両親が最も愛するのは? 自分達の子どもだろう。子ども達が最も愛するのは? 自分の両親だろう。しかし我らが主は、キリストよりも自分の子どもや両親を愛する者は、神にふさわしくないと説く。キリストは「私より汝の配偶者を愛するなら、私にはふさわしくない」と語ったとも伝えられる。この言葉の真意は? 自分のために最も尽くしてくれる相手を最も愛するべきだと、キリストは私達に理解してほしかったのだろう。我々はなぜ両親を愛するのか?生活を共にし、毎日、場合によっては毎時間、心と体、全方面から私達を慈しみ、無数の愛情をもって世話してくれ、その愛に終わりがないからである。
では次に、神が私達にしてくれた事を振り返ってみよう。神は無から私達を造り出し、この地球を、この世で生きる間の仮の住まいとして与えてくれた。神が私達に託した壮大なる計画と希望は、私達が愛と生命に満ちた神の国で、神と共に暮らすにふさわしい人間となることだ。我々すべての人間は、言葉では言い尽くせない愛情表現を介して、神に導かれている。私達人間は神の計画に必ずしも必要ではないが、父が自分の息子や娘を愛するように、あるいは夫が妻を愛するように、神は私達と愛情関係を築きたいと望んでいる。私達が両親・配偶者・子どもとの関係で経験する愛情の根幹は、すべて神との関係にある。神なくして、人類はすべて存在しえなかったのだから。
だからこそ、神の秩序に従って生きる、つまり他の誰よりも神を愛することが重要になってくる。人間の渇望を満たせるのは神しかいない。神は私達の創造主だから、我々を熟知している。愛・生命・善・神の美だけが、本当の意味で心の渇望を満たし、人間として完成に近づける。だが中には、大事なものとそうでないものをごちゃまぜにしている人がいる。彼らは富・保証・地位・快楽が人生の目的と、大事な時間を立ち止まることなく動き続ける。しかし、我々は皆いつか死ぬ。その時、あくせく手に入れた世俗的持ち物は持っていくわけにいかず、全て手放さねばならない。地位や名声で、心の奥底にある渇望は満たされない。「今のこの喜び(または苦しみ)は人生が終わる時、自分にとってどんな意味があるだろうか」と、時々自分の胸に訊いてみる習慣をつけるといい。人生の終わりに振り返るように、今の自分を見ることができれば、物事を賢明に正しく判断できるだろう。詩編の作者の言葉を借りれば「祭の日の喜びの声を知る民はさいわいです。主よ、彼らはみ顔の光りの中を歩み、ひねもす、み名によって喜び、あなたの義をほめたたえます。」(詩編89:16~17)なのだ。
「自分の十字架をとって私に従おうとせぬ者もふさわしくない」(マテオによる福音書 10:38)この言葉は十字架を背負う苦しみは誰にも分けられないことを意味する。この世は常に試練と苦難の連続で、その多くは避けがたいが、互いに助け合って乗り越えられる。時にはひとりで背負わなければならない困難もあるが、それは神から与えられた課題だ。ピオ教父、リジュの聖テレジア、ソラナス・ケイシー、修道士・アンドレなど、聖人たちの人生を見るがいい。教義的対立などの苦しみにも意義を見出し、徐々に受け入れ、神に近づいている。罪や悪も、すべて苦しみに起因する。キリストが我々人間の一人としてこの世に生まれ、信仰への情熱を貫き、我々のために十字架の上で死んだのも、「私のために命を失うものは命を見いだす」(マテオによる福音書 10:39)と伝えるためだった。
キリストはまた使徒達に向かって「あなたたちを受け入れる人は私を受け入れ、私を受け入れる者は私を送られたお方を受け入れる」(マテオによる福音書 10:40)と語った。この言葉から、神と最初の預言者との密接な親交ぶりが伝わってくる。預言者エリシヤはシュネムである夫婦から手厚くもてなされ、御礼にエリシヤは子に恵まれない彼らを悩みから救い、神からの最大の賜物・子どもを授けた。預言者を家庭に招きいれてくれた行為に対し、神も応えたのだ。
