日本 プロライフ ムーブメント

いのちの福音 (Evangelium Vitae )

教皇ヨハネ・パウロ二世回勅 カトリック中央協議会
人間のいのちの価値と不可侵性について 司教、司祭と助祭、修道者、信徒、そしてすべての善意の皆さんへ
Encyclical Letter Evangelium Vitae Of The Supreme Pontiff John Paul II

いのちの福音は、イエスのメッセージの中核に位置します。教会は、いのちの福音を日ごと心を込めて受け止め、あらゆる時代、あらゆる文化の人々への「よい知らせ」として、あくまでも忠実にのべ伝えなければなりません。

目次

序文 

1 いのちの福音は、イエスのメッセージの中核に位置します。教会は、いのちの福音を日ごと心を込めて受け止め、あらゆる時代、あらゆる文化の人々への「よい知らせ」として、あくまでも忠実にのべ伝えなければなりません。

救いの出来事の初めに喜ばしい知らせとしてのべ伝えられるのは、イエスの誕生です。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである」(ルカ2・10ー11)。この「大きな喜び」の源は救い主の誕生ですが、クリスマスはまた、あらゆる人間の誕生の意味も余すところなく説き明かしています。メシア誕生の喜びは、あらゆる人間がこの世に生まれ出るときの喜びの礎であり、完成なのです(ヨハネ16・21参照)。

イエスはあがないの使命の神髄を、こう説きます。「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ1O・10)。実にイエスは、父との交わりの中に存在するあの「新しい」「永遠の」いのちのことを言っているのです。すべての人は、聖霊の清める力のもとに、御子において、自由にそのいのちにあずかることができます。人間のいのちのあらゆる局面と発達段階が十分にそれぞれの重要さに達するのは、まさにこの「いのち」においてなのです。

人格の無比無類な価値 

2 人間はこの世に存在する者ですが、その次元をはるかに超えるいのちの豊かさへと招かれています。いのちは、神のいのちそのものにあずかるところにあるからです。この崇高な超自然的招きは、人間のいのちがこの世の様相を帯びるものであっても、偉大さとはかりしれない価値を持つことを明らかにします。事実、時間のうちにあるいのちは、人間存在を一つにまとめ上げたプロセス全体の根本的な状態であり、その最初の段階であり、なくてはならない要素です。時間のうちにあるいのちは、思いもよらない形で、分不相応にも神の約束によって導かれ、神のいのちのたまものによって刷新されるプロセスであり、永遠性において完成に至るプロセスなのです(一ヨハネ3・1ー2参照)。同時に、一人ひとりのこの世の生が持つ相対的な性格に光を当てるのは、この超自然的な招きにほかなりません。結局のところ、この世の生は「究極の」現実ではなく、「究極に至る手前の」現実です。とはいえ、わたしたちにゆだねられたこの世の生は、責任を自覚して保持すべき聖なる現実、愛において、また神と兄弟姉妹への献身的な行いをとおして完成へと至るべき聖なる現実なのです。

教会は、主から受けたこのいのちの福音1が、信仰者だけでなくすべての人の心の奥底に響き、揺り動かしていることを知っています。それは、いのちの福音は、人の心に潜むあらゆる期待をはるかに超えると同時に、そのような期待を驚くべきありようでことごとく満たすからです。すべての人は、さまざまな困難や不確かさの中にあっても、真実と善に対して誠実に立ち向かえば、理性の光と人知れず働く恵みによって心に書き記された自然法の中に(口ーマ2・14−15参照)、始まりから死に至るまでの人間のいのちには神聖な価値があることを理解することができ、さらに、すべての人間の権利には、このうえなく尊重すべき基本的善があると断言できるのです。人間の手になるあらゆる共同体は、政治的なものも含めて、この人権理解に基づいて築かれます。

とりわけ、キリストを信じる者は、第二バチカン公会議が説く素晴らしい真理を念頭に置いて、この人権を守り育てなければなりません。「神の子が受肉することによって、ある意味で自らをすべての人間と一致させた」2この救いの出来事は、「そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3・16)神の限りない愛だけではなく、さらには、すべての人格には比類のない価値があることを人類に啓示します。

あがないの秘義を心を込めて黙想するたびに、教会は感嘆の思いを新たにしてこの価値を承認します3。教会は、どの時代にあっても確固とした希望の源でありまことの喜びであったこの「福音」を、あらゆる時代の人々にのべ伝えるようにとの招きを感じています。人類に神の愛を告げ福音、人格の尊厳を説く福音、そしていのちの福音は、同じ唯一の福音であり、別々に考えることはできません。

このような理由で、人間-生きている人間-は、教会へと続く第一の道、根源的な道を示すといえるのです4

人間のいのちに襲いかかる新たな脅威 

3 人となった神のみことばの秘義のゆえにこそ(ヨハネ1・14参照)、人間はだれもが母親のような教会の保護にゆだねられます。ですから教会は、人間の尊厳といのちに対するすべての脅威について無関心でいるわけにはいきません。このような脅威は、神の子の受肉が救いをもたらすという信仰の根底に影響を及ぼさずにはおかないのです。それゆえ教会は、世界の至るところで、造られたすべてのものに「いのちの福音」をのべ伝える使命に励むのです(マルコ16・15参照)。

今日、この福音宣教はとりわけ緊急の課題です。それは、各個人や民族のいのちを脅かす事例が著しく増え、重大な問題となっているからです。それは弱い人、身を守るすべのない人にとくに顕著です。貧困、飢餓、種々の風土病、暴力、戦乱など旧来からの社会悪に加えて、今や新たな脅威が驚くほど大規模に姿を現しています。

第二バチカン公会議は、人間のいのちに対する多くの犯罪と攻撃を強く弾劾しました。その妥当性は今日も変わりません。公会議から三十年後、わたしは公会議の言葉を再び取り上げ、公会議と同じ強さをもって全教会の名においてあの弾劾を繰り返します。わたしは、あらゆる公正な良心の真の意見を代弁していると確信します。「あらゆる種類の殺人、集団殺害、堕胎、安楽死、自殺などすべて生命そのものに反すること、傷害、肉体的および精神的拷問、心理的強制などすべて人間(ペルソナ)の十全を侵すこと、人間以下の生活条件、不法監禁、流刑、奴隷的使役、売春、人身売買などすべて人間の尊厳に反すること、また労働者を自由と責任のある人間(ペルソナ)としてではなく、単なる収益の道具として扱うような悪い労働条件など、これらのすべてと、これに類することはまことに破廉恥なことである。それは文明を毒し、そのような危害を受ける者よりは、そのようなことを行う者を汚すものであって、創造主に対するひどい侮辱である」5

4 残念なことに、このような憂慮すべき状態は、衰えるどころか拡大する傾向にあります。科学的、工業技術的な発展が切り開いた新しい展望のもとに、人間の尊厳に対するこれまでなかっような攻撃が目立ち始めています。同時に、新しい文化的な思潮が進展し、確固たる地歩を築つつあります。そこに生じるいのちに対する犯罪には、今までにない、はっきりいえばより邪悪な性格が認められ、これには重大な関心を向けざるをえません。世論のかなりの広がりの中で、個人の自由の権利の名のもとに、いのちに対する犯罪が正当化されています。このような立場に立つ人たちの主張によれば、国家は、懲罰を免除するだけでなく、そうした行為を自由に行うこができるように公認し、保健所などの施設の助けも借りられるようにすべきだというのです。

このようなことはすべて、いのちと人間関係をどうとらえるかという点に深刻な変化を引き起しつつあります。多くの国の法律は、それぞれの憲法がうたう根本的な種々の原則から離脱しまで、いのちに敵対するような実践行為を処罰しないどころか合法化する方向で定められています。この事実は、憂慮すべき事態の前兆であり、重大な道徳上の退廃をもたらすおそれがあります。かつては道徳通念において犯罪と見なされ、排斥すべきであるとされていた選択は、次第に社会的に容認されうるものとなりつつあります。人間のいのちを擁護し世話をすることが本来の努めであるはずの医療のある部門でさえ、人格に敵対する行為を進んで実施するようになってきました。このように、医療活動本来の使命はゆがめられ否定されており、こうした行為を実践する医療従事者の尊厳は地に落ちたといわざるをえません。このような文化的思潮や法律上の状況において、深刻な人口統計上の問題や社会や家族の問題などの解決の糸口は、偽りのもの、本筋を見誤らせて真理に敵対するもの、人々と国家の善に反するものだけに結びつくことになります。これらの深刻な諸問題は、世界の多くの人に重くのしかかり、国のレベルでも国際的なレベルでも、さまざまな組織体に責任ある対応と実効ある処置を求めています。

このような状況の行き着くところは、悲惨な状態です。すなわち、これから生まれようとするいのちであれ、死に直面しているいのちであれ、実に多くの人間のいのちが奪われているという重大で痛ましい事実があります。そればかりか、これほどまでに広がった風潮にいわば目をくらまされて、良心そのものが人間のいのちの根源的な価値にかかわることがらの善悪を識別することが困難になりつつあるという、重大で痛ましい事実もあるのです。

世界各地のすべての司教たちと連携して 

5 一九九一年四月四日から七日にかけて、ローマで臨時枢機卿会議が開催され、わたしたちは、今日、人間のいのちを脅かしている諸問題を集中的に討議しました。人類全体に、とりわけキリスト者の共同体に突きつけられているさまざまな問題や難題を徹底的かつ詳細に議論した後、枢機卿たちは全会一致をもってわたしに要請しました。すなわち、ペトロの後継者の権威をもって、今日、人間のいのちが脅かされている実状と攻撃の現状を明らかにし、人間のいのちとその不可侵性を再度力説するよう求めたのです。

わたしはこの要請にこたえ、一九九一年の聖霊降臨の祭日に、司教一人ひとりに個人的な手紙を送り、司教団との一致の精神のうちに特定の文書を作成するための協力を呼びかけました。6この手紙にこたえて、世界各地の現状、示唆や提言など貴重な協力を惜しまなかった司教の皆さんに深く感謝します。司教たちは、このような協力をもって、いのちの福音に関する教会の教義上の使命と司牧上の使命に参与したいという、一致した望みを表明しました。

『レールム・ノヴァルム』百周年記念の少し後に書いた手紙で、わたしは、ある際立った共通に司教たちの注意を喚起しました。「百年前、基本的な諸権利を抑圧されていたのは労働者階級でした。それで教会は、労働者には一人の人間としての神聖な諸権利があることを宣言し、権利の擁護に勇猛果敢に取り組みました。今日もなお、いのちの根本的な権利が抑圧されている別の種類の人々がいます。教会は、そのような声なき人々の側に立ち、かつてと同じ勇気をもって発言すべき責務を感じています。脅かされ、さげすまれている人々、人権が侵害されている世界中の貧しい人々を擁護するために、教会はつねに福音に基づいた叫びを上げるのです」7

今日、弱い立場の人、身を守るすべを持たない人、とりわけ胎児など、いのちの根本的な権利が踏みにじられている人々は、驚くほどたくさんいます。前世紀の末に、時代の不正義に対し発言したのであれば、今日、教会はなおさら黙っていることはできません。残念ながらいまだ克服されていない過去の社会的不正義は、新しい世界秩序という観点で発展の要素として示さているとしても、むしろ不正義と抑圧といういっそう痛ましい形態となって、世界各地で悪化の度合いを深めているのです。

世界各国の司教の協力の実りであるこの回勅は、人間のいのちの価値とその不可侵性を明確に力強く再確認しようとするものであると同時に、すべての人に向けられた神の名による緊急のアピールでもあります。すなわち、いのち、あらゆる人間のいのちを尊重し、守り、愛し、助けというアピールにもなっているのです。この方向においてのみ、わたしたちは正義、発展、真の自由、平和、幸福を見いだすのです。

このメッセージが、教会のすべての子らと、人々の幸福や社会の未来を心にかけているすべての善意の人に届きますように

6 信仰におけるすべての兄弟姉妹と深く結びついて、さらにすべての人とのまことの友情に励まされて、わたしはいのちの福音をもう一度黙想し、のべ伝えたいと願います。このいのちの福音は、良心を照らす真理の輝き、失われた視力を取り戻す光明、そして、人生の途上で出合う新しい数々の難題に直面する際の忠実さと不動の信念のための揺るぎない源です。

家族年における大きな体験を思い起こしつつ、「地球上のすべての地域の具体的な家庭」8にあてて書いた手紙をいわば完成するために、新たな確信をもってすべての家庭に思いを寄せて祈ります。現代の家庭が、いかに多くの困難や深刻な脅威の中にあっても、神の計画に沿って「いのちの聖域」9であり続けることができるために、総力を挙げて家庭を支えていく決意があらゆるレベルで再び現れ、強められますように。

いのちの民であり、いのちのために働く民である教会を構成するすべての人に、この緊急アピ−ルを投げかけます。ともに力を合わせて、この世界に希望の新しいしるしを提示しようではありませんか。そして、真理と愛に基づく真正な文明を築くために、正義と連帯を推進し、人間のいのちについての新しい文化が肯定されるよう、ともに手を携えて働こうではありませんか。

第一章:おまえの弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる 
(今日、人間のいのちに襲いかかる脅威 )

「カインは弟アベルを襲って殺した」(創世記4・8) 
いのちに敵対する暴力の根源

7「神が死を造られたわけではなく、いのちあるものの滅びを喜ばれるわけでもない。生かすためにこそ神は万物をお造りになった。……神は人間を不滅な者として創造し、ご自分の本性の似姿として造られた。悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を歩わうのである」(知恵1・13−14、2・23−24)。

人間が神にかたどって造られ、豊かにして完全ないのちという必然性に向けて造られたときに(創世記2・7、知恵9・2−3参照)初めて宣言されたいのちの福音は、世に入った死、人間存在全体に無意味という影を投げかける死、このような死の痛ましい体験によって否定されました。死は、悪魔のねたみと(創世記3・1、4−5参照)、わたしたちの最初の親が犯した罪の結果として(創世記2・17、3・17ー19参照)、また、カインが弟アベルを殺害するという暴力的なあり方で世に入ったのです。「二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」(創世記4・8)。

この最初の殺人は、普遍的な重要性を持つ創世記の中で独特の力強さをもって書き記され、無情にも人間の品位をおとしめるような形で頻発して、人類史という書物の中に日々書き改められいます。

この物語を読み返してみましょう。物語の構成は古風で、筋立ではいかにも単純ですが、学ぶき点は多々あります。

「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとにささげものとして持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとそのささげものに目を留められたが、カインとそのささげものには目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうて顔を伏せるのか。もしおまえが正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、おまえを求める。おまえはそれを支配せねばならない』。

カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。『おまえの弟アベルは、どこにいるのか』。カインは答えた。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか』。主は言われた。『何ということをしたのか。おまえの弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、おまえはのろわれる者となった。おまえが流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、のろわれる。土を耕しても、土はもはやおまえために作物を産み出すことはない。おまえは地上をさまよい、さすらう者となる』。カイン主に言った。『わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしがみ顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしが出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう』。主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう』。主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ」(創世記4・2ー16)。

8 カインは「激しく怒って顔を伏せ」ました。主が、「アベルとそのささげものに目を留められた」(創世記4・4−5)からです。この箇所では、神がなぜカインのささげものよりもアベルのささげものに目を留めたのかは明らかにされません。しかし、神はアベルのささげものをよしとしますが、カインと語り合うのを途中でやめなかったことをはっきりと示します。神はカインを諭し、悪に面と向かっても、人間は自由であることを思い起こさせます。つまり、人間は悪に運命づけられはしないのです。確かに、アダムと同様、カインは罪の邪悪な勢力にいざなわれます。野獣にも似たその勢力は、彼の心の戸口で待ち伏せており、いつでも獲物に襲いかかる態勢にあります。それでもカインは、罪に面と向かっていながら自由のままです。彼は罪に打ち勝つことができますし、打ち勝たなければならないのです。「罪はおまえを求める。おまえはそれを支配せねばならない」(創世記4・7)。

ねたみと怒りが主の警告を圧倒し、カインは弟を襲って殺害します。最新の『カトリック教会のカテキズム』に次の記述があります。「カインによるアベル殺害の物語の中で、聖書は人類史の初めから、原罪の結果として人間に怒りとねたみが存在することを啓示する。人間は仲間の人間に対して、敵となった」10

兄が弟を殺害するのです。この最初の兄弟殺しに見られるように、どのような殺人も、一つの大家族に人類を結び合わせる「霊的な」親族関係への侵犯です11。この大家族の中で、人は皆、同じ根源的な善を分かち合います。つまり人間は、等しく人格の尊厳を尊ばれるのです。また、血肉による親族関係も頻繁に侵害されます。たとえば、人工妊娠中絶などのように親子関係に生じるいのちへの脅威、あるいは、より広い家族ないし親族のかかわりの中で、安楽死が推奨され実践されることなどがあげられます。

隣人に向けられるあらゆる暴力行為の根底には、悪しき者、「最初から人殺し」(ヨハネ8・44)だった者の「考え方」にくみする心根があります。使徒ヨハネは次のように教えます。「互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました」(一ヨハネ3・11−12)。ですから、人類史の夜明けに起きたカインによる弟の殺害は、悪が目をみはるばかりの速度で広がっていくことを、悲しくもあかしします。地上の楽園で人間が犯した神への背反は、人と人との間の恐るべき闘争へと発展します。

犯行後、神は殺人者への復讐に介入します。アベルの安否を尋ねる神の前で、カインは後悔の情を表して謝罪するどころか、尊大にもその質問をかわします。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(創世記4・9)。「知りません」。この言葉で、カインは自分の犯行をうそで固めようとします。これはあらゆるイデオロギーが、人類に対する残忍極まる犯罪を正当化し、取り繕おうとするときにとる常套手段であり、かつてもそうでしたし今でもそうです。「わたしは弟の番人でしょうか」。この言葉で、カインは兄弟の安否を気遣うどころか、人間である以上だれもが他者に対して持っている責任を引き受ける気がないことを表明します。人々が自らの兄弟姉妹への責任を負おうとしない今日の傾向について、考えずにはいられません。こうした兆しは、高齢者、病人、寄留民、子供などのような社会のもっとも弱い立場の人々への連帯感の欠如です。また、いのちの存続、自由、平和など基本的な価値に影響を及ぼすような場合であっても、世果中の民族間の関係にしばしば見られる無関心でもあります。

