必要とされていない子どもの処理の仕方については、日本で様々な方法が採られてきた。幼児をまったく捨て去ってしまうという方法は、「涙を流す石」の言い伝えをまことしやかにするものである。母親達は自分の子どもを捨てる時、交差点の角にある道しるべの石の後ろやその近くに置いていた。おそらくどこかの旅人が子どもに気づき、引き取ってくれることを願ってのことだったのだろう。置き去りにされた子どもの泣き声が、特に夜になると、そばを歩く人々に石が泣き叫んでいるように聞こえた。
第一章 序説
鎌倉の長谷寺は日本でも仏教を代表する寺院である。12世紀に金メッキで作られた有名な慈悲の女神観音、長谷観音様の家である本殿への階段を登っていくと、訪問者は「地蔵広場」と呼ばれる焼香をする祭壇の裏にある小さな殿堂を通る。この広場の周辺、及びすぐそばの丘の台地には五万以上もの石でできた小さな地蔵が並んでいる。これらの像は、流産、死産、あるいは中絶によって我が子を失った両親が買って奉るものである。地蔵の多くは手縄みの帽子と上着を着せられていて、その周りには瓶やおもちゃ、小さな供えものが置いてある。これは現代の日本人女性が、日本社会が歩んできたのと同じくらいの歴史を持つ行為に対する苦悩や是認を非常によく表しているものだと考えられる。
この論文は、日本における中絶の歴史、慣習、及び規則について詳しく述べているものであり、同時にアメリカ合衆国における状況との比較の必要性をもたらすものである。中絶法の比較研究は法学会においてもまだ新しい分野である。メアリー・アン・グレンドン教授は、中絶に関する規制は各国間の文化的・法的価値の比較研究に大いに役立つものだと語っている。彼女の研究は主に北米とヨーロッパの20の国々について中絶及び離婚に関する法律を比較するものである。「他の国と比べるとアメリカの中絶対応政策はとても奇妙なものに思えます。なぜなら、例えば、アメリカには〈他の西側諸国と比べて胎児のことを考えた中絶の規制といったものが少ないから〉。」と研究の結果わかったとグレンドン教授は述べています。教授はこのヨーロッパの国々との中絶法における違いは、アメリカ人の「プライバシー」保護主義に基づく急進的個人主義、必要としない子どもを捨てる絶対的権利、妊婦の希望以外を考慮に入れることの拒否、中絶対応政策策定の際の立法機関の力不足などの要因からなっていると結論づけている。
グレンドン教授による画期的な研究にはアジア諸国の事例が含まれていない。しかし、教授はアジアの何ヶ国かはアメリカの場合と同じように出産前の生命に対して「無関心」であるのではないかと示唆している。つまり、アジアの国々についても中絶政策を比較研究することはグレンドン教授の研究にとって論理的かつ重要であることがわかる。
日本の中絶に関する法律や手段は、アメリカにおけるそれとの比較に、次の二つの理由から非常に適していると判断される。まず一つ目は、日米両国とも世界の国々の中でもっとも寛容な中絶法ともっとも高い中絶率を共有している点である。表面的にはいずれの国も現代の中絶法及び中絶方法に関して非常によく似た状況を維持している。しかも、どちらも産業化とともに発展を遂げた国である。つまり、両国とも豊かであり、教育水準も高く、世界の中でも影響力を持っている。だが表面的には中絶に対する対応策が似ていても、日米間には言語や歴史、慣習、宗教、そして社会的価値観などにおいて、大きな文化的相違があるのも事実である。これらの違いが両国の中絶における実施法、理解、規制、それにその結果について影響を及ぼしていることは疑いの余地のないところである。
次に、中絶に関する規制があまりないことから生ずる個人的及び社会的結果として、日本がアメリカよりもある意味で一世代「進んでいる」と考えられる点が挙げられる。現在の中絶に対する寛大な日本の法律と実施策は、1949年から1952年の間にまでさかのぼるものである。アメリカでは拘束力の少ない中絶政策はつい1973年にさかのぼるだけである。従って時間や文化を越えることのできる体験を通じて、日本の中絶法や対策を理解することが、寛大な中絶政策に理解を求めようとするアメリカ人にとってもためになる可能性がある。このような比較研究が、現在意見の対立を引き起こしているアメリカの中絶政策を改善の方向に運ぶ可能性もある。さらに、日米の中絶対策の比較研究が、中絶問題に悩む他の国々の役に立つことも考えられる。
この論文の第二章では、日本の中絶規制の歴史的発展の詳しい検証によって現代の中絶法をまとめている。第三章はアメリカの中絶法の歴史を振り返り、憲法における中絶のプライバシー保護主義と自由という観点から見た中絶について述べる。第四章では日米の中絶政策や主義を比較研究し、第五章で日米における現在の中絶実施法や考え方をまとめる。第六章では二国間の中絶に対する考え方やその実施策を比較査定してみる。そして第七章で日米それぞれの社会における中絶実施策とその規制の果たす役割を比較し、結論付けをする。
第二章 日本の中絶規制の歴史
A. 近世以前の日本の中絶(1867年以前)
「堕胎間引き」という言葉は日本の歴史学者の間では聞き慣れた文句である。堕胎とは中絶を意味し、破壊を暗示する荒々しい単語である。間引きというのは文字から言えば「減少させる」ことであるが、元々は余分な新しい食物、特に大根の数量を減らすことに使われており、伝統的に幼児殺しの砕けた言い方として使われてきた言葉である。歴史的に見れば、中絶の実施と幼児殺しは日本の歴史における記録の中では同じくらいの過去にさかのぼることになる。この結合語から見てもわかるように、中絶と幼児殺しにはさほど違いはなかったようである。幼児殺しが安く済んだために百姓や農民などの村落地方でよく行われたのに対して、中絶は都市部や上流階級の人々の間で広く行き亘っていた。「中絶はエリート階級、つまり徳川家や大名、侍、そして裕福な商人などに利用されるものであって、幼児殺しはもっぱら百姓の間で行われるものだった。」
中絶を日本史を通して見る場合、多くの学者は平安時代(A.D.794~1185年)にまでさかのぼる。この時代の伝説や詩に中絶に関する下りが数多く残されており、中絶が公に行われて一般的にも認められていた、つまり違法行為ではなかった、ということがうかがえるからである。同じように、後に続いた鎌倉時代(A.D.1185~1333年)の文献にも中絶に関するものがたくさん残されている。日本の最初の中絶医師であった中条帯刀は、安土桃山時代(A.D.1568~1600年)に活躍した外科医であった。17世紀までには中絶方法などを詳しく書いた医学書が何冊も出されていた。
徳川時代(A.D.1600~1868年)より以前は、中絶は干ばつや飢饉など深刻な自然災害を理由に行われるものであり、地域ごとに散漫的に行われるものであった。しかし、徳川時代、とくにその後半には、中絶はごく日常的なものとされていたのである。
封建制度後期の徳川時代の二世紀半の間に中絶と幼児殺しが広く容認された理由に、多くの学者は二つの理由を挙げている:(1)極度の貧困、特に村落地方の百姓と低い地位にあった武士、(2)ふしだらな性関係の横行、特に商人や職人、武士、そして都市部のエリート役人等である。この時代の中絶と幼児殺しはとても頻繁に行われており、この時期日本の人口は一世紀以上も2600万人で安定していたとされている。婚外の性関係が横行していたのも明らかとなっており、特に中央政府あるいは幕府のあった江戸(現在の東京)では著しいものがあった。しかしながら正式には階級ごとの規律や行動規律、そして法律において不義や姦淫は厳しく禁止されていた。しかし実際は、この規制は不義や婚外行為を隠しておけるのならば問題はないという程度のものでしかなかった。しかし、私生児の誕生など、規則の違反が明るみに出た場合、その結末は非常に厳しいものであった。その結果、中絶や幼児殺しは婚外の性交渉という正式には禁止されている行為が招く事態を無効にし、体面や評判を保つために広く行われていたことになる。
徳川時代に中絶や幼児殺しが頻繁に行われたもう一つの要因に貧困が挙げられる。低い地位にあった武士達は、固定給を米で受け取っていた。生活や自分の地位を守るために、人々は家族の人数を制限することを余儀なくされ、よって中絶や幼児殺しという手段に頼るしかなかった。ほとんどが農民で占める百姓階級は経済的にさらに苦しい立場に置かれていた。封建社会における厳格な階級制度のもと、農民は上から厳しく抑圧され重税を課せられていたので貧困の苦しみは想像を絶するものであった。最低限の生活を守るためには幼児殺しや中絶で家族の人数を制限することは仕方のないこととして広く認められていたのである。この時代の文献には、それ以上の子どもを育てる余裕のない一般の家族が、仕方なく中絶や幼児殺しを行っている内容のものが数多く残されている。
18世紀の半ばになると中絶と幼児殺しの件数の増加がある経済的問題を引き起こすようになった。農家の労働力となる子どもが減ってしまったのである。その結果不景気となり、農業活動が鈍り、米の収穫から税収を得る政府にとって危機が訪れることになった。そこで幕府(中央政府)と藩(地方政府)の高官達は農作物生産と税収の増加を目指して中絶と幼児殺しを禁止し、農村における人口増加を奨励したのである。
徳川時代の後半になると、幕府は公然とした、しかしあまり効力のない中絶規制を行った。それは同時に三つの方法をとった:道徳的奨励、財政的援助、それに刑法上の規制である。道徳的奨励には「書き物の配布(命の破壊を非難するもの)と説教師(仏教僧)の派遣」があった。いのちあるすべてのものを尊重することを信義とする仏教僧は、幼児殺しや中絶を激しくののしったが、知識人達は中絶や幼児殺しに象徴される社会全体の退廃及び道徳の低下を非難するにとどまっていた。
