日本 プロライフ ムーブメント

安楽死についての声明

最近の安楽死を合法化しようという取り組みが、私たちの社会を重大な危機にさらしています。これらの動きには、自殺の方法を紹介する新しい出版物があったり、末期症状にある患者を家族や医師が殺したり、その患者の自殺を手助けしたりすることが広く話題になっているため、大勢の注意をひいています。 ヘムロックソサエティが第一線で導いている、太平洋岸北西部にあるような目的は 、殺人や自殺幇助に反対する州の法律を変え、医師が末期的症状にある患者に、過剰量の薬や致命的注射を与えることができるようにしようとするものです。 

安楽死を支持する人々は、延命技術への人々の困惑やまた人々に確信がないこと、それにこれに対する恐怖さえも利用しています。さらに、彼らは人工妊娠中絶の議論からの表現を使って、「選ぶ権利」は他の全ての考察に優先されなければならないと強調するのです。人が死ぬ時や方法を選べるということが、究極の自由であると主張しています。しかしながら、人のいのちを奪ったり、医師が苦しむ患者を殺すのを許すという決定は、普通でない、または負担の重い治療を拒む決定とは非常に異なります。 

いのちは私たちを愛してくださる神からの最も基本的な贈り物であり、その贈り物を私たちは管理するが、完全な支配を有していない、と信じています。私たち自身のいのちと健康を守り、そして他者からも保護を求められる、という道義的義務を私たちは主張してきましたが、同時に、あらゆる状況下で、あらゆる可能な医療手法を使わなければならない、という道義的義務はないとも認識しています。しかし、責任あるいのちの管理者として、いかなる人も、直接的な行動を起こして、または行動を起こさないことによって、自分自身や、罪のない人の死をひき起こすことを目的としてはならない、とこれまで明確にまた強く主張してきました。 

バチカン教理省が述べているように、「いかなる場合においても、いかなる事柄も、そしてどんな人も、罪のない人間を殺すことを許してはなりません。たとえそれが胎児であっても、胚であっても、また子どもでも大人でも、高齢者でも不治の病に苦しんでいる人であっても、そしてたとえ死にゆこうとしている人であっても」です。さらに私たちは、自分自身を、または私たちが世話する責任のある人々を「殺してあげてほしいと頼む」権利は持ちあわせていませんし、「いかなる権威もこのような行為を勧めたり許したりすることは正当化できない」のです。私たちがここで取り扱っている安楽死という問題は「神の法則への冒涜であり、人間の尊厳を脅かすもの、いのちに対する犯罪、そして人間であることへの攻撃」であるのです (Declaration on Euthanasia, 1980)。 

安楽死を合法化することは、人権と平等に関するアメリカの信念に背くことになるでしょう。独立宣言は「いのち、自由そして幸福の追求」に対する私たちの絶対的権利を宣言しています。もし私たちのいのちへの権利そのものの価値が低められれば、私たちの他の権利も意味をなさなくなります。癒しと殺しの境界線を破壊することは、この国が長年、法的に、医療的に受け継いできたものから遠くかけはなれてしまうことを意味し、社会の弱い立場の人々に対して、予知できないほどの深刻さをもたらします。障害をもった高齢者、エイズ患者、他の末期的病いの団体を代表する人々は、自分達を殺すことができる「自由」を与えようと緊急に話し合っているので、当然警告を発しているのです。 

私たちはカトリック教徒に、そして全ての善意の人々に、安楽死合法化の提案を拒否するよう訴えます。私たちは各家族に、末期症状にある愛すべき人々の保護をとりまく問題を、まっとうな道義的原則から、人間の尊厳の要求に照らして話し合ってほしいと主張します。そうすれば患者の方々は、将来に対する複雑な決断をせまられた時に、自分が役にたたないとか、捨てられたと感じる必要がなくなるのです。そして私たちは、医療に関連した職場にある方々、法関係者、そしてこの議論に関係のある全ての方々へ、末期症状にある患者とその家族の問題に、どんな人間にも取り去ることができないものを尊重し、特に愛と助けが必要な人々を尊重する解決を探ってくださるように主張します。 


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全米司教会議
1993年9月12日
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2002.12.18許可を得て複製
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