正月に達磨の軸物を飾るのは禅寺の習慣だが、うちのお寺では雪村筆の達磨図を大晦日に掛けることになっている。福聚寺七世であった鶴堂和尚の弟子になったのが雪村であり、僧名は鶴船周継である。
雪村は茨城県に生まれ、福聚寺開山となった同じ常陸出身の復庵宗己禅師の足跡を辿って三春に来たとされる。会津、鎌倉などを遊学したのち、晩年は李田(現郡山市大田)の雪村庵で過ごした。「庵」というのは本堂と庫裏が一つ屋根の下に収まった形だが、この形式の建物の日本における嚆矢が雪村庵であったとも言われ、その影響下に造られたのが信州飯田の正受庵である。
それはともかく、雪村が福聚寺に残した絵は意外に少ない。開山復庵禅師の頂相(肖像画)と、八方睨みの達磨図が昔から伝えられている。これが「血達磨」とも呼ばれ、昔から寺宝とされて必ず正月に掛けられてきたのである。
ところで私は、以前から高柴デコ屋敷で作られる張り子の達磨が、お寺のこの達磨図にあまりに似ていると感じていた。全国の達磨を見渡しても、あれほど厳しい達磨の顔は見かけない。しかも高柴の達磨は、お寺の達磨図と同じように頭の天辺が平らなのである。
三春のだるま市はおよそ三百年の歴史を誇る。これまで福聚寺の達磨図との関係はあまり語られたこともないと思う。しかし昨年暮れにデコ屋敷のご主人たちから依頼があり、毎年達磨さんの腹に新年の希望の一字を入れてほしいという。漢字検定協会の主催で年末に清水寺の貫首さまが大書しているあの行事のアレンジである。
一年を振り返った一文字ではなく、新年の希望の一字であることも気に入ったのだが、なにより私には高柴の達磨が原型である雪村の達磨図と縁を取り戻したようで嬉しかった。毎年、ずっと、という依頼は大変ではあるが、これは歴史的に見ても私の仕事であるような気がして快くお引き受けしたのである。
今年は「發」という文字を書き入れた。清水寺の昨年の一字は「新」だったが、単に新しいだけでなく、その一歩を自らの發心を込めて踏みだしてほしいと念じたからである。
達磨さんは七転び八起きでも知られる。実際、毒殺されかかって七回目で亡くなり、死後見かけた人がいるというのでお墓を掘り起こしたら片方の履しか残っておらず、甦ったのだと信じられたらしい。
志を立ててもなかなか成就しないことも多い。躓くこともあるし、うまく行かないと志そのものまで批判されたりもする。しかし自らの發心を思い起こし、七転び八起きの心がけで歩きつづけていただきたい。生きにくい世の中ではあるが、諦めるのも早すぎるのではないか。
Genyu Sokyu (ゲンユウ ソウキュウ )
玄侑 宗久(芥川賞受賞作家、臨済宗僧侶)
出典 玄侑宗久公式サイト 日曜論壇 第33回
Copyright ©2010年1月31日福島民報
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