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エイズと『フマネ・ヴィテ』に照らした責任ある産児

始めに

エイズウイルスの伝染が特に著しい状況がいくつかあります。たとえば、エイズウイルスに感染している母親から生まれる子どものような罪のない者が、「母から子へ垂直感染」する場合がそうです。エイズウイルスは感染している母親から子どもへ次の3種類の経路で感染する可能性があります。

  • 一、 子宮内で経胎盤通路を通して 
  • 二、 出産中に、感染した血液や膣分泌液に触れることによって 
  • 三、 生後、母乳を通して

子宮内および出産中の母から胎児への感染のパーセンテージは15%から20%で、母乳を通しては14%です。(1)(2)(3)(4)母親が出産後感染した場合は、母子感染の危険性は29%にまで増加します。子どもがまだ子宮内にいるとき、または出産中に感染した場合、短期間のうちにその病気を発症する危険性が非常に高くなります。

その病気を治療することが不可能である現状に対して、幼児におけるその病気の発生を減らす唯一の方法は予防です。しかし、エイズウイルスに陽性である妊婦の場合に制度として中絶が考えられる時、その感染の責任ある予防法について語ることは不可能です。病気ではなく、その病気に罹っている人を取り除くということほど冷酷な予防方法がほかにあるでしょうか。さらに現在、出生前では、感染が見かけ上のものか本当のものなのかを調べることができないためエイズの出生前診断をすることは不可能なので、健康な胎児を5人中4人殺してしまう危険性があります。

カトリックの全ての教えにあるのと同じように、回勅『フマネ・ヴィテ』の中で説明されている存在論を基盤とした人格論的モデルに照らしてみれば、私たちは、肉体的ないのちには人の全ての豊かさが含まれていないけれども、それは根本的な価値であり、受精の瞬間からそのようなものとして尊重され護られなければならないのです。

「したがって私たちは、これらの人間的、キリスト教的結婚観の原理に基づいて、産児調整の正当な方法としては、すでに芽生えた生命の直接的中絶、なかでも直接的堕胎は、治療の理由で行なわれるものであっても、絶対に排斥されるべきであるとふたたび言明します。」(『フマネ・ヴィテ』14)。(5)

この意味において、予防の正しい考え方は病気を起こさせる原因を取り除くことであって、病気に罹った人を取り除くことではありません。

倫理的モデル

母から子へHIV感染の予防の問題を取り扱う前に、私がこれから説明する存在論を基盤とした人格論的モデルについて説明し、それを今日広く受け入れられている他の二つの倫理モデルと比較したいと思います。(6)

一、リベラル・ラディカル(自由主義的・急進的)モデル

リベラル・ラディカルモデルによれば、「価値」が指すものは「自由」なので、自由に望まれるもの、自由に受け入れられるもの、そして他人の自由を侵さないものは全て容認されます。しかし、それは限定された自由の問題です。つまりそれは、それを用い、表現する人々にとっての自由にすぎません。それは不自然で制限された自由であり、いのちの計画に狙いを定めたものではありません。HIV感染に関する限り、この倫理モデルを支持する人々によれば、性的自由は倫理的に許されるばかりでなく実際権利となっているので、予防は「自由で安全なセックス」を保証するために、(たとえばコンドームの使用のような)当然主として衛生学的な側面からの健康管理の仕方について人々に情報を提供することを目標とすることになるはずです。私はここで話を中断して、性とか人間のいのちとか自由とかの一般的な概念の人類学的な基盤を批判することが必要なこの倫理モデルが誤っていることを示すつもりはありません。しかしながら、事実に関する限り、この種の哲学がまた、あとでわかるように「疫学的に」危険であることは確かです。

二、実用主義的、功利主義的モデル

実用主義的、功利主義的モデルに対する判断基準は、何が役に立つか、何が最大の喜びと、最小の苦痛と、最も多くの人々に対する最大の自由として理解されるかです。もし社会が、当然そうなるわけですが、エイズ感染の蔓延の阻止を必要とするけれども、同時に個人が「危険な」行為を差し控えることができないとわかる場合、コンドームを使用する「安全なセックス」を提案することが有用だと考えられます。たとえ、次の段落でわかるように、コンドームの使用で100%予防の問題を解決できなくても、少なくとも部分的には問題を解決したことで役に立っていると考えられています。このことは間違った考え方です。というのはまず第一に、そのことが間違った確信を生み出し、歪んだ性行為をあおるからであり、第二に、それが全ての人のため、個人は全ての人のためにあるという考え方を考慮に入れないからです。