9 しかし、神は、カインを処罰しないままにしておくことはできませんでした。殺害された者の血を吸った大地から、その者の血が、神による正しい裁きを要求するからです(創世記37・26、イザヤ26・21、エゼキエル24・7−8参照)。この聖書の箇所から、教会は、「正義を求めて、神に向かって叫ぶ罪」という言い方をするようになります。そのような罪の第一に、教会は意図的なな殺人を含めました12。古代では多くの民族がそうであったように、ユダヤの人々にとっても血はいのちの源です。実に、「血はいのち」(申命記12・23)であり、いのち、とくに人間のいのちは神にのみ属します。それゆえ、人間のいのちを攻撃する者はだれであれ、ある意味で神自身を攻撃することになるのです。

カインは、神からも大地からものろわれる者となりました。大地は、カインのために作物を産み出さなくなりました(創世記4・11ー12参照)。カインは罰せられたのです。彼は荒れ地と砂漠で暮らすことになります。殺人に結びつく暴力は、人間の環境をその深みから変えてしまうのです。この地上は、「エデンの園」(創世記2・15)、豊かな地、調和ある人間関係の地、神との友情の地から、「ノド(さすらい)の地」(創世記4・16)、欠乏と孤立の地、神から引き離された地となります。カインは、「地上をさまよい、さすらう者」(創世記4・14)となり、不安定と落ち者きのなさが永久に彼につきまとうのです。

しかし、神は罰するにあたってもつねにいつくしみ深く、「カインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」(創世記4・15)のです。それは、他の人々の憎悪の手に彼を渡すためではなく、むしろアベルの死に報復しようとする殺害の手からカインを守るためでした。殺人者といえどもその人格の尊厳を失わないのであり、神自身がその保障を明確に約束したのです。まさしくここに、神のいつくしみ深い正義という逆説的な神秘が、はっきりと示されます。聖アンブロジオは、その間の事情を次のように説きます。「この近親者殺害」いう罪深い行為が最初の犯罪であると認められると、すぐに神のいつくしみという神法の枠が広げられなければならなかった。懲罰がすぐに罪びとに与えられるなら、正義を実践する者は少しのためらいも手心を加えることもなく、罪びとは即座に懲罰に付されたであろう……。神は目の前からカインを追放し、住み慣れた地からはるか遠方へと流刑に処した。こうして、カインは人間的な情や思いやりのある生活から、野獣の粗暴なありようにいっそう近い暮らし方へと転がり落ちた。罪びとの死よりも、彼が新たに歩み出すことをこそ望む神は、殺人を犯した者が、もう一つの殺人行為によって処罰されることを望まなかった13」。

「何ということをしたのか」(創世記4・10) 
いのちの価値を滅ぼす行為 

10 主はカインに言われた。「何ということをしたのか。おまえの弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(創世記4・10)。人間の手によってこれまでに流された血の声が、どの時代にあってもいつも生々しく、さまざまに叫び続けています。

「何ということをしたのか」という、カインが逃れることのできない主からの問いかけは、現代を生きる人々にも向けられています。それは、人類の歴史を特徴づけつつある、いのちへのさまざまな攻撃が持つその範囲と重大さを悟らせ、このような攻撃がどのような原因から引き起こされ、助長されるのかを明らかにし、各個人と民族に加えられるこうした攻撃から派生するさまざまな結果を真剣に熟考させるのです。

自然界自体からくる脅威もあります。しかし、ある場合にはこのような脅威を取り除くことができる人の、非難されてもおかしくないような無関心や怠慢によって、事態はいっそう悪化します。暴力、憎悪、利害の対立などの状況からも、別の脅威が結果的にもたらされます。暴力、憎悪、利害の対立は、殺害、戦争、虐殺、そして大量殺戮へと人々をあおり、他者を攻撃させるのです。

数百万の人間、とくに子供たちのいのちに加えられる暴力を、どうして見過ごしにできるでしょうか。民族間あるいは社会階層間において資源が不正に分配される結果、彼らはただでさえ、貧困、栄養不良、飢餓を強いられているのです。戦争に伴う暴力だけでなく、恥ずべき武器売買に必然的に伴う暴力にも目を向けなければなりません。世界を血で染める数々の武力衝突は、この武器売買が原因で起こります。世界の生態環境のバランスに何の配慮もなく不正に手をつけることに、薬物による犯罪の増加、あるいは道徳的に容認できないばかりでなく、いのちに対する重大な危機を伴う性行動をもてはやすことなどが原因となって、死がどれほど増大の一途をたどっていることでしょうか。人間のいのちに対する脅威は膨大な数に上り、これを完全に列挙するのは不可能です。あからさまにであれ、ひそかにであれ、今日現れている脅威の形態は、それほど多数に上ります。

11 さてここで、いのちの初めの段階と終わりの段階で、人間のいのちを侵す別の攻撃に特別の注意を向けてみましょう。このような攻撃は、過去にあったものに比べて新しい特徴を示しており、きわめて深刻な問題を提示します。これらの攻撃を、もはや「犯罪」と見なすべきではないというのが一般的な見解となっています。それだけでなく、国家はそのような攻撃を法的に容認すベきであり、医療に携わる人々による無料のサービスを受けられるよう国が配慮すべきだと要求するまでに、「権利」を逆説的にとらえています。このような攻撃は、もっとも弱くもろい時期の人間のいのちに、つまり自らを守る手だてを持たない時期にあるいのちに打撃を加えます。さらに深刻なのは、これらの攻撃がきわめて頻繁に、家族のただ中において、家族の共謀のうえで実施されるという事実です。本来「いのちの聖域」であるはずの家族において、このように行われているのです。

どうしてこのような状況が生じるのでしょうか。さまざまな要素を考慮に入れなければならないでしょう。その背景には、文化のはかりしれない危機的状況があります。それは、知識と倫理の基礎そのものに関して疑念を生み出す危機であり、人間とはそもそも何であるか、人間の権利とは何であり、責務とは何であるかを、明確にとらえることが次第に困難になってきているという状況です。実存的な問題、対人関係にまつわるあらゆる種類の問題が噴出しており、それらは社会が複雑になればそれだけいっそう困難を伴うのです。そのような社会の中で、個人、カップル、家族は、それぞれ自分の問題を抱え込んだまま途方に暮れることが多々あります。極度の貧困や不安やフラストレーションを何とかしようとする苦悩、耐えがたい苦痛、あるいは暴力行為、とりわけ女性に向けられる暴力行為などの状況があり、その中では、いのちを守り育てるためには、時には英雄的というほかないほど厳しい選択を強いられるのです。

これらすべては、いのちの価値が今日どのようにしてある種の「消滅」状態にさらされるかを、ある程度まで説明します。このことは、いのちは神聖で不可侵の価値であることを良心が示し続けるとしても、初期段階あるいは最終段階のいのちに対するある種の犯罪を隠そうとする傾向において明らかです。そこでは、内包されるのは現実の人間が持ついのちへの権利であるという事実から注意をそらさせるような医学用語を駆使して、犯罪を隠そうとするのです。

12 道徳上の不安定さが広範囲に及んでいる現状は、今日の社会問題が持つ多様性と重大性からある程度説明されうるでしょうし、これらの問題は時に各個人の主体的責任を軽減しうるのです。けれども、わたしたちが直面しているのは、まぎれもなく罪の構造というほかはない、より大きな現実であることに間違いありません。この現実は、連帯性を否定する文化、多くの場合「死の文化」という形をとるような文化の台頭によって特徴づけられます。この文化は、文化的、経済的、政治的な力強い思潮によって、大いに助長されます。この思潮は、過度に効率を追求する社会を理想として押し立てます。この見方から状況を検討すると、これはある意味では、強い者が弱い者にしかける戦争だということができます。いっそうの配慮をもって受け入れられ、愛され、世話されることを求めるいのちは、無用の長物と見なされ、がまんできない重荷とされ、こうして弱者はいずれにしても排斥されるのです。疾患やハンディキャップのゆえに、いやもっと単純に存在しているそのことによって、より恵まれている人々の幸福と生き方を危うくしかねない人は、阻止すべき敵、あるいは排除されるべき敵と見なされる傾向があります。こうして、一種のいのちに対する共謀」がのろしを上げます。この共謀は個人的な関係、家族や集団の諸関係における各個人だけでなく、さらに進んで国際間のレベルで、民族と国家との間の関係をも損ない、ゆがめるものとなっています。

13 人工妊娠中絶を広く行き渡らせるために、今日まで巨額の資金が投資されました。また、医療上の手助けなしに、母親の子宮内の胎児を殺害することを可能にする薬品の生産に投資が続けられています。この点について科学的研究そのものは、製品開発のことでただただ頭がいっぱいのようです。このような製品は、非常に簡単かつ効果的にいのちを停止させ、同時に人工妊娠中絶を、いかなる種類の制限もしくは社会的な責任にも抵触させずに済ませることのできるものとなっています。

安全でだれでも利用できるのであれば、避妊は人工妊娠中絶を回避するもっとも有効な救済策であるという見解がしばしば主張されます。それで、カトリック教会は実際上、人工妊娠中絶を推進しているのだと非難されます。教会は、避妊は道徳上不法であると頑固に教え続けているから、というわけです。注意深く検討してみるならば、この反論に根拠がないのは明らかです。おそらく多くの人は、次にくる人工妊娠中絶という誘惑を退けようとして避妊するのでしょう。しかし、「避妊を容認するメンタリティー」に本来伴う種々の否定的な価値は、-この態度は責任ある親であることや、夫婦間の行為の真実を十分に尊重したとらえ方からほど遠いのですが-望まない妊娠でいのちを宿したとき、この誘惑を現実のものにしてしまいかねません。避妊に関する教会の教えが排斥される、まさにそうした地域において、人工妊娠中絶を容認する文化はとりわけ強い勢力となっています。道徳的な観点からいって、避妊と人工妊娠中絶は、本質的に異なる悪であるのは確かです。前者は、結婚生活における愛情の固有な表現としての性行為の十全な真実を否定します。また、後者は人間のいのちを破壊します。前者は結婚における貞潔の徳に反するのであり、後者は正義の徳に反し、さらに「殺してはならない」という神のおきてを直接に侵害します。

本質と道徳上の重大性が相違するにもかかわらず、避妊と人工妊娠中絶とは一本の樹木に実る実のように密接に結びついています。多くの場合、避妊、さらに人工妊娠中絶でさえも、現実の生活でのさまざまな困難からの圧迫が原因で実践される、というのが実際のところです。とはいえ、そのような困難があるからといって、神法を完全に遵守する努力から免除されるわけではありません。しかし、それ以外のほとんどの場合、そのような実践は性愛にかかわる責任を引き受けようとしない、いわば享楽志向に根ざします。このような実践に立つ人は、自由を自己中心的にとらえ、子供を産むことは個人が成熟することにとって障害になると見なします。二人の間の性行為の結果として生じたいのちは、こうして何としてでも回避すべき敵となります。人工妊娠中絶は、失敗に終わった避妊への、唯一可能で決定的な解答となるのです。

気持ちの中では、避妊の実践と人工妊娠中絶との間には、密接な結びつきが存在しており、それは次第に明白になってきています。このことは化学製品、避妊リング、ワクチンの発展によって、驚くほどはっきりと示されます。現実には、芽生えたいのちのごく初めの時期に流産を促す作用をもたらすものが、避妊用具を使うのと同様の気軽さで広く用いられているのです。

14 いのちに資すると思われ、またしばしばその目的で用いられる人工受精の技術は、現実には、いのちに対する新たな脅威に門戸を開きます。それらの技法は道徳的に容認できないという事実は別にして、夫婦問の行為を十分に人間的なものととらえる立場から子供を産むことを切り離すので14、このような技法が失敗に終わる確率は高いのです。受精の面での失敗だけでなく、その後の胚芽の発達についても同様で、ふつうはごく短期間のうちに死の危険にさらされます。さらに作り出された胚芽の数は、女性の子宮に移植されるに必要な分量をはるかに超える場合が多々あります。そして、いわゆる「予備の胚芽」は破壊されるか、もしくは研究用に回されます。科学や医学の発展を口実に、実際には人間のいのちを自由に処理される単なる「生物学的材料」のレベルに引きずり下ろしているのです。

子宮内の胎児に必要な医学上の処置を特定する目的であれば、胎児診断を行うことには道徳な問題はありません。それでも、胎児診断もまたしばしば、人工妊娠中絶へと進ませ、それを実施させる機会となっています。これは、心情的には世論が正当としている優生学上の人工妊娠中絶です。「治療上の介入」が必要だとする要求に矛盾しないと、間違ってとらえられているのですが、優生学上の人工妊娠中絶は、ある条件のもとにのみいのちを受け入れ、何らかの障害やハンディキャップ、あるいは疾患を被っている場合には、いのちを排斥します。

この論理に従って、重度のハンディキャップや疾患を持って生まれた子供には、もっとも根本的ケア、養育でさえ拒否される事態に至っています。現状は、それ以上に警戒すべきものになりつつあります。人工妊娠中絶の権利を正当化するために用いられるあの論理に従って、生まればかりの子供を殺すことでさえも正当化する提案が各地で推し進められているからです。こうしてわたしたちは、永久に退けておきたいと望んだはずの野蛮なふるまいに立ち戻るのです。

15 深刻な脅威が、不治の病にある人、死にゆく人にのしかかっています。苦しみに直面し、それを受け入れるのをいっそう困難にする社会的かつ文化的な思潮において、苦しみを根本において取り除くことによって、あるいはもっとも適当と見なされる時に死を早めることによって苦しみの問題を解決してしまいたいという誘惑は、よりいっそう強いものとなります。そのような決断に至るのは、ふつうはさまざまな考えがあってのことですが、このさまざまな意見は、同じ一つの恐るべき結論に落ち着きます。病人が感じる苦悩、深い苦しみ、極度のしかも長引く苦痛から起こる絶望感などが、決定的な要因になることがあります。そのような状況は個人生活の、また家族生活のすでにもろくなっている心の安定に追い打ちをかけるので、一方で病人は、ますます効果を表している医学上の支えや社会からの支援があるにもかかわらず、自らの弱さに押しつぶされる思いに身を任せかねません。他方、病人を取り巻く人々は、はき違えた同情であるにしても、理解できる心情に動かされることがあります。このようないのちをなおざりにするすべては、苦しみに意味もしくは価値を認めない文化、それどころか苦しみは悪の縮図であり、何としてでも除去すべきものと見なす文化的思潮によって増幅されます。苦しみの神秘を前向きに理解させうる宗教観が不在の場合、そのような傾向はとくに顕著になります。

世間一般のレベルでは、現代の文化には一種の非常に独創的な態度があります。それによると、人々は、生死の決定は自分たちの手中にあり、生と死はどのようにも左右できると考えます。このような場合、どのような意義も感じられず、何の見込みもないところへ追い詰める死によって、その個人は打ち負かされ、押しつぶされてしまうのです。安楽死が、何らかの口実のもとにまた内密に行われ、あるいは公然と、そして時には合法的に実行されるという具合に広く受け入れられる現状には、これらのすべての痛ましいありようがうかがえます。患者の苦しみを目の当たりにして、見当違いの同情が理由となることもありますが、それに劣らず、実用上の動機から安楽死が正当化されることも時にはあるのです。つまり、何の益もなく社会に多大の負担をかけるだけなら、そのような無益なことはやめようというのです。こうして安楽死は、奇形のある乳児、重度のハンディキャップのある人、障害のある人、高齢者、とりわけ彼らが自立できない場合、また病人が末期にある場合に、これらの人々を排除する目的で持ち出されます。これとは別のごくひそかな、しかし現実に行われる深刻な安楽死の形態を考えると黙っていることはできません。そのような安楽死は、たとえば移植に必要な臓器を入手できる可能性を十分に確保する目的で、提供者の死を確定する客観的で十分な基準を考えずに臓器が摘出される事例を引き起こすことになります。

16 いのちに対する脅威と攻撃を正当化するために頻繁に利用されるもう一つの現代的な現象が、人口にかかわる問題です。これは、世界各地でさまざまな形で現れています。富める国々、発展した諸国において、出生率の憂慮すべき減少、急激な衰退があります。他方、貧しい国々はふつう人口増加率が高く、経済的かつ社会的な発展が大きくは望めないこともあって、人口を支えきれないものとなっています。極端な低開発にとどまる地域ではとくにそうで、貧しい国々では人口過剰に対して、家族政策と社会政策に真剣に取り組むこと、文化振興プログラムの推進、生産品と資源の公正な分配を実現する計画などといった、国際的なレベルで世界各地と手を結ぶ形をとる代わりに、出生を抑制する政策がとられ続けています。

避妊、不妊手術、人工妊娠中絶は多くの場合、確かに出生率の急激な低下の原因です。「人口爆発」の状況があるところでは、いのちに対して同様の方法や攻撃を使ってみようという気にさせられるのは無理もありません。

かつて、ファラオはイスラエルの子孫が存在することに不安を覚え、またその数が増えることに悩まされ、彼らにあらゆる種類の苦役を課し、ヘブライ人の女性が産む男の子はすべて殺すように命じました(出エジプト1・7−22参照)。今日、世界の強大な権力を握る少なからぬ為政者は、同様の施策を行っています。彼らもまた、現今の人口増加に悩まされており、多産できわて貧しい人々は、自国の幸福と平和にとって脅威になると恐れるのです。したがって、個人と家族の尊厳を尊び、すべての人が持つ人間のいのちについての不可侵の権利を顧慮して、これらの深刻な問題に取り組み、解決しようとするよりは、むしろ産児制限にかかわる大がかりなプログラムを推進し、押しつけることのほうを選びます。彼らが進んで与えようとする経済上の援助でさえ、出生抑制政策の受け入れを盾にした不正な条件のもとで実施されるのです。

