「哲学と神学の修士号だけでなく、薬理学の博士号も持っているドミニコ会の司祭であるモラクチェフスキー神父は、その経歴の大部分を、生医学の発達に関わる道徳的問題の探求に捧げてこられました。彼はヨハネ13世医学倫理研究センターの初代所長であり、現在も名誉研究員としてその組織に貢献しています。」
1. 近い将来、人間のクローンができる現実的な見込みはありますか。
そうですね、確かに動物のクローン化は行なわれました。羊のドリーがその一例です。猿のクローンが造られたという主張もありますが、それは実際には、胚融合の事例です。だからそれは、ドリーと同じ意味におけるクローン化ではありません。ドリーの場合のように成熟した細胞からDNAを取るのではなく、胚細胞が使われたのです。技術的には、ドリーの事例は大きな進歩なのです。
もちろん人間のクローン化のための準備が密かに行なわれているかどうかは知る由もありません。しかしその可能性については重大な問題があります。まだ非常にたくさんのステップを越えなければならないのです。人間のドナー細胞から採取したDNAが、羊のDNAと同じような反応をするかどうかはっきりわかりません。ドリーの場合のように、電気的な刺激によってドナー細胞と卵子が融合するかどうかわかりません。ドリーの場合でさえ、277回クローニングが試みられ、うまく出産までこぎつけたのはたったの一回だったのです。
だから技術的な問題はたくさんあり、よくわかっていないことがまだたくさんあるのです。あなたの質問に対する答えですが、理論的には可能ですが、人間のクローン化の見込みは薄いように思われます。
2. クローニングとは何ですか。
「クローニング」という言葉は、様々な使い方をされてきました。最近の大衆向けの文献、科学的文献の双方を読めば、クローニングがいろいろな意味で使われていることがわかるでしょう。私たちがここで話しているのは、ドリーに起こったこと、つまり成熟し、十分に分化した大人の細胞からDNAを取り出し、核を取りのぞいた未受精卵に入れるということです。だから今私たちの手元にあるのは、核のない細胞質と大人の核を持った細胞で、それに電気的刺激を与えて融合させるのです。ふたつの細胞は、成熟した動物から取ったDNAを持った核が一つあるだけの一つの細胞になるのです。その核は明らかに卵細胞の細胞質によってプログラムし直されます。どうしてこのようなことが起こるのかはまだわかっていませんが、その細胞は今、大人の細胞ではなく胚細胞であるかのような動きをします。それは分裂をし、成長し、新しい有機体を造り出し始めます。しかしこの胚のような有機体は、そもそも大人の細胞が採取された元の成熟した動物のDNAを有しているのです。
3. それでは、新しい有機体、つまりクローンは元の有機体と遺伝子の組成が同じだということになります。その遺伝子の類似性は一卵性双生児の場合とどのように違っているのですか。
一卵性双生児は元は同じで、それが同時に生じたものですが、一方ここで私たちが述べているクローニングの場合は、両者の間には何年もの違いがあります。それが一つ目の違いとなるでしょう。二つ目の違いは、環境、つまりそれぞれの個体が育った生物学的、社会的環境が両方ともかなり違うということでしょう。
また自然に双生児が生まれる場合、一卵性双生児に関しては、その過程は普通一卵性、つまり卵子は一つで、それが二つに分かれるということを意味します。したがって核だけでなく細胞質も同じなのです。その意味において、自然発性的な双生児は、クローンよりも遺伝的により密接な関係があるのです。
誰かがクローン技術を利用して100人のヒトラーとか100人の優れた戦士とかそのようなものを造りたいと思うかもしれないという心配の声を時々聞きます。どのような人を複製したいと思っても、その人を全く同じように複製することは不可能でしょう。いくつかの違いが生じることになるでしょう。まず、育てられ方における環境的な違いがあります。それから細胞質が違っています。細胞質はそれぞれの遺伝子を持っていて、数は多くはありませんが、何らかの影響を与えられるだけの数は十分にあります。従って、人の体の一部を複製することになるかもしれませんが、その人を複製するすることはできないでしよう。