三、存在論を基盤とした人格主義的モデル

人格主義的モデルは、個人全体をその評価基準となる価値とみなしています。個人の自由と責任、社会的価値、他の生きとし生けるものとの関係は全てこの価値の結果として生まれています。私たちは、人間は生物学的に考えられるのみならず、その性質つまり本質全体で考えられるものであるという点においてこの人格主義のことを存在論を基盤としたものであると定義しました。そしてその本質とは、精神が肉体となって具現され、精神が肉体に行き渡り肉体を形成し肉体にいのちを与えるような方法で、精神と肉体が一つのものとなっている個人の本質です。

このモデルによれば、個人が評価の基準であり社会の源なのです。そして個人が宇宙の他の全ての物を超越する客観的な価値なのです。そしてこれこそが、倫理的な全ての論議がなされなければならない価値なのです。したがって、HIV感染の話をする時、感染を防ぐことだけが狙いなのではなく、生き方のモデルが提案されているのです。そしてその生き方のモデルは人の全ての価値の促進と保護を目標としているのです。言い換えれば、人は、他の人が人の偉大さ、目的地、人の使命であるいのちを全うすること、そして、人に関わる客観的真実全ての全領域を発見する手助けがしたいのです。私たちに求められている目的や、真理や、成長の本当の道を隠すことは、私たちの隣人や神への裏切りであり不信の行為なのです。

したがって、家族と忠実な結婚生活の価値に対する性の在り方の理想が提示されているのです。これは生命と、肉体と、社会的契約と、社会に対する尊重から成る積極的創造性を尊重することによって薬物の誘惑に打ち勝つことにつながる一連の価値なのです。それは疑いもなく最も困難な道ですが、もしあなたが誰かが山を登るのを手助けしたければ、あなたはその人が疲れたときに思いやりを持ち、登りがきつい時にその人を支えてあげなければなりません。あなたは、危険な時にその人の体をしっかり支えてあげなければならないかも知れませんが、あなたは、山が存在しないとか楽な道だとか言ったり、山を実際よりも低く言ったりしてその人をだますことはできません。登るのに困っている人を助けるために山を低くすることはできないのです。

どのような予防方法があるのか

HIV感染の本当の予防は、起こり得るさまざまな状況に関して責任ある産児行為を通して、つまり何がある状況における考え方の結果となりうるかの注意深い評価を通して実行されるものです。責任ある産児についての概念は、カトリックの教導職の教えによってしばしば言及され説明されていて、責任ある産児は様々な方法で実行されています。

「まず生物学的過程の点からみれば、良心的産児は、それらの機能を知り、またそれを尊重することを意味します。なぜなら、理性は生殖力に、人格(ペルソナ)の構成にあずかる生物学的法則を見いだすからであります。

つぎに、本能と感情の傾きの観点からは、良心的産児は、それらに対して理性と意志が行なうべき必要な制御を意味しています。さらに、肉体的、経済的、心理的、社会的諸条件の見地からみれば、熟慮とひろい心をもって多数の子どもをもうけようとする者も、また、まじめな理由から、倫理の法則を守りながら、一定または不定の期間にわたって妊娠を避けようとする者も良心的産児を行なっていると言えるのであります。

さらにここにいう良心的産児は、神によって定められ、正しい良心が忠実な解釈者の役をはたす、いわゆる客観的道徳秩序に属する別の深い理由を持っています。それゆえ、良心的産児の任務は、夫婦が、神に対し、自分自身に対し、家庭に対し、また人類社会に対する自分の義務を、事物と価値の段階にしたがって認めることを要求します。」(『フマーネ・ヴィテ』:10)。(5)

そして『フマネ・ヴィテ』以前にも、『現代世界憲章:50』の中で、子どもを作るか作らないかの選択は、「自分の生活状態ならびに時代の精神的・物質的状態を識別し、家庭・社会・教会のそれぞれの利益も考えなければならない。」とあるのが読み取れます。(7)

しかし責任ある産児にはまた、『フマネ・ヴィテ:10』ですでに述べられているように、人であることをお互いに認めあうことにおいて自分と相手を大切にするということが含まれます。したがって、避妊の選択や中絶を押しつけたり健康と生命を危険にさらさせたりすることによって相手に産児計画の重荷を負わせる配偶者は、その尊厳を完全に認識できていないのです。

「夫婦行為が相手の状態や正当な望みを考慮に入れずに、一方的におしつけられる場合には、それは愛の真実の行為ではなく、したがって夫婦間にあるべき正しい道徳的秩序の要請に反するものであることは人びとのよく知るところであります。」(『フマネ・ヴィテ』:13)。(5)