中絶や幼児殺しを阻止するために、中央及び地方政府が設置した財政報奨金制度は驚くほど洗練された進歩的なものだった。18世紀の終わりには大家族を支えるための米や時には金銭も含む政府の補助計画は日本中で採用されるようになっていた。徳川時代の中絶及び幼児殺しについて深い研究を続けてきた高橋梵仙によれば、この時代の後半にかなりの数の補助制度が大家族支持のために中央及び地方政府によって実施されたようである。
日本で最初の中絶禁止の法令あるいは法律は17世紀半ばに制定された。1646年に幕府は、事実上の政府が位置した江戸でのみ有効な法令を制定し、一般的に商業的中絶事業を禁止し、看板などによる大々的な中絶広告を禁止した。その21年後の1667年には幕府は中絶の広告そのものと隠れた中絶を禁止し、違反した場合は江戸から追放すると発表した。1680年には中絶に関わった医者や女性は尋問にかけられることになった。しかしこの場合の刑については明らかになっていない。その後の法令は162年後、それは徳川幕府崩壊まであと25年という年に制定された。法令は二つであった。一つは中絶を要求したり実施した者は江戸から追放されるというもの。もう一つは中絶を要求、手配あるいは実施したとされる者は調査を受け罰せられるというものであった。
これらの幕府の法令は江戸においてのみ有効なものであった。だが、地方の地主達もこれを模範にしたのである。つまり、同じような政策が藩にも採用された。さらに、地方における中絶及び幼児殺しを阻止するために、多くの藩主は農民の妊娠を報告させたり、死産の場合の「特別調査」を義務づけたりした。
だがそれでも法的措置を用いて中絶を抑制しようという試みはそれほど厳しく行われることはなかった。中絶を広告するにしても、法を犯すことなくビジネスの範囲で人々に訴えることができたため、禁止令をた易く回避することができた。規制は弱く、刑罰は緩やかで存在しないに等しかった上、効力はほとんどなかったのである。
B.近代日本の中絶規制:明治から第二次世界大戦まで(1867~1945)
1867年、何世紀もの間名目だけが天皇であった若い睦仁天皇は、天皇としての最高権力を再び行使すると宣言した。帝国軍はすぐに徳川幕府に忠誠を誓った軍を負かし、当時19歳だった天皇は皇居を京都から東京に移し、政権を自分の手中に入れた。これによって700年にも及んだ将軍による軍事政権に終止符を打ち、人類の歴史においてもっとも著しく急速な近代社会の形成が始まった。たった50年間の明治(啓発された統治)時代に、日本は封建社会から半民主主義社会へ、ことわざ通りのアジアのドアマットから世界の軍事力保有国へ、時代遅れの農業国から近代的工業国へ、孤立した閉鎖的社会からダイナミックで活力ある世界の一員へと移行を遂げたのである。
明治天皇は自分の側近らの知恵を借り、かなり早い時期に日本が世界の主要国の一員として活動していくためには、それまでの古いしきたりを急速に変えて、早急に西側諸国のやり方を取り入れなければならないという決断を下した。非常に劇的だったのは西側の法制度を取り入れたことで、それを日本の文化に合うように必要な個所は修正して採用したことだった。明治の若者達は西側の法制度を学ぶために西洋の各国、特にフランスとドイツに送られた。また、フランス人法律学者が天皇の側近のためにフルタイムで雇われ、後には天皇の議会のために近代法典を作成する事になったりもした。
刑法典の第一号は、明治天皇在任13年目にあたる1880年に発布され、1882年に遂行された。ヨーロッパ、特にフランスの法典にならって、中絶は禁止された。中絶を行った女性には1ヶ月から6ヶ月の禁固刑、中絶を実施した者には1年から3年の禁固刑が言いわたされることになった。中絶を実施した医者や助産婦は第一級殺人罪に問われることになった。
その約25年後の1907年に、この刑法典はさらにドイツの法典の影響を受けて改訂された。それによると医者や助産婦あるいは薬剤師であろうと中絶を実施した者には3ヶ月から5年の禁固刑が科されるというものだった。もし中絶の過程で女性が傷つくようなことがあれば、その場合の刑は6ヶ月から7年という重いものになるとされた。1908年に発効されたこの規定は、今日の日本の中絶犯罪禁止の基礎となった。日本では今でも中絶は建前上犯罪とされている。
この明治の改革の精神は次第に日本社会に普及した。それは希望と進歩に満ちた新しい時代の幕開けであり、国中の誰もがそれを感じていた。社会一般の考え方は反中絶の方向に傾向していった。家庭では将来のチャンスへと希望に満ちていた。家族の人数が急激に増え、人口も増し、経済は繁栄し、中絶や幼児殺しの件数は大幅に減った。
明治天皇が1912年に死去してからまもなくして、経済の面でも政治の面でも困難が生じるようになった。経済及び社会に対して人々の信用が揺らぎ始めた現れの一つに中絶件数の増加があげられる。中絶がさらに増えることを懸念した役人達は、1920年代と1930年代の間に反中絶法の施行を非常に強化したのであった。1918年から1931年の間に中絶法の下に逮捕された件数は377から899件にも上るとされている。
1940年に国会(日本の議会)はナチスドイツで採用された法律に基づく国民優生法を採用した。この民事法はある限られた状況においてのみ中絶を合法とみなすものだった。限られた状況というのは特に優生上の理由が認められる場合で、種の純潔を守り、国の負担を避けるためとされた。認めてもらうためには医師の認定と政府機関への報告が義務づけられた。国民優生法は「生めよ、増やせよ。」という時代の精神を反映していた。当然「欠陥のある」子どもは国を弱体化させると考えられたので、その場合の中絶は認められるのであった。
C.近代化以降の日本の中絶法(1846~現在)
第二次世界大戦は、当然ながら日本の法律や社会のあらゆる面において大きな影響を及ぼした。中絶に関する法律や慣習も例外ではなかった。戦争当初、日本は攻撃的な軍事力を持ち、西側社会のことを道徳的に堕落し、贅沢に腐敗した国とみなしていた。終戦間近になると日本は廃虚と化した。戦争が終わると、アメリカの占領とともに「新しい考え方や慣習がどっと」押し寄せてきた。「新しい考え方」の一つが中絶法の緩和の動きへとつながっていった。
戦後の中絶法緩和への圧力にはいくつかの要因があった。まず第一に、飢えや経済再建が非常に危ぶまれたことが挙げられる。終戦を迎えた1945年の9月にはいくつもの都市が爆撃によって消滅し、産業能力は打撃を受け、農作物の生産は破壊されていた。日本を占領下に置いた連合国軍の公式記録には終戦時の農業の現状が次のようにそっけない記述で残されている。「連合国軍の空海による攻撃で、降参時の日本は飢えが目の前まで差し迫っているほど衰えていた。」経済は完全に混乱し、何百万世帯もの家庭が貧困にあえぎ、国外に住む何百万もの日本人兵士と民間人がまもなく送還されてくることになっていた。多くの日本人指導者達は戦後の「べビー・ブーム」に対する更なる圧力が戦争を生き延びた人々の犠牲を増幅させ、経済回復に向けての努力が水の泡になってしまうことを恐れた。
第二に、新しい占領国家においてバース・コントロールを広く押し進めながら社会的策略実験に携わる機会を持つことは、外国の人口統制専門家にとっては非常に魅力的な体験であった。連合国は、これからの日本を、形だけの民主主義ではなく真の民主主義国家にするべきだと決断した。家族計画に携わる国際機関は、人口圧力が日本の軍国主義や侵略行為を招いたと理論立て、日本の侵略行為を減少させるためには人口増加を制限するべきだとの論を唱えた。
三番目に、衛生上、安全上の問題が浮上してきた。戦後の占領の間、アメリカの軍人が時にはレイプともいえるような状況下で日本人女性を妊娠させるケースが増加した。これが計り知れない個人的、家族的、社会的苦痛を招いたのである。さらに中絶におけるやみ取引が頻繁に行われるようになり、公衆の衛生状況に不安を与えた。
これらの圧力を受けて国会内の医師団は「困難な場合」に限り中絶を認める法案を提出した。法案は1948年に可決され、優生保護法(EPL)と呼ばれるようになった。総体的には以前の国民優生法を模範にしたもので、その新しい法律は厳密に限られた五つのケースにのみ中絶を認めることを保証している。中でももっとも一般的なのが、それ以上の妊娠や出産によって母胎の健康が著しく損なわれる場合というものであった。その際、母親の担当医はまず地域の優生保護委員会に申請をし、委員会が中絶を認めれば中絶の資格を持つ医師によって実施することが可能となった。従って、1948年に制定された法律は実質的にも手続き的にも「自由な」中絶法とはほど遠かった。
翌1949年、優生保護法にいくつかの修正が加えられた。もっとも大きな変化は健康上の例外が拡大されたことだった。中絶は「肉体的、経済的理由からそれ以上の妊娠や出産によって母胎の健康が著しく損なわれる場合」に認められるとされたのである。経済的理由による中絶の正当化は、日本の実質的中絶法を限定的なものから任意のものへと変えていくことになった。よって1949年6月24日は日本の中絶政策に自由な「理由」を採用した日とされる。この「経済的条項」を加えた理由には、経済的原因から引き起こされた中絶のやみ取引が最初の優生保護法制定以降、氾濫していたこともあげられている。
