日本 プロライフ ムーブメント

内部被曝問題研究会への思い

1 内部被曝問題研究会の誕生

被曝後66年、原爆放射線の被害、特に内部被曝問題が医学、医療関係者の間で公式に論議されたことがあったのか、 どうか、あったとすれば、その結果、どのような結論になっているのか、寡聞にして筆者は聞いていない。 

それが、2011年の11月、岐阜の松井英介先生、廣島の高橋博子先生。名古屋の沢田昭二先生、 沖縄の矢ヶ埼克馬先生ほか、この分野の先達の方々が「内部被曝問題研究会」を結成され、 事務局長役の田代真人氏から私にも入会するようお誘いをうけた。学問畑には全く無縁の臨床医には敷居の高い存在だが、 私一人になってしまった廣島の被爆医師という資格でお仲間に入れていただくことにした。 沢山の原爆被爆者を診療した経験と、何冊かの外国の学者の内部被曝に関する著書を翻訳した実績を頼りに、 皆さんのなかで学ばせていただきたいと願っている。 

2 内部被曝被害の発生

2011年3月11日の福島第一原子力発電所の事故後、五月初め頃から子供の下痢、口内炎、鼻血、紫斑、 倦怠感などを訴える母親からの電話相談が増え、廣島、 長崎原爆の特に入市被爆者に多く見られた放射能による初期症状によく似た状況から、 私は原発から放出された放射性物質による内部被曝の症状だろうと直感し、その後の経過に注目してきている。 

3 放射線内部被曝隠し

ご承知のように、放射線障害のうち、線源が体内にある内部被曝については、原爆を投下した直後にアメリカ軍が行った「 体内に入った放射線は微量だから人体には害を与えない」の発表と、原爆の被害は軍の機密であるとして、 被爆者には沈黙を命じ、日本政府及び、医師、医学者には被害の調査、研究を禁止したアメリカ軍の占領政策により、 原爆の被害は高熱と強大な破壊力という「目に見える被害」だけが強調され、「目に見えない」放射線被害、 中でも特に内部被害は占領権力と隷属する日本政府の手で国民の目から隠されてきた。 

4 内部被曝者の差別

1957年、被爆後12年目に日本政府は「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」を制定し、 被爆者の健康障害に対し救護政策を始めたが、内部被害は無害とするアメリカの基準をそのまま採用して差別を行い、 救護対象にする疾病は原爆被爆が原因であることという規定から内部被曝を除外して、多数の入市及び、 遠距離被爆者に死にまさる苦悩の生活を強いてきた。 

5  日本の医師有志による被爆者医療への国際的援助要請、内部被曝については実らず

1975年、原水爆実験禁止を国連に要請する第一回国民要請団が組織され、たまたま私が埼玉県代表になったことから、 民医連の医師4名が廣島・長崎原爆被爆者の医学的被害の現状をまとめ、特にブラブラ病( 当時はまだ内部被曝という認識はなかった)についての報告を入れ、国連の援助で世界の専門家による「 被爆者医療についての国際シンポジウムの日本での開催」の要請文を作成し、(東京代々木病院の千葉正子医師、 廣島生協病の田阪正利医師、大阪此花診療所の小林栄一医師、埼玉浦和診療所の肥田舜太郎)。1975年12月8日、 私はニューヨーク国連本部でこの要請書を、代表団の核実験全面禁止の要請書とともにウ・タント事務総長に提出した。 ところが、1968年、日米両国政府が国連に共同提出した廣島・長崎原爆の医学的被害報告のなかに、「 原爆被害者は死ぬべきものはすべて死亡し、現在、病人は一人もいない」と書かれていることが理由で、 総長は報告書を受理しなかった。代表団はねばり強く交渉し、代表団は被爆者の健康状態に関する詳細な調査報告を、 一年後に国連に持参し、国連による調査とあわせ、被爆者の危険な状態が明らかになった時点で、 国連は1977年にNGOによるシンポジウムの開催を支援すると言う確約を取り付けた。 1976年の第2回国民代表団に参加した少林栄一医師が、当時の被曝者の健康状態を一年間調査した報告を、提出し、 1977年に「被爆の実相者と被爆者の実情」に課する国際シンポジウムが日本で開催され、 それまで過小に報告されていた被曝の実相が世界に正しく改められたたことはご承知のとおりである。 しかし放射線の内部被曝の被害については、シンポジウムの運営に加わった日本の医学、医療界のお歴々の抵抗で、 報告も出来ず、討議の議題にも入れられなかった。 内部被曝問題はそれから34年経った今日もまだ国際的な舞台での討議の課題には公式には上っていない。 

しかし、シンポジウムはアメリカと日本政府が過小に報告した原爆投下による死者数を大幅に改め、 1945年の年末までの死者を即死と扱い、その総数を廣島、長崎合わせて22万プラス・マイナス1万と訂正した。 

