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医学倫理

わたしたちは毎日絶え間なく、人騒がせな医学の諸問題に直面します。二、三、例を挙げると安楽死、自殺幇助、試験管ベビー、クローニング、幹細胞研究、実験室で生み出すキメラ、その他です。しかもこれらすべてがわたしたちに押し寄せているといった感があります。これは、よくあることでは済まされません。二十一世紀に入ろうとするわたしたちは一人残らず、これらの問題と、今はまだ想像さえできないような数多くの問題に関して態度決定を迫られています。しかし、わたしたちの態度決定の基礎は何であるというのでしょうか?

導入

わたしたちは毎日絶え間なく、人騒がせな医学の諸問題に直面します。二、三、例を挙げると安楽死、自殺幇助、試験管ベビー、クローニング、幹細胞研究、実験室で生み出すキメラ、その他です。しかもこれらすべてがわたしたちに押し寄せているといった感があります。これは、よくあることでは済まされません。二十一世紀に入ろうとするわたしたちは一人残らず、これらの問題と、今はまだ想像さえできないような数多くの問題に関して態度決定を迫られています。しかし、わたしたちの態度決定の基礎は何であるというのでしょうか?今のうちにわたしたちは立ち止まって、そのような態度決定の基礎として、どのような医学倫理を採用すべきか検討すべきではないでしょうか?この選択は社会全体の幸福もさることながら、わたしたち一人一人の幸福に深く関わってきます。こういう際、聖トマスによるあのわたしが大好きな警告を思い出さずにおられません。少し言い換えてみますと「始めに小さな間違いを犯すと、最後にそれはたくさんの間違いになってしまいます」。実に、わたしたちが選択する倫理学説はこれら煩雑な問題の出発点に他なりません。ですからその選択はわたしたちに有害で破壊的行動をとらせるような結論に導くか、それともわたしたちを豊かにし、守り、強める結論に導くかのどちらかになります。もちろん選択するのは他ならぬあなたたち自身です。

選択することになるあなたの前には、ありとあらゆる道徳理論がひしめいる感じですが、ここでは敢えて二つ道徳理論、すなわち現世的生命倫理とローマ・カトリック教会の医学倫理に絞って考えることにしましょう。ではまず手短に、何が正しくて何が間違っているかに関する両者の結論を指摘し、両者がすでにどこまでかけ離れてしまっているか比較します。はっきり言って、現世的生命倫理は個人的にも社会的にも、わたしたちを取り返しのつかない破壊に導くものであることをわたしは確信しています。ですから、決してそれをローマ・カトリック教会の医学倫理と混同してはなりません。敢えて言いますが、カトリック信者は教会の倫理学的立場を指すときに「生命倫理」という用語の使用さえも控えるべきであると思います。ここで、ローマ・カトリック教会の医学倫理の中心点をジョン・キャロル協会がいかに具体的に表現しているか、従ってわたしたちにとって役に立つ実践的模範になるかについて触れたいと思います。

まず、思想は結果を伴うことに思いを馳せてください。特に倫理思想はそれが適用されるときに必ず何らかの結果をもたらさずにはいません。物事の正邪に関して基本的に異なる倫理は基本的に異なる結論を下します。特に医学倫理ではそれが顕著です。現世的生命倫理とローマ・カトリック教会の医学倫理が、それぞれ今までに達した結論を簡単に考察すれば、皆さんもこの点を明白に理解できるはずです。

驚くほどに異なる両者の結論を少し考察してみましょう。避妊、中絶促進作用のある避妊薬使用、胎児に障害があれば中絶することを念頭においた出生前診断、胎芽と胎児の実験、中絶、人間クローン、(他の種と交雑させて作る)キメラ、(脳の発生までは人間でないとする)「脳誕生」とか「脳死」、精神障害者を対象とする純粋に実験的で危険な調査、インフォームド・コンセント、つまり(何にでも同意することを意味するに等しい)不治の傷病の際に存命処置をとることなく死を希望するむね表明する文書、特別な医療器具等を使用する水分と食物補給の拒否・中止を、現世的生命倫理は道徳的であるとします。対照的に、米国カトリック司教団が出したカトリック医療機関への倫理的・宗教的指針を一読すれば分かるように、ローマ・カトリック教会の医学倫理はこれらすべてを非道徳的であるとして非難します。2唯一の例外は「脳死」の判断基準であるかもしれません。(それでもカトリック神学者たちはこの点についても疑念を持ち始めています。)おそらく、両者の意見が一致する唯一の例外かもしれないのは、人工呼吸装置のような特殊的医療器具使用についてでしょう。そのような治療が医学的に無益であれば、このような処置は倫理的に要求されません。また、医学的に適切であれば、高用量苦痛緩和剤の投与が許される点でも両者の一致はあります。これら二つの倫理体系はなぜこれほどにも対照的で、両立し得ない結論に到達するのでしょうか?その理由は、両者の結論が必然的に、非常に異なる倫理的原則もしくは前提から下されるからです。