17 いのちへの攻撃がどれほど広範囲に広がっているかだけでなく、その攻撃がこれまでにないはどおびただしい数に上っているかを考えてみると、また、いのちへの攻撃が社会での幅広い合意から広範で強力な支持を受け、さらに合法的に承認する態度が行き渡り、健康管理を業務とするある種の施設部門を巻き込んでいることからも同じような支持を受けている事実を考え合わせるなら、今日、人類はまことに憂うべき状態にあります。

デンバーにおける第八回世界青年の日に際して強調したことですが、「時の経過とともにいのちに対する脅威は衰える気配を見せるところか、むしろ莫大な数に上るように思われます。脅威は外部から、つまり本性が及ぼす力、あるいは『アベル』を殺害する『カイン』からくるだけではありません。そうではなく、それらは科学的かつ組織的に仕組まれた脅威なのです。二十世紀は、いのちに大がかりな攻撃が加えられた時代、戦乱の絶えなかった時代、罪のない人間のいのちが間断なく奪い取られた時代として、歴史に名を残すでしょう。偽りの預言者、偽教師たちが限りない成功を博しているのです15」。心づもりはさまざまでありえますし、時にはもっともらしく見えることがあります。けれども、そのような意図はひとまずおいて、とくに連帯の名のもとに提示される場合、わたしたちは実際には客観的な「いのちに対する脅威」に直面します。それには避妊、不妊手術、人工妊娠中絶を大々的に利用できるようにする具体的なキャンペーンを奨励し実行することに携わる、国際的な諸機関までが含まれます。マスメディアもこの謀議にしばしば関係しているのは、否定できません。無条件の妊娠中絶合法化に反対する立場は自由と進歩の敵対者だと盛んに言い触らす一方で、避妊、不妊手術、人工妊娠中絶に頼ること、さらには進歩のしるし、自由の勝利として、安楽死にさえ依拠してはどうかと提示する文化を信用させることに、マスメディアは加担するのです。

「わたしは弟の番人でしょうか」(創世記4・9) 
自由についての誤った観念 

18 右に述べた概観は、特徴となっている死という現象の観点からだけでなく、この概観を決定づけるさまざまな要因という観点からも理解する必要があります。主は、「何ということをしたのか」(創世記4・10)と問いかけています。この問いはカインによって表に現された、自らの殺人行為自体を乗り越えるよう、カインに呼びかけられた招きだと思われます。その殺人行為を引き起こした種々の動機が持つ重大性と、その行為から生じたさまざまな結果の重大性を、カインに気づかせようとするのです。

いのちに敵対しようという決意は、時に困難な、あるいは悲劇的な状況から生じます。つまり悲痛な苦しみ、孤独、経済的に豊かになる見込みがまったくないこと、将来に望みが持てず不安のみがあることなどです。このような状況では、個人の主体的な責任、および、本質的に悪であるこのような選択を行う人々に必然的に伴う罪責性は、相当程度まで軽減されうるのです。しかし今日、問題は、このような人間の状況が必然的に見分けられないものとなっているところにあります。それは文化的、社会的、政治的レベルに存在する問題です。そのような諸レベルにおいて、問題そのものにいっそう邪悪で憂慮すべき側面があることは明らかです。その側面とは、いのちに対する右に述べた諸犯罪は、個人の自由を合法的に表すものと解し、事実上の権利として承認され擁護されるべきものだとする傾向の中にうかがわれます。このような傾向は、かつてないほどに広く浸透しているのです。

このように、悲劇的な結末を伴いつつ、長い歴史の流れは一つの転機にさしかかっています。この流れの一時期に、すべての人に生来備わり、どのような憲法や国法にも優先する権利、つまり「人権」の理念を発見するまでになりました。しかし今日、この流れは驚くほどの矛盾に満ちています。人格の諸権利が不可侵であると荘厳に宣言され、いのちの価値が不可侵であると公式に確認されている、まさにそうした時代にあって、とくにいのちが重要な意味を持つ誕生の時と死の時において、いのちの権利そのものが否定され、踏みにじられるのです。

一方で、人権をめぐるさまざまな宣言と、そのような宣言に基づく多くの計画が提唱されてます。このようなことは、人種、国籍、宗教、政策上の見解、社会階層のいかんを問わず、人間一個人として有する価値と尊厳をしっかり認めようとする道徳的な感受性が、世界規模で育ちつつあることを示しています。

他方、注目に値する宣言は不幸にも、実際には悲劇的なまでに排斥され、否定されているのす。この拒絶は現在もますます圧迫の度合いを強め、これには怒りさえ感じます。人権の肯定と擁護を第一の目標とし、それを誇りとするはずの社会において、まさにそのことが起きているからです。原理原則を繰り返し表明することと、人間のいのちに対する攻撃を正当化する動きが引き続き増大し拡大していく現実との隔たりは、どのようにすれば調和させることができるのでしょうか。弱者、困窮者、高齢者、胎内に宿ったばかりのいのち、これらの受け入れを拒絶する現実と、これらの宣言とをどのようにすれば調和させることができるのでしょうか。このような攻撃は、いのちを尊重することに直接的に向けられ、人権の文化全体に直接的な脅威を差し向けます。それは結局、民主主義的な共存の意義そのものを危うくしうる脅威です。つまり、「人々がともに暮らす」社会どころか、わたしたちの町が、排斥され、置き去りにされ、流民となり、抑圧される人々の社会となる危険があります。このような点をより広い世界的視野で眺めるとしても、富める国々が貧しい国々から発展する権利を奪う身勝手さ、あるいは発展と人間そのものとの間の対立という構図を作って、貧しい国々の発展する権利を子供を産むことに対する自分勝手な禁令に基づかせる、富める国々の身勝手さを暴くことができないなら、著名な国際会議で採択された各個人および諸民族の権利の主張が、机上の空論にすぎないものであると考えずにいられるでしょうか。諸国家がしばしば採用する経済形態そのものを問わなければならないのではないでしょうか。これらの経済形態は、国際的な種々の圧力とさまざまな条件がもたらす結果でもあるのですが、すべての民族のいのちの価値が損なわれ踏みにじられる不正義と暴力的な状況を引き起こし、増幅させるのです。

19 このはなはだしい矛盾の原因は何でしょうか。

主体性の概念を極端に解釈し、歪曲すらするメンタリティー、そして十全な自立性もしくは少なくとも初期の自立性を享受する人、また他者に全面的に依存する状態から脱した人、このような人だけを権利の主体として認めるメンタリティーから始めて、文化的、道徳的な本性を徹底的に精査すれば、その原因は突き止められます。しかし、このような取り組み方と、「物として用いられるべきでない」存在として人間を称揚する立場とは、どのように調和させることができるのでしょうか。人権の理論は、人格は動物や物体とは異なり、他者の支配に服従させられることがあってはならないとする主張に基づくのです。人格の尊厳を、言葉による明快なコミュニケーション、あるいは少なくとも知覚でとらえることのできるコミュニケーションの能力と同一視しがちなメンタリティーをも指摘しておかなければなりません。このような前提に基づいて、胎児や死に臨む人のように、社会構造の中では弱い要素であり、あるいはまったく他者のなすがままで、他者に本質的に依存するしかないような人、そして、声にはならない深い情愛をもってのみコミュニケーションを行うことのできる人にとって、この世界では立場がないのは明らかです。この場合、対人関係、社会生活における選択、そして行動の基準となるのは力です。しかしこのことは、「理性の力」が「力の根拠」に取って代わる共同体としての法治国家が、歴史上主張しようと志したところに真正面から対立します。

別のレベルにおいて、人権を荘厳に宣言することと、実践においてそれを悲劇的なまでに否定することとの間に矛盾が生じる理由は、自由のとらえ方にあります。徹底して孤立した個人の立場を称賛する自由、そして連帯や他者に心を開くことや他者への奉仕などを振り返ることもない自由こそが問題です。胎児のいのち、あるいは死を間近にしたいのちを取り去ることは、時に利他主義と思いやりのはき違えを示しており、そのような全体として見た死の文化は、自由を完全に個人に属するものとする考えを露見させるということは否定できません。そのような自由は結局のところ、服従する以外に選択の余地のない弱者に対する、「強者」の自由となるのです。

まさにこのような意味において、「おまえの弟アベルは、どこにいるのか」という主の問いかけに対するカインの答えは解釈されうるのです。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(創世記4・9)。まさしくすべての人は、兄弟の「番人」です。神はわたしたちを互いに守り合うようゆだねたからです。神が、本質的にかかわるという次元を持つ自由をすべての人に与えるのは、このゆだねるということが行われるためでもあったのです。自由は、創造主からの大いなるたまものです。人間が自己をささげ、自己を他者に開くことによって、人格とその完成に資するようにと定められたたまものです。とはいえ、自由が個人主義的なありように固定されてしまうとき、自由は本来の内実を失い、その意義そのものと尊厳は否定されます。

ここでさらに強調しておくべき重要な視点があります。すなわち、自由が本質的に真理に結びつくことをもはや認めず尊重もしないなら、自由は自己を否定し自己を破壊するのであり、ひいては他者を破壊へと引きずり込む要因となります。自由が伝統と権威のあらゆる形態から脱しようとして、個人の生活と社会生活の基礎である客観的で普遍的な真理のもっとも明白な根拠さも締め出すとき、人間にとって善悪に関する真実は、もはや、自分が行う選択の唯一、確かな判断材料ではなくなり、主観的で変わりやすい意見、あるいは自分の利得と気まぐれに左右されるだけということになります。

20 このような自由の見方は、社会におけるいのちをひどくゆがめたものとします。自我の成熟が、自律こそが絶対的な価値だとする観点で理解されるなら、人々が互いに排斥し合うようになるのは避けがたいことなのです。人という人は、その手からわが身を守るべき敵だと見なされす。こうして社会は、互いに近くにいても、相互を結ぶいかなるきずなもない個人の集団になます。人間は、他者とは何のかかわりもなく自己の権利を主張しようと欲し、実際、自らの利得を拡大しようとします。それでも人が、すべての人に最大限可能な自由が保障される社会を望むのであれば、他者が自分の利得と類似した利得を持つ場面にあっては、ある種の妥協が必要となります。こうして、もろもろの共通の価値や、すべての人をしっかりと結び合わせる真理に言及することはなくなり、社会生活は、完全な相対主義という絶えず移り変わる砂粒のように、変転の旅へ乗り出すことになります。その時点で、すべては交渉によって決着し、すべては取引でなんとかなるものとされるのです。根本的な諸権利の中で第一のもの、すなわちいのちへの権利であっても取引の対象となるのです。

政策と政治のレベルで行われるのも、これに類することです。つまり、いのちへの本来的にして、譲り渡すことのできない権利が、議会での投票や、過半数を得たものであっても人々の一部の意志に基づいて討議され拒絶されるのです。これが、無敵の勢力を誇る相対主義がもたらすよこしまな結末です。すなわち、「人権」はもはや人間の不可侵の尊厳の上に堅固に築かれるのではなく、より強い者の意思に従わされるので、本来の意義を失うのです。こうして、自らの諸原則を否定する民主主義は、事実上、全体主義の形態をとるようになります。国家はもはや、根本的な平等原理に基づき、すべての人がともに生きることのできる「共同の家」ではなくなります。実際にはある一部の者の利益でしかないところを、公共の利益のためという名目で、胎児から高齢者までを含むもっとも弱く罪のない人のいのちを殺害する権利を、不当にもわがものとする専制国家へと変質します。少なくとも人工妊娠中絶と安楽死を容認する法律が、一般的に民主主義の規則とされるところにのっとった投票結果である場合には、表向きは法律の遵守をきわめて厳格に保持します。実際には、わたしたちの前にあるのは、法律の遵守の悲しいまねごとにすぎません。民主主義の理想は、すべての人の尊厳を認め、擁護して初めて本物となるのですが、その理想はすでにその基礎において裏切られています。「もっとも弱い者、何の罪もない者のいのちを殺害することが容認されるとき、すべての人の尊厳についていったい何を語ることができるのでしょうか。正義の名のもとに、どれほど差別という最たる不正が行われているのでしょうか。この人は擁護されるに値すると見なされ、あの人はその尊厳が拒絶されるということがあってよいのでしょうか16」。このようなことが起きるとき、真に人間的な共存の崩壊と国家そのものの分裂への歩みは、すでに始まっているのです。

人工妊娠中絶、生まれたばかりの子供を殺すこと、安楽死の権利の要求、法制上それらの権利を承認するよう求めることは、人間の自由に誤った邪悪な重要性を持たせることになるのです。すなわち、他者の上に立ち、他者に反する絶対的な力を持つのです。これは聖書に書かれているように、自由の死にほかなりません。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハネ8・34)。

「わたしがみ顔から隠されて…」(創世記4・14) 
神観念の喪失と人間の意義の喪失 

21 「いのちの文化」と「死の文化」との間に生じる闘争の根本的な原因を探る際に、わたしちは右に述べた自由についての誤った観念にとらわれてはなりません。現代人が経験している悲劇の中心部へ分け入る必要があるのです。すなわち、世俗主義に特徴づけられた社会的、文化的状況を特徴的に示す神観念の喪失と人間の意義の喪失を省察しなければなりません。世俗主義は至るところに手を伸ばし、時にキリスト者の共同体そのものを試すことに成功しています。世俗主義の風潮に流されるままに身を任せる人は、悲しむべき悪循環へと容易に陥ります。神観念が失われるとき、人間存在の意義、人問の尊厳の意義、人間のいのちの意義もまた失われる傾向が見られます。こうして、道徳法への組織的な侵犯、とくに人間のいのちとその尊厳への敬意に関する侵犯において、神の救いをもたらす生気みなぎる現存を識別する能力が、次第に衰退していくようになるのです。

わたしたちは再び、カインによるアベル殺害の物語から洞察を得ることができます。神によってカインにのろいがかけられてから、カインは主に語ります。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしがみ顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」(創世記4・13ー14)。カインは、自分の罪は主からゆるしを得られないもので、自分の逃れようのない運命は神から「顔を隠さ」なければならないほどのものだと思い込んでいたのです。カインが、自分の過ちは「とても担えないほど大きい」と告白できるとすれば、それはカインが神の前に立っており、神の正しい裁きに直面していることに気づいているからです。人間が自の罪を認め、その重大さを十分に認知できるのは、実に神の前においてだけです。これは、「主のみ前に罪を犯した」後、預言者ナタンに叱責されて祈り叫んだダビデが体験したことでした。「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪はつねにわたしの前に置かれていす。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」(詩51・5ー6)。

22 したがって、神観念が失われると、人間の意義もまた脅かされ侵害されます。第二バチカン公会議は簡潔にこう述べます。「創造主なくしては被造物は消えうせる。…しかも神を忘れれば被造物さえ不明瞭になる17」。人間は、もはや地上の他の被造物とは「神秘的に異なった」存在として自分を見ることができなくなります。つまり、人間は自分のことを、より生き生きした一個の存在にすぎないもの、せいぜいきわめて完成度の高い段階に到達した生物と見なすことになります。その肉体そのものという狭い考えに取り込まれると、人間はどういうわけか「単なる物」としての存在に変質します。そして、もはや「人間としての実存」の「超越的」性格を把握しなくなります。さらに人間は、いのちを神からの輝かしいたまものとして、すなわち、自らの責任および思いやりに満ちた世話と「畏敬」にゆだねられた、「神聖な」ものと見ることはありません。いのち自体は単なる「物」となり、人間はいのちを自分だけの所有物、自分で完全に制御し操作してかまわないものだと主張します。

こうなると、誕生あるいは死に際してのいのちに関連して、人間は自分の実存にかかわるもっとも本質的な意味を、もはや問うことはできません。また、人生の歩みにおける決定的な局面を本来の自由に突き合わせて考察することができません。人間は、何かを「行う」こと、あらゆる技術を駆使することにのみ関心があり、誕生と死についてさえ計画を立て、これを制御し支配することに没頭します。誕生と死は、「生きる」ことを求める第一義的な経験であるはずですが、そうではなく、単に「所有される」かあるいは「排斥されるもの」になります。

さらに、ひとたび神を考慮しなくなると、あらゆるものの意義が根こそぎ歪曲されてしまうのは驚くにあたりません。自然そのものは、「母なるもの」から今では「物質」に引き下げられ、あらゆる操作の対象となっています。これは一つの方向性です。そこでは、今日の文化に広く行き渡っているある種の技術的で科学的な思考方法が、先導役を果たすものとして現れます。このような思考方法は、承認されるべき創造の真理、あるいは尊重されるべきいのちに対する神の計画があるとする考えそのものを排斥するとき、現れるのです。「法を度外視した自由」がもたらす結末についての懸念が、「自由を度外視する法」といった対極へ人々を導くとき、同様のことが起こります。たとえば、どのような方法であれ自然に干渉するのは違法であるとして、自然を事実上「神格化」するイデオロギーにおいて起こるのです。このこともまた、自然は創造主の計画に基づいて作られたことを曲解するものです。こうして、神の知恵に満ちた計画との触れ合いの喪失が規制のない自由を招き、人間をその自由に対する「おそれ」のうちに置き去りにするとき、このような喪失が現代人に混乱を生じさせるもっとも深刻な原因であることは明らかです。「あたかも神は存在しないかのように」生きることによって、神の神秘だけでなく、世界と自分自身の神秘までもが見失われるのです。

23 神観念の喪失と人間の意義の喪失は、実践的な唯物主義を不可避的に招きます。これは、個人主義、功利主義、快楽主義を引き起こします。ここでもまた、使徒パウロの言葉がいつの世も当てはまることが分かります。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」(ローマ1・28)。存在する価値は、所有する価値に取って代わられます。唯一の目標と見なされるのは、自分の物質的な幸せの追求です。いわゆる「生活の質」は、第一義的に、あるいはもっぱら経済上の効率、極端な消費主義、身体上の美しさや快楽であると理解され、人間の実存のより深遠な次元、すなわち人間関係の次元や霊的で宗教的な次元はなおざりにされるのです。

このような状況において、人間の実存に不可避の重荷ですが、人間的成長を約束する要因の一つでもある苦しみは「厳しく吟味され」、無用のものとして排除され、実にいつでもどのようにしてでも回避されるべき悪として反対されるのです。苦しみを避けることができず、将来のわずかな幸せの見込みもなくなるとき、いのちはあらゆる意味を喪失したものとして立ち現れ、いのちを抑圧する権利を要求したいという誘惑が成長します。