中絶のためのかなり緩やかな実質的基本が用意されたにもかかわらず、実際に中絶をするのは手続き上の理由から限られた場合だけであった。しかし、1952年に優生保護法が再び修正され、委員会の承認の必要がなくなると、中絶実施の可否は一人の医師の手にゆだねられるようになった。従って、事実上いつでも中絶を受けることができる社会へと日本が移行したのは1949年から1952年の3年間のことであった。この法律は、1880年の明治の改革から採用されてきた中絶にまつわる規制の数々を事実上無効にし、撤回するものであった。
1952年以降、日本では「経済的困難」という非常に寛容な理由から中絶をすることができるようになった。それも一人の医師の判断だけで決めることができ、法的には何の責任も問われないのである。日本におけるこの中絶実施の手続き上の自由化は人々に衝撃を与えた。1952年から1953年の間に報告された中絶件数は798,193件から1,068,066件まで増加した。一年間で34%もの増加であった。
優生保護法では中絶を「妊娠の人工的妨害」と呼んでおり、それは生育可能となった胎児と胎盤の強制的排除と定義することができる。厚生省は初め妊娠8ヶ月後からを生育可能と規定していたが、1976年にはそれが7ヶ月までに短縮された。1978年にはさらに最後の生理が終わってから24週までに減らされた。現在日本で中絶が認められるのは、最後の生理から数えて妊娠23週目までか、受精したと考えられる日から21週目までのみである。
優生保護法及び厚生省の規制は、中絶一件ごとに詳細な記録をとることを医師に求めている。厳密に言えば、中絶は既婚女性にのみ適用される。女性の配偶者の同意と「承認印」が必ず必要とされるのである。しかし、夫の「印鑑」と同じものはいとも簡単に手に入れられるし、夫の同意を「偽造」するのは簡単なことである。法律では未婚女性の中絶の禁止を明示しているが、実際はそのようなケースは非常に多い。理論上では未婚女性の場合、未成年であろうと成人であろうと親の同意が必要だとされているが、これも法の遵守というよりは違反だと考えられる。中絶は「指名を受けた医師」のみが担当できるとされているが、実際、産科医や婦人科医はすべて指名を受けた医師である。日本にはおよそ13,000人の指名を受けた医師がいる。
第三章 米国における中絶法の歴史
A. 英米法に基づく中絶条例(13~19世紀)
少なくとも13世紀の頃から、英米法は胎児の胎動(動き)以降の中絶を禁止していた。ブラックストーンによれば:
いのちは神様直々の贈り物であり、あらゆる個人に対して生まれながらに与えられている権利である。母親の子宮で赤ん坊が動き始めると同時に法を見定めることに始まるものである。女性が妊娠して自分の子宮の中にいる赤ん坊を程度の差はあるにせよ殺したとする。あるいは母親が誰かにひどくぶたれて赤ん坊が死産するとする。するとこれは殺人ではないのだが、古代の法律では謀殺あるいは故殺とみなされた。しかし現在の法律はこのような攻撃的行為を極悪非道なものとはせずに単なる非常に悪い行い程度にしか受けとめていない。
胎動が起こる以前の中絶に関しては、ブラックストーンの時代には何の概念的問題も起きなかった。なぜなら、現代生物学史以前には、胎動は胎児の生命の始まりだと誰もが信じていたからである。胎動が始まってからでも中絶は現実的な問題にはならなかった。当時のイギリスには中絶を行う安全な方法が確立されていなかったからである。さらに家族、地域社会、教会を含んだ非法律的施設がたくさん存在し、中絶をひどく反対する人達の存在もあった。これらの理由から、中絶禁止は歴史上常にあったものの、19世紀以前は特に大きな法的問題とはされていなかった。
ブラックストーン氏の説いた一般中絶禁止法は実際はアメリカの植民地で効力を発揮していた。英国からアメリカを政治的に切り離すことも米国内における中絶禁止法の影響力を揺るがすものではなかった。むしろそうしたのは19世紀の近代生物学と科学医療であった。科学者達はそれまでには考えもしなかった人間の生殖における科学的事実を理解するようになったし、医学もそれまでの芸術の域を飛び越えて科学へと進化していった。この進歩はアメリカの中絶法の発展に影響を及ぼす二つの結果をもたらした。一つは新しくてより安全な中絶手段が発見され、宗教的影響力が衰えるにつれ実際の中絶件数が増えたこと。二つ目は社会一般およびとりわけ医師達の間で人間の出生前の発育についての知識が増え、中絶の件数が増えると同時にそれと同じ分だけ中絶に反対の意を唱える人が出てきたことである。
B.アメリカ中絶法の法文化(1821~1972)
19世紀になると中絶に関する規則を法文化して明確にさせようという動きが起こってきた。1821年にはコネチカット州議会がアメリカで初めて中絶を違法とする法令を可決した。それは、胎児の中絶にかかわった者には終身刑を求めるものであった。それから間もなくすると他の州でも同じような法令が実施されるようになった。
1847年になると、医師達は米国医学連合(AMA)という新組織を通じて中絶禁止法をさらに強化する動きに出た。倫理上中絶を行うことを禁止されている医師達は、胎動開始後の中絶を禁止する法令の拡大を目指して動き始めた。妊娠は最初から流れのある継続的プロセスであり、胎動が重大なステップだとの基礎は全くない、というのが彼らの言い分であった。このAMAの中絶反対の決断は、20以上もの州が胎動以降に限らず妊娠した瞬間から中絶を禁止する法を採用する模範となった。また、それまでにすでにあったいくつかの法に修正を加える際にもお手本とされるものであった。
新しい法律が、増加を続ける一方の中絶を完全に消滅させたわけではなかった。例えば、1849年から1857年の間にはマサチューセッツ州において32件の中絶裁判が行なわれたが、有罪判決を言い渡されたものは一件もなかった。それにもかかわらず法令による公式な中絶拒否は拡大していった。1860年から1910年にかけては、胎動の前後に行なわれた中絶を重罪だとする法令がケンタッキー州以外のすべての州で採用されるようになった。ケンタッキー州は、中絶は違法だとするそれまでの法を尊重していたのである。しかし、すべての州が、母体のいのちを守るための治療中絶を許可したし、母体の健康のために必要ならば中絶も認めていた。
米国における中絶法は約一世紀もの間、このような主義の上に成り立っていた。中絶は、母親のいのち(あるいは州によっては、母親の健康)を守るために必要と考えられる場合以外は、妊娠期間中は違法だとされた。ところが、書き物である法律とは裏腹に、そこには別の事実が存在するのであった。医師の中には金持ち相手に密かに中絶を手掛ける者もいた。このような危険な中絶医師が、絶望と恐怖のどん底にある女性達に悪の手を差し伸べていた。
アメリカで中絶法が自由化されるようになったのは1959年頃のことだろう。米国法学会が刑法典規範(MPC)を提案し、以下の三つの条件に当てはまる場合のみ現存の中絶法が適用されるという内容のものだった。その三つの条件とは:女性の肉体的精神的健康が出産によって著しい危険にさらされる場合、胎児に異常が認められる場合、妊娠がレイプや近親相姦によるものである場合である。この改正案に対する反応は、最初はそれほどたいしたものではなかった。1967年になるまで、この改正案を適用した州は一つもなかったのである。ところが1970年になると14の州がこのMPC法案を採用することになった。さらに1970年と1971年には4州がそれまでの伝統的な法令を撤廃して、希望があれば、理由がなくても中絶を受けることができるという法に置き換えたのであった。つまり、1971年までには、19世紀の中絶重罪法を緩和させる明らかな傾向が芽生えていった。
C.米国中絶法の合法化(1973年~現在)
1973年、アメリカ最高裁は、ロー対ウェイド裁判において画期的な判決を下した。原告の女性に対してプライバシー保護の一環としての中絶を認める判決を下したのである。一人の貧しい独身妊婦が、母体のいのちを守るために必要な場合以外の中絶を禁止したテキサス州の法律に挑戦したケースであった。連邦地方裁はテキサス州法を憲法違反だとし、最高裁もそれを認めたのであった。
長いだけで不完全な中絶法の歴史の研究の後で、裁判所はブラックマン判事の意見書にも書かれているように、この裁判が成文化されていないプライバシーの権利を明白にしたことを認めている。
プライバシーを守る権利は、修正条項第14条にある個人の自由及び国家権力の行使規制であろうと、あるいは地方裁が決定を下したような修正条項第9条の権利の保留であろうと、女性が自分の妊娠に終止符を打つ決断をも含むべき広範囲に及ぶべきものである。
次にブラックマン判事は、国側にそれまでの中絶禁止令を正当化しようという意志がそれほどないということに気が付いた。中絶を制限する法律は妊婦を「女性を深刻な危険の過程から」守るという理由が背景にあると裁判所はみているが、これには説得力が欠けていた。なぜなら初期の合法的中絶を行った女性の方が出産した場合よりも女性の死亡率が低いという結果が出ているからである。おなかの中の子どものいのちを守るために中絶を禁止するという国の考え方も拒否された。裁判所は胎児を人間とは見なさなかった。だから、出産前のいのちを守るという修正条項第14条はどこの州においても無関係だったのである。さらに裁判所は、哲学者や神学者達が生命はいつの時点で始まるかを議論しているため、出生前のいのちを守るという考えは中絶禁止法を正当化するものではないという意見を出していた。