A. 現世的生命倫理

現世的生命倫理は、1979年に(米国連邦)政府委員会と呼ばれるグループによって作成され、ベルモント報告書と呼ばれる文書に納められている空疎な道徳理論です。3彼らは社会的、文化的多元社会で使用できる「中立的」倫理原則を見つけだそうとしていました。そうすれば特定集団の倫理が他の集団に適用されずに済むと考えたものです。ベルモント報告書は(すぐに自立を意味することになりかねない)人格への尊敬、正義、慈善という三つの倫理原則を打ち出しました。これがいわゆる「ジョージタウン・マントラ」として知られるものです。4これらの諸原則は例えばカント、ジョン・スチュアート・ミル、ジョン・ロールスなど、複数の哲学者たちの体系に基づいています。実際に、彼らは異なる倫理学説から拾い集めてきたものを一つにまとめ上げているに過ぎません。彼らが言及するこれらの原則のそれぞれは、どれ一つとして、明らかに他の原則に優先することはありませんでした。大学での講義、大会への参加、生命倫理学者たちの講演を聴くことによってわたしたちはこれらの倫理原則を知るようになります。

しかし、そうするうちに、この真新しい道徳理論の基盤自体は必然的にひびが入り始めました。例えば、生命倫理は根本的に異なり、かつ矛盾してさえいる理論体系から生まれてきていますから、その結果は学問的にも弁護できないような理論的混乱です。さらに問題だったのは、実践的に言えばこれら三つの原則に見られる内在的対立を解決することができなかったので、人々がこの理論を適用しようとしたときに、うまくいくわけがなかったということでした。

ベルモント報告書の委員たちが「患者の善のために献身する」とする慈善をヒポクラテスの伝統的誓いに則って理解したところで、彼らの定義は本質的に、どうしようもなく実利主義的です。特に、報告書の中で強調されている社会全体の「善」、もしくはおおざっぱに言って「最多数の人間にとって最大の善」を彼らは強調します。実利主義は「善」が何であるかについて実践的に定義するときには、いつも重大な問題を起こします。それは、一般的に言って、苦痛のある種の不在もしくは快楽に落ち着くのです。しかし、彼らの公式だと、少数派とか弱者にしわ寄せが来るのは明らかです。彼らの理論には道徳的絶対普遍概念が欠けており、あるものと言えば単なる「規則」もしくはその定義からしても相対的でしかない危険度/利益の割合です。実利主義者にとって、ある特定の行為の正邪を決定する一般的基準は「実利」です。つまり、もし「最大多数の最大幸福」と定義されるいい結果を達成するために有用であれば、その行為は有用になります。正義の原則にしても究極的には実用主義的に定義されます。すぐに見るように、自律の原則さえも最後には「最大の善」に仕えることになります。ともかく、どう見ても生命倫理はある種の実利主義もしくは相対主義になってしまい、唯一「結果」だけが道徳の関連条件になり、個人の「善」が明らかに最優先でなくなります。

生命倫理についてここでわたしが明らかにしたい若干の考え違いがあります。まず、生命倫理は単に「人々の間で認められている道徳に関する一般的同意」でないどころか、それは学問の世界で競って認証を求める、その他多数の空疎な道徳理論もしくは体系と肩を並べる特異な体系的空論にしか過ぎません。生命倫理は(米国連邦)政府委員会がでっち上げたものです。第二に、今日、受け取られているように、生命倫理は「倫理」自体の全分野と同等扱いされるべきではありません。繰り返しますが、それは倫理の一分野でしかありません。第三に、生命倫理は「中立的」道徳理論などではなく、定義からして「規範的」なのです。つまり、物事の正邪に関して特定の立場をとります。5 実に「中立的」倫理などというものは存在しません。これは実利主義、同意主義、カント主義、文化的相対論、道徳情緒主義、決擬論、共産社会主義に関しても当てはまります。

最終的に、人間がでっち上げた大方の理論と同様、また、多数の創立者たちでさえ彼らの刊行物で認めているように、生命倫理は実際、すでに機能しなくなっています。これは生命倫理界の秘密らしいですが、よく知られた事実です。例えば、(生命倫理「シンクタンク」であるザ・ヘイスティング・センター創立者の一人、米国優生学会の元所長6)ダニエル・カラハン、は「生命倫理の誕生」二十五周年記念のザ・ヘイスティング・センター報告で、生命倫理の諸原則が機能しなかったことを認めます。しかし、心配することはない、今度は共産社会主義を試してみよう、と書いています。「共産社会主義的生命倫理が提起するであろう一連の問題は、少なくとも今後二十五年間、生命倫理の分野を十分にカバーできるであろう」7(米国連邦)政府委員会の当初のメンバーであったアル・ジョンスンは「生命倫理原則主義」にある数多くの不具合に対処して最初に出された真剣な本の「序文」中で、あの委員会に本物の倫理学者が二人しかいなかったこと、そして本質的にはこれらの二人が原則を作成したことを認めており、また、生命倫理が今や徹底的診断と予後を要する病人とほぼ等しいと見なされるべきである、としたその本の前提に同意しています。

