日本 プロライフ ムーブメント

組織と中絶された赤ちゃんたち?

アイリーン・シュラーは自分の耳が信じられなかった。パーキンソニアンズという名前のグループのみんなを好きだったが、ゲスト・スピーカーとして招かれた医師のパーキンソン病に関する最新の研究報告を聞くのを彼女は心待ちにしていた。 

ところが、その医師は彼女が聞こえたように思ったことを本当に言ったのだろうか?研究者たちは、人間の胎児の組織をネズミの脳に移植して、彼女の病気の兆候を和らげる実験など、本当に行っているのだろうか?その当時の1987年まで、腎臓付近の細胞を注射する実験が行われてきたことは彼女も知っていた。しかし、中絶した赤ん坊から組織を取って使うなんて? 

きちんと訓練を受けた看護婦として、アイリーンは「中絶」という言葉が偶発的な流産あるいは選択した上での中絶を指す、医学の専門家たちに使われるものだと理解していた。しかし彼女の常識から考えて、その研究が中絶産業の手を借りずに供給されることができないものを必要としていることはすぐにわかった。 

研究者たちが赤ん坊の身体を使うことになんの倫理的ジレンマにも陥らなかったのか、信じられないことである。選択された中絶によって生まれる前にいのちをとりあげられた赤ん坊が他人のいのちの質を改善するために使われるなんて? 

「とてもショックでした!でもグループのみんなの顔を見回した時、それは何年もつき合ってきたパーキンソニアンズのみんなですけれども、なんの反応も示さなかったのです。そのことにもっと私は驚きました。」 

その瞬間、アイリーンにとって大切な二つのものが心の中で衝突した。パーキンソン病と生命尊重運動である。彼女自身まったく予期せぬ衝突であったが、それを用意したのはまぎれもない神であった。神の目になり、声になるということだった。 

その準備は1976年に開始された。アイリーンは20代で、看護学校卒業後すぐに結婚し、三人の子どもを持つよいカトリック信者であった。彼女の人生が狂い始めた頃、彼女は現状をまったく信じることができなかった。 

「おむつを換えたり、自分の歯を磨いたり、靴紐を結ぶことができなくなってきたのです。歩き方もふらついてきました。」 

医者は、あきれたことに、それが精神的なものであると診断し、彼女を精神科医に送ったのであった。 

「子どもが多すぎるのだと言われました。これ以上産むべきではないと言われたのです。」と、アイリーンは思い起こす。 

医者の忠告にも関わらず、アイリーンは再び妊娠した。この4度目の妊娠中に、彼女は自分がパーキンソン病であることを知ったのだった。初期の兆候が診断を遅らせた。たいていの場合、この病気にかかるのは年輩の人だったから。 

何事も追求しないと気がすまないアイリーンは、自分の病気についての研究を始めた。彼女の病状は、脳の中枢神経が少しづつ衰退することから来ているものだった。病気は進行すればいずれ震え、筋肉硬直、痛みに発展する。だが生命を脅かすようなものではない。医者は治療で押さえることができる病だと言った。 

アイリーンは赤ん坊が生まれるまで待つことにした。生まれてから治療を始めたのである。「あのころはハネムーンみたいな時期だった。」と彼女は言う。「最初は治療はすばらしい効果をもたらしました。でもそれから何年かたつと、薬はそれまでほどの効き目がなくなったのです。それに飲まされていたバース・コントロールのピルにも問題がありました。私は気分が安定しないのがいやだったので、ピルを飲むのを止めました。するとその直後にまた妊娠したのです。」 

彼女のおなかの中の新しいいのちに、医者たちは仰天した。 

「中絶しろと言われました。でも私は耳をかさなかった。」アイリーンは言う。「担当の脳外科医は気絶してしまいました。私は危険をちゃんと知らされたという書面にサインをさせられました。」 

1982年の時点で、実際アイリーンがなんの危険にさらされていたのかはわかっていなかった。そもそも、パーキンソン病自体が珍しい病気であったし、出産適齢期で治療を受ける人もほとんどいなかった。さらに、出産前後の赤ん坊にどのような副作用があるのかを記した資料など皆無だったのである。 

アイリーンがそれまで受けてきたしつけや彼女自身の信仰から、彼女は何がなんでもいのちを選択することに決めた。そして5人目の赤ん坊(現在16歳)が非常に健康な状態で生まれてきたのだった。 

「ロー対ウェイド判決のことなど、それまで考えたこともありませんでした。」とアイリーンは言う。しかし医学界の中絶を勧める態度と彼女自身の宗教的信念との葛藤は、彼女にとっては何の問題にもならなかった。彼女は自分の赤ん坊のためにいのちを選んだのだから。 