そして最後にブラックマン判事は、珍しいほどの詳細を述べ、憲法により定められた中絶規制の3期に渡る計画を発表した。まず第1期目は、中絶を行うかどうかの決定は、妊婦の掛かり付けの医師に判断をゆだねること。第2期目に差し掛かったら、母体の健康にかかわる場合のみ、国が中絶を要請することが可能となる。そして、第3期目には生きることが可能な胎児の場合(裁判所はこの状態を第28週目までと考えているが、実際は24週目まで)、母体の生命あるいは健康を第一に考慮しながら、国が中絶を規制したり禁止したりして生命の可能性を追及することも可能となる。
これに対して二人の裁判官が反対の意を唱えた。「憲法の言葉や歴史において」中絶を行う権利の獲得を支持するものは何もないはずだし、中絶の合法性の判断は司法ではなく立法に任せるべきだというのが彼らの言い分であった。レーンキスト裁判官は「中絶の権利を認めることは、根本的に我が国民の伝統にも意識にも根付いていない」と反論している。彼はこの多数による決断を「立法行為」であると特徴つけた。ホワイト裁判官は「粗野な司法力」だとした。
先程と同じような裁判でドー対ボルトンがあったが、その際、最高裁はMPCの一部でもあった中絶を行うための手続き上の制約を言い渡した。つまり、認可された病院で中絶を行うこと、病院の委員会が中絶を認めること、そして二人の医師が中絶を推薦することであった。
ロー対ウェイド判決、ドー対ボルトン判決で最高裁が画期的な判決を下したことで、米国の中絶における規則や慣行が大幅に変わることになった。ローは合衆国中の中絶法を完全にあるいはほとんどの部分で事実上無効にした。さらにアメリカ国内の生活や生活洋式、行動をも変えた。ローの判決後、アメリカでは中絶件数が急激に増加し、他の西側民主主義国家に比べてずっと多い中絶件数を維持している。子ども、父親、地域社会といった他の選択肢は絶対的な「プライバシー」のもとに全く無視されることになった。要するに、ローの判決は、今日のもっとも白熱した政治的、社会的議論を起こしたのである。今では中絶は自立のシンボルであったり、個人のプライバシーの表現であったり、憲法で認められた権利の行使なのである。誰にとっても深刻な道徳問題ではなくなってしまった。
しかし、ローの判決は新しい司法主義にとってはただの始まりでしかなかった。その後の20年間は裁判所にとって24件以上もの大きな中絶裁判を手掛けることとなり、「プライバシー保護の権利」を拡大することになる。プランド・ペアレントフッド対ダンフォースの時には、裁判所はミズーリ州が既婚女性に求める配偶者の中絶同意制度を無効にした。配偶者の同意ではなく配偶者への通知という要求も、後に配偶者の虐待などの恐れから無効にされた。ダンフォースでは、未婚の未成年女性が中絶を行う際に親の同意を必要とするミズーリ州の要求も、未成年者のプライバシー保護の点から違憲だとされた。ところが最高裁は、H.L.対マースソンの時には、未婚の未成年者に中絶を行う前に医師が親に知らせるというユタ州の州法を支持した。同じように、カンサス州のプランド・ペアレントフッド連盟、ミズーリ法人対アッシュクロフトの時も、裁判所は未成年が中絶を行う前に、親の同意を求めるというミズーリ州の要求を支持した。最近のケースでは、裁判所は法令への司法条項を盛るという条件付きで、道理のかなった親への通知要求を支持することを改めて強調している。よって、ほとんどの場合親への通告は合憲とされ、素早い司法バイパスの過程が認められる場合には親の同意さえも必要とされることがある。
裁判所は中絶を行うのに公共の施設や設備を使用することを制限するという点でも何度も立ち向かっていった。裁判所は一貫してそのような制限を支持してきたのである。1977年には過去3件のケースについて資金提供を制限することを支持する判決を下している。メイヘア対ローの裁判では、最高裁は「医学的あるいは精神医学的に必要」とされている場合でさえ中絶(出産の場合は違う)のための公的援助を制限するコネチカット州の規則を支持した。修正条項第14条の平等の保護に違反し、貧しい女性のプライバシーを侵害するものだという攻撃に対しても、裁判所はその規制が生前の生命を守る上で道理にかなった国のかかわり方であるとして断固として戦った。もう一つのとりうる道(つまり、出産であるが)を財政的に援助する国のやり方は、中絶を禁止するための刑事上の批准とははっきりと区別された。
その3年後の1980年には、最高裁は中絶のための公的資金援助は憲法によって必要とされていないという点を再確認した。ハリス対マックレー及びウィリアムズ対ズバラーズの裁判では、裁判所は議会のハイド修正条項を支持する判決を下した。これは母体の生命を守るために必要とされる時以外(そして後には母体の健康を守るため、あるいはレイプや近親相姦のケースも含まれるようになるが)の公的資金支出を認めないというもので、男女平等、宗教の教えなどの当然のプロセスからの挑戦に対抗するものであった。
1989年、ウェブスター対リプロダクティブ・ヘルス団体の裁判では裁判所は、母体の生命を守る必要性はなく、中絶を行うためのいっさいの公的資金の支出、公的施設の使用、及び公的機関で働く人々の使用を禁止したミズーリ州の法律をそれまでの方針と変わらず支持することを繰り返し表明した。裁判所の主張は、国が中絶ビジネスにかかわる必要は全くないので、公的資金や施設の使用は制限するべきだというものであった。2年後にラスト対サリバンの裁判が起きた時、裁判所は法制上及び憲法上の見地からの攻撃にも負けずに、バース・コントロールのための中絶をカウンセリングしたり、支持したりする団体から家族計画資金援助を受けることを禁止した連邦規則を支持した。裁判所は、中絶のための直接、間接資金援助を規制する法律を打ち砕くことは決してなかった。財源の管理ははっきりと確立された立法の責任であったため、三権分立への服従が過去の記録を物語っている。
他の同じような中絶規制法は、最高裁の記録に数多く残されている。1983年にはアクロン市対アクロン市リプロダクティブ・ヘルス・センターの裁判の際には、裁判所はアクロン市の中絶条例のいくつかを無効にさせた。その中には第1期終わり以降に行なわれる中絶は必ず病院で行うこと、以前にインフォームド・コンセント(事前の同意)に関する法律が制定されているにもかかわらずより詳しい「インフォームド・コンセント」を求めること、インフォームド・コンセントを得てから実際に中絶を行うまでに24時間の間隔を置くこと、中絶後の胎児の残がいを人間的、衛生的方法で処理すること等が含まれている。
同じように、ソーンバーグ対アメリカ産科婦人科大学の裁判の時にも裁判所は、胎児の生命を保護する医学的基準や女性が中絶を行った医師の名前、中絶の際の「特別な医学的危険」、出産してしまう危険、「有害な肉体的、精神的副作用」の危険性、出産及び親のケアと援助を受けられる可能性、子どもの養育を支える父親の義務、そして中絶以外の選択肢を提供する機関等を盛り込んだ規制を無効にした。しかしながら、アクロン市及びソーンバーグにはこれに強力に反対する意見があり、ローを「中絶にかかわる際の個人の権利や強制的な国家のかかわりを適応させるのに全く意味をなさない方法だ」と非難した。1992年に裁判所はアクロン市とソーンバーグを大幅に覆した。
これに対して反対の意を唱えたアクロン市とソーンバーグの裁判官達は、ロー判決に不満の意を表明した。裁判所はウェブスター対リプロダクティブ・ヘルス・サービスの時には中絶規制のすべての挑戦を受け入れた。それには公的資金及び設備の使用を規制するものや「人間のいのちは受精の時点で始まる」ものとするミズーリ州の政策も含まれていた。4人の裁判官は特にローの判決で採用された3期間計画を削除するように求めた。ウェブスターの件はロー判決の極端さを大幅に緩和するものだと広く受け止められていた。しかし、その3年後プランド・ペアレントフッド対ケイシーの際に、オコナー、ケネディー、ソウターといった人々が長い間ローの擁護者であったブラックマン判事やスティーブンス判事に加わってロー対ウェイド裁判の基本的信条を再確認したのであった。ところが同時にうち何人かはローの3期間計画を拒絶し、中絶規制法の批判的見解の基準を実質下げたのであった。新しい基準のもと、「不当な負担」が中絶における基本的「自由の利害」に課されることがなければ、法律や規制は憲法上の審査を通ることができる。4人の反対者がローの判決を却下すべきだと反論した。ケイシー裁判では、裁判所はインフォームド・コンセントの要求や24時間の間隔を置くこと、親の同意の要求、報告義務などを支持し、配偶者への通知義務のみを無効にした。
ロー判決に対する批判が絶えない中、最高裁はロー対ウェイド判決をその後20年間覆ることはなかった。ロー対ウェイド判決以降続いた何件かの裁判でも、判決の結果が色々な側面を表に出すことになったが、ケイシーの際に明らかになったのは今日の裁判所はローの判決の主な要素を覆す用意ができていないということであり、胎児がまだ生命を持てるかどうかわからない時点で中絶をする権利は憲法の条項で保護されているように米国においては自由を認められた権利であり、不当に制約されることは不可能なのである。米国最高裁は「その人が既婚であれ未婚であれ、子どもを生むかどうかという個人的決断には政府が口を出すべきではない」という個人の自由を認めている。よって、最高裁における前例では「家族生活という全くプライベートな領域を尊重し、国家が介入するものではない。」としている。
しかしながら、中には中絶規制が許される場合もある。20年たった今日でも、アメリカの中絶政策は緊張の中にある。アメリカの立法機関は今後も中絶を規制し続けようとしており、連邦裁判所は広い見地を持って、そのような法律制定の大部分を無効にしようと努力し続けることだろう。
第四章 日米における中絶に関する法及び実施の比較