4. ここに興味深い実際的な問題もいくつかあります。クローンとそのドナーとの関係の本質は何なのでしょうか。ドナーは父親、母親、兄弟姉妹のどれになるのでしょうか。はっきりしません。科学者は今日大人の細胞からDNAを取り出すことができ、胚細胞からその核を取り除くことができます。従って、クローニングヘの技術上の障害は、二つを融合し、クローン化された細胞を成長させることだと言ってよいでしょうか。
はい。ちゃんとした設備と知識を持ち、訓練を積んだ人なら、これらのことの大部分を行なうことができます。
問題はクローン化された細胞を成熟まで成長させられるということでした。以前にいくつか実験が行なわれていましたが、新しい細胞は成熟までいたりませんでした。何らかの欠点があったのです。今回の場合、ウイルナット博士は成功を治めました。彼の成功の秘訣は、ドナー細胞のDNAを休止の状態にすることでした。そうするとその細胞はもはや分裂も成長もしなくなりました。それは一種の生命の休止状態でした。それから彼が、その細胞と核の無い卵子を融合させると、卵子の細胞質は、成熟した細胞のDNAのプログラムをリセットとする能力を持つようになりました。
5. 人間のクローンを造る可能性に関わる道徳的問題のことをたくさん聞いています。しかし、他にこの技術の重要な応用の仕方、つまり道徳的に容認され科学的に生産的な応用の仕方はないのでしょうか。
人間以外の動物にクローン技術を応用することにはいくらかのメリットがあるように思われます。このことが絶滅の恐れのある種を救う一つの方法だという提案がなされています。あるいはこのことは、ある種の質を向上させる一つの方法ともなるでしょう。たとえば、もしあなたがとても良い牡牛を飼っていて、その動物を複製したければ、おそらくその動物のDNAを取り、雌牛の未受精卵に移植することによってそうすることができるでしょう。そうすればあなたは、DNAのドナー、つまりその牡牛に非常に近い動物を生み出すことができるでしょう。従って、あなたは高品質の牡牛や、より多くの牛乳を出す雌牛や、良い羊毛の羊などのコピーをたくさん作ることができるでしょう。
6. この技術は動物だけに応用できるものですか、それとも他の形態の生物に対しても使用することができますか
。
そうですね、その技術が植物に対して使用されたかどうかはよくわかりません。もちろん、絶えずたくさん交配が行なわれ、雑種の動物ばかりでなく雑種の植物も作られてきました。しかし、それはいつも普通の繁殖方法を用いて行なわれてきたのです。
科学者はバクテリアを変成させました。そのことはクローニングと同じプロセス、つまり細胞の全てのDNAを利用するのではなくDNAの特定のストランドを使うことによってなされたのです。たとえば、人間のDNAの中の、インスリンの製造をつかさどっている部分を大腸菌に移し変えたのです。そうするとそのバクテリアは移植された人間の遺伝子のおかげで、自然には造り出すことのできないものを造り出せるようになりました。このようにして、私たちは人間のインスリンを造り出す新しい方法を手に入れたのです。
同じことが人間の成長因子と、ウイルスと戦う能力を持った蛋白質であるインターフェロンについて行なわれました。それぞれの場合、バクテリアは、人間の遺伝子の移植によって、人間に役立つものを造り出すように変えられたのです。それは現代のこの技術の目的のひとつ、つまり人間に役に立つものを造り出せるように動物を変えることなのです。
現時点では、何が可能で何が不可能なかを推測すること、つまりそれを見分けることは困難です。つい今日のことですが、私は、毎週発行のサイエンス誌で、いわゆる再生、つまり組織の再生のことを読んでいました。有機体の中には、一方の腕や足が切り取られても新しい腕や足を作り出せるものもあれば、そうでないものもあります。私たち人間は肝臓を再生させることができます。肝臓の一部が損傷を受けても、肝臓は再生しますが、一方たとえば脳細胞のような他の組織は再生しません。もし私たちがそれに関わる要因を発見できれば、それは非常に有用なことでしょう。もし何らかの組織が肉体的外傷や病気によって損傷を受けても、その組織を再生させることが可能になるでしょう。これは医学の最前線の一つです。他の問題ほどドラマチックにはならないかもしれませんが、再生というこの問題は、今日実現可能ところまで近づいています。