これと同じ文化的思潮の中では、体が、固有の人格的実体、他者や神や世界にかかわるしるしであり場として受け取られることはありません。体は、純然たる物体に引き下げられます。つまり体は、快楽と効率の基準でのみ判定されて用いられる、もろもろの器官、機能、エネルギーの複合体にすぎないのです。したがって、性もまた非人格化され、不当に扱われます。つまり愛情のしるし、愛情が展開する場、愛情を伝える言葉、換言すれば自己を贈り物としてささげ、他者を人格としてその豊かさを受け入れる、などのありようから逸脱します。性は次第に、自己主張と個人の欲望と本能の身勝手な充足のための機会と方法に変わります。こうして、人間の性が持つ本来の重要さは歪曲され、裏切られます。夫婦行為の本質である性交と出産の二つの意味は、人為的に引き離されるのです。このように、結婚の結びつきは裏切られ、子供を産むかどうかは夫婦の気まぐれに左右されるものとなります。子供を産むことは、性行為において回避すべき「敵」となります。もし歓迎されるのであれば、それは「どうしても」子供が欲しいと望み、あるいはその意向を表すからにすぎず、他者を完全に受け入れるからでも、子供をとおして示されるいのちの豊かさに心を開くからでもありません。

これまでに述べた唯物論的な見方において、人間関係は憂慮すべきほどに衰退しています。まず虐げられるのは、女性、子供、病者、高齢者です。人間の尊厳の基準は-これは尊敬、寛容さ、奉仕を求めますが−能率、実用性、有益性に取って代わられています。すなわち、他の人々は、彼らが「そうあるもの」としては受け取られず、「何を持ち、何を行い、何を生産するか」の視点で見られるのです。これは、弱者に対する強者の支配にほかなりません。

24 神観念の喪失と人間の意義の喪失は、いのちに対する多種多様の致命的な結果をもたらしますが、この喪失は道徳的良心のただ中にあります。それは自己完結するもの、唯一のものとして神の前に立つので、何よりも個人の良心の問題です18。しかし、ある意味では、社会の「道徳的良心」の問題でもあります。つまり、いのちに反する行動を見過ごしたり助長したりするだけでなく、いのちに逆らう実際上の「罪の構造」を作り出し強固なものにする、あの「死の文化」を促進するという理由からも、ある意味で責任があるのです。個人的であり社会的でもある道徳的良心は、メディアによる多大な影響の結果として、今日、きわめて深刻で致命的な危うさ、とりわけ、いのちの根本的な権利に関連して善と悪との間の混乱がもたらす危うさの影響下に置かれています。現代社会の大部分は、残念ながらパウロがローマの信徒への手紙で描く人間の状態に似ています。それは、「不義によって真理の働きを妨げる人間」(ローマ1・18)によって構成されています。すなわち、神を拒絶し、神なしに地上の王国を建設しうると信じて、「むなしい思いにふけり」、その結果、「心が鈍く暗くなった」(ローマ1・21)のです。つまり、「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり」(ローマ1・22)、死に値するわざを行い、「自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています」(ローマ1・32)。魂の輝くともしび(マタイ6・22ー23参照)である良心が、「悪を善と言い、善を悪と言う」(イザヤ5・20)とき、良心はすでに驚くべき腐敗と道徳上の真っ暗なやみへと転がり落ちているのです。

しかしながら、あらゆる条件づけと、沈黙を強いる努力は、すべての人の良心に響く主の声を押さえつけることはできません。人間のいのちを愛し、それに心を開き、これに仕える新しい旅が開始されうるのは、つねに良心のこの奥深い聖域からなのです。

「あなたがたが近づいたのは、注がれた血です」(ヘブライ12・22、24参照) 
希望のしるし、神に帰依せよとの招き 

25 「おまえの弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(創世記4・10)。いのちの源であり守り手である神に向かって叫んでいるのは、罪なくして殺害された最初の者、アベルの血だけではありません。アベル以来、殺害されたすべての人の血もまた、神のもとへと立ち昇る声です。ヘブライ人への手紙の著者が思い出させるように、まったく独特な形でキリストの血の声が神に向かって叫んでいます。無実であったアベルは、イエスの預言的なかたどりです。「あなたたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都……新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」(ヘブライ12・22、24)。

まさに注がれた血です。注がれた血の象徴であり、預言的なしるしとなったのは、旧約の犠牲の血でした。それによって、神は人間を清め、聖化して、彼らを自らのいのちにあずからせる意志を表したのです(出エジプト24・8、レビ17・11参照)。今や、これらすべてのことはキリストおいて成就し、実現します。イエスの血は、あがない、清め、救う、注がれた血です。イエス血は、「罪がゆるされるように、多くの人のために流される」(マタイ26・28)新約の仲介者の血です。十字架上で刺し貫かれたキリストのわき腹から流れ出たこの血は(ヨハネ19・34参照)、アベルの血よりも「立派に」語ります。実にこの血は、より根源的な「正義」が何であるかを表し、またその正義を求め、何よりもいつくしみを懇願し19、父である神の前で人々のために執り成します(ヘブライ7・25参照)。この血は完全なあがないの源であり、新しいいのちのたまものなのです。

キリストの血は父である神の愛の偉大さを啓示しますが、他方、人間は神の目にどれほどいとおしく、人間のいのちの価値はどれほどかけがえのないものであるかを示します。使徒ペトロは次ぎのように語ります。「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活からあがなわれたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(一ペトロ1・18ー19)。自分を与える愛(ヨハネ13・1参照)の目に見えるしるしであるキリストの尊い血を黙想するとき、信仰者はすべての人が神から授かっている尊厳を認め、これに感謝し、賛嘆の声を上げるのです。「人間が『このようなまたこれほど偉大なあがない主』(復活徹夜祭の復活賛歌)を持つに値したとすると、また『滅びないで、永遠のいのちを得るよう』、神がそのひとり子をお与えになった』とすると(ヨハネ3・16参照)、人間は創造主の前にどれほど貴いものでなければならないでしょうか20」。

そのうえ、キリストの血は人間にイエスの偉大さを啓示し、また、それがゆえにイエスの召命は、自らを正真正銘の贈り物としてささげるところにあると啓示します。まさに、いのちのささげものとして注ぎ出されるので、キリストの血はもはや死のしるし、同胞から決定的に引き離されるしるしではなく、すべての人にとっていのちの豊かさそのものである交わりにあずからせる手だてなのです。聖体の秘跡においてこの血を飲み、イエスにとどまる人はだれでも(ヨハネ6・56参照)、イエスの愛の力強さといのちのたまものへと引き入れられます。それは、すべての人が持つ、愛に至る本来の召命が欠けるところなく成就するためです(創世記1・27、2・18ー24参照)。

すべての人はキリストの血から、いのちを成熟させることに自らをゆだねる力を得ます。希望のもっとも確かな源泉は、まさにこの血です。この血こそ、神の計画においていのちの勝利を間違いなく確信できる根拠なのです。「もはや死はない」(黙示録21・4)と、天のエルサレムにおける神の玉座から力あふれる声が叫びます。また、聖パウロはわたしたちに、罪に対してすでに勝利していることは、死に対する決定的な勝利を示すしるしであり、先取りであると確信させます。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」(一コリント15・54−55)。

26 実際、この勝利を指し示す種々のしるしは、「死の文化」に強く特徴づけられるわたしたちの社会や文化においても欠けているわけではありません。ですから、いのちに対する脅威を断罪するにあたり、人類が直面する今日的状況において作用する肯定的なしるしを提示しなければ、不毛な失望を招く一方的な見方を示すことになるでしょう。

残念ながら、これらの肯定的なしるしを理解し認めるのは、往々にして容易ではありません。それはまた、マスメディアの十分な関心の対象とはならないからでもあると思われます。しかし、弱く、身を守る手だてを持たない人々を助け支援する、どれほど多くの積極的な取り組みが生じており、また継続してその数を増していることでしょうか。キリスト者の共同体で、市民社会において、そして地域、国、国際的なレベルで、個人、グループ、各種の運動体と機関などがささげる尽力に、それらは見られます。

さらにまた、その責任を十二分にわきまえて、「結婚のもっとも貴重なたまもの21」として子供を喜び迎える夫婦が大勢います。また、日々の生活の務めに加えて、親のない子供たち、困窮する少年少女や青年たち、障害のある人たち、孤独のうちに置き去りにされる高齢者を進んで受け入れようとする家族もあります。いのちを支援する多くのセンターや同様の趣旨で活動する組織は、個人や団体が責任をもって支えています。このような個人や団体は、このうえない献身と犠牲をもって、困難のただ中にあり人工妊娠中絶に最後の解決を求めるしかないと苦悶する母親達に、物心両面での支援を提供します。身寄りがなく、気がつけぱどうにもならない困窮にある人、あるいは何らかの援助を必要とする人、こういう人たちを温かく受け入れる備えのあるボランティア・グループが、少しずつですが各地に増えつつあります。ボランティアたちは、このような人々が自己破壊的な習慣に打ち勝ち、人生の意味を新しく発見できるよう手伝うのです。

研究者や医師たちの献身的な努力のおかげで、医学はいっそう効果的な治療法を見いだすよう努力を続けています。かつては思いもよらなかった治療、将来に大きな期待を抱きうるような治療が、今日発展しています。胎児、苦しむ人、激しい痛みを耐える人、末期段階にある人が、その恩恵を受けています。さまざまな公的機関や組織体は、貧困と風土病にひどく苦しめられてい国々に、最新の医療を届けようと努力しています。同様に、国内の、また国際的な医師団体は、自然災害や流行病や戦乱などで困窮する人々に、早急に救援の手を差し伸べることができるよう組織されています。医薬品等の国際的な配分状況はまだきわめて不十分ですが、これまでの尽力の歩みにおいて、民族間に連帯が伸長しつつあるしるし、また、人間的で道徳的な称賛に値する感受性やいのちに対するより深い敬意のしるしを認めずにいられるでしょうか。

27 人工妊娠中絶を容認する法律や、世界のいくつかの国で成功を収めている安楽死合法化の運動を視野に入れて、いのちの擁護を目的とする社会意識を啓蒙する運動や発意が世界各地で起きいます。そのようなさまざまな運動が、それぞれの原則に従って、断固として、しかも暴力に訴えることなく進むとき、いのちの価値についてより幅広くより深い意識を伸張させるのであり、いのちを擁護することへの、いっそう決然とした献身を喚起し邁進させます。

さらに、家族、病院、孤児院、老人ホーム、そしていのちを擁護する他のセンターや共同体などにおいて、無数の人々が心を込めて、来る日も来る日もささげる奉仕、つまり人々を受け入れる心、犠牲、無私の心で行う世話などを見過ごすことはできません。「よいサマリア人」(ルカ10・29ー37参照)であるイエスの模範に従い、またイエスの力に励まされて、教会はつねにいつしみに満ちた支援を提供する最前線に立ってきました。おびただしい数の教会の子ら、とくに伝統のある修道会や新しいあり方に立つ修道会に属する男女修道者たちは、隣人を、とりわけ弱い人々と助けを必要とする人々を愛するがゆえに、自由に献身の道を歩むことをとおして神に生涯をささげてきており、今なおささげています。彼らの行いは、「愛といのちの文明」の礎を強化します。この文明なくしては、各個人と社会自体のいのちはもっとも優れた人間らしい特質を失うのです。彼らは人から認められなくてもその道を行き、人に知られなくても黙々と働きます。わたしたちは信仰によって、「隠れたことを見ておられる」(マタイ6・6)父である神が彼らの働きに報いるだけでなく、すでに今ここで、すべての人の益となる永続的な実りを生み出していると確信します。

希望のしるしとなるものについていえば、世論の多くのレベルで、一つの新しい感性が広がりつつあることをあげるべきでしょう。これは、諸民族間の軋轢を解消する手段として勃発する戦争に対して、かつてなかった強さで反対する新しい気運の高まりであり、また、武装した侵略者たちに立ち向かうにあたり、効力はあっても「非暴力的な」手段の発見を次第に志向するようになった感性です。同じ視点に立って、死刑は、社会にとっては「合法的な防御」の一種だと見なされるにしても、死刑に反対する世論が明らかに強まってきました。現代社会は実際のところ、犯罪者に対して更正する機会を完全に拒むことなく、彼らが害を及ぼさないようにさせるやり方で、犯罪を効果的に抑止する手だてを持っています。

歓迎すべきもう一つのしるしは、とりわけかなり発展した社会で、生活の質と生態環境に向けられる関心が増大している点です。そのような社会では、人々の期待はもはや生存にかかわる問題ではなく、生活条件の全面的な向上に向けられているのです。とくに意義深いのは、いのちを侵害するさまざまな問題についての倫理的な省察が顧みられるようになったことです。生命倫理学の登場とその目覚ましい発展は、いっそうの省察と対話を促進しています。人間のいのちにかかわる根本的な問題を含む倫理上の問題について、異なる宗教の信奉者の間だけでなく、信仰者と非信仰者との間での対話が行われています。

28 光と影の両面を持つこの状況から、わたしたちは善と悪、死といのち、「死の文化」と「いのちの文化」との間の、巨大で劇的なぶつかり合いに直面していることを、十二分に認識しなければなりません。わたしたちは単に「直面している」だけでなく、この軋轢の「渦中に」いや応なく巻き込まれているのです。だれもが巻き込まれ、それにかかわっています。そこでは、無条件にいのちを守ること(pro-life)を選ぶという、避けることのできない責任が伴います。

そのようなわたしたちにも、モーセの呼びかけが高らかにはっきりと響きます。「見よ、わたしは今日、いのちと幸い、死と災いをあなたの前に置く。……あなたはいのちを選び、あなたもあなたの子孫もいのちを得るようにしなさい」(申命記30・15、19)。「いのちの文化」と「死の文化」の間にあって、いずれかを選択する義務へと日ごとに呼び出されるわたしたちにとって、この招きはまことにふさわしいものです。しかし、申命記の呼びかけは、もっと深遠な内容です。それは、当然のごとく宗教的で道徳的な選択を迫るからです。これは、わたしたち自身の存在に根本的な方向性を与える問題であり、主の律法を忠実かつ確固として生きることにかかわる問題です。「わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めとおきてと法を守るならば、あなたはいのちを得る。……あなたはいのちを選び、あなたもあなたの子孫もいのちを得るようにし、あなたの神、主を愛し、み声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたのいのちであり、あなたは長く生きる」(申命記30・16、19−20)。

いのちを無条件に選択することは、いのちが続く限り、その宗教的で道徳的な意味を十分に取り込むことであり、その選択はキリストヘの信仰によって形づくられ育っていきます。今わたしたちが相対している死といのちとの間の軋轢に積極的に直面することを手助けしてくれるもの一は、一つだけあります。それは、人々が「いのちを受けるため、しかも豊かに受けるため」(ヨハネ10・10)に人となり、人の中に住まわった神の子への信仰です。それは、死に打ち勝って立ち上がった主への信仰にほかなりません。「アベルの血よりも立派に語る」(ヘブライ12・24)キリストの血への信仰です。

それゆえ、この信仰から光と力とを得て、現在の状況が抱える種々の挑戦に直面して、教会は、いのちの福音をのべ伝え、祝い、それに仕えることの主から受け取る恵みと責任に、いっそうっきりと気づくようになるのです。

第二章:わたしが来たのは羊がいのちを受けるためである 
(いのちに関するキリスト教のメッセージ) 

「このいのちは現れ、わたしたちは見た」(一ヨハネ1・2) 
「いのちのことば」であるキリストを見つめて 

29 現代世界には、いのちを脅かす重大な脅威が無数にあります。これらに直面するとき、人間はまったくなすすべがないと圧倒されてしまいます。善は、悪に勝利を収めることができるだけの力を持たないと感じるのです。

そのようなとき、すべての信仰者を含む神の民は、「いのちのことば」(一ヨハネ1・1)であるイエス・キリストヘの信仰を、謙虚に勇気をもって表明するよう招かれるのです。いのちの福音は、人間のいのちについての、まさに新しく、しかも深遠な省察です。意識化を深め、社会の中で有意義な変革を行えという単なる命令でもありません。ましてや、よりよい将来の見かけだけの約束でもありません。いのちの福音は、具体的で人格的な意味合いを帯びています。というのも、それはイエスその人を宣言することにほかならないからです。イエスは使徒トマスに確かに自分がイエスであることを分からせ、こう言いました。それはすべての人に向けられたことばであります。「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ14・6)。これはラザロの妹マルタに、イエスが自らについて語ったことばでもあります。「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決し死ぬことはない」(ヨハネ11・25−26)。イエスは永遠の時の中に、御父からいのちを受けた子あり(ヨハネ5・26参照)、そのいのちのたまものを分け与えようと、人の中に来たのです。「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ1O・10)。

イエスのことばと行い、またイエスその人をとおして、人間には人間のいのちの価値についての完全な真理を「知る」可能性が与えられました。この「源泉」から、人間はとりわけこの真理を完全に「成就する」能力を受けます(ヨハネ3・21参照)。つまり、人間のいのちを愛し、これに仕える責任、人間のいのちを擁護し守り育てる責任を受け止め、完全に成し遂げる能力です。キリストにおいて、いのちの福音は決定的に宣言され、余すところなく与えられました。この福音はすでに旧約の中で啓示されており、それだけでなくすべての男女の心に書き記されています。したがって、創造の当初から、すなわち「初めから」、すべての人の良心のうちにこの福音は響いています。罪がもたらす否定的な結果があるにもかかわらず、福音はその本質的な特徴において、人間の理性によって知られるように響いているのです。第二バチカン公会議は、次のように諭します。「キリストは、自分自身の全的現存と顕現とにより、ことばとわざにより、しるしと奇跡により、なかでも、おのが死と死者の中からの栄えある復活とにより、最後に真理の霊の派遣によって、神がわれわれを罪と死のやみから救い、永遠の生命に復活させるため、われわれとともにいるという啓示を完全に成し遂げ、そして神的なあかしをもって確証している22」。

