日本 プロライフ ムーブメント

アメージング・グレースーキャロライン・アレンの場合

アメージング・グレース(驚くばかりの主の恵み)

私は、24歳で、未婚。最近、初めての性交渉を持ちました。 私は、クリスチャン・ホームで成長して、自分の性的な関係について、もうすっかり恥ずかしくて不安でした。 そして、すぐに妊娠しました。 

私は産婦人科で妊娠テストを受けました。産婦人科医は、私が妊娠していないと思うと言いました。子宮が大きくなったので、彼女は、私には腫瘍があるかもしれないと考えました。 私は癌でありますようにと「祈りました」。 しかし、私は、妊娠していると判明しました。 翌日にわかりました。    

私はパニックで傷ついていました。 私は、妊娠していると信じることができませんでした。 「妊娠中絶しなければ…」と、すぐに、うっかり口走りました。 私は、以前、中絶について一度も考えたことさえありませんでしたが、思い浮かんだ最初のことは、中絶しなければならないということでした。 私は、妊娠しているとボーイフレンドに言いましたが、私たちは何をしたらよいかを議論しませんでした。 私は、彼が、私が当然赤ん坊を生むと決めてかかっている状態のままにしました。    

私は他の誰にも言いませんでした。 4日後に妊娠中絶できるまで、医師に睡眠薬を下さいと願いました。 私は、それの薬は効いていなかったと思います。 私は考えたくありませんでした。 中絶を終えたかっただけでした。 

私は、赤ん坊が、私が何を計画しているかを知っているかどうかと思いました。 私は、赤ん坊に話して、謝りました。 しかし、大概は、私は、それが終わって欲しいとただ思いました。 私は、罪を覆い隠し、過去数カ月を消して、赤ん坊の父親との関係をやめて、やり直すことができると思いました。まるでどれも起っていなかったかのようにやり直せると。  

私の妊娠中絶は臆病で、利己的な決心でした。 私は妊娠しているままであったなら、一生涯として、“必要や予定より多い余分なもの”とみなしました。 私はいかなる他の選択肢も考えてさえいませんでした。 私は赤ん坊より優先して自分を選びました。 

私は全身麻酔の下、ワシントン・ディー・シーの女性病院でD&C(頚管拡張後、掻爬術で)妊娠中絶をしました。 私は、恐くて、動揺していました、そして、腕に点滴を入れるようになった時、私が医者に会うまで眠りたくないと彼女らに言いました。 彼女らは、それがただビタミンであると私に言いましたが、とにかく麻酔を入れました。 それで、私は、女医が妊娠中絶をしたか、または私が寝ついたとき、そこに立っていた男性のひとりがしたかどうかをこの日までまだ知りません。私は、腕に薬を感じたのをただ覚えています。「いいえ!」と大声で叫んで、次に、意識を失いました。 私は、これが、私が妊娠中絶について気が変わるつもりであったということを意図しません。 私はそうではありませんでした。 

回復して目覚めたとき、私は、彼女らが、それが男の子か女の子かを私にただ教えてくれるかどうか尋ねました。看護士は情け容赦なく、 「それはただの組織です。言う方法が全くありません。」と答えました。 

私は、病院へタクシーで行って、帰りもタクシーで帰りました。 私が一人でそうしたかったので、だれも知らないでしょう。 私はとても孤独であると感じました。   

私は、すぐ、巨大な大きい穴、空虚さを感じました。 また、私はひどく罪の意識を感じました。 自分の妊娠中絶のことで神に直面することができなかったので、私は神から完全に背を向けました。 私は、ただ度が過ぎて、引返し限界点を通り過ぎたと感じました。 それは許し難い罪でした。 そして、私は、それを罪と知りながら、行いました。 私がちょっと魂を売ったようでした。 

私は、すぐに、言い訳を始めました。 私は仕事に戻りました(「先週、調子が悪くほんの少しやっただけでしたなど」)。 私は一生懸命それについて考えないようにしました。 

私は赤ん坊の父親に言わなければなりませんでした。 彼は、非常に傷ついて動揺していましたが、分かったと言いました、そして、彼はまだ私と結婚したがっていました。 結婚しない計画をしていましたが、今、他の誰も私と結婚してくれないと考えました、そして、私は彼をとても傷つけました。 それで、私は彼と結婚しました。 

私の結婚式は私の赤ん坊の(中絶)期日の3日後でした。 うつむけに微笑を貼って、幸福な花嫁であるふりをしましたが、私は赤ん坊のことを思っていました。    

私は、赤ん坊のことを思わないで眠り始めることができるように、大いに飲み始めました。 夫との関係はすぐに、一層悪くなりました。 私は、現在、私が最初に彼に言うことさえせずに彼の子どもを堕胎したことに彼が感じたに違いない激怒や痛みを理解しています。しかし私は自分の傷で頭が一杯で、そのとき彼が苦しんでいることを考えませんでした。私たちはそれに関して決して話しませんでした。 

