日本 プロライフ ムーブメント

共通理解は可能でしょうか

問題提起:

私はジェネセオにあるニューヨーク州立大学の三年生で、大学のプロ・ライフ(中絶反対〉グループの「ジェネセオ生命を守る会」の副会長をしています。私が中絶反対運動家であると知ると、私の同級生はたいてい私を超保守派の変人であるというような一方的な見方をしているように思われ、このことに私はいつもがっかりし、虚しい思いをしてきました。というのは、そのような見方はマスコミによって作られてきた中絶反対運動全体に対する不正確な固定観念だからです。なぜマスコミは私達の運動を極右の過激派と同類のものとして報道してきたのでしょうか。どうして人々は私が病院関係者や女性の中絶を選択できる権利を支持する医者を殺すことを支持しているとそのまま正直に信じることができたのでしようか。私はこの問題や他のやっかいな問題に対する答えを求め続けてきました。そしてその点に関して少し前進があったと思います。 

前学期、「ジェネセオ生命を守る会」は会合を開きました。そしてその会合に私達は、「ジェネセオ中絶を選択する権利を守る会」の人々を招きました。それは、お互いを否定する議論や意見の対立ではなく、相手の目的や思いを理解しようと思ったからです。その結果分かったことがらに、実際私はショックを受けました。「ジェネセオ中絶を選択する権利を守る会」の人々は「ジェネセオ生命を守る会」の人々と全く同様に、女性や社会や政治に関心を持っていたのです。彼らは邪悪でなく、私達と同様に中絶からお金を得ていることはありません。彼らは女性と社会の手助けをしているのだと感じているのです。 

私はその次の週にプロ・チョイス(女性の中絶選択の権利擁護派)の論文をたくさん読みました。そしてその大部分の中で、中絶反対運動がけなされ、馬鹿にされ、その表現が不正確な様子を見て、本当に悲しくなりました。ふと私は、中絶反対の論文を読んでみようとしました。そして次のようなことを発見して驚きました。そのほとんどが「プロ・チョイス」運動を馬鹿にし、軽蔑していたのです。 

少しとまどいつつ、私はジェネセオの「プロ・チョイス」のリーダーともう一度会って私達のそれぞれの運動の類似点や相違点についてディスカッションをしました。私達は「プロ・ライフ」運動も「プロ・チョイス」運動も多くの考え方が共通していることを発見しました。双方の運動の根本は、少なくともジェネセオにおいては罪もない人間を不当に扱わないということです。双方とも中絶においては、女性が犠牲者になり、アメリカではあまりにも多くの中絶が行なわれているということで意見が一致しました。私達は資金を共同出資し、予定外の妊娠が邪魔物とか過激で野蛮な「解決方法」を必要とする事態だとかみなされないような環境づくりに取り組むことを決めました。私達は人々の中絶に対する需要を減らしたいと思っています、そして派閥争いは、中絶論議には仕方がないものではない、ということを証明したいと思うのです。 

お互い争うのでなく、共通の目的に対して共に努力することで、私はこの論争を恐れ、避けている人々にもっとこの問題に関わってもらえると思うのです。私達は私達のエネルギーを対立している領域から別の方向に向け、スタッフ不足のまま行なわれている養子縁組計画とか十代で妊娠した女性の収容所のような社会悪の解決に集中させることができます。このことは私達が中絶に反対することをやめるということではありません。なぜならば、私達の運動の根本は中絶の廃絶にあるからなのです。しかし、「ジェネセオ生命を守る会」と「ジェネセオ中絶を選択する権利を守る会」の人々は中絶の原因となる多くの社会的状況に反対し、中絶することを余儀なくされるような手段を取らずに、女性を助けることに賛同しているのです。私達は議論をせずに考えを伝えることができます。私達は妥協をせず協力することができます。 

実際、私達のような成功を他のグループが収められるわけではありませんが、私達はみな思いやりという倫理感を押し進めることができます。そしてそれによってすべての人々が尊重され愛されるのです。イエスは私達に罪を憎んでも、罪を犯す人を愛するように求めています。そのことが難しいことはわかっていますが、私達にはそうする道義的義務があるのです。そして私達はいつも悪意や怒りや不正よりも、思いやりや理解を優先させなければなりません。中絶を実行する人も、それを擁護する人も私達と同様に人間であり、同様に思いやりを受ける価値があり、彼らの生命も尊重される価値があるのです。 

中絶をはびこらせるような条件がすっかりなくなってしまって、中絶が容認されることもなく、望まれることもないような社会が私達の生きている間に実現することを望み、祈っています。 

提起された問題への応答:

私が母親の胎内の罪もない子どもを意図的に殺すことを支持する人と初めて出会ってから26年近くになります。中絶という邪悪な行為についての私と意見の異なる人との議論ということになると、その26年間にほとんど変化はありませんでした。しかし、人々はもっと激しく議論を戦わすようになり、その際に用いられる言葉の使い方も巧妙になって、「プロ・チョイス」(女性の中絶選択の権利擁護派)のような言葉を使う人を個々に確認することはむずかしくなりました。「プロ・チョイス」の集団は巨大で、そのリーダーは運動に専念していますが、個々の支持者は時として小さな子どもと同じようにだまされやすい人達です。 

だから、中絶を支持する人と、それに反対する人との間に共通理解がありうると言われると、私はちょっと考えて、そのプラスの部分とマイナスの部分をはかりにかけてみるのです。まず私達ははっきりさせなければなりません。中絶は一人の人間にとって死を意味し、少なくとも、もう一人の人間にとって苦しいことなのです。もし、その子の父親のことを考えてみれば、苦しむ人は二人に増えます。もし、祖父母のことを考えれば、苦しむ人は八人に増えます。自らをプロ・チョイスと呼ぶ人がまた自分達をプロ・ライフ(中絶反対派)と呼んでいますが、話し合ってみればすぐに単に言葉の使い方がよくわかっていない人と、現実にしっかり根ざしている人とがわかります。私が決して意見を同じくできないのは後者の人達なのです。 

例をあげれば、私が「フェミニスト・マジョリティー」というグループのリーダーであるエレナー・スミールと共通の目標を持つ可能性はあるでしょうか。私はそうは思いません。スミールは(彼女を単に一例としてあげているわけですが)貧しい人々の子どもの将来が心配だとか言っていますが、彼女はまたプロ・チョイス集団の最前線にいるのです。彼女の言っていることはすべて、とどのつまりはこの一言に尽きるのです。スミールが「中絶」という言葉を用ているとき、子どもが死んでいることは彼女の目には見えていないのです。その女性をジレンマから救う方法しか眼中にないのです。 

彼女と私が共有できそうな共通の目標などありえません。というのは、私達には生命を創る神の手が見えているのに、相手方には政治問題とか女性の権利拡大の問題しか見えていないのですから。 

それでは、たとえば中絶の過程で子どもが死ぬのか死なないのかといった根本的な事実に関して私達の意見が合わないとき、私達は実際、戦いをしているのでしょうか。私にはそれはもっと複雑なことのように思われます。私は神を知り、愛し、神に仕えるためにこの世に生まれてきました。私は、このために私がたくさんの義務を果たさなければならないこと、思いやりがまず何よりも大切であることを知りました。それは、思いやりのある言葉をかけなければならないということではなく、そういう生き方をしなければならないということなのです。母親の胎内でまさに生きているにもかかわらず、思いやりというより、エゴに傾倒している社会的、政治的哲学によって無視されている幼い子どもに私の心は注がれています。 

私はスミールと対話をし、彼女のために祈り、そして聖霊の現れるのを祈りつつ、彼女の主義を変えさせる、あるいは少なくとも彼女に彼女の考え方に疑問を抱かせるためにあらゆる努力をすることができます。でも、私は彼女と落ち着いて議論を始めることはできません。なぜなら、彼女は私が助けるのに必死になっているまさにその子ども達を殺すことに専念しているのですから。彼女は女性は医者と相談をして法律が擁護する選択をしているだけであると言っていますが、私は、彼女の言う法律そのものが不当なものであり、それは神の掟を破っており、残酷で非人道的だと答えなければなりません。 

そのように深い溝がスミールと私の間にあるので、共通理解あるいは妥協の糸口さえ不可能なのです。 

スミールに同調する人のために私は祈り、すすんで真実を知らせ、中絶で子どもが死んでゆくのをその人達が目のあたりにする手助けを心からしてあげたいと思います。しかし私は、私と妥協をするよう相手に求めようとは思いません。私の仕事は声なき人々を守ることであり、殺人が殺人でないと主張する人々と取り引きをすることではありません。思いやりの気持ちから、私は周りの人々の思い違いを指摘し、神を受け入れるようにその人々に勧めるのです。私は彼らのことを愛情をもって気にかけることはできますが、彼らの意図は分かりません。もちろん罪を犯すことに同意するわけにもいきません。私はまた真実のために立ち上がり、できるかぎりの犠牲を払うつもりです。というのは、そのことに多くのいのちがかかっているのですから。

Brown, Judie (ブラウン・ジュディ)
Copyright ©2004.5.24
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