現代医学が提起する倫理的諸問題に、現代、米国で対処している方法に問題があることは、生命倫理学会内外でかなり広く認められています。原則主義自体が病んでいるのです。診断は複雑です。しかし、多くはこの患者が臨終ではないとしても、重病であると信じています。予後は不確かです。何人かはその健康回復のためにいくつかの治療法を提案しました。またある人たちはその死を予期し、この原則主義なしでやっていく方法を提案しています。8

ギルバート・メイレンダーが早くから厳しく指摘していた、生命倫理理論に内在するいくつかの「心/身分裂」の結末に関する疑惑は、さらにもう一冊の重要な本に書かれています。その中で彼は「生命倫理では『魂』つまり、しばしば宗教的、形而上学的洞察によって照らされる人間であることの意味への関心が、どれほど容易に見失われることか」9と書いています。諸々のレベルにおける生命倫理諸原則の有効性に関する論争と闘争は、ラナン・ギロンによって編集され、すでに古典と見なされる本に掲載・収集されており、10そこで世界中から集まった九十九人の学者たちが論争に加わっています。

同じく問題なのが、生命倫理では極めて少数の「生命倫理の専門家」しか生命倫理の学位を持っていないという事実です。そして学位を持っている人たちにとっても、定まった履修課程があるわけではありません。ほとんどの教授たちは自分たちが教えていることを理解していません。教科課程は大学ごとに異なります。地方、州、国家レベルで試験委員会があるわけでもなく、プロとして一定の責任が要求されているわけでもありません。生命倫理の専門家を規制する倫理規範さえも存在しません。ほとんどの「生命倫理専門家」は生命倫理課程をただの一単位も修得していません。11

それにもかかわらず、これら自律、正義、慈善という生命倫理の原則は、各地の政府による規則、民間と企業にとってガイドラインであるだけでなく、国際的にも認知されたガイドラインになっています。以下に例を挙げると、医学実験において人間を被験者とする際の連邦OPRRルール、EC規則、制度再検討委員会ガイドブック、病院倫理委員会ガイドブック、病院とか保健関係施設の方針、国際的には第三世界における人間被験者使用に関する世界保健機関ガイドライン、その他多数です。12

生命倫理の原則は例えば企業倫理とか工業技術の倫理等、他の分野の「倫理」も今や文字通り書き換えてしまいました。米国の士官学校でさえも倫理学を再構築し、それらは本質的に生命倫理に変身させられてしまいました。多くの大学を卒業するにも生命倫理学が必須科目になりました。

つい最近では、1999年3月上旬メリーランド州議会に「決定的に心身不能になった」人間を医学実験に使用することに関して提案された法案があります。その最初の草案が明白に示唆しているように、それは以上の生命倫理三原則に基づいています。この法案は精神病患者の「自律を尊敬する」となってはいますが、その極端な実体はと言えば、彼らに「調査機関」を選択させることに関しては告知に基づいて同意することを許す、そしてもし病気などでなかったら「社会のより大きな善」のために、たとえ危険があり、また直接には何ら自分の利益にならない医学実験に、これらの精神病患者たちが参加することを望んだであろうかどうかについては、これらの機関に「判断を任せる」ことになるのです。13自律と利他主義の愚かで危険な解釈のいい例ではありませんか?

生命倫理は人類学、つまり「人格」の定義を具体化するものではない、と主張しているにもかかわらず、明らかにそうしています。もっとも人気のある定義の一つは、あの悪名高い生命倫理実行者の一人によるものです。オーストラリア出身で動物の権利を主張する哲学者・生命倫理学者、国連のもとにある生命倫理国際研究所総裁、新設のプリンストン大学人的価値センター所長に最近任命されたピーター・シンガーは「人格」を(自律、選択、愛、自覚、周囲への反応、その他の)「理性的属性」と(苦痛と快楽の)「感覚」を能動的に表現する何かであると定義します。従って、彼は熱狂的に、それが普通の健康な新生児であっても、いや新生児でない場合でも、幼児殺害の合法化を主張します。彼によると、その理由は彼らが能動的に「理性的属性」とか「感覚」を表現しないので、彼らは人間ではあっても「人格」ではないからです。その反面、彼は類人猿、猿、犬、豚、鶏のような霊長類、とかエビでさえも、それらが能動的に「理性的属性」と「感覚」を表現するので、人格であると主張します。

理性、自覚、意識、自律、快楽と苦痛、その他の道徳に関係する特徴を公平に比較すれば、妊娠のどの段階にある胎児よりも牛、豚、そしてあの鶏でさえはるかに進んでいると言わざるを得ません。さらに、三カ月以内の胎児と比較すれば、魚とかエビでさえも意識に関してはもっと多くの印が見られます。胎児が人格でなければ、胎児には人格として生命への権利を主張することができないのです。14