これは確かにもっと多くの研究が行なわれるであろう領域ですが、私が理解できる範囲では、それに関わる技術は当然いかなる道徳原理にも反することはないでしょう。もし私たちが、たとえば脾臓や心臓や脳や肺や筋肉のような組織を再生させることができれば、それは本当にすばらしいことでしょう。もし私たちが神経組織を再生させることができるなら、それは特にすばらしいことでしょう。神経が永久に損傷を受ける、全ての脊椎損傷の場合を考えてみて下さい。私たちは多分、その問題に本気に取り組むことができるでしょう。今日その問題、つまりどのように私たちの中枢神経系が機能しているか、そしてどうすればニューロンを再生させることができるかという問題に取り組んでいる科学者もいるのです。
7. 豚の身体を使って人間の耳を作るという話や、同じようなことが他にも可能だという話を時々耳にします。このようなことは科学的に可能なのでしょうか。
そうですね、それはクローニングが可能になれば、達成したいと科学者が思っていたことでした。それは完全な器官を再生できること、つまり肝臓や心臓や脾臓を体外で成長させ、そののちその臓器を移植することです。そのことは実際的にも倫理的にも可能なことでしょう。
豚の身体で人間の耳を成長させることに関しては、そのようなことは今までに行なわれたことのないことです。損傷を受けた耳を取り、一時的に他の動物の身体でそれを成長させることができるかもしれませんが、そのようなことは大規模には行なわれていません。
しかしながら、動物は他のいくらかの関連した目的で利用されています。トランスジェニック豚(他のDNAが組み込まれた豚)のケースを例をとってみましょう。そのケースにおいて、科学者は移植に使え、人体に受け入れられる臓器を豚の体内で成長させようとしています。これはクローニングのケースではなく、遺伝子工学のケースなのです。問題は、その臓器が移植して受け入れられるように、豚の臓器の表面に抗原(それによって肉体がその組織を敵か味方かを認識するもの)を発生させることです。
またこの時点では、そのことは理論的に可能です。そしてまたそれは、少なくともこの時点においては道徳的な問題を伴うとは思えません。私はこれらの問題に関して、断定をしないようにいつも気をつけています。なぜなら全ての過程がはっきりと発表されるまでは、私たちはどのような直接的な手順が用いられるかがわからず、全ての手順が道徳的に容認されるかどうかわからないからです。しかし、臓器移植と拒絶反応の問題のいくらかを解決する方法として、その組織が人体に受け入れられるように動物を変えるという基本的な考え方は、本質的に倫理上反対すべきものではないでしょう。
8. クローニングと遺伝子工学との間に、道徳的、科学的観点から、どのような区別を私たちはつけるべきでしょうか。
遺伝子工学のほうが多分より根本的な問題でしょう。というのは普通クローニングにおいては、生殖の方法以外変えられているものはあまりないからです。しかしながら、遺伝子工学を利用しては、動物の特徴を変えることができるのです。一方で遺伝子工学の助けを借りて、私たちは病気を直すことができるかもしれません。また一方で理論的には、私たちは、モーツアルトやレオナルド・ダ・ビンチを作り出そうとして、何らかの特別な能力を発達させることもできるでしょう。そのようなことは少なくとも理論的には可能なことなのです。
遺伝子工学によって、実際に個人の特定の遺伝子や特定の数組の遺伝子を操作することによって、人間を作り変えられる可能性はあります。しかし幸か不幸か、私たちはまだ遺伝子のことがあまりわかっていません。ある一つの遺伝子がある一つの蛋白質を制御している場合もありますが、私たちの行動の特徴の多くは、多くの遺伝子によっても他の多くの要因によっても影響を受けているのです。たとえば、どの遺伝子が知能と関わりがあるか、私たちはまだ知らないのです。それは特に難しい質問でしょう、というのは知能は、多くの異なった遺伝子の相互作用とともに、環境や他の心理社会的要因にもよることが明らかだからです。
また、特定できるある病気や、目や髪の毛の色のようなある特徴のように、人間の遺伝について私たちが知っていることも実際いくつかあります。約4千もの特徴が同一の遺伝子の影響を受けているのです。しかしそのようなケースでも、私たちは非常に複雑な分野で研究をしているのです。人間には10万もの遺伝子があるので、人間よりずっと簡単な遺伝子構造をしているミバエのような実験動物の遺伝子を分離できるような方法で、一つ一つの遺伝子を分離することは困難です。
