日本 プロライフ ムーブメント

ヒト胚を使用し破壊するクロ-ニングは倫理的に認められない

8月29日火曜日、ロ-マで開催された第18回移植学会国際会議で法王ヨハネ・パウロ二世は演説をされました。法王は、倫理的に認められる方法で行なわれる場合の臓器提供の医療を称賛した後、インフォ-ムド・コンセントの必要性や、生死に関わる臓器が取り出される予定になっている場合のドナ-の死亡確認の徹底義務や、提供された臓器の分配方法や、異種移植の使用などを含む、いくつかの重大問題について話されました。 

同時に法王は、ヒトのクロ-ニングの技術は、「ヒト胚の操作や破壊を伴う限り、たとえその意図する目的それ自体が良い場合でも倫理的に認められるものではない。」と述べられました。そして、「大人から採取した幹細胞を使用する」他の治療的介入の形態を提案されました。以下は、法王が英語で話された演説の原文です。 

紳士淑女の皆さん、

1.移植という複雑で注意を要するテ-マに関する討論のためにお集まりになった国際会議で、皆様がた全員にご挨拶できることを幸せに思います。ラファエロ・コルテッシ-ニ教授とオスカ-・サルバティエ-ラ教授のご親切なお言葉に感謝すると共に、ここにおられるイタリア当局の方々に特に感謝の意を捧げます。 

すべての皆様に、この会議への丁重なご招待へのお礼を申し述べると共に、教会の道徳的教えに対して賜っている深いご配慮に深く感謝いたします。科学と、とりわけ神の掟に気を配ることに関して、教会は、人間の全面的な善以外の何物も目的としておりません。 

移植は人間に対する科学の奉仕の大きな前進であり、今日多くの人々は臓器移植のおかげで生き永らえています。ますます移植技術は、すべての医学の第一目標、つまり人間のいのちに奉仕するという目標を達成する有効な手段であることがわかってきました。だからこそ私は、回勅「いのちの福音」の中で、真のいのちの文化を育むためのひとつの方法は、「時に何の希望もない病人に健康を取り戻し、場合によってはいのちを永らえる機会を与えようとして、倫理的に認められる方法で実施される臓器の提供です」(いのちの福音86)と述べたのです。 

すべての医療行為は人間性そのものを尊重しなければならない

2.人間のあらゆる進歩と同様に、医学のこの特定の分野は、多くの人間に健康やいのちという希望を提供しているにもかかわらず、分別ある人類学的、倫理学的見地から考察する必要のある重大な問題を提起しています。 

医学のこの分野においても、根本的な判断基準は、我々の人間性ゆえに我々が持っている固有の尊厳を維持することにおいて、人間の全面的な善を守り進めていくものでなければなりません。従って人間に対して行なわれるあらゆる医療行為は、制約のあるものであるのは明らかなことです。その制約とは、技術的に可能か否かの制約のみならず、その完全さにおいて理解される人間性への尊重によって決定される制約でもあるのです。「技術的に可能であるからといって、それが倫理的にも認められるということにはならない」(法王庁教理省「生命のはじまりに関する教書」序文4) 

3.他の機会で述べましたように、すべての臓器移植は倫理的に非常に価値のある決定、つまり、「他の人間の健康と幸福のために自分自身の身体の一部を無償で提供する決定」(1991年6月20日、「臓器移植に関する会議の参加者への演説」3)に始まることをまず強調しておかなければなりません。まさしくここに臓器提供の意思表示の崇高さ、つまり純粋な愛の行為である意思表示があるのです。それは、単なる自分の持ち物を与える行為ではなく、自分を与える行為なのです。というのは、「人間の肉体は、本質的に霊魂と一体であるがゆえに、単に組織や臓器や機能の結合したものとして考えたりすることはできず、…むしろ人格の構成要素であり、人格はその肉体をとおして自らを表現するものである。」(法王庁教理省「生命のはじまりに関する教書」序文3)からなのです。 