さて、以上の議論は胎児だけでなく、新生児にも適用されることを認めねばなりません。生後一週間の赤ちゃんは理性的で自意識がある存在ではありません。そして生後一週間いや一年経過した赤ちゃんより、もっと理性、自覚、意識、感じる能力、その他が優れている人間以外の動物はいくらでもいます。もし、胎児に人格として生命への権利がないのであれば、新生児にもそれがないように見えますし、また新生児の生命は豚、犬、チンパンジーの生命より価値が少ないようです。このことに関して考えるとき、わたしたちは人間の赤ちゃんが小さくて無力な、時としてはかわいらしく見える事実を度外視しなければなりません。小さくて可愛いから新生児の生命に特別な価値があるという考えはこの際捨てなければなりません。なぜかと言えば、それは赤ちゃんアザラシが柔らかくて、白い毛皮のコートを着ており、目が大きくて丸いから、これらの特徴がなくてそれほど可愛くない鯨よりも保護される価値があるという議論と同じになってしまうからです。幼いホモサピエンスが無力で、純粋だから、同じように無力で純粋な胎児のホモサピエンスよりも大事であるということにはなりません。15

しかし、もし「人格」が実際に「理性的属性」と「感覚」を行使するかどうかで決定されるのであれば、以下に挙げる人間も人格ではないことになり、人格と同じ倫理的、法律的権利と保護に値しないことになります。精神障害のある人たち、アルツハイマー病とかパーキンソン病の患者、昏睡状態の病人、アルコール中毒者、薬物中毒者、弱々しい老人、対麻痺の患者、そしてそれ以外のすべての病人、つまり神経障害のある患者とか病人、その他大勢が非人格に該当することになります。

哲学者・生命倫理学者R・G・フライは、16シンガーの論理をその不可避の結論にまで押し進めます。「人格」ではない精神病の患者、その他は、生命を奪うことになる実験・研究に使用される「人格」である霊長類に取って代わらなければなりません。これは倫理的であり「より大きな善」のためには道徳的要請でもあります。同じく、ノーマ・フォストも知覚を失った人間を「脳死」であるとします。優生学も熱狂的に推進するシンガーは自分が欲する結論に達するためには、生命倫理の三原則をすべて必要に応じて利用します。そのようにして、彼は巧妙にわたしたちの自律に訴えます。例えば、もし障害のある新生児もしくは健康な新生児の両親が自律的に子供を殺す「選択をすれば」、その選択は自律的であり、わたしたちは彼らの自律的権利を尊敬しなければならない、と主張します。しかし、もし両親が自発的にそうしなければ、そしてもしそれが「より大きな善」のためであれば、特にもし子供に障害があれば、政府には両親を強制して子供を殺させる義務があります。権利についてはこれだけでいいでしょう。実際、シンガーは権利など信じてはいません。17

彼の同僚であるR・M・ヘアもこのような状態に関する政府の役割については引けを取りません。ヘアにとって、政府によって強制されるべき最大の義務は、可能性があるすべての「収容可能な人々」のために、最善の家族計画もしくは人口政策によって、公平に最善を尽くすことです。つまり、必然的に可能性のある人たちを排除するということです。実に、彼は最善の政策はすべての「可能な組み合わせ」の中から全体的に見て最善の生涯を送るであろう人々の中から、さらに最善の人々を産出する人々を選ぶこと、つまり将来生まれる可能性のある人々の中から、できる限り最善の人々を増やすことである、と論じます。18

シンガーがドイツ、オーストリア、フランスから追放され、どこで講演しても反対デモに出会うのは当然のことと言わねばなりません。新しくプリンストン大学に迎えられた今彼は人間の「価値」についてどのような定義をするつもりでしょうか?彼が言う人間の価値とはある特定の人たちだけのものであって、その他の人々の価値は含まないのしょうか? こういうことは人間以下の人間という範疇を作ることではありませんか?どこかで聞いたような話です。

ともかくも、これで本質的に生命倫理、その倫理的原則が何であるか、またなぜ医学倫理問題に関してこのような結論に達するかが分かっていただけたはずです。現世的生命倫理がローマ・カトリック教会の医学倫理とはしばしば正反対の結論に達するのですから、ローマ・カトリック教会の医学倫理を指すときに「生命倫理」という用語を使用するのは考え物です。両者はまったく別物です。

B. 道徳法

対照的に、教会の倫理的判断は道徳法に基づいています。道徳法自体は人間理性のみに基づいて正邪を知ることができる自然法と教導職によって(作られるのでなく)解釈される神法によります。19 自然法は、多くのニュー・エイジ・グノーシス版の自然法が主張するように「自然の法則」とか「宇宙の法則」を意味するのではありません。また「社会の法律」のことでもありません。そうではなく、それは客観的もしくは客観的に知ることのできる人間の性質に基づいています。それは人為的なものではありません。それはわたしたち共通する人間性に基づくので、自然法は異なる文化、時代、人種的背景、その他を超越します。ですからそれは二十一世紀も含めてすべての時代のすべての人々に真に適用できます。

ここで共通善は「最大限の人々にとって最大の善」であることを意味しません。むしろ、例えば食物、水、住居、衣類、友情、その他、すべての人間が単に人間として共通して所有している善を指します。マリタンは「共通善」に関する二つの理解を隔てる明確な相違を見抜きました。

