二十年程前の事、数人の婦人たちが「あの人赤ちゃんを産んで、御不浄(ごふじょう)に捨てちゃったんだって」 と話しながらお茶菓子を食べていたのを、私は今でも覚えている。特にここ数年、 折あるごとにその時の状況と産み落としたおばさんの顔が鮮明に浮かび上がってくるのだ。もちろん当時、 間引きが頻繁にあったのではない。しかしそれでもあの婦人たちは、 それが新聞に殺人事件として報道されるような事柄だとは、だれも意識していなかったのではないか、と思う。 私は彼女たちが間引きに何の罪も感じない時代に生きていたと言うのではない。 近世はもちろん近代にもあった間引きという現実を、あれは殺人行為だと捕えないような意識、 あるいは親の方に何か特別な事情があったと受けとる観念の名残を、今になって私は、 そんな記憶の内に見るような気がするのである。
十六世紀日本を訪れた巡察使バリニャーニが当時の日本人のことを、流産させるために薬を飲んだり、 産んだ子の首を足でおさえて殺すことがある、といって本国に報告した記事が残っている(日本通信)。 確かにいつごろからか明らかではないが日本には間引きと呼ばれるものがあった。地方によっては(神に) モドスとかカエスと言われた。間引きの現場を描いた恐ろしい絵馬(えま)が東日本を中心に残存するし、 朝日丸とかいう水銀系の堕胎剤も販売されていた。水子地蔵が各地にささげられている。 だからキリスト教徒の記録を否定はできない。しかし同じ十六、七世紀、欧州でも事情は似かよっていたように思う。 トリエント公会議の後の司祭たちの説教集の中には、両親は決して嬰児と一緒にベッドで寝ないようにとの勧告が多数ある 。つまり親は圧死という事故死に見せかけて、子どもを間引いていたのであり、翌朝近所の人や家の者も「 残念ながら事故死です」と言われれば、それはそれで済んでしまっていた。彼らも実は同じ行為をしていたのであり、 また間引く親の事情も知っていたに違いない。
間引きという習俗において東西に共通するのは、庶民のある意味で非人間的で殺人とも決めつけうるこの行為を、 僧侶や司祭たちが頑強に非難し続けてきた事実だ。それは宗教上の教義に反するからなのかもしれない。 それでも人々は胎児、嬰児あるいは幼児をも時には、強く生命あふれた生き物とは見なさなかった。 生後三日間は不確かな生命故に服も着せない。名付け前に死ねば戒名ももらえず、 餓鬼塚と呼ばれる先祖とは別の墓にお経もなく親の手で埋められた。確かに子どもはいつ死ぬか分からない存在だった。 昭和初期でも零歳児は二割、七歳までには六割は死んだ。 子どもを海とも山ともつかない者として扱うのは日本ばかりではない。欧州の場合も、六人目を産もうとする産婦に、 不安を静めようと、隣に住む裁判官の奥さまが「今度の子が大きくなるまでに、今の子たち全部が死ぬかもしれませんから 」と言って慰めている話がある。有名なモンテニューはエッセーの中で「二、三人子どもは死んだけど不満はなかった」 と述懐している。七歳までは神の手のうちというように、人々は実感していたに違いない。流行病(はやりやまい) や飢餓で実際に七歳までに多くの子どもが死んだ。現代のように胎児の時から生命として扱い、 生まれるとその子の写真をアルバムにはって記憶に留めておこうとするような態度は、子どもが昔程ひ弱な生き物ではなく 、生まれれば確実に元気に成長すると人々が考えるようになったことを意味するのだろう。 子どもが胎児の時から人間として認められ始めたからだ。
今日、間引きはほとんどなくなった。しかし本当に子どもの生命を、 私たち人間が手出しできない程の尊いものとして認めているだろうか。七歳までは生死をさまよう不確かな生命だ。だから 、多少は申し訳ないけれど手を加えても許される生き物だとして、近世から近代の人々が子どもたちにとった態度を、 私たちは、今度は胎児に対して持っているのではないか。胎児も生命であると知りつつ、 まだ大人の手で操作し堕胎できる生き物と考えてはいまいか。
マリア様は同居前の妊娠だからといって堕胎はしなかった。流行病や飢餓、堕胎や間引きなど、 今よりかなり劣悪な環境や習俗の中で、ずいぶんと苦労しながらマリア様はイエズス様を産んだのだと思う。 普通でない妊娠をしたマリア様が、出産後感じたことは、 現代人のような産褥期の解放感と喜びだけではなかったことをクリスマスに思い浮かべても良いのではないだろうか。
Sakakura, Kei (サカクラ・ケイ)
坂倉 圭
坂倉 恵二
02.03.23常識の中の神
出典 ようこそ、ケイ・スチュワートの世界へ
Copyright ©2015.12.22.許可を得て複製