祝い、妻や大学生になる子どもたちとの生活を楽しんでいる。彼は、「人に尊厳を与えよ。そうすればいずれ死が訪れた時、その人は尊厳をもって死ねる」と信じている。 

Harris, Lydia (ハリス・リディア) 
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