今日にあてはめても同じことが言える。神は私達の心や家庭の中に、神の存在を受け入れてほしいと願っている。旧約聖書では、神が預言者を代わりに派遣して人々に教えを伝え、新約聖書では、キリストが使徒を地球の各地へ送って自分の言葉を語らせた。今日、その役割は神父・助祭・カテキスタが主に担っている。キリストの精神や聖書の教えが、世界各地の信心深い弟子たちを通じて広く浸透するのを願いながら。
各教区に神父・助祭・修道者がなぜ必要か? 神を象徴する特別な窓口だからだ。彼らを通じて神を身近に感じ、神の教えを説く彼らを通して神の言葉に触れることができる。神父なくして聖餐式もミサも揉め事における和解の宣誓も成り立たない。神父なくして国々への布教も新しい教区をつくる事もできない。ゆえに、この国やカナダにおける神父・修道者の急減は重要な問題だ。わが国が、ミサ聖祭や神父育成にどれだけ力を注ぐかにかかっている。
「主はあなたも私も、そして私が遣わした者をも受け入れる」とキリストが我々の兄弟姉妹に、神と教会にいのちをかけて尽すよう呼びかけるのを歓迎していこうではないか。
まだ記憶に新しい、ごく一部の神父による性的濫用事件が、神父やカトリック宗教界のイメージダウンにつながると考える人も多いだろうが、むしろ私は逆だと思う。こうしたスキャンダルは今日の生活において、人間としてよりよく生きるための宗教や信仰の重要性がより強調される気がする。
ダラスでの米国司教会議で、デンバーのシャプート大司教は、カトリック界における同性愛が、性的濫用事件の主要因と考えるべきではないと語った。米国神父と司教が、性と結婚に関する教会の歴史的寛容さに流されて、負けたと考える方が適切だと。
「我々は、避妊や結婚前の性行為を黙認する神父に対し寛容だったため」大司教はさらに続ける。「そうした行為を認める神父は、性に関する他の倫理においても容易に屈しやすい。教会の教えに従って個人的に判断する際、その人あるいはその神父の精神性がものを言う」
神の僕である弟妹たちよ、混沌の時代こそ、倫理の原点に立ち戻る好機だ。司教や神父は、性と人間愛に関する神の正しい理念をしっかり説くべきだ。1968年、回勅「フマーネ・ヴィテ」以後、避妊や人工中絶に関する教会の教えに対して、一般の人々と聖職者の双方から強い反対がみられた。これに対し、カトリック宗教界は沈黙を通し続けた。この場を借りて、我々神父や司教が神から与えられた使命を全うしなかったことを深くお詫びせねばならない。そして今我々は、反対を貫いた結果、国全体に生じた以下の問題を真摯に受け止めている。半分もの結婚家庭がトラブルを抱え、75%の家庭が避妊か人工授精を行い、80%の若いカップルが結婚前に同棲し、将来ある10代の妊娠は過去最高に達し、胎児の3人に1人は中絶によって殺され、同性愛が広く受け入れられている。こうした性の濫用をたどると、すべては神の素晴らしい人間愛を否定するところから始まっている。神の人間愛とは、全身全霊をかけて配偶者に接し、類まれなる賜物である子どもを受け入れることだ。
もし両親が子どもをもつことや、自分の全てを犠牲にする愛という神の意向に賛同しないなら、その子ども達が結婚や神への信仰といったことに興味をもつよう期待するのは無理だろう。
自分の両親、子ども、ひいては自分自身よりも神を愛すること、それが私達の使命だ。神を心底愛するなら、彼の指示を守り、人類の生き方・愛に関する神の計画に従い、神の言葉を心に受け止め、神からのメッセージを感じ取れるだろう。神の英知と力を借りて我々の罪を悔い、愛情・生命・結婚・家庭に対する神の素晴らしき計画に応え、近づいていこう。
Matthew Habiger (ハビガー・マシュー)
13th Sunday in Ordinary Time
Copyright ©2002.6.30
2003.11.27.許可を得て複製
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