したがって、人間の臓器を商品化したり、交換や貿易の品物として扱う可能性のある行為は、すべて倫理上認められないものと考えなくてはなりません。なぜなら、肉体を「物」として扱うことは人間の尊厳を犯すことだからです。 

この第一の点は、倫理的に非常に重要な直接的な結果をもたらします。つまりインフォ-ムド・コンセントが必要なのです。そのような決定的な意思表示を人間が「本気で」するためには、自由で良心的な方法で、同意あるいは拒否の立場をとれるように、個人に臓器提供に関わる処置について適切に情報が与えられることが必要です。ドナ-の意志決定がない場合、親族の同意が倫理的正当性を持つことになります。当然、同様の同意が、臓器移植を受ける人間によってなされなければなりません。 

生命維持に不可欠な臓器を取り出す際に必要とされる死の確実性

4.人間固有の尊厳を認めることによって、さらに重要なことを生じてきます。それは身体に一つしかない生命維持に必要な臓器は、死亡した後でしか取り出すことはできない、つまり確実に死亡した人間の身体からしか取り出すことはできないということです。この条件は自明のことです。なぜなら、他の方法で行なうということは、ドナ-の臓器を取り出すときにドナ-の死を意図的に引き起こすことを意味することになるからです。このことは、一般の人々の大きな心配の原因となっているばかりでなく、現代の生命倫理学において最も議論されている問題の一つとなっています。私は死という事実の確認という問題について述べているのです。100%確実に人間が死亡したと言えるのはいつでしょうか? 

この点に関して、人間の死は、一度きりの出来事であり、人間としてのまとまりのある統一体全体が完全に崩壊することであるということを思い起こすことが手がかりとなります。死は、人間という肉体的実在からいのちの本質(霊魂)が離脱した結果なのです。この第一の意味で理解される人間の死は、科学的技術でも実証的な方法によっても直接確認することができない出来事なのです。 

しかし人間は経験によって、ひとたび死が起こればある生物学的徴候が必ず起こることがわかっています。そして医学によってその徴候がますます正確に認識できるようになっています。この意味において、今日医学によって用いられている死の確認の「基準」は、人間の死の正確な瞬間の、科学的技術に基づいた決定としてではなく、人間が実際に死んだという生物学的徴候を確認するための科学的に信頼できる手段であると理解されるべきです。 

5.ここしばらくの間に、科学的な死の確認の方法が、従来の心肺的徴候の重視から、いわゆる「神経学的」基準の重視へと変わってきたことは周知の事実です。特にこの方法は、国際的な科学団体が一般的に支持している、はっきりと決められたな判定要素に従って、(大脳、小脳、脳幹)における脳の全ての活動の、完全な不可逆的停止を立証することにあります。そうであれば、このことが個々の生体が、全体としての能力を失った印だと考えられます。 

死の確認のために今日用いられている要素に関しては、それが「脳の」徴候であれ、従来の「心肺的」徴候であれ、教会は専門的な決定はいたしません。教会は、医学によって提供されたデ-タと、人間という個体に対するキリスト教的解釈を比較するという福音の義務の範囲内にその活動を制限し、その類似点と、人間の尊厳に対する尊重を脅かす可能性のある対立点を明確にするだけです。 

ここにおいて、近年、死の事実の確認に採用されている基準、つまり脳の全ての活動の完全な不可逆的停止は、厳格に適用すれば、健全な人類学の本質的要素と対立しないものと思われると言うことができます。従って、職業的に死の確認の責任を担っている医療従事者は、倫理的判断において、道徳的教えによって「まず間違いない」とされている確実さの程度に達するための拠り所として、個々のケ-スにおいてこの基準を用いることができます。この確実性は、倫理的に正しい行動を取るための必要かつ十分な拠り所と考えられます。そのような確実性が存在する場合、そしてインフォ-ムド・コンセントがドナ-や合法的なドナ-の代理人によってすでになされている場合においてのみ、移植のための臓器の取り出しに必要な技術的な処置を始めることが道徳的に正しくなるのです。 