社会の目的は共同体、全社会の善です。しかし、全社会自体が全人間人格であるように、全社会の善が人間人格の共通善であるという理解がなければ、この概念も全体主義的なもう一つの誤謬になってしまいます。町の共通善は個人の善の単なる集合体でも、部分を自分だけのために利用し、部分を全体のために犠牲にする全体自体の善でもありません。それは多数の人々、つまり人格の善い人間的生活です。それは人々が善い生活を分かち合うことです。従って、それは全体と部分に共通する善です。部分に善は注入されて、利益を受けるのです。それは人格を前提にしており、人格に利益を還元します。その意味で善は彼らの中にあって完遂されます。人格はそのものとして全体であるというはトミズムの基礎的命題です。部分の概念は人格の概念に対立しています。ですから、社会が個人から成り立つ全体であると言うことは、社会が全体から成り立つ全体であると言うことになります。もし個人がそれ自体として社会の「部分であること」、もしくは「社会の一員であること」を要求するとしても、これは決して部分が全体の中にあり、社会の中で全体の中の一部として見なされるような社会の中にいなければならないこと、を意味するのではありません。その反対に、人間は人格として、社会の中にあって全体であるかのように遇されることを要求します。

人間としてわたしたちは常に人格です。「人格であること」は人間であることとまったく同一です。知性と意志を持っているために、わたしたちは「理性的存在」もしくは「理性的動物」です。故に、定義からして、わたしたちは単にこのような人間の性質を所有していることによって人格でもあります。20わたしたちがたまたまそれらの性質を行使しているかどうかは問題ではありません。また「人格」はわたしたちがいわゆる「パーソナリティー」と呼ぶものとも関係ありません。21

わたしたちが知りつつ、かつ自由に望んである種の行為をするので、それらは「道徳的」であると言われたり「非道徳的」であると言われたりします。わたしたちの人間性は常にわたしたちの人間的善もしくは完全、つまりわたしたちの目的に近づこうとします。ですから、経験からしてわたしたちの自然的目的に導く行為は道徳的に正しく、反対にわたしたちに害をもたらし、わたしたちを傷つける行為は道徳的に悪である、とわたしたちは理解します。例えば麻薬のコカインは神様がそう言ったからではなく、わたしたちを傷つけ、体に悪いから、人間としての目的に達することを妨げるから間違っているのです。ですから、人間的行為の善はその行為が人間性に合致していることから生じます。そして人間の性質は変わることがありません。(変われば人間ではなくなってしまいます。)

わたしたちがだれでもよく知っている自然法の道徳基本原則は「善を行い、悪を避けよ」であり、ここから他にいくつかの原則が導き出されます。22わたしたちにとって何が善であり、何が悪であるか定める自然法は(一つではなく)三つの原則を含みます。(1)主観的規範—単に良心というよりもよく形成された良心(2)客観的近似規範—正しい理性、つまり一人の個人の中と社会の中での個人間にある調和、相互関係と善を包含する理性の極めて豊かな理解。ここで「共通善」は社会の構成メンバー各自に反映されなければなりません。制度はまさにその目的のために存在します。23(3)究極的規範—善悪つまり善の究極的尺度つまり神性自体。もちろん、神性は自然法に基づく哲学的倫理が取り扱うべきものではなく、神学の守備範囲に入ります。(それについてはすぐに触れます。)

これらの一般規範を具体的状況に適用するに当たって、わたしたちは(一つでなく)これら三つの条件に基づいてどの具体的行為が正しいか、間違っているかを決定します。行為の種類、その行為をする際の意図、その行為がなされる際の状況。ある行為が道徳的であるためには三つの条件が満たされていなくてはなりません。そしてほとんどの場合意図と状況が決定的ではあっても、道徳的には絶対的に善であったり悪であったりする行為が—それほど多くはないとしても—時としてあります。例えば、病気治療の一助にする意図でなされる実験で人間を使用するというような行為は、被験者が承知した上で承諾するとか、被り得る害がそれによって達成され得る医学的成果に釣り合っているなど、一定の状況が満たされる限りにおいては、それ自体としては間違っていないだけでなく、称賛にさえ値します。しかし、それはわたしたちが自分たちの体を切断したり、その他の方法で自分たちに重大な危害を加えることに同意していいということではありません。また、科学的には人間であり、従って人格である初期胎芽が、それを必要とする人間を助けるために破壊されてもいいわけではありません。24どのような意図があっても、またどのような状況であっても、またどんなに小さくても、罪のない人間を意図的に殺すことは本質的に間違っています。善を生み出すために悪を行ってはいけないのです。25

自然法の理論は一見すると複雑です。しかし人生も複雑なのです。ですから、理論もこの現実を反映すべきではないでしょうか?概して言えば、これはわたしたち人間の性質自体に基づき、すべての人間が心の奥深くで理解している、極めて客観的、現実的、相互に関連する豊かな道徳理論です。26それはそれ自体として、自然の物理的法則と道徳法を含む永遠法の一部です。