今まで述べたことからもわかるように、中絶に関する政策や法律には日米でかなりの相違点が見られる。これらの相違は法の本質、発展の過程、それに文化的意義といった分類の仕方ができるだろう。
A.現代中絶法の詳細にみられる相違点
日米における現代の中絶に関する法にはそれぞれの詳細にわたってかなりの違いが見られる。まず第1に、米国において中絶は、胎児が生きていけると診断されるまでは認められるものである。なんの弁明も必要とされない。中絶を行うかどうかの判断は妊婦自身の個人的な選択であると憲法は定めている。日本の立法機関は、生前のいのちの破壊を防ごうとする世の中の関心を重視し、中絶は5つの限られた場合にのみ認めるとしている。実際は、ほとんどの場合どちらの国においても必要であれば中絶は可能である。ただ、法の精神や原理にかんがみれば日本では中絶は権利として認められてはおらず、世の中の関心の均衡を保つためだけに利用されている。
次に、胎児が成育可能と診断された後の中絶に対する制約も日米において状況が違っている。日本では胎児の生存可能が確認された後でも絶対的制約があり、しかもそれは胎児が22週目を迎える時点、とはっきり定義されている。それに比べて米国ではそこまではっきりなされていない。州ごとの判断で成育可能確認後の中絶を法的に制限することはできる。だが、実際は半数ほどの州が成育可能確認後の中絶を禁止しているにとどまっている。胎児が生きていけると診断された後に裁判所がどの程度の制約をするべきかは、ずっとあやふやにされたままの問題である。制限するべきかどうかを問う過去の裁判では、その半分以上で最高裁は制約無効を言い渡している。さらに、最高裁は成育可能を非常に抽象的に解釈し(つまり、胎児が子宮外で生きていけると医者が判断した時)、活用するにも極めて困難なものとされてしまった。その点日本の法律は、妊娠期間を週の数で表しており、ずっと明確で実用的である。当然、日本の法律では、妊娠後期を迎えた胎児ほどきちんと守られるようになっている。
3つ目の相違点は、日本の法では、中絶を受けるためには夫の同意を必要とすることが明確にされているが、米国の場合は配偶者の同意のみならず通知義務さえも必要とされていない。同じように米国においては未成年者の中絶も成人女性の場合と本質的には変わらない。つまり、未成年者の親の同意は絶対に必要とされるものではない。ただし、裁判所が親の立場を考慮することなく一方的判断で未成年者の中絶を認めてしまう危険を防ぐため、親の同意や親への通知義務に関する規定も支持され続けている。それとは対照的に日本の法律においては、未成年者や未婚の女性の中絶は正式に認められているわけではなく、法的には禁止されている。日本の裁判所はティーンエイジャーの中絶実施の過程にかかわったり、中絶を認可する際に親の代理を務めることはない。
4つ目は、中絶の仕方を規制する程度の差である。日本では、中絶を行うことは実質上規制されている。中絶を手掛ける医師学会や厚生省は数多くの規制基準や方針を設定した。ところが米国においてはそのような規制は裁判所によってお決まりのように無効とされたのである。つまり日本の法律は、中絶における家族や社会の関心事の均衡を保とうとしているのに対し、米国の場合は妊婦一人の一方的要求を何にも増して重視しているのである。
5番目に挙げられるのが、日本において中絶がいまだに犯罪だと公式に認められていることである。優生保護法は犯罪禁止に幅広い例外を設けるために作られたものである。米国では中絶を禁止する犯罪中絶条例は、ロー対ウェイド判決及びそれに続く判決で憲法違反だと結論づけられている。
6番目は、アメリカの裁判所が一般的には中絶支援資金を制限することを支持しており、連邦法にも中絶のための公的資金を求めているものは存在しなかった。しかしながら、州法や州の憲法主義となると、大きな2つの州を含めて13の州で中絶のための公的資金が提供されていたのである。1993年に連邦の家族計画資金をもとに中絶を広める事態を阻止しようとした連邦規定は新しい規定が発布されるまでの間一時停止されていた。一方、日本の国民保険は最も多い中絶理由の「経済的」理由で中絶をした場合は、保険がおりないことになっている。貧困者や政府機関に働く人々には中絶のための助成金が支払われるが、「その数はほとんどないに等しい。」そうである。「原則的には日本で中絶手術を受ける人は補助を一切受けずに自分の財布から支払うことになっている。」
以上をまとめると、形式的な中絶法の内容や中絶の有用性において日米間には広くはっきりした類似点があるにもかかわらず、両国の間には主義の上で大きな違いが存在することがわかる。日本の中絶法はアメリカの中絶個人主義に比べて、生前のいのちの尊重により重きを置き、中絶を認めるケースもずっと制限されている。さらに、日本で施行されている法律は米国の裁判所が決定する中絶法よりも中絶に対するより実践的な制約を与えている。
B.現代中絶政策の発展過程の違い
日米における現在の中絶政策の発展過程には大きな違いが少なくとも5つはある。
第1に、中絶にかかわる政策が全く異なった政府機関によって行なわれてきたことが挙げられる。現在アメリカでとられている中絶政策は裁判所の判決によって築かれたものである。胎児が成育可能と判断される以前に中絶を行う権利はアメリカ最高裁がロー対ウェイド裁判で下した判決によって築かれたのである。制限なき中絶を支持するアメリカ中の人々は、立法機関が彼らの望むような急激な変化に難色を示していることを知ると、かわりに連邦裁判所に中絶法の改革を求めるようになった。ロー対ウェイドの判決から20年間に連邦政府機関や州の立法府のアメリカの中絶政策へのかかわりはごく間接的なものでしかなかった。イニシアチブをとったのは連邦裁判所であり、政府の政策の基本ルール作りをし、州の協力を強く求めていったのである。一方日本においては自由な中絶に関する政策は立法機関によって設定された。優生保護法が日本で採用されるようになってからの45年間、日本の裁判所は中絶政策の形成や管理にほとんどかかわりを持つことはなかった。中絶政策は事実上立法府と厚生省が掌握していた。
以上の理由から、皮肉なことにも中絶政策はアメリカよりも日本の方がずっと民主主義的なものとなった。さらに、アメリカの司法は、本来国が口出ししてはいけないはずの個人の領域に胎児が成育可能と判断されるより前に中絶を行うことを認めるという憲法修正を行い、強引にも反民主的な行いをしたのである。さらには、アメリカの司法は選挙によって選ばれた州の立法機関の代表者達が成立させた何百もの法律を無効にした。日本は法律制定者が決定した政策を裁判所が大幅に修正することはまずなかった。つまり、黙認された日本の中絶法の方がアメリカの中絶法よりも現代の社会的価値観をより反映している上、共鳴されやすい。
2つ目は、本質的には中絶したいと思った時に中絶を受けられるという日本の現在の中絶政策が明治以前の慣習や価値観に密着しているのに対し、アメリカの政策はその過去の歴史や伝統からの離脱であるという点である。何世紀もの間、日本は政府の経済政策を促進させるために中絶規制を利用している時期があった。当時の日本政府は税収入を上げたり、人口の増減を調整したり、軍事及び労働力確保などのために中絶法を巧みに使い分けていた。仏教のような伝統的信仰が生命破壊に反対の意を唱えていたにもかかわらず、日本に中絶政策を定着させるためには宗教的慣行も主義もあまり重要視されなかった。だから今日の中絶政策も国の経済発展のために利用するという政府の伝統に乗っ取っている。それに比べてアメリカの現代中絶法は、何百年と続いた英米法や伝統からは遠く懸け離れたものになっている。歴史的にはアングロ・アメリカにおける中絶政策は今日の中絶取組からは想像もつかないような生命の尊さを反映しているものである。ロー裁判以降、このような道徳的考慮が決定的に拒否されたことで、胎児が成育可能かどうかもわからないうちに中絶することを個人の自由だという結論を招き、アングロ・アメリカの中絶政策や広く西洋諸国の法律に影響を及ぼしてきたユダヤ・キリスト教の精神や、特に何世紀も前から中絶を禁止してきた法則から極端に道を反らしている事態となっている。
第3に、アメリカ国内の政策作りのレベルが劇的に変化している中、近代日本においてはそれが常に首尾一貫したものだったという違いがあげられる。日本の中絶法は国政の一つとして考えられた結果生まれたものだ。日本の現代の中絶法は統一され、中央集権化されている。要するに日本全国に適応されているものなのである。この統一性というのは、同じ民族が中央集権化されてきたという日本の社会と政府や法律の歴史に基づいているものである。日本では医学問題や国内問題はすべて日本政府によって統制されている。一方のアメリカでも胎児の成育可能以前の中絶に関する政策は、最高裁の判決によってアメリカの「最高の法」と解釈され、全国的に通用する上、中央によって管理されている。しかしながら、この中央による統制はアメリカ社会の複数性や連邦制度とはひどく対照的なものである。ロー対ウェイド裁判が行なわれる以前は、中絶規制それに他の医学的規制は今日でも州法によるところがほとんどだった。中絶政策の全国統一は国内問題や犯罪問題、さらに他の地域、社会、道徳問題は州が取り締まるべきとした過去のアメリカの方針とは全く懸け離れていることになる。
4つ目は日米の今日の自由な中絶政策を導いたイデオロギー的影響力の違いである。日本で黙認された中絶法が取り入れられるようになったのは主に厳しい経済危機が原因であり、国の経済復興と発展のために採用されたものであった。アメリカの場合は急進的な個人主義及びいきあたりばったりの生活からの重荷をなくすこと、個人にかかる責任から逃れたいという欲望から発したイデオロギーが基本にある。