提供された臓器の分配は差別的なものであってはならない

6.倫理的に非常に重要なもう一つの問題は提供された臓器の移植希望者リストによる分配と優先順位の決定の問題です。臓器提供を呼びかける努力にもかかわらず、多くの国で入手できる臓器は現在のところ医療における需要を満たすには不十分です。したがって、明白で適切に判断された基準に基づいて、移植希望者リストを作成する必要があります。 

倫理的観点から、明白な公正さの原則は、提供された臓器の分配の基準は、決して(年齢、性別、人種、宗教、社会的地位などに基づく)「差別的」なものであったり、(労働能力、社会的有用性などに基づく)「功利主義的」なものであってはならないことが条件です。その代わり、臓器受け取りの優先権を決定する際の判断は、免疫学的・臨床的要素に基づいてなされるべきです。それ以外の基準はすべて、全く恣意的で主観的なものとなり、人間としての固有の価値、つまりいかなる外的状況からも独立して存在する価値を認めることができなくなるでしょう。 

7.最後の問題は、移植用の人間の臓器に代わり得る臓器を見つける方法に関することです。まだ大いに実験段階にあるその方法は、異種移植と呼ばれ、人間以外の動物の臓器を移植する方法です。 

この種の介入に関わる問題を詳細に調査することは、私の本意ではありません。私は、すでに1956年に、法王ピオ十二世がその合法性の問題を提起していたことをただ思い起こしたいだけなのです。法王は、当時予言されていた、人間に動物の角膜を移植することについての科学的可能性について話された時、その問題提起をされました。法王の答えは今も我々にとって啓蒙的なものです。法王は、異種移植が合法となるためには、原則として、移植された臓器がそれを移植される人間の心理的・遺伝的独自性の完全さを損なってはならず、その移植が成功し移植者を過度の危険にさらすことがないという生物学的可能性が証明されなければならないと、述べられました。(1956年5月14日、「イタリア角膜提供者協会及び臨床眼科医と法医学者への演説」参照) 

ヒト胚の操作と破壊は認められない

8.最後に、非常に多くの寛大で高度な訓練を受けた人々の努力によって、移植分野の科学的、技術的研究が進歩を続け、最近の人工器官の開発から期待できるような、臓器移植に代わる新しい治療方法の実験へと進展するよう希望します。いずれにせよ、人間の尊厳と価値を尊重できない方法は、絶対避けなければなりません。特に私が考えているのは、移植用の臓器を手に入れる目的で人間のクロ-ンを作る試みのことです。これらの技術は、ヒト胚の操作と破壊に関わる限り、たとえ計画された目標それ自体良いものであっても、道徳的に認められるものではありません。科学そのものが、クロ-ニングや胚細胞の使用を行なわず、大人から採取した幹細胞を使用する他の治療的介入の他の形態があることを指摘しているのです。これは、たとえ胚の段階においてでも、あらゆる人間の尊厳を尊重したいのであれば、研究が従わなければならない方向なのです。 

このような種々の問題について語るとき、哲学者や神学者の貢献が重要です。移植治療と関係のある倫理的な問題についての彼らの慎重で有能な考察は、どのような移植が倫理的に認められ、特に個人個人の独自性の保護に関して、どのような条件下で移植が行なわれるのが倫理的に認められるのかを評価する基準を明確にするのに役立つでしょう。 

私は社会、政治、そして教育の指導者たちが、寛容と団結の純粋な文化を育てるという決意を新たにするであろうことを確信しています。人々の心に、特に若者の心の中に、兄弟愛、つまり臓器提供者になるという決意となって表れる愛の必要性に対する純粋で深い理解を少しずつ教えこむ必要性があります。 

主が、あなた方ひとりひとりの研究の支えとなってくださり、人間の進歩に奉仕できるようにお導き下さいますように!この願いに祝福を与えます。 


Documents, Officialドキュメント, 公文書
Pope John Paul II
Address to Transplant Congress
Maurizio P. Faggioni, O.F.M.
(出典:「オッセルバト−レ・ロマ−ノ」
2000年8月30日
Copyright © 2000.
2002.9.8.許可を得て複製
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