人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるーー世界人権宣言前文(UDHR)
人類が互いを最も尊重していたのは1948年であったと思い起こす日が来るかもしれない。60年後、象牙の塔の俗物、動物の権利を求める活動家、中絶や安楽死の擁護者はUDHRで宣言されている自由と正義の基本、ひとりひとりの人間が持つ特別な価値、すなわち人間の尊厳に対する攻撃の手を強めている。
数年前、ニューヨークタイムズのあるレポーターは、スペイン議会の環境委員会が大型類人猿に生存権と自由を認めたことを受け、人間の権利を人間以外の動物にも拡大したことを褒め称えました。人間の尊厳を犠牲にして動物の権利を高めるという奇妙なパターンがまたしても行われている様子を見たこのレポーターは、我々人間は「人類の」(彼の言葉を引用)権利は不可侵であるという思い込みで自身を正当化していたに過ぎないと声高に叫びました。
動物の権利を求める活動家は人類の悲劇について驚くほどの無神経ぶりを見せることがある。黒人と白人、あるいは男性と女性の根本的な差を指摘する人はいないのに、動物解放は奴隷制度や女性の権利に常になぞらえられている。この数年、動物の倫理的扱いを求める人々の会(PETA)は、倉庫に閉じ込められたり殺された動物をホロコーストの犠牲者に例えている。ホロコーストを訴える広告板を見てニワトリにどれほどの同情が集まったとしても、そうした運動は人類の苦しみを矮小化する以外の何物でもない。
こうした言葉の使い方は単に注意を惹くための誇大広告に過ぎない。ところが、プリンストン大学の生物倫理学教授Peter Singer が提唱した動物の権利に対する合理的根拠は、人種カードやナチスの悪鬼たちにも反映していた。Singerは四足動物の大憲章である動物解放(Animal Liberation)(1973)において、人間の不可侵の権利というものは種差別であり、人種差別と何ら変わらないと主張している。もちろん、ここでは人種差別が悪ならば人間の尊厳を信じることも悪であると主張されている。
こうした主張を行っているのはSingerだけではない。今年初め、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの社会学教授Alasdair Cochraneが人間の尊厳を生物倫理から取り除くべきという考えを主張した論文を発表した。Cochraneは少なくともKKKに引きずり込まれてはいないが、生来道徳を持つのは人間だけであるという主張を「無意味で恣意的」でしかないとして非難している。
人間の尊厳というものが常軌を逸した残酷な作り話であるとしても、その作り話を否定してしまったらどうなるのか?
第一に、最も弱い立場にいる人達、幼い子どもや重い病気にかかっている人が人間社会の傘の外に取り残されてしまうであろう。実践倫理において、Singerは、乳幼児の自我はカタツムリや犬と変わらないと主張している。したがって、誕生前の胎児や生後一週間の乳児を殺すことは殺人ではなく、ナメクジを押しつぶすことと同じく不道徳ではないというのである。
倫理学者が新しい倫理基準として動物に目を向けるようになり、倫理的感受性が逆転しても生命の問題は残る。
カニバリズムによる反撃?よく考えてもらいたい。ニューヨークタイムズの記者は、我々が類人猿やライバルの赤ん坊を食べてしまうメスのチンパンジーと共に「平等な社会」にいると宣言しているのである。
動物と抱き合うことはどうであろう?Singerは、我々はすべて動物であり、動物とセックスすることで人間としての我々の尊厳が失われることはないとしている。
結論として、世界人権宣言で表現された崇高な理想を我々が失えば、我々の道徳観はめちゃくちゃになってしまうであろう。人間も動物も苦しむことになる。人間は尊厳を無くしたヒトになってしまうのか?
Bowers, Theronバワーズ・セロン
Copyright © 2011.2.9.
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