5番目にあげられるのは、黙認された中絶政策を採用するに当たっての社会における衝突から出た結果の違いである。ロー対ウェイド裁判に影響を受けたアメリカの中絶法の革命はアメリカに存在した相違する考えを持つ2つの階級の文化的争いに大きな勝利をもたらすことになった。社会的に恵まれたエリート階級が、上流社会の慣習にはまった価値観を持ち、排他的な裁判官のサークルに参加する機会に恵まれ、伝統的な道徳観と政府機関の人気の部署に影響力を持つ平凡で平等主義の階級に勝ったのである。ところが日本では、ナチス・ドイツの政策にとって変わった戦後の自由な中絶法は、民族のエリート主義や人種の優越といった考え方から一歩飛躍するものになったのである。家族計画を強調し、未婚及び未成年女性の中絶における権限を明白にしないという日本の法律は、伝統的道徳観に取って代わるというよりはむしろそれを改めて断言するものである。
C.今日の日米中絶政策における文化的意義の違い
法と文化の相互関係は非常に多岐にわたっている上複雑なので、日米における黙認された中絶法にかなりの類似点が認められる一方で両国の現代中絶政策の文化的、社会的意義にはかなりの点で異なっているのである。 第1に、二重性を持つ日本の中絶法と一貫性を保つアメリカの中絶法の違いは、それぞれの社会における形式的な一貫性の見方の違いから生じている。理論上は、今までも述べてきたとおり、日本の法律は5種類の特別なケースにのみ中絶を認めているのだが、実際の所はその気になればいつでも中絶が可能なのである。日本には建前と本音の文化が受け継がれており、公式の法と実際の法における二重性と明らかな不一致は日本の法文化に普及していることが理解できる。だから、現代日本の中絶政策の二重性は文化的には一貫性を保っており理解できるものなのである。一方アメリカにおいては中絶におけるプライバシー保護の法的主義は、いつでも中絶できる実際の慣習を見事に暴きながら合法化している。アメリカの法文化においては、法の一致、つまり成文化された法律と実際に適用される法の一致への願望は高く評価されるものである。よってアメリカの中絶は個人の意志に任せるという主義は、成文化された法律が社会の現状を表すべき(許可されているもの、禁止されているものの事実)だとする形式と実際の一致への信念が成文化された法と実際に適用される法の違いを最低限に押さえているようすを表していることになる。
2番目に、日本の二重性を伴った方法は柔軟性に富んでいるが、アメリカの場合はかなり絶対的であるという点だ。日本の形式的な法は忠告を意味している。つまり法は出産前のいのちを軽視することを許さず、その代わりに中絶がいかに深刻な問題であり、よほどのことが無いかぎり許されるものではないことを目的としている。ところが実際に適用される法はといえば、中絶をするかどうかの判断を妊婦やその家族あるいは医療関係者など直に問題に直面している人々の良心に委ねている。それは彼らに成文化された法に明記されている価値観をゆがめたり、巧みに用いたり、さらには軽視したりすることを許してしまうのだが、だからといってその法に満足したり、自分の行動を社会的に正当化しようなどとは思わせないのである。その一方で成育が可能と診断される以前の中絶に適用されるアメリカの個人自由主義には断固としたものがある。憲法に基づく命令であるがゆえに法は即座に絶対的な力を得る。成育可能と診断される前の中絶をするかしないかの妊婦の選択に州政府が不当な負担を課してはならない。なぜならそれは第14修正条項の中の正当な法の手続きの箇条に「自由に」選べる権利として保証されているからである。実際のところ、成育可能と診断される以前の中絶に対して多大な制限を加えることは今までもなかったし、これからも支持されることはないのである。よって、アメリカの過激な自由論者のやり方が厳格で順応性に欠けているのに対し、日本の中絶法の持つ二重性は、順応性のある個人向け適用を認め、公式の法に明記された基準からの逸脱を受け入れることを可能にしているのである。
3番目は、アメリカの方法が排他的であるのに対して日本のそれは包括的であるという点である。日本の法に見られる二重性は衝突する価値観(公式の法がある価値観を認める一方で利用可能なある基準が別の価値観を認めること)を認め、尊重する手段と考えられるだろう。つまり、生命尊重派の日本の国民が、中絶が事実上いつでも可能である状況にいらだちながらも、形式上の法がそのような事態を認めていないという安心感を与えている。原則的には彼らの価値観にはある程度の地位や尊重が公に与えられている。ところがアメリカのプライバシー保護主義は、生命尊重派アメリカ人達の価値観を全く認めないことを宣言している。それは憲法(最も崇敬されている最強の合法)を、少なくとも成育可能と診断される前に中絶をするかどうかの選択を法的に認められるのは妊婦の判断にのみ委ねることを命じていると解釈されている。人間のいのちの神聖さや社会的道徳、結婚生活における誠実や親としての心配などは憲法上はなんら関連がないのである。よって二重性を持つ日本のアプローチは、アメリカの排他的、絶対的なプライバシー保護主義よりも、より容易に尊敬の念を抱かせ、会話を奨励し、社会を形成する。
4番目に、黙認された日本の中絶法は、社会の関心事と女性の個人的願望との均衡を保とうとする努力を反映している。一方アメリカの方法は徹底して個人主義的である。つまり成育可能と診断された後の中絶を禁止する日本の厳しい法律は、アメリカで一般的には許されるものでもずっと拘束力をもって定義されているのだが、それに加えてアメリカの中絶法では認められていない配偶者の同意や親の承諾を求める日本の法律は、黙認された中絶は女性の排他的な個人的権利ではなく対抗する利害関係を社会的に調整するものであることを意味している。日本では、「経済的理由」ならどのような場合でも中絶が認められるにもかかわらず、法律では5つの限られた場合にのみ中絶が許されることが明記されている。にもかかわらず、日本の自由な中絶法の裏にある政策では、中絶を純粋に「個人的」選択だとは認めていない。アメリカでは、いつでも中絶が受けられる方針は「自分のことは自分でやろう」という個人主義の具体策として採用されていた。いつでも中絶が受けられるということは憲法における根本的な自由だと考えられていた。米国最高裁によれば、妊娠6ヶ月までに憲法上適切と考えられることは、妊婦が例え未成年であろうと、本人が中絶を望んでいるかどうかだけであるということだ。
5番目は、皮肉なことに日本の法律がアメリカの「プライバシー保護の権利」以上に中絶に関する決断を「私物化」したことである。日本では中絶が深刻な理由がある時のみ認められるという暗黙のメッセージが込められているが、これはその過程におけるプライバシーを奨励するものでもある。さらに実際に適用される法は、直接の決定者に法を特例に当てはめるための文化的慣習の基準(日本社会においては無意味ではないとされるもの)に乗っ取ってその判断をさせるのであるが、これはプライバシーという概念の核心を具現化するものである。以上のことから、日本の二重性を伴った中絶法のもとでは最終的決断は非常に「私的」なものとされる。ところがアメリカにおいては「プライバシー保護主義」が実際のプライバシーとは相反する働きをしている。プライバシーは、アメリカでは非常に「公然とした」権利とされている。中絶におけるプライバシー保護や個人の自由を守る主義のもとでは、中絶の決断は法的にも認められるものでなくてはならず、そのため多くのアメリカ人女性は自分の中絶に関する選択を社会的にも個人的にも受け入れてもらえることを期待することになる。だから、アメリカの中絶における「プライバシー保護の権利」は国民に誤った期待をもたらしてしまった。
6番目に、日本の中絶法はアメリカと比べてはるかに修正が可能なものである。日本では成文化された法と実際に適用される法の価値観の間に常に一定の緊張が存在する。絶対的な立法以外の法を採用しようという時、柔軟な「行政指導」によってそれが可能なのである。立法機関が政策を厳しくしようとした場合、なにも成文化された法を書き変えたり、目に見える形で法的手段をとって収拾のつかなくなるような面倒な議論を巻き起こす必要はない。それと同じように、日本の行政が中絶に関する規制を緩和しようとした場合も、わざわざ法律を変えるのではなく、慎重な態度で法律を暗黙の了解のうちに無視し、したい時に中絶をするという慣習に頼ることを奨励するのである。一方のアメリカでは中絶における基本は憲法の結合体に委ねられている。なんの法的障害も伴わない中絶の権利が、憲法上の権利の根本にあると考えられているからである。
憲法で定められている権利は立法や行政の力だけで修正されたり調整されることはできないというのがその基本にある考えなのだ。憲法あるいは裁判所による憲法修正のみが憲法上の権利を変更することができる。さらにアメリカの最高裁はロー判決を支えた考えを再考したり、大幅に修正する考えが全くないほど「STARE DECISIS」の原則を重視していることを何度も繰り返し主張してきた。つまり、アメリカの中絶に関する規制は日本に比べてずっと厳格で修正を受け入れないものなのである。