30 そこで、主イエスに注意を向け、イエスの口から出る「神のことば」(ヨハネ3・34)にもう一度耳を傾け、いのちの福音についてあらためて熟考したいのです。人間のいのちについての啓示の教えを熟考することのもっとも深く本源的な意味を、使徒ヨハネがその最初の手紙の冒頭で述べています。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、いのちのことばについて。-このいのちは現れました。御父とともにあったが、わたしたちに現れたこの永遠のいのちを、わたしたちは見て、あなたがたにあかしし、伝えるのです。-わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」(一ヨハネ1.1−3)。

「いのちのことば」であるイエスにおいて、神の永遠のいのちはこのように宣言され、与えられるのです。この宣言とたまもののおかげで、わたしたちの身体的ないのち、霊的ないのちは、地上においても十全な価値と意義を持つことができるのです。それは、神の永遠のいのちは、この世におけるわたしたちの生が方向づけられ、招かれる目標そのものだからです。こうして、いのちの福音は、人間の経験と理性が人間のいのちの価値について教えるすべてのことを内包します。いのちの福音は、それを受け入れ、清め、称賛し、成就へと至らせるのです。

「主はわたしのカ、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」(出エジプト15・2) 
いのちはつねによいものである 

31 福音書がいのちについて述べるメッセージは、そのまま旧約聖書に準備されています。とくに旧約の信仰体験の中心であるエジプト脱出の出来事の中に、イスラエルは自らのいのちが神の目に非常に尊いものであることに気づきます。生まれる男の子はすべて殺害される事態となり、絶滅の危機がまさに追ったとき(出エジプト1・15−22参照)、主は希望を失った者に確かな将来を約束する権能を持つ救い主として、イスラエルに自らを啓示しました。こうしてイスラエルは自分たちの存在は、専制的横暴さで搾取できるファラオの意のままにはならないのだということを、はっきり知るようになります。それどころか、イスラエルのいのちは、神の優しい愛、熱列な愛の対象なのです。

奴隷状態からの解放は、イスラエルの真のありようを分からせ、不滅の尊厳を持つことを認識させ、神を発見することと自分自身を発見することがともに進展していく新しい歴史が始まることを教える恵みでした。エジプト脱出は根本的な体験であり、イスラエルの未来を前もって示すものでした。エジプト脱出を経てイスラエルは、その存在が脅かされるときにはいつでも、効果のある助けを神に求めるには、信頼の念を新たにして神に向き直りさえすればよいのだと知るようになります。「わたしはあなたを形づくり、わたしのしもべとした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない」(イザヤ44・21)。

このように、一つの民族として存在する自らの価値を知るにつれ、イスラエルは成熟し、いのちそのものの意義と価値についての理解を深めます。この理解は、いのちの不安定さを日々体験し、またいのちを攻め立てる脅威に気がつくことに基づいて、知恵文学においていっそう明確な形をとって発展します。いのちに敵対する勢力に直面するとき、信仰は答えを要求されるのです。

何にもまして信仰に挑み、信仰を試みるのは、苦しみの問題です。ヨブ記を黙想すると、人間が時代と場所とを問わず、苦悩に包まれる存在であることが分かります。無実の人が苦しみに打ちのめされ、次のように問う心情はよく理解できます。「なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか。彼らは死を待っているが、死は来ない。地に埋もれた宝にまさって死を探し求めているのに」(ヨブ3・20ー21)。しかし、限りない暗やみにあっても、信仰は、信頼をもって祈りのうちにその「神秘」を認めるよう教えます。「あなたは全能であり、み旨の成就を妨げることはできないと悟りました」(ヨブ42・2)。

創造主が人間の心に最初に与えた不滅のいのちという概念は、よりいっそうの明瞭さをもってとらえられるよう、人間は少しずつ啓示の光に照らされていきます。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」(コヘレト3・11)のです。原初に示さた全体性と完全性という概念は、神が自由に与えるたまものにより、神の永遠のいのちにあずることによって、愛のうちに明らかにされ、完成へと導かれるのを待っています。

「この人をイエスの名が強くしました」(使徒言行録3・16) 
人間のいのちの不確実さの中に、イエスはいのちの意味を明白に説き明かす 

32 契約の民が体験したことは、ナザレのイエスに出会ったすべての「貧しい人たち」の体験のうちに新たにされます。「いのちを愛する」神(知恵11・26参照)は、危難のただ中にあるイスラエルを力づけました。同じように、今日でも神の子イエスは、脅かされ妨げを受けていると感じるすべての人に、彼らのいのちは御父の愛が意味と価値を与えるよいものであると宣言します。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(ルカ7・22)。預言者イザヤの言葉(イザヤ35・5ー6、61・1)を引用して、イエスは自分の使命の意味を説き明かします。つまり、そのいのちが何らかの形で「おとしめられている」がゆえに苦しむ人は、自分たちこそ神の配慮が向けられているという「よい知らせ」をイエスの口から聞き、自分たちのいのちも父のみ手に注意深く守られるたまものであると確信するのです(マタイ6・25−34参照)。

イエスが説教とわざをもって語りかけたのは、何よりもこうした「貧しい人たち」でした。イエスに従いイエスを探し求める病人や、社会で見捨てられた大勢の群衆(マタイ4・23ー25参照)は、イエスのことばとわざのうちに啓示を見いだしました。彼らのいのちには格別の価値があり、救いへの希望は間違いなくかなえられるという啓示を受け止めたのでした。

同様のことは、教会が宣教活動を始めた当初から起こっています。教会がキリストについて、「方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神がご一緒だったからです」(使徒言行録10・38)と宣言するとき、教会は自分が救いのメッセージの担い手であると自覚しています。人のいのちが困窮と欠乏のただ中にあっても、まったき新しさをもって響く救いのメッセージです。ペトロは、エルサレムの神殿の「美しい門」のそばで毎日施しを求めていた足の不自由な男をいやしたとき、言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3・6)。見捨てられ助けを求めて叫ぶいのちは、イエスヘの信仰、「いのちへの導き手」(使徒言行録3・15)への信仰によって、自尊心と本来の尊厳を取り戻します。

イエスのことばとわざ、そしてイエスの教会の言動は、病人や苦しむ人、あるいは何らかの意味で社会から無視されている人だけに向けられるのではありません。このようなことばとわざは、いのちの道徳的で霊的な次元で、すべての人のいのちそのものの意味に深い影響を及ぼします。自分のいのちは罪の悪性を帯びていることを知る者だけが、救い主イエスとの出会いのうちに、自分の存在についての真実とその確実性を見いだしうるのです。イエス自身こう言っています。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5・31−32)。

ところが、福音書のたとえ話に登場するあの金持ちの地主のように、財産を所有するだけでいのちの安全が確保されうると考える人は、思い違いをしているのです。いのちは彼から滑り落ちるのであり、彼は現実の意味をろくに理解しないうちに、ほどなくいのちを奪い去られる自分に気づくのです。「愚かな者よ、今夜、おまえのいのちは取り上げられる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12・20)。

33 イエスの全生涯において、独自の「弁証法」があります。それは、人間のいのちははかないという体験と、そのようないのちの価値があることを肯定することとの間にあります。イエスの生はその誕生の瞬間から、不確かさに特徴づけられます。イエスはマリアがためらわずに口にしたあの喜ばしい「はい」(ルカ1・38参照)という返事を繰り返す正しい人々によって、確実に受け入れられます。しかし、生涯の初めからすでに世から排斥されてもいます。この排斥は敵意へと膨らみ、「この子を殺す」(マタイ2・13)ために探し出そうとします。この世に入ってくるこのいのちの秘義がどのように成就するかについて、この世では関心も興味もないのです。聖書には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(ルカ2・7)とあります。一方に脅威と不確かさがあり、もう一方に神のたまものの力があるという対比の中に、神の栄光がいっそう明るく輝きます。ナザレの住まいから、そしてベツレヘムのかいばおけから光を放つ栄光です。産声を上げたこのいのちは、全人類に向けられる救いです(ルカ2・11参照)。

イエスは、生につきものの反対や危険をそのまま受け止めました。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(ニコリント8・9)。ここでパウロが言う貧しさとは、神の身分に等しい特権を手放すことだけでなく、人間のいのちのもっとも惨めな状態にあずかること、傷つきやすい状態を引き受けることをも指しています(フィリピ2・6ー7参照)。イエスはこの貧しさを、ついに十字架につけられるあの時まで生き抜いたのです。イエスは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ2・8ー9)。イエスがいのちの輝きと価値を余すところなく啓示したのは、まさに自らの死によってでした。それゆえ、十字架上でのイエスの自己奉献は、すべての人が新しいいのちをくみ取る泉となりました(ヨハネ12・32参照)。反対のただ中を歩むときも、また自らのいのちを失うことになっても、自分の生は父のみ手にあると確信することによって、イエスは導かれたのでした。したがって、イエスは十字架上で、父に向かって次ように叫ぶことができたのです。「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23・46)、これがわたしの生涯です、と。神の子が引き受け、そして全人類の救いのための手だてとした生であれば、人間のいのちの価値はまことに偉大だといわなければなりません。

「召された者たち…を御子の姿に似たものにしようと…」(ローマ8・28−29) 
神の栄光は人の顔に輝く 

34 いのちは、つねによいものです。これは本能的な直感でもあり、経験からとらえられる事実でもあります。人はなぜいのちがよいものであるのか、その深遠な根拠を理解するよう招かれてます。

いのちはなぜよいものなのでしょうか。この問いは聖書の至るところに見られますが、聖書の冒頭部分に、確実な驚くべき答えがあります。神が人間に与えるいのちは、他のいのちあるすべての被造物とは一線を画します。それゆえ、人間は大地のちりから形づくられたものですが(創記2・7、3・19、ヨブ34・15、詩編103・14、104・29参照)、世界に神の栄光を現すのであり、神の現存を示すしるしであり、神の栄光をうかがわせます(創世記1・26ー27、詩編8・6参照)。これはリヨンの聖イレネオが、「人間、生きている人間こそ、神の栄光である23」と、あのよく知られた言葉で強調しようとしたことです。人間には崇高な尊厳が与えられています。この尊厳は、人間を創造主に結びつける親密なきずなに基づきます。つまり、人間には神自身の姿が映し出されるのです。

創世記は最初の創造物語で、人間は神の創造のわざの頂点に向かうもの、創造のわざの冠として描かれます。人間は不明瞭なカオスから始まり、被造物の中でもっとも完全なものへと至るわざの頂点に立つものとされます。創世記はこのような描写をとおして、人問は神の姿を映し出す存在だと確認しているのです。創造されたすべてのものは人間へと秩序づけられ、万物は人間に服するものとされます。「地に満ちて地を従わせよ。……生き物をすべて支配せよ」(創世記1・28)。これは、男と女に与えられた神の命令でした。同様のメッセージが、もう一つの創造物語も見られます。「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2.15)。ここに、他のすべてのものに対する人間の優位性が、はっきりと主張されています。万物は人間に従うものとされ、その責任ある世話にゆだねられます。それに反して、人間が理由なく他の人々に服従させられたり、物のレベルに引き落とされたりするよ うなことは、あってはならないとされるのです。

創造物語の中で、人間と人間以外の被造物との間の相違は、とりわけ次の事実に明示されます。すなわち、人間の創造だけが、神が特別な決断をした結果なされたわざだとされるのです。つまり、創造主との固有で特殊な結びつきを確立することを熟考しています。「われわれにかたどり、れわれに似せて、人を造ろう」(創世記1・26)。神が人間に与えたいのちは、神が自らを何らの形で被造物である人間に与えようとするたまものです。

イスラエルは、人間と神とのこの特有のきずなが持つ意味を、長い時間をかけて思い巡らしたのです。シラ書も人間の創造にあたり、「主は、ご自分と同じような力を彼らに帯びさせ、ご自分に似せて彼らを造られた」(シラ17・3)と理解しています。ここで聖書記者は、人間が神のかたどりであることを、人間が世界を支配するという視点でとらえ、それだけでなく、理性、善悪の識別、自由意志などを、人間に固有なものとして備わった霊的な能力だと見ています。「主は悟りをもたらす知識で彼らを満たし、善と悪との区別を示された」(シラ17・7)。真理を把握する能力や自由は、人間に固有の特権であり、それゆえ人間は、創造者、真実で正しいかたである神(申命記32・4参照)のかたどりとして創造されたのです。目に見えるあらゆる被造物の中で、人間だけが「創造者を知り、愛することができる24」のです。神が人間に授けたいのちは、単に時間の中に存在するということ以上のものです。それは、いのちの充満へ向かう力ある動きです。換言すれば、時間の制約をも超越する、存在の種とでもいうべきものです。「神は人間を不滅な者として創造し、ご自分の本性の似姿として造られた」(知恵2・23)。

35 創造のわざを描写するヤーウェ伝承の物語には、同じ確信が表明されています。この古代の物語は、神の息が人間に吹き込まれ、人間は生きる者になったと伝えます。「主なる神は、土のちりで人を形づくり、その鼻にいのちの息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった(創世記2・7)。

このいのちを生かす霊は神に由来するものであり、それゆえ人間はこの地上に生活する間、絶えず満たされない思いを味わうのです。人間は神によって造られ、消えることのない神の刻印を身に帯びるがゆえに、生まれつき神の方へと引き寄せられます。心の奥深くに潜む神へのあこがれに注意を払うとき、人間は聖アウグスチヌスが残した真実の言葉をなるほどと納得するに違ありません。「主よ、あなたはわたしたちをあなたに向けてお造りになりました。ですから、わたしたちの心はあなたのうちに憩うまで安らぐことはありません25」。

人間がかかわっているのが動植物の世界だけであるうちは、エデンの園において人間のいのちが満たされない思いに彩られるということは、きわめて意義深いことです(創世記2・20参照)。人の肉の肉であり骨の骨である女性(創世記2・23参照)、創造者である神の霊が与えられた女性が現れて初めて、人と人との間の対話、人間存在の活力源ともいうべき対話への欲求が満たされうるのです。男であれ女であれ、この相手にこそ、神自らの映し、最終的目標、すべての人の完成があります。

「あなたがみ心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは」(詩編8・5)と詩編作者は驚嘆の声を放ちます。広大無辺な宇宙に比して、人間は非常に小さな存在です。しかし、この対比にこそ、人間の偉大さが啓示されます。「神にわずかに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせました」(詩編8・6)。神の栄光は人間の顔に輝きます。神は人間のうちに安らぐのであって、聖アンブロジオは畏敬の念をもってそれをこう描写します。「六日目が終わり、世界創造のわざは人間という傑作の出現をもって完了した。人間はすべての生きる被造物の上に支配権を振るい、いわば全宇宙の冠であり、造られたすべての中で至高の美とでも呼びうる存在である。まことにわたしたちは、畏敬の念のうちに黙すべきである。主は世界において手がけたすべてのわざをなし終えて、休息したからである。主はそのとき、人間の深みにおいて休息し、人間の心と思いとのうちに休んだのである。結局、主は、理性を備えたものとして人間を造った。主に倣い、主の徳を慕い、天の恵みを渇き求めることのできるものとして人間を造ったのである。このようなたまもののうちに神は休息し、こう語った。『何がわたしの安息の場となりうるか………わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしのことばにおののく人』(イザヤ66・1−2)。わたしは、わたしたちの主である神に感謝する。これほど素晴らしいわざを行い、そのわざのうちに休息する神に感謝する26」。

36 神の感嘆すべき計画は、歴史に罪が登場することによって、残念ながら損なわれました。人間は、罪をとおして創造者に反旗を翻し、最後には被造物を拝むようになったのです。彼らは「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです」(ローマ1・25)。結果的に、人間は自分の人格における神のかたどりをゆがめてしまったばかりでなく、交わりという人間関係を不信、無関心、敵意、そして殺意をさえ含む憎悪などに置き換え、他者の人格における神のかたどりをも侵害するようになります。神が神として認められないとき、人間の持つ深い意味は損なわれ、人と人との間の交わりは傷つけられます。

人間のいのちにおいて、神のかたどりは新たな光を放ち、神の子が人の肉のうちに到来するとき、その満ち満ちた豊かさの中に、そのかたどりは再び啓示されます。キリストは、「見えない神の姿」(コロサイ1・15)、「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」(ヘブライ1・3)です。キリストは、父である神の完全なかたどりなのです。

第一のアダムに与えられたいのちの計画は、キリストにおいて最終的に成就します。アダムの不従順が、人間のいのちについての神の計画を損ない、台なしにし、世に死を招き入れたのに対して、あがないをもたらすキリストの従順は、いのちの王国の門をすべての人に広く開き(ローマ5・12−21参照)、人類に恵みが注がれる源泉となったのです。使徒パウロが述べるとおりです。「『最初の人アダムはいのちのある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムはいちを与える霊となったのです」(一コリント15・45)。

キリストに従う決心をした者にはだれにでも、いのちの充満が与えられます。つまり、神のかたどりは彼らのうちでもとの状態に回復され、刷新され、完成されます。人類のための神の計画とはこのことであり、彼らが、「御子の姿に似たものに」(ローマ8・29)されることです。こうして初めて、このかたどりの輝きにおいて、人間は偶像崇拝の隷属から解放されうるのであり、失われた結びつきを再構築し、人間の真のあり方を再発見できるのです。

「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11・26) 
永遠のいのちというたまもの 

37 神の子は人類にいのちを与えるために到来したのですが、そのいのちは単に時間の制約を受ける存在に限定されることはありません。つねに「神の子のうちに」あるいのち、「人間を照らす光」(ヨハネ1・4)であるいのちは、神から生まれたということ、神の愛の豊かさにあずかっているということにあるのです。つまり、「ことばは、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(ヨハネ1.12ー13)。

イエスは、世に到来して与えようとしたこのいのちに言及することがありますが、その際、単に「いのち」と表現します。また、人間が神によって創造された目的に到達しようとするならば、神から生まれることが必要条件だと教えます。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3・3)。このいのちを与えることが、イエスの使命の実際の目標でした。イエスは、「天からくだって来て、世にいのちを与える」(ヨハネ6・33)かたです。こうしてイエスは、真に次のように言うことができたのです。「わたしに従う者は……いのちの光を持つ」(ヨハネ8・12)。