しかし、皆さんは、もし自然法が自然に知られているのであれば、なぜこれほど多くの人たちがそれを知っているようで知らないのか、それに反して行動するのか、またそれを否定したりさえするのか、不思議に思われるかもしれません。これはいい質問であり、それは実に、二十一世紀に自然法だけを道徳的道標とすることの限界を指摘するものです。多くの人々は習慣的に自分たちの真の善に反する行為をすることによって、快楽のみを追い求めることによって、またわたしたちを取り巻く善に見える数多くの誘惑に負けることによって、自分たちの中にある自然法の感覚を失ってしまいます。

そうであれば、人間のみに基づいた倫理があり得るのでしょうか?もし、人間的行為の道徳的善が人間性との合致に由来するのであれば、人間性の善は何に由来するのでしょうか?これらの質問に徹底的に答えようとすれば、わたしたちは道徳法のもう一つの部分である教会教導職によって解釈される神法に頼る必要があります。

神法は、本質的にわたしたちが(神学の理論ではなく)教会教導職によって解釈される神的啓示、つまり聖書、神のみ言葉を通じて学ぶものです。わたしたちは信仰に基づいてそれを受け入れます。そしてもちろん信仰は賜です。それは大まかに言えば十戒に要約されています。十戒はもちろんある種の独裁制の象徴などではなく、むしろわたしたちを助け、自然的目的よりもより高い善、つまりわたしたちの究極的善である神と共なる永遠の生命、にまでも人間の行為を導くためにあります。わたしたち人間自身の性質に自然に備わる善は、神ご自身の性質に備わる神的善に由来します。わたしが本論の始めに比較した医学的諸問題のリストに関する教会の立場は、全体的に把握されたこの道徳法全体に由来するのです。

C. 選択

さて、すでにわたしたちに対処を迫っている、二十一世紀における複雑な倫理問題を考察するときに、あなただったらどちらの倫理体系を選択するのでしょうか? あなた自身が選択しなければなりません。二十一世紀に足を踏み入れる際には、(米国連邦)政府委員会が作成した、決して人類大多数に意見の一致があるわけではなく、人工的、相対的、功利主義的、偏っていて、理論的に弁護できるものでもなく、実践的に通用せず、故にすでに過去のものとなっている倫理を選択すべきなのでしょうか?極端に自律を絶対視しても、その自律さえも最終的には無益にし、個としての人間の善を放棄し、少数派のいかなる善も抹殺してしまう倫理をあなたは選択するのですか?27 多くの人間には一羽の鶏どころか一匹のエビほどの価値がない、それ故に彼らは「選択」によって殺されてもよい、もしくは「生物学的実験材料」として、完全な人たちの「より大きな善」を追求するために使用されることも可である、とする理論の方をあなたは選択するのですか?

それとも、人間としてのわたしたちにとって害があるか、それとも善であるかをわたしたちが人間の性質自体に客観的に基づき、経験から得た知識に基づく倫理を選択したいのですか?「共通善」を、わたしたち人間が単に共通に所有する善であると定義する倫理を選択したいのですか? 現実世界の日常生活の複雑さを理解し、それに適応できる豊かで一貫性のある倫理をあなたは選択するのですか?人間性の不変な法に基づいていても、神の言葉である神法における完全さによって、計り知れない高みにまで引き上げられることが可能である倫理をあなたは選択するのですか? 

D. ジョン・キャロル協会

ジョン・キャロル協会が手がけてきた諸事業にこの道徳法は体現されている、と信じます。具体的に言うと、この道徳法によると、すべての被造物の中でもわたしたち人間は(本人たちがそう望みさえすれば)彼ら自身も自分自身と他の被造物に対して配慮し、善を行うという意味で摂理であるので、さらに優れた方法で神の摂理の対象であると同時に、それに自らも参加します。

さて、すべての被造物の中でも理性的被造物はさらに優れた方法で神の摂理の支配の下にあります。なぜなら、それは自分自身と他の被造物に対して摂理であるので、神の摂理を分け持つと言えるからです。28

そして、非常に特別な意味で、この協会の構成員である皆さん方は上に申し上げたことに当てはまります。皆さんの才能、天分、時間、努力、医学や法律、他分野の貴重な知識を惜しみなく分かつことによって、皆さんはワシントンに在住する苦しみ、傷ついた兄弟姉妹たちのために、すでに数多くの具体的善を成し遂げてきておられます。皆さんは承知の上で、自ら望んで、病者、困難にある人たち、孤独な人々、見捨てられた人々、体の不自由な人々、(わたしたち皆がそうですが)傷つきやすい人たちを世話することを選択なさいました。

このように、隣人への思いやりによって皆さんは実に神の摂理に参与なさいます。マザー・テレサのように、皆さんの行為も、わたしたち自身の深くて暗く、わたしたちの死ぬべき運命、不摂生、老齢に伴う無力化、避けることのできない心身の弱体化から来る言葉では言い表せない恐怖に対して、わたしたちを強める一助になっています。わたしたちの傷つきやすい兄弟姉妹たちの中に、わたしたちは自分自身の姿を見るのです。そして神の恩寵によって、わたしたちはあの人たちが自分自身であることを知るのです。皆さんは信仰によって強められた理解を通じて「この小さな者にしてくれたことはわたしにしてくれたことである」というわたしたちを導く神のみ言葉を、聞かれ、読まれ、従われました。29