7番目に、黙認されている日本の中絶法がアメリカの中絶主義よりも文化的合法性を保っていることがあげられる。アメリカの場合は、成育可能と診断される以前の中絶は個人の意志で決められることだが、それにはプライバシーにおける文化的要素が欠けるという考えを正式に法に定めてきた。ところが日本の法律は、中絶が深刻な社会問題であるとしながらも、その主張も実際適用される法もプライバシー保護を助長していることになるのである。先にも述べたように、日本は二重性という体質が文化的に一般的であり、それが受け入れられてきた国なのである。それに比べてアメリカは失敗の兆し、あるいは立法政策における厳格さの絶滅の兆しだと見なされてきた。
8番目には、日本の黙認されている中絶法がアメリカのそれと比べて、より政治的合法性があるということがあげられる。いずれの国も政府の権力は統治された国民の同意から得られているという信念から自らを民主主義国家と称している。先にも述べたように、日本の中絶法は民主主義的手段によって立法府が制定したものである。国民に選ばれた代議員たちが制定したその法律はその後40年間そのままの形で受け継がれてきた。その一方でアメリカの中絶政策は裁判所の命令として宣言されたものであり、選挙で選ばれたわけではない終生雇用制の裁判官によって引き継がれており、州政府が制定する何百という中絶規制法をことごとく却下してきた。
9番目は、日本とアメリカの中絶規制の施行は、国内では黙殺されたりあまり効力を発揮していないという点で同じような歴史を歩んできた。しかしながら、そのような規制は日本においては一貫して黙殺されてきた。効力の欠如はアメリカの歴史においてより一般的であったのだ。成文化された法律と実際に適用される法律の不一致は、日本文化で伝統的に容認されてきたことであり、法律の一致はアメリカの法文化における切望だった。
今まで述べたことからもわかるとおり、日米における現在の中絶政策には大きな共通点がいくつかある。しかし、それぞれの中絶法の細部にわたる比較やそれぞれの法律の歴史や文化の違いからみる現在の法は、両国の中絶法には大きな違いがあることを示している。
第五章 日米における妊娠中絶の実施及び傾向の比較
A.日米における妊娠中絶に関するデータ及び実施の比較
日本及びアメリカで今日妊娠中絶を実施するにあたっては6つの重要な類似点と4つの重要な相違点がある。まず最初の類似点は、日米どちらの国においても妊娠中絶に関する政府の「公式」発表はいくぶん情報が控えめになっているということである。歴史的にみても民間の家族計画産業がより信頼できる統計を提供していたという主な理由から、アメリカではこの問題はそれほど重要視されてこなかった。だが日米両国とも控えめな数字を発表しているにもかかわらず、中絶の件数、割合、比率は実は非常に高く報告されているのである。それは他のどの先進国よりも高い数字である。
2番目に、日本の妊娠中絶の件数はアメリカの実体に比べて一世代ほど先行しているという点があげられる。日本では公式発表された中絶の件数と独自に算出された数字がここ数年共にゆっくりではあるが安定して減少を続けている。アメリカの中絶件数は水平線のままである。これからみると、アメリカは日本が築いてきた歴史的パターンをそのままたどってきているように思える。つまり、自由な中絶政策が採用されてからの初めの10年間は中絶件数が劇的に増加し、その次の10年間で妊娠中絶をする権利が安定し、そしてその後の25年間で中絶率が徐々に減少していくというパターンである。
3番目は、任意の妊娠中絶が合法化されてからは養子縁組に出される子どもの数が日本でもアメリカでも急激に減ったという点である。要するに黙認された自由な中絶政策が養子縁組に与える影響というのは日本でもアメリカでも同じなのであった。つまり破壊的なのである。「必要とされない」子どもをどうするかというジレンマに陥った時には当然養子縁組に出すより中絶を選ぶのは日米でも同じである。必要とされていない重荷を処理するためには確かに養子として引き取ってくれる他の家庭を探すことより手っ取り早く面倒がかからない。これからわかるように、両国において法的政策及びその実施は、いずれ将来の世代を最も必要とするであろう有権者及び消費者が現在の世代の都合を最優先させている実体を描いている。
4番目に日米両国における国の政策が暗黙のうちに中絶をバース・コントロールの一手段として認めている点があげられる。どちらの国においても中絶を複数回受けることに何の制限もなく、その件数は両国とも増す一方である。つまり日米の家族計画政策は、避妊の失敗や不使用を補う「安全網」としての妊娠中絶を認めている。
5番目は日米両国における妊娠中絶法が実質的には政策をえり好みすることができ、医療関係者達の経済利益を高めている点である。どちらの国でも医者は妊娠中絶関連のサービスを独占したがるものだ。中絶はそれだけ手っ取り早くカネになる医療サービスなのである。両国に設立されている医療機関は、妊娠中絶を大幅に制限したり、規制することになるような変化を現行の法に加えたいとは考えていない。
6番目には、どちらの国でも有りとあらゆる理由で妊娠中絶を許可したり反対に禁止したりすることを人々が望まないという点があげられる。どちらかというと両国の人々は「困難な状況」にある場合のみ中絶を認めたがり、社会的、財政的理由による中絶には反対である。
7番目にあげられる日米間の最も顕著な違いは性関係、及び結婚関係における責任感に見られる。日本では中絶件数の70%を既婚女性によって占められているが、このことからもわかるように妊娠中絶は主に家族の人数を制限するために行なわれている。つまり、夫婦が二、三人以上の子どもを持つことがないようにコントロールし、社会的にも受け入れられるようにするために、妊娠中絶は社会的にも認められている手段なのである。安全とされながらも効果の少ない避妊具しかない国においては、これは家族計画を支えるための「頼みの綱」なのである。もっと信頼できる避妊具が存在することには違いないのだが、非常に危険な可能性もあり、歴史的に見てもその手段はずっと違法とされてきたのである。ダルコンシールドーIUDの大失敗にみられるように、アメリカでは危険な避妊具に対する規制はそれほど厳しくない。避妊具が簡単に手に入らないことや妊娠中絶の合法性からみても、それだけでは中絶が黙認されているという事実を説明できない。アメリカの場合は中絶を受ける女性の80%が独身女性だという状況からもわかるように、妊娠中絶の一番の理由は結婚生活や親としての責任から逃れようという気持ちが働くためである。つまり、彼らにとって中絶は一石二鳥なのである。女性は結婚生活外や娯楽としてのセックスをすることが出来、それと同時に自分や相手に不都合な場合には子どもを生まなくてもすむのである。日米どちらの国においても中絶を一回以上受ける人の割合と数が非常に高くなってきている。アメリカで全中絶件数のうち半分、日本で三分の二にまで達している。要するに両国において中絶はバースコントロールの「頼みの綱」として都合のいいように使われているということがわかる。
8番目は妊娠中絶に対するインパクトがアメリカと日本で異なる点である。日本では中絶によって私生児の出生件数とその割合が半分に減少した。ところがアメリカの場合はロー対ウェイド判決以降その数は倍増している。これにはいくつかの理由があげられる。結婚前に性行為を持つことに対する考え方が文化的に違うことがまずあげられるし、私生児が社会的に受け入れられやすいアメリカと、結婚外の出産に対する世間の冷たい目を気にする日本の違いもあげられる。さらに、日本には家族に与える影響や社会的道徳など結婚外に性関係を持つことをやめさせるような強い文化的な力が存在する。反対にアメリカでは、伝統的な力が結婚外の性行為の減少に働かないばかりか、若者に人気の文化やメディアがその行為を肯定的に受け止めている。最後に、日本の中絶法には中絶が深刻な問題であるというメッセージが込められており、中絶が必要となるような状況に追い込んだというジレンマそのものが深刻な問題であることが記されている。アメリカでは、個人尊重主義を未熟な人間の中には「自分のやりたいことは何でもできる」という間違ったとらえ方をする人もおり、それが性行為や親としての自分に責任を持てなくしている。
9番目は、日本では94%が最後の生理が終わってから11週目までに妊娠中絶を行うのに対してアメリカの場合は90%が12週目まで行っているという違いである。つまり、妊娠後半の中絶率はアメリカが日本の約二倍にもなるということである。
10番目は未成年者が中絶を行う件数及び割合の違いである。日本ではその数が増えてはいるものの、アメリカの統計に比べたらほんの少しにしかならないという点だ。アメリカでは若者のセックスがもてはやされているなどの文化的理由からも、十代の若者が中絶する件数はアメリカの方が日本よりもずっと多い。アメリカの家族計画産業は、性行動が活発な若者の中絶が、十代の性的無秩序になんらかの解決策に導くのではないかと見ている。日本では十代の若者の中絶が増加していることに強い懸念を示しており、よって中絶は未成年には勧められていない。
B.日米における中絶に対する考え方の比較
中絶及び中絶法が日米両国でどのように受け入れられ正当化されているかは幅広い社会的価値観によって決まる。以下にあげる四つの根本的な価値観の比較は注目に値する。まず最初にあげられる日米の中絶正当化に対する概念的違いは、個人のいのちを平等とする社会の価値観によるものである。日本はその歴史から見て階層制度の、タテ社会であった。それに対してアメリカは平等主義のヨコ社会をずっと追い求めてきた。そのため日本では中絶を正当化するのにも人のいのちにランク付けをする階層制度を採用していた。例えば、母親の生活レベルを維持することは日本で中絶を正当化するのに非常に重要なことである。なぜなら母親のいのちは胎児のいのちよりずっと価値あるものとされていたからである。それはつまり夫のいのちが妻のいのちより重視される伝統にも見られることであり、武士のいのちが百姓よりも大切にされたのと同じことである。しかし、中絶に対して「罪悪感」を感じたり、「胎児がかわいそう」と感じる日本人女性が急増した反面、何も感じないという少数派もおり、その間に生じたギャップは、日本にも平等を重んじる新しい価値観が静かに生まれつつあることを物語っているかのようである。