イエスはまた別のところで、「永遠のいのち」について語ります。ここでの形容詞「永遠の」は、単に時間を超越した見方を喚起するにとどまりません。イエスが約束して与えるいのちは、「永遠であるかた」のいのちに完全にあずかるものなので、「永遠の」なのです。イエスを信じるものはだれであれ、またイエスとの交わりに入る人はだれであれ、永遠のいのちを持つのです(ヨハネ3・15、6・40参照)。その人は、いのちの豊かさを啓示し、それを自分の存在に伝えてくれることばだけをイエスから聞くことになるからです。それは、ペトロが信仰告白の中で認めた「永遠のいのちのことば」です。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(ヨハネ6.68ー69)。イエス自身、父に呼びかけたあの素晴らしい祭司としての祈りの中で、永遠のいのちとは何であるか明言したのです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17・3)。神を知り御子を知るということは、父と子と聖霊の親密な交わりの神秘を、自分のいのちのうちに受け入れることにほかなりません。人間のいのちは、神のいのちにあずかるがゆえに、今の時点であっても永遠のいのちに開かれているのです。

38 それゆえ、永遠のいのちは神自身のいのちであり、同時に神の子のいのちです。キリストにおいて、神からわたしたちのもとへ届くこの思いがけない真理、言葉に言い表しがたい真理を思い巡らすとき、信仰者は今さらながら、驚きと限りない感謝の念を覚えずにはいられません。使徒ヨハネの言葉を借りて、こう言うしかありません。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです……。愛する者たち、わたしたちは、今すでに神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(一ヨハネ3・1ー2)。

いのちについてのキリスト教の真理は、ここにおいてもっとも崇高なものとなるのです。このいのちの尊厳は、その始まりだけでなく終局とも結びつけられます。すなわち、それが神に由来するという事実だけでなく、イエスを知り、イエスを愛することにおいて、神と交わるという運命にも結びつけられるのです。この真理の光に照らされて、聖イレネオは人間への賛美を次のように述べ、締めくくりました。「神の栄光は人間、しかも生きている人間である。人間のいのは、神を直観のうちに見るところにある27」。

このようなとらえ方から、この世に生きる人間のいのちのためのいくつかの結論がすぐに生じます。実に、この世にあって、永遠のいのちがすでにほとばしり、発達し始めています。いのちはよいものであるがゆえに、人間は本能的にいのちを愛するのですが、この善は神のみ手によるものなので、人間はいのちを愛するうちに、さらなる刺激と力、そして新しい幅と深さとを見つけ出します。同様に、すべての人がいのちに対して抱く愛は、自己表現と他者との関係を結ぶための十分な場を持ちたいという欲求に限定されることはありません。それどころか、愛は、いのちは神が自らを明示する「場」、わたしたちが神に出会い、神との交わりに入る「場」となりうると気づくことによって、さらに育っていきます。イエスが与えるいのちは、時間の制約の中にあるわたしたちの存在価値を、何ら減じることはありません。イエスが与えるいのちは、わたしたちのそのような存在をしっかりとその究極の運命へと方向づけます。「わたしは復活であり、いのちである。……わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11・25ー26)。

「人間どうしの血については、人間から人間のいのちを賠償として要求する」 (創世記9・5) 
あらゆる人間のいのちに対する敬意と愛 

39 人間のいのちは、神に由来します。神のいのちの息吹を受けた、神からのたまもの、神のかたどり、神の刻印です。それゆえ、神は人間のいのちの唯一の主です。人間は、自分の意のままにいのちを扱うことはできないのです。洪水の後、神自らノアにこのことをはっきりと教えています。「あなたたちのいのちである血が流された場合、わたしは賠償を要求する。……人間どうしの血については、人間から人間のいのちを賠償として要求する」(創世記9・5)。この聖書の固所は、いのちが神聖であるのは、神および神の創造のわざにその基礎があるからだと力説するです。「人は神にかたどって造られたからだ」(創世記9・6)。

こうして、人間のいのちと死は、神の手と神の支配のもとにあります。「すべてのいのちあるものは、内なる人の霊もみ手のうちにある」(ヨブ12・10)とヨブは叫びました。「主はいのちを絶ち、またいのちを与え、よみに下し、また引き上げてくださる」(サムエル上2・6)。神だけが次ぎのように言うことができるのです。「わたしは殺し、また生かす」(申命記32・39)。

しかし、神は、勝手な脅迫じみた方法でこの支配権を行使するのではありません。それどころか、自らが造った被造物への配慮と愛情に満ちた関心の大切な要素として、それを用いるのです。人間のいのちが神の手のうちにあることが真実なら、神の手は、わが子を抱き、養い、世話をする母親の手のような、愛情あふれる手であるというのは真実です。「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」(詩編131・2。イザヤ49・15、66・12ー13、ホセア11・4参照)。ですから、イスラエルは諸民族の歴史にも各個人の運命にも、単なる偶然の出来事による結末、あるいは盲目的な運命の結末を認めることはありません。彼らはむしろ、愛情に満ちた計画の結果を認めます。神はこの愛情に満ちた計画をもって、いのちにかかわるあらゆる可能性を一つにまとめ、罪から生じる死の力に対抗するからです。「神が死を造られたわけではなく、いのちあるものの滅びを喜ばれるわけでもない。生かすためにこそ神は万物をお造りになった」(知恵1・13−14)。

40 いのちは神聖であり、したがって不可侵なものです。それは人間の心、すなわち良心に初めから記されています。「何ということをしたのか」(創世記4・10)という問いは、カインが弟アベルを殺害した後に、神が彼に投げかけたものですが、これはすべての人の経験を説き明かします。つまり、良心の深みにおいて、人間はつねにいのち(自分自身のであれ他の人々のであれ)が不可侵であることに気づかされるのです。いのちは、人間に属するものではない何ものかとして気づかされます。それは、創造主であり父である神の手に属するものであり、たまものだからです。

人間のいのちが不可侵であることに関する神のおきては、シナイ山での契約(出エジプト34・28参照)における「十戒」の中心部分に響き渡ります。殺害を禁じるおきての第一に、「殺してはならない」(出エジプト20・13)、「罪なき人、正しい人を殺してはならない」(出エジプト23・7)と言われています。しかし、イスラエルの後代の法に明示されるように、律法では人が個人的に他者に危害を加えることも禁じられます(出エジプト21・12−27参照)。むろん旧約において、いのちの価値を尊重するこのようなとらえ方は、すでにはっきりと示されているとはいえ、イエスによる山上の説教に見られる精緻な内容には及ばないことを認めなければなりません。厳しい体罰、また死刑をさえ規定する現在の刑法のいくつかの側面にも、それははっきり現れます。しかし、新約聖書が完成させるメッセージの全体は、身体のいのちと人格の完全な状態を不可侵のものとして尊ぶよう強調しています。さらに、それはわたしたちの隣人に対して、自分自身に対するのと同様に責任をとるように求める、積極的なおきての中で頂点に達します。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19・18)。

41 「殺してはならない」というおきては、自分の隣人を愛するという積極的な命令の中に含まれ、いっそう完全な形で表現されますが、このおきては、主イエスによってこのうえない力強さをもって再確認されます。「先生、永遠のいのちを得るには、どんなよいことをすればよいのでしょうか」と問う金持ちの青年に、主はこう答えます。「もしいのちを得たいのなら、おきてを守りなさい」(マタイ19・16・17)。そして、イエスはそのおきての第一に、「殺すな」(マタイ19・18)を引用します。山上の説教でイエスは弟子たちに対して、いのちを尊ぶことに関しても、律法学者とファリサイ派の人々の義に勝る義を求めます。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5・21ー22)。

イエスはことばとわざをとおして、いのちが不可侵であることに関するおきてに、より積極的な要求が含まれることを説き明かします。このような要求は、弱く、脅かされるいのちを擁護し保護することを扱う規定について述べる旧約聖書の箇所ですでに提示されています。このいのちとは、寄留者、未亡人、孤児、病人、広義の貧しい人、胎児を含めたいのちです(出エジプト21・22、22・20−26参照)。これらの積極的な要求は、イエスによって新しい力と緊急性を帯びるに至ったのであり、余すところなく明確に啓示されたのです。これらの新しい要求は、兄弟のいりちへの配慮、つまり(それが肉親であれ同じ民族であれ、あるいはイスラエルの地に居住する外国人であれ)見ず知らずの人に気遣いを示すこと、敵を愛するという態度にまで及びます。

相手のいのちに対する責任を引き受けようとするほどまで困っている人の隣人となろうとする者にとって、見ず知らずの人はもはやよそ者ではなくなります。それは、よいサマリア人のたとえ話に、はっきりと示されています(ルカ10・25ー37参照)。敵を愛そうと決めた人(マタイ5・38ー48、ルカ6・27ー35参照)、敵に対して「善を行い」(ルカ6・27、33、35参照)、ともかく困窮している人に見返りを期待せず、即座に応じようとする人にとって(ルカ6・34ー35参照)、敵はもはや敵ではなくなります。この愛の極みは、敵のために祈るところにあります。このようにしてわたしたちは、神の摂理的な愛との調和を打ち立てるのです。「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5・44ー45。ルカ6・28、35参照)。

こうして、人間のいのちを守るようにという神のおきての深遠な要素は、すべての人に対してまたすべての人のいのちに対して、敬意と愛を示すようにという要求として現れます。これは、使徒パウロがイエスの教えを要約して、ローマのキリスト者たちに書き送ったものです。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんなおきてがあっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(口ーマ13・9−10)。

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1・28) 
人間が負ういのちへの責任 

42 いのちを擁護し守り育てること、いのちに敬意と愛を示すことは、神がすべての人間にゆだねた義務です。神は自らの生きたかたどりとして人間を呼び出し、世界を治める務めを与えました。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上をはう生き物をすべて支配せよ』」(創世記1・28

聖書は、神が人間に授けた支配権の及ぶ範囲をはっきりと示します。知恵の書が明確に諭すように、それは何よりもまず、地といのちのあるあらゆる被造物に対する支配がその内容です。「先祖たちの神、あわれみ深い主よ、……あなたは、知恵によって人を形づくられました。あなが造られたものを人が治め、信仰深く、義に基づいて世界を支配するためです」(知恵9・1、2ー3)。詩編作者も、人間に与えられた支配権は創造主から授けられた栄光と栄誉のしるしであるとほめたたえます。「み手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも」(詩編8・7ー9)。

世の庭を耕し、その世話をするように言いつかったとき(創世記2・15参照)、人間は特有の責任を任されました。それは、居住している環境に対する責任であり、現在だけでなく幾世代にもわたる将来においても、人間の尊厳、人間のいのちに資するようにとの意図でなされた創造のわざに対する責任です。これは生態環境の問題であり、それはさまざまな動物の種の生息環境地や多種の生き物の保存から、正確にいえば「人間生態学」にまで及びます(28)。この生態環境の問題に対しては、あらゆるいのちを重大なものと尊ぶ解決へと導く、明白で強力な倫理的方向づけが聖書に含まれています。実際、「創造主によって人間に与えられた支配権は、決して絶対的な権限ではありませんし、利用する自由、誤用する自由のすべてを含むわけでもありません。すなわち、人間が勝手放題にすべてのものを処分しうるわけではないのです。創造主自身によって原初から課せられた限界、枠組みは-それは『その木の果実を食べてはならない』(創世記2・16ー17参照)とする禁止事項によって象徴的に示されています-自然界とかかわりを持つときには、生物学的法則に従うのみならず、道徳律にも従順でなければならないことを、そしてそれを破れば決して無事にはすまないことを教えています29」。

43 神の支配に人間がある程度あずかっていることは、人間のいのちやその他のいのちなどのために与えられる特有の責任からして明らかです。それは、結婚において男女が子供を持つことによって、いのちをもたらすという最高の位置に達する責任です。第二バチカン公会議は次のように教えています。神は、「『人が独りでいるのはよくない』(創世記2・18)と言われ、『初めから人を男と女とにお造りになった』(マタイ19・4)神自ら創造のわざに人間を特別に参加させようと望み、『産めよ、増えよ』(創世記1・28)と言って男と女を祝福された30」。

神の「創造のわざに」男女が「ある特別な形で参加する」ことを述べて、公会議は、子供を持つことは「一体となる」(創世記2・24)夫婦と自らを現す神とを含むかぎり、きわめて人間的な出来事であり、深い宗教的な意味を持つ出来事であると指摘します。わたしは『家庭への手紙』」でこう訴えました。「二人の夫婦的な結合から新しい人間が生まれることは、神ご自身の特別な似姿でありかたどりである者が世にやって来たことにほかなりません。子供が生まれるという生物学的出来事の中に人格の系図が書き記されているわけです。新しい人間存在の受胎と出産において、夫婦が親として、創造主の協力者であることを認めているのなら、わたしたちは生物学的な法則だけに気を取られてはなりません。人間が父となり母となることの中には、『地上の生き物』に子供が生まれるのとは異なった仕方で神ご自身が現存することを強調しなければならないのです。事実、天地創造において行われたように、人間存在に独自のものであるこの『似姿』と『かたどり』はただ神から来ます。子供が生まれることは、天地創造の継続なのです」31

これは、聖書が直接かつ雄弁に語っていることです。「すべていのちあるものの母」(創世記3・20)となった最初の女が口にした喜びの叫びを記述する場面に、それは見られます。神が働きかけたことをわきまえて、エバはこう叫びます。「わたしは主によって男子を得た」(創世記4・1)。こういうわけで、親から子へのいのちの交流によって、つまり子を産むことにおいて、不死の魂が創造されたがゆえに、神自身のかたどりと似姿が伝達されます32。「アダムの系図」の初めに次のように記されています。「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名づけられた。アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名づけた」(創世記5・1ー3)。夫婦が心を決めて、「創造主と救い主-すなわち、彼らをとおして神の家族を増やし、富ませるかた-の愛に協力する33」場合、そのような夫婦の卓越さが分かるのは、新しい被造物に自分のかたどりを伝達する神に協力する、夫婦の役割においてなのです。アンフィロキオ司教が、「聖なる結婚は、人類を生み増やし、神のかたどりを創造するがゆえに、他の地上のいかなるものにも勝った、えり抜きの崇高なたまものである34」とほめたたえたのは、このような理由からでした。

こうして、結婚において一体となる男女は、神のわざに携わるパートナーとなります。子を産む行為によって、神のたまものは受け止められ、新しいいのちに未来が開かれるのです。

そのうえ、両親の特別な使命、いのちを受け入れこれに仕える務めは、すべての人を巻き込みす。いのちがもっとも弱い状態にあるとき、この務めは、まずそのようないのちに向けて成し遂げられなければなりません。さまざまな苦しみを受ける兄弟姉妹をとおして愛され仕えられることをキリストが求めるとき、キリストがこの務めについて教えるのです。飢える人、渇く人、旅人、裸の人、病人、牢にいる人など、これらの一人ひとりに行ったことはいずれも、キリスト自身にしたことなのです(マタイ25・31ー46参照)。

「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった」 (詩編139・13) 
胎児の尊厳 

44 人間のいのちはこの世に産声を上げるとき、また時間の制約を後にして永遠の世界へ旅立つとき、身を守る何の手だても持ち合わせません。神は、とくにいのちが病気や高齢によってむしばまれるとき、配慮と敬意を示すようたびたび呼びかけます。最初期の段階にある人間のいのち、とくにまだ生まれていないいのちを擁護するように、また終局に近づきつつある人間のいのちを擁護するように、という直接の明確な呼びかけの言葉はありません。しかし、このことは、このような状況にあるいのちを損ない、踏みにじり、あるいは実際に否定する可能性そのものが、神の民の宗教的、文化的な思考方法にまったく無縁であるという事実から容易に説明がつきます。

旧約聖書では、不妊はのろいとして忌み嫌われ、子孫に恵まれることが祝福だと見なされました。「子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い」(詩編127・3。詩編128・3−4参照)。この信仰はまた、アブラハムになされた約束のとおり、民の数が増えるという招きを受けた契約の民であるというイスラエルの自覚に基づきます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。……あなたの子孫はこのようになる」(創世記15・5)。しかし、何にもましてここには、両親が伝達するいのちは神に由来するという確信がみなぎっています。このことは、聖書のさまざまな箇所で証言されています。いのちを身ごもること、そのいのちが母親の胎内で形づくられること、いのちを与えること、そしていのちのごく初めの瞬間と創造主である神のわざとの間の緊密な結びつきなどについて、敬意をもって愛情深く述べられる箇所があります。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別した」(エレミヤ1・5)。人問のいのちはすべてその初めから、神の計画のうちにあります。ヨブはひどい苦難の中で、母の胎内に自分の体を不思議にも形づくった神のわざを思い巡らすことを中断しました。ヨブは、すべてを神にゆだねる根拠をここに見いだしたのです。そして、自分のいのちは神の計画であると、信仰を表明します。「み手をもってわたしを形づくってくださったのに、あなたはわたしを取り巻くすべてのものをも、わたしをも、のみ込んでしまわれる。心に留めてください、土くれとしてわたしを造り、ちりに戻されるのだということを。あなたはわたしを乳のように注ぎ出し、チーズのように固め、骨と筋を編み合わせ、それに皮と肉を着せてくださった。わたしにいのちと恵みを約束し、あなたの加護によって、わたしの霊は保たれていました」(ヨブ1O・8ー12)。母の胎内にある子供のいのちが神の働きによることへの畏怖と驚嘆の心情は、詩編に繰り返し現れます35

いのちについて説き明かすこの驚くべきプロセスのどの瞬間でさえも、創造主の知恵と愛情あふれるわざから切り離され、人間を勝手な行動のとりこにするなどとは考えられてはいません。七人の息子の信仰を励ましたあの母親が、そのように考えなかったのは確かです。彼女は、身ごもったその当初から、神はいのちの源であり保証である、死の向こうの新しいいのちの希望の礎であるとの信仰を告白します。「わたしは、おまえたちがどのようにしてわたしの胎に宿ったのか知らない。おまえたちに霊といのちを恵んだのでもなく、わたしがおまえたち一人ひとりの肢体を組み合わせたのでもない。人の出生をつかさどり、あらゆるものに生命を与える世界の造り主は、あわれみをもって、霊といのちを再びおまえたちに与えてくださる、それは今ここで、おまえたちが主の律法のためには、いのちをも惜しまないからだ」(マカバイ下7・22−23)。