あなたがたはまた、ある特定の遺伝子と関係があることが知られている条件が4千あると私が言っても、それが問題の遺伝子を理解し尽くしていることにはならないということも理解しなければなりません。多くの遺伝子には複数の機能があり、それはまだ発見されていないのです。
9. 人間の遺伝子の働きに関する知識はどのくらいの速度で増えているのでしょうか。
ヒトゲノム計画は軌道にのっているように見えます。そして、その計画に関わっている科学者は、1990年から15年の歳月をかけ、ヒトの10万ある遺伝子を解読しリストを作る作業をしています。また、私たちの身体には、約10万の遺伝子があるとしか、私たちは実際言えないということも心に留めておいて下さい。正確な数さえまだわかっていないのです。見積もりは5万から10万まで幅があるのです。従って、私たちは現時点においては、正確な数からほど遠いところにいるのです。
10. そしてもし実際に数の決定が行なわれた場合、人間のコピーをたくさん造ることが理論的に可能になるのでしょうか。それともそれは単なる空想にすぎないのでしょうか。
それがばかげたことだというつもりはありませんが、それはずっと先のことです。それに関して数字的なことを言うことはできないでしょう。その問題がどのくらい先に生じるかを私に教えてくれるデータが全くないのです。しかし、さまざまな特徴が非常に複雑なので、人間の設計図を作ることができるようになるのは、ずっと先のことになるだろうと思います。もしそれが実際可能になるとすれば、それは次の世紀においてでしょう。
ご存じのように、科学者は一般的にそんなに先のことに目をやりたがりません。というのは、道程を縮めることのできる驚くような発見がなされることがあるからです。一方、道程を長くするようなことを発見することもあります。少し前、私たちは核分裂でなく核融合によってエネルギーを得るようになるだろうと思っていましたが、まだそれは壁を破るところに至っていません。そして、それは生物学的な問題より、ずっと簡単な問題なのです。
11. ずっと短い期間でみれば、私たちは、ある病気に対する弱さをもたらしている遺伝子を特定できていると言うことができ、そしてその問題を矯正できるところに近づいているのでしょうか。
はい、ずっと近づいています。私たちは遺伝子に変化や突然変異が起き、遺伝物質が正常に作れなくなると、特定の病気や異常につながるいくつかの遺伝子を発見しつつあります。これらの遺伝子のいくつかは特定されています。嚢胞性線維症の遺伝子がその一例です。しかし私たちが関連を見つけた場合でさえ、その問題を矯正する困難さが残ります。
一度ターゲットが特定されると、この時点での主な問題は、それを作り出し、それを矯正し、正常な細胞をその場所に戻すこととなります。それは非常に困難なプロセスです。そしてそのことが、私たちが胚の組織を使って実験をはじめた理由の一つです。発達のその段階でその問題を扱う方が、大人の細胞を使ってするよりもずっとたやすいのです。
12. もし私たちが、突然変異のために虚弱あるいは病気を引き起こしそうな遺伝子を特定できるとすれば、その知識を使うことに対する道徳的な議論が起きるでしょうか。
教皇はその話題に言及し、治療目的の遺伝学的な介入と向上、言い換えればすでに健康なものをさらに高めるために行なわれる介入を区別しました。教皇は、一般的に異常や病気を直すことは全く問題なく、実際それは良いことだと考えています。何かをさらに良くする、普通以上に良くしようとすることはまた別のことなのです。
13. そのような区別をすることは容易でないときがあります。たとえば、視力に関して「より良い」とはどういうことでしょうか。私たちはただ弱いだけの目を矯正すべきでしょうか。私たちの記憶力を良くしようとすることについてはどうでしょうか。
ときには、病気を構成しているものを定義づけることさえ容易ではないのです。鎌状赤血球貧血の問題を取り上げてみましょう。アメリカ文化では、それは病気であり、人の生活の邪魔をする障害です。しかしたとえば、マラリアが伝染病であるアフリカのような世界の他の地域においては、それが実際には、人を守る働きをしていることがわかっています。つまり鎌状赤血球貧血の人はマラリアに対する抵抗力が強いのです。ご存じのようにマラリアは血球中で増殖をしますが、血球が鎌状赤血球貧血によって変化させられている場合、マラリアは増殖することが妨げられるのです。