アメリカでは少なくとも1776年以来、社会的にも道徳的にもさらに法的にも伝統としてすべての人は平等に造られたものと考えられてきた。だからいちばん初めに行なわれた中絶法の改革は、19世紀半ばのアメリカ中に広まり、胎動が始まってからのみならず、すべての妊娠期間中において中絶を禁止したのであるが、それは人間は生命が始まったと同時に保護を受ける権利が平等にあるという基本的考え方に乗っ取ったものだった。それらの法は反奴隷制度法や憲法修正案と同時期に採用されたものであったため、治療力のない中絶を禁止するというアメリカの伝統にも平等主義が確実に根付いていったのであった。アメリカ社会に平等主義が根付いたおかげで、中絶支持者達は生きて成育しているおなかの中の赤ん坊を「人ではない」という立場をとらざるを得なくなった。なぜならもしおなかの中の子どもを社会に実在する一員(法的用語では「人」)とするならば、彼らにも平等主義の理念のもとに生命の保護を受ける権利が平等に与えられるべきであるからだ。平等主義に基づいたアメリカの中絶主義に存在するこの相容れない矛盾があるためにアメリカにおける中絶自由主義の正当化がより階層的になってきているのではないだろうか。よって女性の権利として自由な中絶を訴えるフェミニスト達は、おなかの中の子どもよりも母親の存在の価値を強調し、分析の際には胎児を完全に除外している。このように日本人が中絶に対して平等主義になりつつある一方で、アメリカは段々と階層主義的になっている。
2番目に、日本で行なわれる中絶は、国内における宗教的伝統を長年に渡って特徴つけてきた宿命的運命に関連している。悪運はどうすることもできないという受容の哲学は、何世紀にもわたって支配されてきた仏教及び儒教の教えの一つである。現代の作家達が誤って解釈する「依存関係」と同じ質や社会的特性はこの運命受容、運命論という古代の考え方を現代風に表現したものである。この意味で中絶は国の家族計画に従うため、あるいは経済的理由のために子どもが欲しいと願う家族によって「悲劇的にも受け入れられている」のである。
アメリカでは中絶をしたい時にするという政策が今まで個人やプライバシー保護や選択における倫理と結びつけられていた。本人が望まない運命の結末から逃れることができる強壮な個人のテーマは、悪運からの逃避という有益な手段として中絶を描くことにある。だから日本でもアメリカでも中絶行為と基本的価値観の間には常に緊張と不安がつきものなのである。日本では痛ましい必要性や後悔の念、アメリカでは権利拡張運動という姿を装った抑圧された罪悪感である。
3番目に日本では中絶行為が哀悼や悲しみといった感情を引き起こすことである。日本では責任感を認識することが社会的にも奨励される。その結果、中絶を公に悲しむ儀式は、女性の感情に関していえば有益かつ同情的に癒すものであると同時に子どものいのちが犠牲にされたことを認識するという点で非常に正直なものである。一方アメリカは責任を否定し、罪悪感を押さえ、悲しみをこらえる。罪悪感や悲しみは弱さの象徴だとされてしまうからだ。フェミニストたちは口々に「謝ったりするな。」「恥じるのではない。」と叫び、中絶は立派な権利だとする法的主義は、アメリカの女性を脅し、いずれも彼女達の悲しみを遮るのである。しかしながら中絶を行うアメリカ人女性達は深い葛藤に苦しんでいる。子どもを失ったことをひどく悲しむ女性もたくさんいる。悲しみを否定することは、少なくともアメリカのティーンエイジャー達にとって代理妊娠や複数回の中絶問題に直結するものなのである。アメリカのフェミニストがこの悲しみを否定し続けることは短い目でみれば政治的に有益であるかも知れない。しかし、女性の生活が平和で満ち足りたものであるかという長期的な目で見るとそれは未熟で冷淡なものでしかない。
4番目に、アメリカでの中絶は「権利」に焦点を当てている。一方日本は人々のつながりを重視している。日本の考え方は特にきずなや関係など人生においてお金ではどうすることもできない無形の次元に対してより敏感であり、より全体観を備えている。それは妥協や和解を促し、関係する人々すべての利益を少なくともある程度は考慮しようとするものである。ところがアメリカの場合は、感情よりも主義が優先される概念や抽象化を重んじる傾向にあり、さらにその実体や絶対的なものは妥協という主義を認めない。
以上からわかるように、日本での中絶は社会的必要性という点で正当化されており、今日行なわれていることも「よい日本人」、つまり一家族に三人以上の子どもを生まないという必要に応じることを物語っている。アメリカでは妊娠中絶が反社会的で全くの個人的価値観のもとで正当化されている。中絶したい時にするという慣習はプライバシーや「一人になる権利」という言葉で表され、いかなる社会の利益をも拒否している。
第六章 結論
この論文から妊娠中絶政策においてかなりの点で類似点があるにもかかわらず、日米両国の中絶法には大きな違いがあることを学んだ。日本の中絶法はアメリカのものほど絶対的ではないし融通もきく。またより利己的で民主主義に根差したバランスを保ち、社会のしきたりに根差していて、妊娠後期の生命に対しても保護力が強い。日本の中絶法は少なくとも表面上は道徳的立場を貫いている。一方アメリカの場合は全く道徳観念に欠けていると言えるだろう。今日の日本の中絶精神はアメリカの法律と比べて歴史的なアプローチの仕方や価値観に密着している。文化的にも政治的にもさらに法的にも日本の中絶法はアメリカのものよりも正当で現実的なプライバシーを保護している。さらに日本の方が法の修正に対してもフレキシブルに妥協点を見いだすことが可能である。
実際の中絶に関しては、日本の方がアメリカよりも一世代進んでいるようであり、アメリカが日本のパターンに追随しているかのようである。どちらの国でも中絶はバースコントロールの手段としてとられているが、日本は家族の規模を制限するために既婚女性が中心なのに対して、アメリカでは結婚外及び娯楽のための性行為の結果自分のそれまでの生活を脅かすものから逃れるために独身女性によって行なわれる場合が多い。
日本では文化的にきちんと定義づけられた家族及び親としての責任を全うするために中絶が行なわれ、人々にもそのように理解されているのに対して、アメリカは結婚そのものに対する責任や親としての責任から逃れるために中絶が利用されている。妊娠後期での中絶の割合は日本よりもアメリカの方が高く、そのうち十代の女性が占める割合もアメリカが勝っている。一人が何度も中絶を受けるという点に関してはどちらの国でも珍しいことではない。日本では中絶が暗黙のうちに了解されていることで私生児の数もその割合も減っている(いずれも半分に)が、アメリカでは自由に中絶できることでその件数も割合も倍増した。ところが日本でもアメリカでも、今日の中絶したい時にできるという政策のもと、養子縁組の件数は劇的に減った。
日米どちらの国においても、いかなる理由でも中絶できること、あるいは何の理由もないのに中絶することは好まれていない。両国ともほとんどの人々は「困難な場合」のみの妊娠中絶が好ましいと考えているのである。中絶に対する考え方で最も印象的な違いは、日本では悲しみや罪の意識が芽生えるのに対して、アメリカではその「中絶に関するプライバシー保護の権利」が存在する文化の中で、悲しむということが社会的に認められていないという点である。
法や法政策の違いが日本とアメリカの中絶に対する実施や考え方に相違をもたらしていることは間違いない。同じように文化的側面に違いがあることもその一因であろう。どの違いが法的理由からなるもので、どれが文化的理由からなのかを明確に分けることは非常に難しい。中絶の実施や考え方に中絶法が及ぼす影響について今後も研究していく必要があることは言うまでもない。今日になってやっと学者の間でも注目を集めるようになった真剣な比較研究も長い間延び延びにされてきたのである。
以上の日米間の中絶法比較は、「比較の見地から見るとアメリカの中絶法は無二である」なぜならアメリカには「他の西洋諸国」のみならず最古かつ最大のアジア諸国に比べても「胎児を守るための中絶規制が少ない。」というグレンドン教授の見解を裏付けている。日本はアメリカと「政治的、社会的、文化的側面において」また、「人口増加の不安」という点でかなり違っているのだが、アメリカの法的な「おなかの中の子に対する無関心」が日本ではそれほどひどくないことは明らかである。この研究は、グレンドン教授のアメリカの中絶法が極端に個人主義的なものであるという見解を立証している。また、アメリカの中絶法の絶対的急進的個人主義がアメリカ国内の問題を分裂させたという教授の見方が正しいことを物語っている。アメリカの賢い立法者達が日本や他の国々の中絶法や中絶体験から学ぶべきことは多いはずである。
英語の論文名:”Crying Stones”: A Comparison of Abortion in Japan and the United States. By Lynn D. Wardle.
Wardle, Lynn D (ワードル・リン)
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