なぜ皆さんがそうするかはどうやらもうお分かりです。それは究極的には皆さんが神を愛していらっしゃるからです。神こそわたしたちのすべての行為の究極的理由です。皆さんはこの世が考えている以上に生命に意味があることをご存じです。

E. 結論

わたしたちの目の前にある波風高い二十一世紀を乗り切るために、皆さんは現世的生命倫理とローマ・カトリック教会の医学倫理、これら二つの中からどちらの倫理を選択なさいますか?これは、わたしたちに選択権があるというだけの簡単な問題ではないことを念頭に置くのは大事なことではあるかもしれませんが、選択するのは皆さん自身です。もちろん、わたしたち一人一人が選択しなければなりません。そうでなければ倫理は無意味です。本当に問題にしなければならないのは、わたしたちの選択が善であるか悪であるかです。倫理の選択に小さな間違いがあれば、わたしたち自身に、また二十一世紀の文化と社会に多くの、いやそれどころか膨大な害と破壊をもたらすことになるでしょう。30皆さん、どうぞ善い選択をなさってください。


References:

1  Dr. Irving is Professor of Philosophy and Medical Ethics at The Pontifical Faculty, The Dominican House of Studies, Washington, D.C. She has also taught at the De Sales School of Theology, The Catholic University of America and Georgetown University. She is a former career-appointed bench research biochemist at the National Institutes of Health, Bethesda, MD. Her doctoral dissertation at Georgetown University was, A Philosophical and Scientific Analysis of the Nature of the Early Human Embryo (1991). She has written and lectured extensively on the ethics of human embryo research, human cloning, research with the mentally ill, abortion, natural law and “personhood”. The second edition (1997) of her book, The Human Development Hoax: Time To Tell The Truth!, co-authored with human embryologist Dr. C. Ward Kischer, is distributed by the American Life League, Stafford, VA. [Back]

2  National Conference of Catholic Bishops, Ethical and Religious Directives for Catholic Health Care Services (Washington, D.C.: United States Catholic Conference, Inc., 1995); these directives are supposed to be made known by Catholic health care institutions and followed by “the sponsors, trustees, administrators, chaplains, physicians, health care personnel, and patients or residents of these institutions and services.”, p. 2. See also The Pontifical Council for Pastoral Assistance, Charter For Health Care Workers (Boston: St. Paul Books and Media, 1995).[Back]

3  The National Commission for the Protection of Human Subjects of Biomedical and Behavioral Research, U.S. Department of Health, Education and Welfare, The Belmont Report: Ethical Principles and Guidelines For The Protection of Human Subjects of Research (1979).[Back]

4  See generally, Tom Beauchamp and James Childress, Principles of Biomedical Ethics (New York: Oxford University Press, 1979); Tom Beauchamp and LeRoy Walters (eds.), Contemporary Issues in Bioethics (Belmont, CA: Wadsworth Publishing Company, Inc., 1982).[Back]

5  See Beauchamp and Childress, pp. 7-9; and, Beauchamp and Walters, pp. 1-3.[Back]

6  Mary Meehan’s interview with Daniel Callahan, in “Eugenics: Still alive and well”, National Catholic Register, August 8, 1993.[Back]

7  Daniel Callahan, “Bioethics: Private choice and common good”, Hastings Center Report (May-June 1994), Vol. 24, No. 3, p. 31.[Back]

8  Edwin DuBose, Ronald Hamel and Laurence O’Connell (eds.), A Matter of Principles?: Ferment in U.S. Bioethics (Valley Forge, PA: Trinity Press International, 1994), p.1.[Back]

9  Gilbert c. Meilaender, Body Soul, and Bioethics, (Notre Dame, IN: University of Notre Dame Press, 1995), p. x.[Back]

10  Raanan Gillon (ed.), Principles of Health Care Ethics (New York: John Wiley & Sons, 1994).[Back]

11  See Dianne N. Irving, “Scientific and philosophical expertise: An evaluation of the arguments on ‘personhood'”, Linacre Quarterly (1993), Vol. 60, pp. 18-47.[Back]

12  E.g., to name but a few: United States Code of Federal Regulations: Protection of Human Subjects 45 CFR 46 (1981, revised 1983, reprinted 1989 – now incorporated into the Common Rule (Washington, D.C., DHHS); The President’s Commission for the Study of Ethical Problems in Medicine and Biomedical and Behavioral Research, 1983; National Institutes of Health: Report of the Human Fetal Transplant Research Panel (Washington, D.C.: NIH, Dec. 1988); NIH Guide for Grants and Contracts (Washington, DC.: NIH, 1990); NIH Revitalization Act, Public Law 103-43 (June 1993); Office for the Protection From Research Risks (OPRR), Protecting Human Research Subjects: Institutional Review Board Guidebook (Washington, D.C., NIH, 1993); NIH Guidelines on the Inclusion of Women and Minorities as Subjects in Clinical Research, Federal Reg. 59 FR 14508 (Washington, D.C.: NIH, March 1994) ; NIH Outreach Notebook On the Inclusion of Women and Minorities in Biomedical and Behavioral Research (Washington, D.C.: NIH, 1994); National Institutes of Health: Report of the Human Embryo Research Panel (Washington, D.C.: NIH, Sept. 1994); CIOMS/WHO International Ethical Guidelines for Biomedical Research Involving Human Subjects (Geneva: CIOMS/WHO, 1993).[Back]