娘が生まれてすぐにアイリーンは生命尊重活動家の話を聞いた。そしてそのメッセージに鼓舞されて、彼女自身も生命尊重の活動に参加することになったのだった。 

5年間は、アイリーンの生命保護活動とパーキンソン病活動は平穏に両立させることができていた。しかし1987年の夜に、あの胎児組織とパーキンソン病を結びつける研究発表を聞いてしまった。 

「すぐに葛藤を覚えました。」とアイリーンは語る。「私は調査をしてグループのみんなにその結果を配りました。もっと知ってもらいたいという思いで。国の機関にも問い合わせをして、いろいろと聞き出そうとしました。自分たちが支払ったお金が、このような研究に回されているのかを確認したかったのです。でも門前払いでした。」 

「パーキンソン病が胎児組織を研究する上でとっかかりとなったことはわかります。自分がパーキンソン病患者であることを恥ずかしく思ったことはそれまでなかったのですが、その時初めて恥ずかしいと思いました。」 

パーキンソン病の治療法が赤ん坊を使うことから見つかるかもしれないが、それは赤ん坊の生きるチャンスを失わせてしまうという事実のもとだと苦悩していたアイリーンにとって、もっと驚いたのは同僚であるパーキンソニアンズたちの彼女の心配に対する反応であった。研究の成果は知りたがっても、倫理学上の問題には触れたくないというのだった。 

アイリーンが指摘するように、中絶を迷っている困惑した若い女性がこの誤った希望をもって自分の良心をなだめることができるのかもしれない。つまり、自分の赤ん坊のいのちを奪うことによっていずれはよい結果がもたらされるかもしれないということである。 

パーキンソン病を患っている人は大抵年輩の人で、もっと賢いはずである。なのに、彼らは「どちらにせよ、この赤ん坊たちは中絶される運命にあるのだ。だったら現状から少しでもいいことに役立てようと思ってもいいではないか?」と考えるのである。 

アイリーンによれば、彼らの沈黙は、おなかの中の赤ん坊を非人間的に扱ったということのみでなく、自分たち自身についても犯罪をおこしたことになるのである。 

彼女は、もし我々が、病気治療という名のもとに中絶された赤ん坊を研究の対象として研究室内でスライスされたりクローンにされたりするようなことを許せば、慢性的に病気や障害に悩まされている私たちも、いつかは「使い捨ての研究対象物」として扱われることになるのだと言う。 

11年間、アイリーンは研究を続け、胎児組織研究について意見を述べてきた。パーキンソン病患者や医学界の反発をかいながらである。神の真実を目撃した人々の伝統においては、彼女はまさに荒野で泣き叫ぶ声であった。 

「支えが必要なのです。声を出してくれる人が。この問題にかかわってくれる人が。パーキンソン病治療のための胎児組織研究が研究者たちの期待に添わなくても、この問題は何人かの人々が思うほど無意味なものではないのです。」 

「パーキンソン病の研究を支持したいのは山々です。でも今の状況ではそれはできません。私は自分の信仰のために差別をされているような気がしてなりません。私と同じような気持ちの人がきっといると思います。」 

しかし問題は画一的すぎる。「病院は存続のために資金が必要だ。資金は投資家から流れてくる。投資家は投資の見返りとして収益を求める。医者は研究費が必要だ。科学の進歩は急速だ。なぜなら金になる製品を開発したいからだ。高齢者の人口が増え、ベビー・ブーマーたちの多くはいつまでも若くいられる方法を追求している。これらのすべての要素の結果、投資家たちは研究政策を牛耳っている。 

投資家たちは利益を求めるあまり目がくらんでしまっている。そしてパーキンソニアンズはどんなことをしてでも治療法を見つけたいということに目がくらんでいる。「それが自分たちの権利だと思いこんでいるのです。」とアイリーンは言う。 

アイリーンは現状をあまりにもはっきり見つめている。「私は赤ん坊たちのことを心配しているのです。でもそんなことを心配する人は他にいません。私の苦悩をわかってくれる人はいますが、赤ん坊の苦悩をわかろうとする人はいないのです。」 

彼女のメッセージは明らかである。『沈黙は金』ではない!私たちには声というものがある。おなかの中の子どもにはないものである。叫ぶことのできない彼らのために発言しよう。胎児組織研究に反対しよう! 

 Curtis, Barbara (カーティス・バーバラ)
Copyright © 2005.2.8.
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