私たちが論じている主題に関して、基本的に二つの状況が生じる可能性があります。それは配偶者の一方が感染している場合(血清不一致夫婦)と双方の配偶者が感染している場合(血清一致夫婦)です。

一、血清不一致夫婦の場合

配偶者の一方だけが感染している場合、HIVウイルスに感染する可能性のある子どもの妊娠を避ける問題は当然として、健康な方の配偶者も、女性が感染を男性にうつす可能性は非常に低い一方、反対の場合その危険性は非常に高いということを心に留めておかなければなりませんが、感染することを避ける必要があります。健康な配偶者が感染するのを防止するために、純粋に医学的疫学的観点から行なわれる唯一の提案は、今までに見てきたように、いわゆる「安全なセックス」を保証できると信じる意味でのコンドームの使用です。しかしながら人間を被験者として行なわれた研究では、コンドームを使用してもHIVに感染する危険性は15%から16%に達することが明らかになりました。このデータは無視することができないものであり、間違った安心感を抱かないように医師によって夫婦に伝えられるべきものです。(8)(9)(10)

二次的な避妊的効果を持ち得る物質(エストロプロゲスチン)をある種の病気を治療することを教会は認めています。

「一方、教会は、肉体の疾患を治療するのに必要な治療手段は、たとえそれによって出産への障害がもたらされ、またそれが予見される場合でも、その障害が、どのような動機にせよ、直接に意図されないかぎり、非合法とは言えません。」(『フマネ・ヴィテ』:15)。(5)

しかし、コンドームは治療の手段でなく、単なる(完全に効果的とは言えない)予防の手段にすぎないのです。さらに、出産と感染が密接に関連しているという点において、出産の阻止が直接的なねらいです。従って、どのような予防の手段が用いられるべきでしょうか。人間の尊厳を尊重する科学的、道徳的観点から最も安全な選択肢は、セックスを差し控えることです。それは血清陽性の配偶者によって健康な配偶者に対する愛の行為としてみなされるべき選択肢です。なぜなら夫婦の愛情は、愛している人に死をもたらすことはできないからです。それは結婚生活の他の状況においても必要とされる、犠牲と英雄的行為を含んだ選択肢です。「私たち全員は、結婚した夫婦も含めて、ヨハネ・パウロ二世が話されているように、神聖であるように求められています。そしてこれはまた英雄的行為を必要とする天職なのです。このことは忘れてはならないことです。」パストラルレベルにおいては、この事実そのものには無私の愛に対するこのレベルの高い贈り物を経験できない人びとに対する大いなる理解と思いやりの必要性が含まれています。

ニ、血清一致夫婦の場合

考えなければならない二つ目のケースは、配偶者の両方ともが血清陽性の場合で、最初見たところでは、両者ともすでに感染しているので、健康な配偶者の感染の問題は全くないように思われます。したがって、それは、妊娠の危険性とそれを防ぐ科学的に妥当で倫理的に認められる手段を夫婦にはっきりと示す問題です。とはいうものの、すでに述べられているように、結婚生活において生命を伝えるべきかどうかを責任を持って決定しなければならないのは、夫婦自身であって他の誰でもないのです。この責任には様々な要素が含まれていて、その中には子どもに感染させる危険性やまた両親の状態を考えれば子どもが近いうちに孤児となる可能性が含まれています。このような状況においては、科学的な知識がもっと進むまで、妊娠の可能性をあきらめることが本当に父性及び母性の責任ある行為だと思われます。このような選択は結婚生活の目的と対立するものでないでしょうし、また他の種類の病気に対しても提案されうるものです。

もし夫婦が責任を持って子どもを作らないと決めれば、妊娠を避けるためにどのような手段を使うべきかという問題に直面します。フマネ・ヴィテの教えと、人間と人間の行為に対する全ての考え方に照らして見れば、避妊は倫理的に受け入れられないものです。

「私は、これらの人間的、キリスト教的結婚観の原理にもとづいて、…出産をさまたげることを、達成すべき目的として、あるいは用いるべき手段として意図するいかなる行為も、また同様に排斥されなければなりません。」(『フマネ・ヴィテ』14)。(5)

全ての避妊のテクニックに固有の誤りの危険性もまた述べておかなければなりません。それは考慮に入れなければならない誤りで、中絶でもって取り除くことが極めて不当なこととなるであろう誤りです。したがって、自然な産児制限の方法が指摘され、理論的な観点からこの選択は倫理的に認められるものとなるでしょう。

