日本 プロライフ ムーブメント

全てのいのちは価値があるという教会の教え

死が、こんなにも広まり、意図的に選択され、人間の問題を解決するための必死の試みとなっているこの文化においては、暴力に対抗し、犯罪を容赦しないための最良の手段として死刑を奨励することは容易なことです

しかしながら、私は道理にかなった反対の声を挙げざるを得ません。私は、私たちの間で殺人事件や他の暴力行為がますます増えていることに取り組むもっと責任ある方法があると確信しています。

ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世も同様の確信をしており、最新の回勅の中で次のように述べられています。

「罰の本質と範囲は、絶対必要な場合、言い換えれば、それ以外の方法では社会を守ることができない場合以外は、犯罪者を処刑するという極端にまで及ぶべきではありません。しかしながら今日刑罰体系の組織の着実な向上の結果、そのようなケースは事実上存在しないと言わないまでも、非常に稀なものとなっています。」

私たちカトリックの道徳的な教えは、他の人々に危険で害を与えるかもしれない人々から市民を守る政府の責任を、絶えず認めてきました。この教えは、犯罪者が他の人々にとって絶えず脅威となる場合、特に凶悪な犯罪に対して死刑を容認してきました。

しかし、現在の私たちの文化においては、害をもたらす人を終身刑にするという可能性もあります。私たちが死刑を用いる必要はないのです。

私たちの問題は次のようなものです。「死刑は、私たちをさらに死の文化へと陥れることになります。私は、私たちが首尾一貫していのちを大切にする選択をしなければならないと確信しています。このことは、暴力と死のあの恐ろしい文化を逆進させるために、死刑を課す権利をあきらめることを意味します。私は、暴力の恐ろしい輪を断ち切る、慎重で勇気ある決断を支持します。」

私は、現在の社会にある死刑制度に反対します。なぜなら、全ての人間のいのちの神聖さと尊厳を、さらに恐ろしい犯罪を犯した人々のいのちの神聖さと尊厳をも信じているからなのです。

私は、現代の文化が、問題の解決手段として死を提唱しているあらゆる考え方を制限したいと思います。

私は、犯罪を減少させ、罪のない人々を守り、犯罪者を罰し、犯罪者に変化をもたらしつつ、しかも平気で他人のいのちを脅かす人々のいのちの尊厳さえも絶えず支持するための方法を追求することに、精力と想像力を出し切りたいと思います。

私は、中絶反対の立場を取りながら同時に死刑を支持することはできないと確信しています。胎内のいのちから有罪の宣告をされた犯罪者のいのちにいたるまで、全てのいのちは、神聖で神に与えられたものとして擁護されることが必要です。私たちは全てのいのちを肯定しなければなりません。有罪を宣告された殺人者が、神の姿に似せて作られていると確信すればするほど、私は胎児のことを気に留めるようになるでしょう。

私たちは心配しています。なぜなら私たちの社会においては、復讐が正義の原理としてますます認められてきているからです。キリスト信者であることを主張する私たちは、犯罪者の処罰についての私たちの現在の考え方の根源と理由を探し求める必要があります。イエス・キリストのいのちを与える福音よりも復讐という否定的な力のほうが、私たちの心のなかに巣くってしまったのではないかと、私たちは自問しなければなりません。

私たちをこんなにも脅かしているまさにその暴力が、私たちを暴力の支持者にすることがあります。もし私たちの人格が、恐怖心によって形成され、私たちが死刑の存在から平静を期待するならば、私たちは悲しむべき間違いを犯しています。死刑が犯罪を減少させることはありません。犯罪の抑止力として、死刑は完全な失敗なのです。

今日のアメリカ合衆国において、死刑にかわる選択肢があります。それは仮出所なしの終身刑です。この方法はいくらかの西洋の工業国においてうまく取り入れられています。 「世界青年の日」の間に、ローマ教皇は若者たちに、次のような言葉を投げかけられました。「福音を恥ずかしく思ってはいけません。福音を誇りに思いなさい。」と。平和と正義の福音の王国は、思いやりと慈悲の力を持った愛の土台の上に築かれるでしょう。

私たちは、心を変化させ、人々の心を改めさせ、全てのものに新しいいのちを吹き込む、全能の神の救いをもたらす愛の存在を信じなければなりません。私たちは、希望のないように思われる人々のために期待をすることに身を捧げる人々でなければなりません。他の人々によっては価値がないと思われるかもしれない人のいのちの価値が見える人々でなければなりません。

フィリン・ハーリ大司教
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2002.9.5.許可を得て複製