45 新約聖書の啓示は、その最初の時から、いのちの価値についてきわめて明確な認識を示します。自らの妊娠を知って喜びの声を上げたエリサベトの言葉のうちに、身ごもったことの歓喜といのちを切に待ち望むことが、はっきりと述べられます。「主はわたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」(ルカ1・25)。さらに、妊娠の瞬間から始まる人間のいのちの価値は、マリアとエリサベトの出会い、二人の胎内にいる二人の子供の出会いにおいて、公にされました。メシア時代の到来を啓示するのは、まさにこの子供たちでした。この出会いにおいて、人々の間に神の子が現存するという、そのあがないの力がまず機能し始めます。聖アンブロジオはそれを次のように描写します。「マリアの到着と主の現存の恵みはすぐに現れました。……エリサベトは先に言葉を聞きましたが、ヨハネは先に恵みを感じ取りました。エリサべトは自然の秩序に従って言葉を聞きましたが、ヨハネは神秘の力によって躍りました。エリサべトはマリアの到来を、ヨハネは主の到来を感じ、女は女の到来を、子供は子供の到来を感じました。女たちは恵みについて語り、子供たちは胎内で母たちのためにいつくしみの神秘を実現し始め、母たちは二重の奇跡によって子供たちの霊感のもとに預言します。子は喜び躍り、母は霊に満たされました。子よりも先に母が満たされたのではありません。子は聖霊に満たされた後に母をも満たしたのです36」。

「わたしは信じる、『激しい苦しみに襲われている』と言うときも」 (詩編116・10) 
高齢者のいのち、病者のいのち 

46 いのちが終わりを迎える時期についても、ここで触れておきます。聖書が、高齢者や病人を尊ぶことに関する現代の問題についてはっきりと語ってくれるのではないか、あるいはこのよう人たちの死を力づくで早める企てを明確に断罪するのではないか、と期待するのは時代錯誤です。聖書の文化的、宗教的な文脈は、そのような関心とはまったく接点がありません。実にその文脈においては、高齢者の知恵と経験は、家族や社会を豊かにするまたとない源泉だと理解されいます。

高齢は高潔さを特徴とし、敬意をもって遇されます(マカバイ下6・23参照)。義人は高齢とそれに伴う重荷からの解放を求めません。それどころか、彼は次のように祈ります。「主よ、あなはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたにより頼んできました。……わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。み腕のわざを、力強いみわざを、来るべき世代に語り伝えさせてください」(詩編71・5、18)。メシア時代の理想は、「年老いて長寿を満たさない者もなくなる」(イザヤ65・20)時代として示されます。

高齢に達したとき、避けては通れないいのちの衰退に、人はどのように対処すべきでしょうか。死を目前にしてどのようにすべきでしょうか。信仰者は、自らのいのちが神の手のうちにあることを知っています。「主よ、あなたこそわたしの運命を支えるかた」(詩編16・5参照)と祈り、信仰者は死ぬべき運命を神から受け取ります。「死の宣告を恐れるな。この宣告は生あるものすべてに主から下される。なぜおまえは、いと高きかたのみ旨に逆らうのか」(シラ41・3−4)。人間はいのちの主でもなく、死の主でもありません。生きるにしても死ぬにしても、人間は、「いと高きかたのみ旨」に、そのかたのいつくしみの計画に、全面的に身をゆだねなければなりません。

病の床にあるときにも、人間は同様の信頼を主にささげ、また「病をすべていやす」(詩編103・3参照)かたへの根本的な信仰を持ち直すよう促されます。人間の目には健康を取り戻す望みが断たれたと映るときも、信仰者はこう叫び祈ります。「わたしの生涯は移ろう影、草のように枯れていく」(詩編102・12)。そのときこそ、信仰者は、いのちを与える力である神への揺るぎない信仰によって力づけられます。そのような信仰者は、病気だからといって絶望することはなく、死を求めることもありません。むしろ、希望のうちにこう叫び祈ります。「わたしは信じる、『激しい苦しみに襲われている』と言うときも」(詩編116・10)。「わたしの神、主よ、叫び求めるわたしをあなたはいやしてくださいました。主よ、あなたはわたしの魂をよみから引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ、わたしにいのちを得させてくださいました」(詩編30・3−4)。

47 イエスの使命には多くのいやしのわざが含まれますが、これは、神が人間の身体的ないのちについても、強い関心を抱いていることを示します。イエスは、「体と魂のいやし手37」として父から遣わされたのですが、それは、貧しい人によい知らせを告げるためであり、打ちひしがれた人をいやすためでした(ルカ4・18、イザヤ61・1参照)。後にイエスが弟子たちを世に遣わすとき、イエスは弟子たちに使命を与えました。それは、福音をのべ伝えることに加え、病人をいやすことも同時に行うというものでした。「行って、『天の国は近づいた』とのべ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」(マタイ10・7−8。マルコ6・13、16・18参照)。

信仰者にとっては、地上に生きる体のいのちが絶対的な善ではないのは確かです。より大きな善のために自らのいのちを断念しなければならない場合には、とりわけそうです。イエスはこう言います。「自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失う者は、それを救うのである」(マルコ8・35)。これについては、新約聖書に多数の事例があります。イエスは自らを犠牲にすることをためらわず、また自分のいのちを自由に父への(ヨハネ1O・17参照)、そして自分の羊のための(ヨハネ1O・15参照)ささげものとしました。救い主の先駆者である洗礼者ヨハネの死も、この世でのいのちは絶対的な善ではないことをあかしします。何より重要なのは、たとえいのちが危機にさらされても、主のことばに忠実に踏みとどまることです(マルコ6・17−29参照)。ステファノは、よみがえりの主をあくまでも忠実にあかししたために地上でのいのちを失ったのですが、彼は師であるイエスの足跡に従い、石を投げつける人々に神のゆるしを願う言葉をもって相対したのです(使徒言行録7・59−60参照)。こうしてステファノは、教会がその最初の時代以来崇敬してやまない殉教者の群れの最初の者となりました。

とはいえ、生きるか死ぬかを自分勝手に選択することは、だれにもできません。そのような決断をつかさどる絶対的な力を持つのは創造主だけです。わたしたちは、そのかたのうちに「生き働き、存在する」(使徒言行録17・28)のです。

「知恵を保つ者は皆生きる」 (バルク4・1) 
シナイの律法から霊のたまものへ 

48 いのちには、いのちに固有の真理が消しがたく刻まれています。神のたまものを受け取ることにより、人間は、いのちにとって本質的なこの真理のうちにいのちを保つよう義務づけられます。この真理から離れると、自分自身を意味喪失と不幸へと追い込むことになり、他者にとって脅威をもたらす存在になりかねません。あらゆる状況において、いのちへの敬意といのちの擁護を保障するとりでが崩壊しているからです。

いのちについての真理は、神のおきてによって啓示されます。いのちがいのちに固有の真理を尊重するのであれば、また、いのちに固有の尊厳を保持するのであれば、いのちは一つの道筋を進まなければなりません。主はその道筋を具体的に教えています。いのちは、はっきり示された「殺してはならない」(出エジプト20・13、申命記5・17)という神のおきてによってだけ、しっかり擁護されるのではありません。主の律法全体がいのちを守り支えるのです。それは、律法全体がその真理について啓示しており、この真理のうちに、いのちがどれほど意義深いものであるか、余すところなく明らかになるからです。

ですから、神の民と神との契約が、いのちの全体的なとらえ方に、しかも身体的な面を含めたとらえ方に緊密に結びついても、それほ驚くに当たりません。契約において神のおきては、いのちへ至る道として述べられています。「見よ、わたしは今日、いのちと幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めとおきてと法を守るならば、あなたはいのちを得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される」(申命記30・15ー16)。ここで取り上げられていのは、カナンの地とイスラエル民族の生存だけでなく、今日の世界、将来の世界、人類の生存にもかかわることです。実際、ひとたびいのちが善から切り離されると、いのちが真正で完全なものとしてとどまり続けるのは、まったく不可能です。善そのものはといえば、本質的に主のおきて、つまり、「いのちをもたらす律法」(シラ17・11)に結びつきます。なされるべき善は、いのちを圧迫する重荷としていのちに付加される何かではありません。いのちが目指すのは善であり、善を行うことによってのみ、いのちは築き上げられるのです。

こういうわけで、人間のいのちを十全に守るのは、全体としての律法です。「殺してはならないというおきてに結びつく「いのちのことば」(使徒言行録7・38参照)が遵守されない場合、このおきてに忠実にとどまることが困難であるのは、このことからはっきりします。この広い枠組みを離れると、神のおきては外から課される義務にすぎないものになってしまいます。そしてすぐにも、わたしたちはその限度を探し始め、その網の目をくぐろうとし、例外を見つけ出そうとします。人々が神と人間と歴史についての真理に余すところなく応じようとするときこそ、「殺してはならない」という言葉が、自分自身において、また他者とのかかわりにおいて、人間にとって善であるものとして再び光を放つことになるでしょう。このようなとらえ方の中で、わたしたちは、イエスが最初の誘惑に答える際に繰り返した申命記の箇所に含まれる十全な真理を把握できるのです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8・3。マタイ4・4参照)。

わたしたちが尊厳と正義を重視しつつ生きることができるのは、主のことばに耳を傾けることによってです。いのちの実りをもたらし、幸せをもたらしうるのは、神の律法を遵守することによってです。「これを保つ者は皆生き、これを捨てる者は死ぬ」(バルク4・1)。

49 イスラエルの歴史をひもとくと、神が人間の心に書き記し、神がシナイ山で契約の民に与たいのちの法に忠実であり続けるのは、なかなか容易ではないことが分かります。人々が神の計画を黙殺する生き方を求めるとき、主のみがいのちの真正な源泉であることを民衆にはっきりと思い知らせるのは預言者たちです。エレミヤはこう記します。「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを」(エレミヤ2・13)。預言者たちは、いのちを軽んじ人々の権利を侵害する者たちに対して、「彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ」(アモス2・7)、「このところを無実の人の血で満たした」(エレミヤ19・4)と非難を浴びせます。なかでもエゼキエルは、工ルサレムの都を「流血の都」(エゼキエル22・2、24・6、9)、「自らの真ん中に血を流す都」(エゼキエル22・3)と呼び、たびたびとがめています。

しかし、預言者たちはいのちに対する攻撃を非難する一方で、何よりもいのちの新しい原則に対する希望に気づかせようとします。この新しい原則こそが、神との、また他者との刷新されたかかわりを作り上げることができるのです。そして、いのちの福音に本来備わる、すべての要求を理解して実行するための、新しくまた未曾有の可能性を切り開きます。このことは、浄化する神、新しくする神のたまものがあればこそ可能となります。「わたしが清い水をおまえたちの上に振りかけるとき、おまえたちは清められる。わたしはおまえたちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはおまえたちに新しい心を与え、おまえたちの中に新しい霊を置く」(エゼキエル36・25ー26。エレミヤ31・34参照)。この「新しい心」はいのちについての深遠でもっとも確実な意味を理解させ、理解したことを成就させることができるのです。すなわち、自己をささげることにおいて、完全に実現されるたまものであるいのちの意味を理解させ、成就させるのです。これは、しもべの姿をとった主からわたしたちのもとへ届く、いのちの価値についての輝かしいメッセージです。「彼は自らを償いのささげ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。……彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」(イザヤ53・10、11)。

ナザレのイエスの到来によって、律法が成就し、新しい心がイエスの霊をとおして与えられます。イエスは律法を否定するのではなく、律法を完成します(マタイ5・17参照)。律法と預言者とは、互いに愛し合いなさいという最高のおきてにまとめられます(マタイ7・12参照)。イエスおいて、律法は最終的に「福音」となります。これは、世界に対する神の支配というよい知らせであり、この知らせはすべてのいのちを本質に立ち返らせ、またいのち本来の目的へと立ち戻らせたのです。これが新しい律法、すなわち、「キリスト・イエスによっていのちをもたらす霊の法則」(ローマ8・2)です。そして、友のためにいのちを与えた主の模範に従って(ヨハネ15・13参照)律法を根本的に表現するならば、それは兄弟姉妹を愛するがゆえに自分をささげることです。「わたしたちは、自分が死からいのちへと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです」(一ヨハネ3・14)。これが自由、喜び、幸福の法則です。

「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」(ヨハネ19・37) 
いのちの福音は、十字架において成就する 

50 この章では、いのちについてのキリスト教のメッセージを考察しました。この章を終わるにあたり、やりで貫かれ、すべての人を自分のもとへ引き寄せるかた(ヨハネ19・37、12・32参照)のことを皆さんとともに黙想したいと思います。十字架の「出来事」(ルカ23・48参照)を目の当りにして、わたしたちはいのちの福音全体が余すところなく、完全に、この栄光ある木に啓示れていることに気づきます。

受難の金曜日の昼下がり、「全地は暗くなり……太陽は光を失い、神殿の垂れ幕が真ん中から裂け」(ルカ23・44、45)ました。これは巨大な天変地異のシンボルであり、善の勢力と悪の勢力との間の、すなわちいのちと死との間の大規模な軋轢を象徴します。今日わたしたちもまた、「死の文化」と「いのちの文化」との間に展開する、劇的な軋轢のただ中にあります。しかし、十字架の栄光は、この暗やみに打ち負かされてはいません。むしろ、かつてなかったほどに、燦然とまばゆいばかりに輝きます。そして十字架は、全歴史とすべての人のいのちの中心、意味、目標として啓示されるのです。

イエスは十字架に釘づけられ、地上から上げられました。イエスは、自分が「無力」そのものである瞬間を体験しました。イエスのいのちは、敵対者たちのあざけりと死刑執行人の手に明け渡されたかに見えます。イエスは嘲笑され、愚弄され、侮辱されました(マルコ15・24−36参照)イエスがこのような苦しみのただ中で息を引き取る有様を見て、ローマ軍の百人隊長は叫びました。「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15・39)。神の子がどのようなかたであるかが啓示されるのは、実に生涯の中でもっとも力をなくしたこのときでした。十字架上にこそ、神の子の栄光が示されるのです。

イエスは死をもって、全人類の生と死の意味を明らかにします。イエスは死ぬ前に、迫害する者のゆるしを父に祈り(ルカ23・34参照)、み国においでになるときわたしを思い出してくださいと願う犯罪人に、こう言いました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)。イエスの死後、「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返りました」(マタイ27・52)。イエスが成し遂げた救いは、いのちをもたらすことであり、復活でした。地上の生涯をとおして、イエスはいやしのわぎを行い、またすべての人によいわざを行うことによって救いをもたらしました(使徒言行録10・38参照)。しかも、イエスが行った奇跡、いやし、死者を生き返らせることは、別の救いのしるしです。つまり、罪のゆるしを与えるところにある救いであり、重病人を立ち上がらせることや、神のいのちへと人間を引き上げることにおいて、結果的に示されました。

モーセが荒れ野で蛇を上げ、それを仰ぐ者が救われた奇跡は(ヨハネ3・14−15、民数記21・8−9参照)、十字架上で新しい形のもとに行われ、決定的な完成へ至りました。今日においてもやりで刺し貫かれたかたを仰ぐとき、いのちを脅かされるすべての人は、自由とあがないを見いだす確かな望みと出合うのです。

51 十字架を思うとき、心を揺さぶられるもう一つの特別な出来事があります。「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られました」(ヨハえ19・30)。その後、ローマ兵が「やりでイエスのわき腹を刺しました。すると、すぐ血と水と流れ出た」(ヨハネ19・34)のです。

今やすべては完全に成就しました。イエスの死は息を「返した」と表現されており、わたしたちと何ら変わりのない死であるとされます。しかし、「息を返す」とは、暗に霊のたまものに言及しているように思われます。イエスはこの霊の力で、わたしたちを死からあがない、わたしたちの前に新しいいのちを開いたのです。

霊とは、今や人間に分け与えられる神のいのちそのものです。イエスのわき腹から流れ出た血と水が象徴する教会の秘跡をとおして、神の子らに間断なく与えられるいのちです。このいのちが神の子らを新しい契約の民とします。十字架からいのちの源、「いのちの民」が生まれ、数を増すのです。

このように十字架を黙想すると、イエスの生涯に起きたあらゆる出来事の中核に迫ることになります。イエスは世に来るとき、こう語りました。「神よ、み心を行うために、わたしは来ました」(ヘブライ10・9参照)。そして、すべてにおいて父に従順なものとなり、「世にいる弟子たちを愛して、このうえなく愛し抜き」(ヨハネ13・1)、彼らのために自らを完全に与え尽くしたのです。

「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちをささげるために来た」(マルコ1O・45)イエスは、十字架上で愛の極みに到達します。「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13)。そしてイエスは、わたしりがまだ罪びとであったときに、わたしたちのためにいのちをささげてくださったのです(ローマ5・8参照)。

いのちはささげられるときに、その中心、意味、そして完成に至るということを、イエスはこのような形で宣言したのです。

このように見てくると、わたしたちほ賛美と感謝をイエスにささげるほかはなく、同時にイエスに倣い、イエスの足跡をたどるよう促されるのを覚えます(一ペトロ2・21参照)。

わたしたちもまた、兄弟姉妹のために自分のいのちをささげるよう招かれており、こうしてわたしたちの生きている意味と運命の真理を、はっきりと理解するよう呼びかけられています。

主よ、あなたはわたしたちに仰ぐべき模範を与え、またあなたの霊の力を恵まれるので、わたしたちはこの招きにこたえることができます。日々、あなたとともに、あなたのように、父に従順であろうと努め、父のみ旨を果たそうとするなら、この招きにこたえることができるでしょう。

神の口から流れ出るすべてのことばに心を開き、寛大な態度で耳を傾けさせてください。こうしてわたしたちは、人間のいのちを殺してはいけないという神のおきてに従うだけではなく、いのちを尊び、愛し、育てることをも学ぶことになるのです。