14. これらの新しい科学技術が開発されるにつれて、私たちが心に留めておかねばならない道徳的問題は何でしょうか。
私が思うのは、人間が科学技術的手段を通して、ある意味で地上に天国を作り出そうとすることです。私たちはすでにエアコンによって、温度と湿度をコントロールしていますが、生活をもっと快適にするために私たちはこのようなことをしているのです。それはよいでしょう。しかし今度は、私たちがもう病気や老いによる退化の影響を受けないようにするために、人間の本質の条件を変え、完全な人間、あるいはむしろいわゆる遺伝学的に完全な人間を創造しようとしているのです。そうなると私たちが、いわば、笑顔でこの世を去ることができるでしょう。それ以上に私たちは、無限に生きられるように、冷凍保存によって、臓器移植によって、死から逃れられるあるゆる種類のものを使って、不死、少なくとも不死のようなものを求めているように思われます。
このような目標が意識的に追求されるにせよ、無意識に追求されるにせよ、私はそれらは人類を駆り立てていくように思われる全ての願望の一部を成していると思います。しかし、そのように主は私たちを造られたのではありません。死はいのちの自然な一部であり、永遠のいのちへの入り口なのです。私たちはそのドアをくぐらなければなりません。私たちは地上では永遠のいのちを見つけることはできないのです。
あけぼのの女神であるオーロラについてのおもしろいギリシャ神話があります。彼女はティトナスという名前の人間に恋をしてしまいました。彼女は、彼に不死のいのちを与えるように父ゼウスに頼みました。そのようにゼウスはしましたが、ただ一つ彼に永遠の若さだけは与えませんでした。そこでティトナスはだんだん年をとっていき、まず白髪交じりになり、次いで白髪になり、とても弱くなっていきました。それで、オーロラは、もはや彼女にとって興味がなくなったので、彼を見捨ててしまいました。
永遠のいのちは単なる不死ではないのです。それは不死以上のもので、さらには永遠の若さ以上のものなのです。永遠のいのちにはそれ以外のものが含まれていて、それは神のいのちを共有することなのです。従って、死は依然として人間にとって神に通じる道の一つなのです。
15. しかし、知識を追求することは本来良いことだと科学者は主張するでしょう。
そうでしょう。しかしここで区別することのできる知識が2種類あります。私たちは、瞑想の刺激となる知識、つまり神の表現としての、宇宙における神の行為の現われとしての現実世界に対する私たちの洞察が深まる知識を持つことができます。それからもう一種類の知識があり、それは科学技術と支配につながっています。それが私たちが今、ますます目にしているもの、つまり私たちの環境や自分自身までも支配しようとする願望なのです。私は、そこが危険が生じるところだと思います。
神がアダムに「地上を治めよ」と言われたとき、それは管理を委託されたということだったのです。それには限界があります。責任と義務があるのです。それは詳しく説明されてはいませんが、それは人類が長い間闘ってきたこと、つまり人間の能力の限界を発見することなのです。それは複雑な問題であり、道徳神学者は絶えずその問題と取り組んでいます。しかし、私たちは無限の力を持ってはいないということ、私たちが思い通りには何もできず、神の啓示の光と教会の教えとを通して決定できるかぎりにおいて、神の意志に従わなければならないということを私たちが少なくとも認識できるならば、それは大きな進歩でしょう。
サタンがアダムとイブに近づいて、木の実を差し出したとき、「この木の実を食べると神のようになれるでしょう。」とサタンは言いました。神は私たちに神のようになることを望んでいますが、それは神の望むような方法によってであり、私たちのやり方によってではありません。それがいつも対立してきたことなのです。私たちはいつも私たちの方法で良いことをしたいと思ってきました。それが私たちが決定できるかぎりにおいて、絶えず評価しながら、私たちが取り組まなければならない対立、つまり私たちの管理の限界なのです。
16. そうであるなら、実際クローニングと遺伝子工学に関わる倫理的問題は、創世の書に現われている問題ということになりますね。