「したがって、もしも、夫婦の肉体的あるいは精神的状態または外的環境のために、妊娠の間隔をのばす正当な理由が存在する場合には、生殖機能に内在する自然的周期を利用して不妊期間にのみ夫婦行為を行い、こうして上に述べた道徳的原理にもとることなく産児数を調整することが許されると教会は教えます。」(『フマネ・ヴィテ』:16)。(5)

にもかかわらず、厳密に科学的な観点からみれば、血清陽性の患者とのセックスのような繰り返しHIVウイルスに接触することはエイズに対する血清陽性の進行を促すだけであるということが文献によって示されています。したがって両方の配偶者が血清陽性の夫婦でも、不妊期間のみのセックスに限定していても、エイズの進行を加速させる危険性があるのです。したがってこの二番目の場合においても、最も安全な予防策は、セックスを差し控えることでしょう。この選択は道徳的な「制約」として考えられるばかりでなく、科学的にも安全なものとして考えられるでしょう。

「血清不一致」夫婦と「血清一致」夫婦とどちらの場合にも、もし女性がすでに妊娠している場合、もっとも過激な結果である中絶は避けられるべきです。このことは、夫婦や親類の間に、胎児は受精の瞬間から一人の人間であるという議論の余地のない事実に照らして、病気であれ病気になる可能性があれ、新しい生命を歓迎する雰囲気を高揚させることによって可能となるでしょう。そしてたとえ胎児が奇形であったり致命的な結末をもたらす伝染性の病気に感染していたりしても、この権利はいつも存在しているのです。

結論

したがってキリスト教徒の夫婦に求められる責任は、類い稀な美徳のレベルに確実に挙げられる個人的な犠牲を代償としても生命を否定しない、生命を辱めることなく、それを愛し守る責任です。このことが、夫婦が責任を持って感染を予防し、その病気に対する感染の進行を予防するためにセックスを差し控えることを決心するときに必要とされることです。しかしキリスト教徒の配偶者はこの困難な選択を前にして神に見捨てられることはありません。「信者に与えられる聖霊は、ヨハネ・パウロ二世が話しておられるように、神の掟を、これが外からの命令であるばかりでなく心の中に与えられるものとなるために、私たちの心に刻みます。夫婦が、夫婦の愛の真実が必要とする全てのものに忠実になることができない状況があるということを信じることは、『新しい協力関係』の特徴となっているこの恩寵のケースを忘れることを意味しています。聖霊の恩寵は、自分の力しか頼るもののない人間にとって不可能なものを可能にしてくれるのです。」(p564:)–(11)

Bibliographical Notes

  1. Dunn, D.T. et al. (1992). Risk of human immunodeficiency virus type–1 transmission through breastfeeding, Lancet (340) :585. 
  2. European Collaborative Study (1992). Risk factors for mother–to–child transmission of HIV–1. Lancet (339): 1007. 
  3. Fischl, M. et al. (1988). Heterosexual transmission of HIV: relationship of sexual practices to seroconversion. IV. International Conference on AIDS, Stockoholm, 12–16 June 1988. 
  4. Moreno, J.D., and Minkoff, H. (1992). Human immunodeficiency virus infection during pregnancy. Clinical Obstetrics and Gynecology 35(4): 813. 
  5. Paul Vl (1970). Encyclical Humanae Vitae. [Catholic Truth Society: London.] About the argument in n. 14, see Sgreccia, E. (1990): Aids and responsible procreation. Dolentium Hominum (13): 271. 
  6. Sgreccia, E. (I991). “Manuale di Bioetica. I. Fondamenti ed Etica Biomedica.” [Vita e Pensiero: Milan]. 
  7. Concilio Vaticano II, Costituzione Pastorale Gaudium et Spes. In “Enchiridion Vaticanum” 1, 1962/1965, Dehoniane, Bologna,1981, pp.770–965. 
  8. Hearst, H., and Hulley, S. (1988). Preventing the heterosexual spread of AIDS. Are we giving our patient the best advice? Journal of the American Medical Association 259: 2428–32. 
  9. Rietmejer, C. A.M.(1988). Condoms as physical and chemical barriers against human immunodeficiency virus. Journal of the American Medical Association 259: 1851. 
  10. Feldblum, P. J., and Fortney, J. A. (1988). Condoms, spermicides, and the transmission of human immunodeficiency virus: a review of the literature. American Journal of Public Health 78: 52. 
  11. Giovanni Paolo II (1983). Discorso ai partecipanti ad un semlnario sulla procreazione responsabile, 17 novembre 1983. In “Insegnamenti di Giovanni Paolo II.” Vol. VI⁄2. Libreria Ed. Vaticana, Citta del Vaticano, 1984, p.564. 

Bishop Elio Sgreccia
スグレシア・エリオ司教
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