彼は虐待的でした、そして、私はそれを受け入れました。 私は心に、「したがって、あなたの問題は何ですか?と聞くでしょう。 少なくとも彼はあなたを殺しませんでした。 あなたは赤ん坊を殺しました!」    

死にたかったのですが、私は地獄を恐れていました。 私は自殺しないことが有罪であると感じさえしました: 「あなたには、あなたの赤ん坊を殺すどんな問題もありませんでした。なぜ現在、おじけづきますか? あなたは、死ぬに値します! 殺人者であるだけでなく、あなたは臆病者です!」 私は昏睡したかったです。 私は、約50年後に目覚めて、その時それに対処できると思ったと推測します。 

6年後、私たちは離婚しました。 私は、とても長くアルコールにひたり感情を麻痺させ、自分の感情の落ち込みをいい加減にあしらっていました。そして仮面をかぶって、かなりの間ふりをしていました。私は、ある日食料品店に入るために車から出て、「私は、店に行くただふりをしているだけ。私は存在さえしません。」と思ったのを覚えています。私はゾンビのような気分でした。 

妊娠中絶はあらゆる点で私を変えました。 私は、友人を愛していた外向的な人からだれも近くに居て欲しくない隠者までになりました。 私は、彼らが本当に私を知っているなら私を嫌うと思いました。 私はアルコール依存症にたぶんきわめて近いほど大酒飲みになりました。 私は、神から離れ、自分が嫌いでした。 私は、この過剰摂取にしぶしぶ順応し、それで恥をかきました、そして、ずっと、この痛烈な空虚さはありました。 私が12年間、成長しないで、ただ存在しているだけの状態でいました。 

私は離婚直前、別居中に私はクリスチャンになりました。 その時、私の妊娠中絶を許して下さるように神に頼みましたが、私はまだとても無感覚に感じていました。 私は自分の赤ん坊か何かのために泣きませんでした。 私は冷酷、そして、本当に告解できないと感じました。 私は自分が本当に悲しいのかどうか、またはただ自分に起こったことを後悔しただけなのかと思いました。 

私は、自分の妊娠中絶を牧師に話しましたが、まさしく間違ったことのリストで話しました。 彼は、再びそれについて触れないし、私も話しませんでした。また、私が子どものときに虐待された(私はそうでなかった)と私に納得させようとしたクリスチャン・カウンセラーに会いました。そして、私たちは妊娠中絶を全く論じることはしませんでした。 

3年半後、私は、リンダ・コクラン(Linda Cochran)による聖書研究、Women in Ramahを使用したサポートグループを経験しました。 私はとうとう妊娠中絶に直面することが出来ました。「石の心を取り除き、肉の生きている心を与える」という神の約束を私は見つけました。 私は、私のためにそうして下さいと神に頼みました、そして、神はそうして下さいました。 

私は、ついに自分に打ち勝つことが出来て、赤ん坊を思い、私の赤ん坊を愛すようになって、次に、最終的に赤ん坊を深く悲しむことができました。 そして、私は本当に神の許しを理解することが出来ました。私のすべての自己罰と苦悩の種でしても、私の妊娠中絶の償いをすることができなかった、私にはその中絶の支払いをするためにできることが何もなく、だけど、イエスは、私のその妊娠中絶と他のすべての罪のために十字架上で死んで下さり、私の全部の罪を償って下さったという神の許しを理解できました。 神は私のすべての罪を許して下さっただけでなく、平和と喜びを私にもたらして下さいました。 本当の喜び!をです。 

私の赤ん坊の名前はキャリー・アンナです。 アンナは神が私に与えた名前で、それは、神の恵みを意味します。今、 「非難者」が攻撃するとき、まさに赤ん坊の名前が神の恵みと許しを私に思い出させます。 聖書研究をするのは、私が今までに自分でした中で最も良いことでした、そして、私はそれのため神に感謝します。 

癒しと許しを見つけたので、私は、もう一度友人を発育させています。神が、私を使うためにどのような方法で選んでも、私は神に仕えることができます。 私は、神がすべてを善のためにすることを理解しています、そして、今、神が他の人々を助けるために私を使うことを分かっています。 私が苦しんで妊娠中絶を通り越し、神がどうのように御自身が創造されたもののそれぞれの価値を評価しているかを知った今は、私は、他の人々のことをそれほど批判的でなく、神の目ですべての人々が貴重であると見なそうとしています。 

Editorial (オピニオン) 
『中絶後遺症概説』 
7巻, No. 4, 1999年10月-12月 
エリオット研究所 
翻訳 大岡 滋子 

英語原文より翻訳
Copyright ©2009.12.11許可を得て複製