ある意味では、その通りです。そしてここにもう一つの要素があります。つまり、創世の書には人間の生殖の方法が記されているのです。創世の書の第2章で、神が人のあばら骨からイブをつくられたとき、アダムは「さて、これこそ、わが骨の骨、わが肉の肉_」と言います。それから話は、「だからこそ、人間は父母を離れて、女とともになり、二人は一体となる。」と続きます。その「一体」という言葉は、セックスを意味すると理解されています。従って、夫と妻は一体となり、セックスを通して子どもが産まれるのです。そこに他の人間がこの世にもたらされる手段、つまり家族があり、夫と妻が夫婦の営みをし、その女から子どもが生まれるのです。そのことは、聖書の他の部分においても明らかなように思われます。
そうなると、他の人間を造り出す方法としてのクローニングは、完全に神の意志に反することになります。もし、他の方法で人間を造り出せば、私たちは、私たちに許された管理の領域を越えることになるでしょう。そして同じ論理が体外受精にも当てはまるでしょう。というのは、それがある意味では、クローニングヘの入り口を開けたのですから。
クローニングと体外受精を結びつけている直接の線は、技術の問題ではなく方向の問題です。体外受精で何千人もの赤ん坊が生まれてきました。新しいいのちによって家族は豊かになり、非常に多くの人が進んでそれが良いものだと言うでしょう。それでも私たちは、それは良いものではないと言わなければなりません。それは人間のいのちをこの世にもたらす正当な方法に反しているのです。
もちろん私たちは体外受精にまつわる多くの問題があったことも知っています。イギリスでは、だれも望まない受精卵が三千もありました。アメリカ合衆国ではその数をはるかに上回るでしょう。(私たちははっきりした数は知りません。二万五千ぐらいだろうと見積もった人もいますが、わが国にはイギリスより病院がたくさんありますから、冷凍された胚がもっとたくさんあることに疑いの余地はないでしょう。)従って、そこに大きな問題があるのです。しかし大衆は、体外受精を受け入れそれを容認しています。おそらく、やがて大衆はクローニングにも慣れるようになるでしょう。
クローニングはもう秘密ではないから、ここで行なわれなくても、他のどこかで行なわれるだけだという主張がなされてきました。それはそうかもしれませんが、それは私たちが反対の声を上げることをやめるべきだということを意味するのではありません。なぜなら、もし一般大衆がこの「進歩」の全貌が意味するものを本当に理解すれば、私たちはその速度を遅らせ、さらにはある時点でそれを停止させることができるかもしれないからなのです。いずれにせよ、はっきりと意見をのべることが私たちの義務なのです。
17. 遺伝子工学におけるこのような傾向が続くにつれて、キリスト教徒は、大多数が当たり前のことと考える生物学的操作の形態を受け入れることを拒否する少数派になる可能性があるでしょうか。
そうですね、主は私たちはこの世のものでないと言われました。もし私たちがこの世のものであるならば、世界は私たちを受け入れてくれるでしょう。イエス・キリストが確かに人気コンテストで勝利しなかったことを私たちは覚えておかなければなりません。私は、イエスを信じるものたちが、それ以下のことを期待すべきだとは思いません。私たちは数を見るつもりはありません。世界は私たちに反対の立場を取るでしょうから。
しかし、少数派であるか、多数派であるかが、私たちが正しいか間違っているかを決めるのでは決してありません。キリスト教徒、とくにカトリック教徒は、その反対を受け入れる心構えができていなければなりません。しかし、どのような立場を私たちが取るにしても、その立場が擁護されることは当然のことです。私たちの教会は、人間の尊厳を守ろうとしています。私たちは、私たちの信仰が私たちの教えていることについて本当によく知らなければなりません。
この特定の分野において、人々がたとえばドノム・ヴィテ(生命のはじまりに関する教書)やイヴァンジェリアム・ヴィテ(いのちの福音)のような教会の文書のことをよく知ることが大切です。教皇ヨハネセンターは、人々に生物学的な問題について情報を提供しつづけ、教会の教えにしたがってこれらの問題に取り組もうとしています。
聖ペテロは、「汝の信仰の理由を知れ。」と言っています。私は、どのように最近の生物学的発展について道徳的見極めをし始めるかについて、カトリック教徒に助言を与える際に、そこから始めようと思います。汝の信仰を知って下さい。
Moraczewski, Albert (モラクチェフスキー・アルバート)
Copyright ©2003.10.27.許可を得て複製