13  See especially the first draft, Office of the Maryland Attorney General, J. Joseph Curran, Jr., Attorney General, and Jack Schwartz, Assistant Attorney General, Initial Report of the Attorney General’s Research Working Group (October 1996), revised May 1997, June 1998.[Back]

14  Peter Singer, “Taking life: Abortion,” in Practical Ethics (London: Cambridge University Press, 1985), p. 118; see also, Helga Kuhse and Peter Singer, “For sometimes letting – and helping – die,” Law, Medicine and Health Care, 1986, Vol. 3, No. 4, 149-153; Kuhse and Singer, Should the Baby Live? The Problem of Handicapped Infants (Oxford: Oxford University Press, 1985). p. 138.[Back]

15  Ibid., Singer, Practical Ethics, p. 123.[Back]

16  R.G. Frey, “The ethics of the search for benefits: Animal experimentation in medicine”, in Raanan Gillon (ed.), Principles of Health Care Ethics (New York: John Wiley & Sons, 1994), pp. 1067-1075.[Back]

17  David S. Oderberg, “A messenger of death at Princeton”, Washington Times, July 30, 1998, A17.[Back]

18  H.R. Hare, “When does potentiality count? A comment on Lockwood”, Bioethics (1988), Vol. 2, No. 3, p. 214.[Back]

19  See generally, Humanae Vitae (Boston: Pauline Books & Media, 1968): “It is, in fact, indisputable, as our predecessors have many times declared, that Jesus Christ, when communicating to Peter and to the apostles His divine authority and sending them to teach all nations His commandments, constituted them as guardians and authentic interpreters of all the moral law, not only, that is, of the law of the Gospel, but also of the natural law, which is also an expression of the will of God, the faithful fulfillment of which is equally necessary for salvation.” (emphasis mine) (p. 2); the NCCB’s, Ethical and Religious Directives for Catholic Health Care Services: “The moral teachings that we profess here flow principally from the natural law, understood in the light of the revelation Christ has entrusted to his Church.” (emphasis mine) (p. 2); Thomas Aquinas, Summa Theologica, IaIIae,q.94, Fathers of the English Dominican Province (trans.) (Westminster, MD: Christian Classics, 1981); Austin Fagothey, Right and Reason (3rd ed. only)(St. Louis, MO: The C.V. Mosby Company, 1963); Vernon Bourke, Ethics (New York: The Macmillan Company, 1953); Ralph McInerny, Ethica Thomistica (Washington, D.C.: The Catholic University of America Press, 1982).[Back]

20  Thomas Aquinas, ST, Ia.q.29,a.1, ans., ad.2,3,5, p. 156; ibid, a.2, ans.; also ST, IIIa.q.19, a.1, ad.4.2127.[Back]

21  See Kevin Doran, “Person – a key concept for ethics”, Linacre Quarterly (1989), Vol. 56, No. 4,p. 39.[Back]

22  See Vernon Bourke, Ethics (New York: The Macmillan Company, 1953), pp, 172-179.[Back]

23  See Jacques Maritain, The Person and the Common Good (Notre Dame, IN: University of Notre Dame Press, 1972), pp. 50-58.[Back]

24  Donum Vitae (Boston: Pauline Books & Media, 1987). See also, Dianne N. Irving, Philosophical and Scientific Analysis of the Nature of the Early Human Embryo (Doctoral dissertation)(Washington, D.C.: Georgetown University, 1991); Irving, testimony as member of the Science Panel, “Cloning: Legal, Medical, Ethical, and Social Issues”, Hearing before the Subcommittee on Health and Environment of the Committee on Commerce, U.S. House of Representatives, Washington, D.C., Feb. 12, 1998; Ward C. Kischer and Dianne N. Irving, The Human Development Hoax: Time To Tell The Truth! (1997)(2nd ed.) (distributed by the American Life League, Stafford, VA).[Back]

25  See Declaration on Euthanasia (Boston: St. Paul Books & Media, 1980); Declaration on Procured Abortion (Boston: Daughters of St. Paul, 1974).[Back]

26  Romans 2:14-15.[Back]

27  But see Veritatis Splendor (Boston: St. Paul Books & Media, 1993).[Back]

28  ST, I-II, q.91, a. 2.[Back]

29  Matthew 25:40.[Back]

30  See Evangelium Vitae (Boston: St. Paul Books & Media, 1995). 1_ Presented at the Eighth Annual Rose Mass Brunch, sponsored by the John Carroll Society, The Grand Hyatt Hotel, Washington, D.C., March 14, 1999.[Back]


Dianne N. Irving, M.A., Ph.D.1
ダイアンヌ・アーヴィング医学博士
Copyright ©1999年3月14日
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net