人間は誰でもやがて死ぬ。これほど明らかな現実はない。仏教では「生老病死」の四苦を唱えているが、その指摘を待つまでもなく、「死」は人生最大の苦であり悩みである。それゆえ、大昔から、死の意味を理解し、死を克服するために人類はあらゆる努力を傾けてきた。はたしてその努力は報われたであろうか。
残念ながら、人類最大の謎解きが成功したためしはない。お釈迦さんにもできなかったらしい。手もとにある平凡社の哲学辞典(昭和33年版)には、「四門出遊の伝説が伝えるところによれば、釈尊が哲学的瞑想を志したのは老病死の不可避なことを悟ったからだという。かれは死を無視すること(解脱)によって、死の恐怖をまぬがれる道を選んだ」とあるが、恐らく本当のことだろう。そこには死の原因を明らかにしてこれに打ち勝つ「復活」の思想がないから。その点、キリストは違う。キリストは自らの死と復活を通して、「死の神秘」を明らかにしたからである。そこで、キリストによって完結した神の啓示の光に照らして、「死の神秘」を概観してみよう。
人間(人祖と全人類)は初めから不死のいのちに造られた。創世記によれば、「神は言われた。我々にかたどり、我々に似せて、人間を造ろう。・・神はご自分にかたどって人を創造された」(1,26-27)。それは、人間が知恵と自由を備えた人格(ペルソナ)として、神のいのちにあずかる存在であることを意味する。しかし、『カトリック教会のカテキズム』は言う。「ある意味で、肉体の死は自然なことである」(n.1006)。この「ある意味で」とは、本来なら「肉体は塵だから塵に帰る」(創世記3,19参照)という意味であり、にもかかわらず、神は人間の死を望まず、あくまでいのちを望んだという意味である。
しかし、人間のいのちは人間の自由な決断によってしか得られない。神の似姿として神のいのちにあずかるためには自由であることが必要であり、従って、神はあくまで人間の自由を尊重し、人間が自由を正しく行使していのちに入ることを望まれたのである。従って、造られたばかりの人間はいのちを選ぶか、はたまた死を選ぶかの試練に立たされた。「主なる神は人に命じて言われた。“園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう”」(創世記2,16)。人間には、自由な決断をもって神のいのちへの招きにこたえる責任があったのである。
聖書によれば、人間は罪を犯して死を招き入れた。「蛇は女に言った。“決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ”。女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」(創世記3,4-6)。「このようなわけで、一人の人間によって罪がこの世に入り、その罪によって死が入り、こうして、すべての人間が罪を犯したので、死がすべての人間に及んだ」(ローマ5,12)。「死は罪の報酬」(ローマ6,23)、つまり、死は自然の結果ではなく、人間の罪の結果なのである。
救い主キリストは、死をいのちへの手段、そして始まりに変える。つまり、救い主としてこの世に遣わされた神の子キリストは、人間の仲間として、人類のすべての罪を背負って購いの死を遂げ、復活して人類に神のいのちへの道を開いたのである。「イエスの従順が、死の呪いを祝福に変えた」(カテキズム1009)のである。こうして、人間の死を望まず、あくまで人間のいのちを望んだ神の愛は貫かれた。
しかし、最後の晩餐でイエスは杯を手にして言われた。「これはわたしの血であり、多くの人のために流される契約の血である」(マルコ14,24)。血とはキリストの死を意味し、契約とは救いの契約であり、いのちの契約であって、それは洗礼の秘跡によって各人に適用される。従って、ここでも神は人間の自由を尊重し、その自由な同意または協力を求められる。イエスは言われた。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は罰せられる」(同上16,16)。聖アウグスチノが言うように、神はわたしなしにわたしを造られたが、わたしなしにはわたしをお救いにならないのである。
Itonaga, Shinnichi (イトナガ・シンイチ )
2016年12月10日帰天
糸永真一司教のカトリック時評
出典 折々の思い
Copyright ©2010年3月25日掲載
生前許可を得て2024年2月18日複製