6 被爆者の集団訴訟と内部被曝問題への国民の認識広がる

2003年から7年間、内部被曝の有害性を巡って306名の被爆者が政府を相手に集団訴訟で争い、 全国28の地方裁判所で被爆者が勝利し、大新聞が連日、内部被曝の文字を紙面で報道したため、 国民の間に原爆放射線被害、特に内部被害の存在が認識されるようになったが、 日本政府はまだ低線量内部被害が有害で危険なことを、認めようとせず、 従来の被爆者対策に誤りはなかったと開き直っている。 これは軍事機密を口実したアメリカの核政策からの陰圧ではないかと推定されている。 今回の福島原発による内部被曝問題が全国の子を持つ母親に深刻な心配と不安を与えている背景に、 この自主性のない日本政府の核政策に対する曖昧な姿勢が反映していると筆者は憂いている一人であり、 あれこれの小手先の施策の模索の前に、日本国の立国の基本に視野をひろげて議論すべき時ではないかと筆者は考えている 。御一考を乞う。 

7 母親の心配と不安に応える啓蒙活動

子供を持つ母親の放射線被害に対する心配と不安は想像以上に大きく、全国的に広がっている。これに対する政府、東電、 関係学者、専門家の姿勢や発表の内容は、殆どが国民の命の危険と生活に対する不安な声にこたえるものでなく、 原子量発電の持続と増強を求める業界の声に答えるものと受け取らざるを得ない実情である。 

筆者の経験に寄れば、啓蒙を必用とする課題は 

1. 放射線そのものについて

2. 外部被曝、内部被曝の意味

3. 自然放射線にたいする人間の持つ免疫能力

4. 人工放射線{核兵器の爆発、原子力発電所で作られる」と人間との関係

5. 放射線被曝による被害の治療法はなく、薬も注射も効果はないこと

6. 放射線被害にたいしては被曝した個人が自分の生命力の力と生活の仕方で病気の発病を予防し、 放射線と闘って生きる以外にないこと。

7. 放射線の出ている原発から出来るだけ遠くへ移住し、 また放射線で汚染された食物や水を飲んだり食べたりしないことと言われるが、 それが出来る人にはよいことだが出来な人はどうするかが極めて大事なことで、この問題にどう答えるのかが、 この問題の最重要課題である。

8 被曝者の何十年もかけた命がけの経験

被爆者運動のなかには何十万という被爆者が、 何十年もの年月をかけて放射線に負けずに長生きするために努力した経験の蓄積がある。 日本被団協は組織内の相談活動を通じて、長生きに必要な生き方を30年間毎月1冊ずつ、 計26冊のパンフレットを発行し、その中で人間の誰もが行う行為、睡眠、食事,排泄、労働(肉体と精神)、 休養と遊び、セックスの六つを、それぞれ、生理的に定められた枠内で正しく行って生きることをみんなで学び、 励まし会って実行してきた。今年の3月で90歳以上をふくむ21万人強の被曝者が生き残っているのは、 そうした自主的な運動の成果だったと思っている。この経験を、 この本の読者や悩んでいるお母さんたちに届ける方法を相談したいと思っている。 基本は、大人について言えば、襲いかかる放射線とは、自分が自分の命の主人になって闘って生きること。子供は、 両親が模範的な自分たちの生活の仕方を見せ、体と心の発育については厳しくしつけることしかない。ただし、 子供については今の実情のなかでは、少なくても福島県の小学生と中学生は、 原発の放射線放出が確実に止まるまでは政府の施策で強制疎開すべきだと私は考えている。受け入れる地方の県、 市町村はかなりあると聞いている。 

9 終わりに

内部被曝問題研究会は今でもいろんな職種の人が集まっていて、医師や弁護士や学者がいれば、 肩書きも特殊な技術もない一般職の方々も居られると聞いている。 それが心と力を合わせて放射線の内部被曝の被害と闘ってゆく方法や道すじを、話し合い、相談し合って、 少しでも有効な方向を見つけ、発言し、啓蒙し、実践して、 今まで人類が経験したことのない課題に立ち向かう出発点に立っている。何もかもが未知の新しい道を歩くのだから、 みんな遠慮なく発言し、みんなで考え、一致したことを確実に行ってゆくことになる。その意味では事務局の役割が大変、 大事で重いと思われる。会員は各自、積極的に事務局の計らいや連絡に結集して、円滑に、 遅滞なく会の活動が進むことを念願して、巻頭の言葉と致します。 日本プロ・ライフ・ムーブメントより肥田舜太郎先生は2017年3月20日100歳にてご逝去されたので、このサイトへの掲載許可は、  市民と科学者の内部被曝問題研究会代表・澤田昭二先生にこのサイトへの掲載許可を頂きました。

Hida Shuntarou (ヒダ シュンタロウ)
肥田舜太郎
出典 市民と科学者の内部被曝問題研究会 
Copyright ©2017.7.30.許可を得て複製