第三章:殺してはならない 
(神の定めた聖なる律法 )

「もしいのちを得たいのなら、おきてを守りなさい」(マタイ19・17) 
福音と神のおきて 

52「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。『先生、永遠のいのちを得るには、どんなよいことをすればよいのでしょうか』」(マタイ19・16)。イエスは答えました。「もしいのちを得たいのなら、おきてを守りなさい」(マタイ19・17)。師イエスは永遠のいのちについて、つまり神自身のいのちにあずかることについて語ります。このいのちは「殺してはならない」というおきてを含む、主のおきてを遵守することによって得られるものです。どのおきてを守らなければならないかと尋ねた若者に、イエスは神の十戒から引用して答えますが、イエスが第一にあげるのは、「殺してはならない」というおきてです。「殺すな、姦淫するな、盗むな……」(マタイ19・18)。

神のおきてと神の愛とは引き離されることはありません。神のおきてはつねに、人間が成長し、喜びのうちに生きるようにということを意図して差し出されたたまものです。それで、おきては、福音にとって本質的なものであり、不可欠なものです。実際には、おきては「福音」そのもの、つまり喜ばしいよい知らせとなるのです。いのちの福音は神からの尊い贈り物であり、人類に厳格な履行を求める務めでもあります。おきては自由を享受する人に、驚きと感謝の念を呼び起こします。わたしたちとしては、強い責任感をもっておきてを受け入れ、保ち、高く評価すべきです。神は人間にいのちを与えるとき、いのちを愛し、尊び、成長させるよう命じました。こうして、たまものはおきてとなり、おきてはまた、たまものそのものなのです。

神の生きたかたどりとして、人間は、支配者、あるじとなるよう創造主によって計画されました。ニッサの聖グレゴリオは次のように書いています。「神は、人間が地上の王としての役割を果たす能力のあるものとした。……人間は宇宙を統治するかたに似せて創造された。万物は原初から、人間の本性が王の尊厳を帯びていることを証明している。人間は王である。世界に支配権を行使するものとして創造されているので、人間は宇宙の王のかたどりである。人間はその尊厳によって、原型である神にあずかる生きたかたどりである38」。産み、数を増し、地を従え、他の下位の被造物を支配するよう招かれているがゆえに(創世記1・28参照)、人間は物についてばかりでなく、とりわけ人間に対しても39、またある意味ではいのちに対しても支配者であり、あるじです。人間は、そのいのちを生殖をとおして受けたのであり、生殖をとおして伝達することができるのです。この生殖は、神の計画に対する愛と敬意をもって行われるものですが、それでも人間の支配は絶対的なものではなく、役務的なものです。つまり、神の独特な、無限の支配の真の写しです。それゆえ、神の限りない知恵と愛にあずかりながら、人間は知恵と愛をもってその権利を行使すべきです。このことは、神の聖なる律法への従順をとおして実現します。それは、自発的に喜んで引き受ける従順です(詩編119参照)。この従順は一つの自覚から生まれ、さらに強められます。すなわち、主のおきては人間の善のために、人間の人格的尊厳を保つために、そして人間の幸せを追求するために、つねにこれらを目的にして人間にゆだねられた恵みのたまものであるという自覚です。

人間は、物に関して、ましていのちに関して、絶対君主ではなく、最終審判者でもありません。むしろー人間の唯一無比の偉大さがここにあるのですがー人間は、「神の計画の管理者40」なのです。

いのちは、浪費してはならない宝として、活用すべき天与のものとして人間にゆだねられています。人間は、主人に決算を提出しなければならないのです。(マタイ25・14ー30、ルカ9・12ー27参照)。

「人間どうしの血については、人間から人間のいのちを賠償として要求する」(創世記9・5) 
人間のいのちは神聖であり、不可侵である 

53「人間の生命が神聖であるのは、それが初めから『神の創造のわざ』の結果であり、またその唯一の目標である創造主と永久に特別な関係を保ち続けるからである。神のみが、生命の初めから終わりまでの主である。たとえどんな状況にあったとしても、無害な人間を意図的に破壊する権利を主張することは、だれにもできない41」。このように『生命のはじまりに関する教書』は、人間のいのちの神聖さと不可侵性についての、神の啓示の中心的な内容を説明します。

実際、聖書は「殺してはならない」というおきてを、神のおきてとして提示します(出エジプト20・13、申命記5・17)。すでに強調したように、このおきては、十戒の中で神が自ら選んだ民との間に結んだ契約の中核をなします。罪と暴虐が地を覆ったがために、神は洪水をもって人間を罰し、地を清めました(創世記9・5ー6参照)。その後、神と人類との間に締結された最初の契約に、このおきてはすでに含まれます。

神は、神こそが、そのかたどりと似姿をもって形づくった人間のいのちの絶対的な主であるとを宣言します(創世記1・26−28参照)。このように、人間のいのちは創造主自身の不可侵性を反映する、神聖にして不可侵な性格を帯びています。まさにこのことによって、神は、「殺しはならない」というおきてを侵犯するもの、社会に集うあらゆるいのちの基底をなすおきてを犯するものは何であれ、厳しく裁くのです。神は罪のない者のゴエル(身請け人)、守り手で(創世記4・9−15、イザヤ41・14、エレミヤ50・34、詩編19・15参照)。こうして神は、いのちあるものの死を喜ばないことを示します(知恵1・13参照)。それを喜ぶことができるのはサタンだけです。悪魔のねたみによって、死がこの世に入ったからです(知恵2・24参照)。「最初から人殺しであった」サタンは、「偽り者であり、その父」(ヨハネ8・44)です。サタンは人間を欺き陥れ、死と罪のたくらみをいのちの目標と実りに見せかけて、人間をそこに引き込みます。

54 その表現からはっきりしているように、「殺してはならない」というおきては断固とした一定の形式を取ります。これは決して越えることのできない極限を示します。しかし、このおきは暗黙のうちに、いのちに対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです。契約の民はゆっくりと、しかも時にはぶつかりながらも、次第にこのような考え方において成熟していきました。そして、隣人を愛せというおきては、神を愛せというおきてに等しいというイエスの偉大な宣言に向けて自らを整えていったのです。「律法全体と預言者は、この二つのおきてに基づいて」います(マタイ22・36ー40参照)。聖パウロはこう力説します。「『殺すな……』、そのほかどんなおきてがあっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」(ローマ13・9。ガラテヤ5・14参照)。新しい律法のうちに取り上げられ、成就しているがゆえに、「殺してはならない」というおきては「いのちを得るために」(マタイ19・16−19参照)必須の条件です。これと同じとらえ方に立つ使徒ヨハネの言葉には、容赦のない響きがあります。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠のいのちがとどまっていません」(一ヨハネ3・15)。

当初から教会の生きた伝承は、-聖書を除いては最古のキリスト教著作である『ディダケ』に見られるように-「殺してはならない」というおきてを絶対的な口調で繰り返します。「いのちへの道と死への道の二つの道がある。その二つの間には雲泥の差がある。殺してはならい……堕胎で子供を殺してはならない、生まれてすぐの子供を殺してもならない。……死の道以下のようなものである。……貧しい人に同情を示さない、苦しむ人と苦しみをともにしない、創造主を認めない、子供たちを殺害し、堕胎によって神の被造物を滅ぼす。困窮にあるものを追い払い、苦しむ者を圧迫する。彼らは富める者の擁護者であり、貧しい者を不正に裁く。彼らはらゆる罪に満ちている。子供たちよ、あなたがたがこれらすべての罪から遠ざかることができるように42」。

時の経過の中で、教会の伝承はつねに一貫して、「殺してはならない」というおきてが有する絶対的で不変の価値を教え続けてきました。一、二世紀ごろ、殺人は棄教、姦通とともに、三つのもっとも重大な罪に数えられていたことが知られています。そして、殺人実行者が罪のゆるしを与えられ、教会共同体に再度の加入を認められるには、相当に重く、また長期にわたる公の償いが求められた事実も、よく知られています。

55 罪びとがこのような扱いを受けたのは、驚くに値しません。神のかたどりを帯びる人間を殺害するのは、特別に重大な罪だからです。神だけがいのちの主人なのです。しかし、当初から個人生活や社会生活の中に起こる多数の事件、多くの悲劇的なものに直面するとき、教会ではそのつど、神のおきてが禁じまた命じていることについての、より十全でより深い理解を探ろうとしてきました43。神の律法が提示するさまざまな価値が、まさしく逆説を含むように思われる場合があります。たとえば正当防衛の場合がそうです。正当防衛においては、自分自身のいのちを守る権利と、他の人のいのちを損なってはならないという義務との両立が実際上難しいのです。生来いのちに備わる価値と、他人と同じように自分を愛する義務が、自己防衛の真の権利の基礎であるのは疑いありません。隣人を愛せという厳しい要求を迫るおきては、旧約聖書でも説かれ、イエスが確認したことですが、このおきて自体、「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12・31)いう言い回しにあるように、比較の基礎として自分を愛することを前提としています。したがて、いのちへの、あるいは自己への愛に欠けるがゆえに自己防衛の権利を放棄することはだれにもできないのです。自己防衛の権利を放棄することは、福音の幸いの教えの精神に従って(マタイ5・38−40参照)、自己への愛を徹底した自己奉献へと深め、変貌させる英雄的な愛によって可能となるのです。この自己奉献の最高の模範は、主イエス自身です。

さらに、「正当防衛は権利であるばかりではなく、他者のいのちに対して責任を有する人の場合には、重大な義務でもあります。家族あるいは国家の共通善を担う人の場合がそうです44」。危害が生じないように対処する必要から、正当な理由なく攻撃してくる者のいのちが不幸にして失われるような場合があります。このような場合、死を招くような結果は、ことを引き起こした当事者である正当な理由を持たない攻撃者が、理性を行使する能力に欠けるところがあって、道義上の責任は問えないとしても、その人の責任に帰せられるべきです45

56 死刑の問題は、このような文脈で考察すべきです。この問題については、教会においても社会においても、非常に制限されたやり方で適用されるべきであるとか、あるいは完全に撤廃されるべきだと要求する傾向が勢いを増しています。人間の尊厳に合致し、最終的には人間と社会に対する神の計画に一致した、正義に基づいた刑罰体系という文脈で、この問題は検討されなければなりません。社会が課す刑罰の主要な目的は、「犯罪が引き起こした無秩序を正す46」ところにあります。公権は、犯罪に見合った刑罰を犯罪者に課すことによって、個人的権利と社会的権利の侵害を正さなければなりません。その際、犯罪者が自らの自由の行使を回復することが条件となります。こうして、公権は公的秩序を守り、人々の安全を確保する目的をも満たします。同時にその一方で、犯罪者に生き方を改め更正するよう動機を与え、支援を提供します47

このような諸問題を達成するために、刑罰の特質とその及ぶ範囲は慎重に評価され、決定されなければならないのは明らかです。また、絶対的に必要な場合、換言すれば他の方法では社会を守ることができない場合を除いては、犯罪者を死刑に処する極端な手段に訴えるべきではありません。しかし今日、刑罰体系の組織立てが着実に改善された結果、そのような事例は皆無ではないにしても、非常にまれなことになりました。

いずれにしても、新しい『カトリック教会のカテキズム』で説かれている原則は、この点についての教会の立場を的確に表します。すなわちこう説いています。「正当な理由なく攻撃する者に対して、血を流さずにすむ手段で人命を十分に守ることができ、また公共の秩序と人々の安全を守ることができるのであれば、公権の発動はそのような手段に制限されるべきである。そのような手段は、共通善の具体的な状況にいっそうよく合致するからであり、人間の尊厳にいっそうかなうからである48」。

57 あらゆるいのち、しかも犯罪者やよこしまな攻撃者のいのちであっても、人間のいのちに敬意を払うためにこのような多大な配慮をなすべきであれば、「殺してはならない」というおきては、罪のない人に当てはめる場合には絶対的な価値を持っています。弱い人、身を守るすべのない人の場合には、なおさらのことです。彼らは、他者から向けられる尊大さや移り気に対しては、神のおきての絶対的な拘束力にのみ自分たちの最終的なよりどころを持つ人たちです。

罪のない人のいのちの絶対的な不可侵性は、聖書がはっきりと教え、教会の伝承の中につねに保持され、教会の教導職が一貫して提示してきた道徳上の真理です。この一貫した教えは、聖霊が霊を吹き込み、支える「信仰の超自然的な意味」が、「信仰と道徳のことがらについてあまねく賛同を示す49」場合に、神の民を誤謬から守るとする立場からの明白な帰結です。

あらゆる罪のない人のいのちを、とくにいのちの最初期においても最後の段階においても直接に殺害することは、絶対的で重大な道徳上の違法行為であるととらえる感覚が、一人ひとりの良心においても社会においても次第に衰退しつつある現状に直面して、教会の教導職は、人間のいちが神聖で不可侵であることを擁護するために、次第に発言の機会を増しています。教皇の教導職は、とりわけこの問題について際立っているのですが、司教協議会や個々の司教たちの、多数のまた広範囲にわたって論じた教義に関する文書や司牧上の文書によって、つねに司教たちの教導職に支持されてきています。この問題については、第二バチカン公会議も手短にですが厳しい口調ではっきりと述べています50

それゆえ、キリストがペトロとその後継者たちに与えた権威をもって、またカトリック教会の司教との一致のうちに、わたしは、罪のない人を直接にあるいは意図的に殺害することは、つねに変わらずきわめて不道徳な行為であると確認します。この教えは、理性の光に照らされて人間が自分自身の心に見いだす(ローマ2・14−15参照)、あの文字で記されない法に基づいており、聖書が繰り返し確認し、教会の伝承が伝え、また通常の教導職と普遍的な教導職が教えてきたことです51

罪のない人からいのちを奪い取るために慎重に下される決断は、それ自体が目的であれよい結果を意図するものであれ、つねに道徳的に悪であり、決して是認されることはありません。要するに、これは道徳法への、また道徳法の創始者であり保証人である神自身への、重大な不従順の行為です。このような行為は、正義と愛という根本的な徳を否定します。「何ものであれだれであれ、罪のない者を殺害することは決して容認されるものではありません。胎児であれ胚芽であれ、幼児であれ成人であれ、老人であれ、不治の病を患う人であれ、死を目前にする人であれ、いっさいの区別はありません。さらに、殺害というこの行為を要求することは、当人のためであれ、自分にゆだねられた他の人のためであれ、だれにも許されません。また、明示的にであれ暗黙裡にであれ、だれもそのような行為に同意することはできません。いかなる権威もこのような殺人行為を、合法的に推奨したり許したりすることはできません52」。

いのちの権利に関するかぎり、すべての罪のない人は、だれもが絶対的に平等の立場にあります。この平等性は、すべての真正な社会的かかわりの基礎です。間違いなくそうであるために、社会的かかわりは、男性であれ女性であれその人を、取り扱われる物としてではなく、一人の人間として認めて保護する立場に立つ真実と正義にのみ基づかなければなりません。罪のない人のいのちを直接的に奪い取ることを禁じる道徳法の前には、「どのような人にとっても特権や例外はありません。人間が世界のあるじであったとしても、またこの地上で『貧しい者のうちのもっも貧しい者』であったとしても、まったく違いはありません。道徳性の要求以前に、わたしたちは皆、絶対的に平等なのです53」。

「胎児であったわたしをあなたの目ほ見ておられた」(詩編139・16) 
人工妊娠中絶の恐るべき犯罪 

58 いのちに対してなされるあらゆる犯罪の中でも、人工妊娠中絶行為はとりわけ深刻で嘆かわいものであるという特徴があります。第二バチカン公会議は、生まれたばかりの子供を殺すこととともに人工妊娠中絶を「恐るべき犯罪54」であると明言しました。

しかし今日、多くの人の良心において、人工妊娠中絶が有する重大性は、次第に不明瞭にしか認識されなくなってきています。一般的な受け取り方として、実践において、また法自体においさえ人工妊娠中絶が容認されているのは、道徳感覚が極端なまでに危機的状況にあることを物語っています。いのちの基本的権利が危機に瀕しているときでさえも、善と悪との間の区別をつけることがますます困難となっています。このような重大な状況にあって、わたしたちは今、真理をしっかりと見据え、物事をまさにそのもの固有の名称で呼ぶ勇気をいよいよ持つ必要があります。安易な妥協、もしくは自己欺瞞の誘惑に屈してはなりません。この点に関して、預言者はきわめて正直に叱責の言葉を述べています。「災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らはやみを光とし、光をやみとする」(イザヤ5・20)。とくに人工妊娠中絶の場合には、あいまいな術語が広く使われます。たとえば「妊娠の中断」などはその一例で、これは人工妊娠中絶の本質を覆い隠し、世論におけるその重大性を弱めようとたくらむものです。このような言葉遣いに見られる現象は、おそらく良心に不安があることの兆候に違いありません。しかしながら、言葉には、物事の真実性を変える力はありません。行われてしまった人工妊娠中絶はどのような手段でなされたものであれ、受胎から出産へ至る人間としての生存の初期段階にある胎児を、意図的に直接に殺害することです。

実行された人工妊娠中絶の道徳的な重大さは、行われるのが殺人行為であると理解するなら、また、とりわけその行為に含まれる特別な諸要素を考察すれば、まったく明らかです。そこで抹殺されるのは、いのちのごく初期にある人間です。このようないのちほど、罪のないものはないと考えなければなりません。このような人間が、正当な理由なく攻撃する者と見なされるわけはありません。ましてや、不正な攻撃者であるはずがありません。このような彼あるいは彼女は弱者にあり、身を守る手だてを持ちません。新生児が泣き涙する、あの心に強く訴える力に存在する身を守る最低限の表現さえ持たないのです。母親の胎内にいる子供は、その子を胎内に宿す女性の保護と配慮とに全面的にゆだねられます。しかも、時として決断し、その子を亡き者にするこを願い、その実行に踏み切るのは、まさに母親自身なのです。

人工妊娠中絶に踏み切る決断が、母親にとってしばしば悲劇的で痛ましいものであるのは言うまでもありません。ただ自分勝手な理由や、不都合だからという口実からだけでなく、母親の健康や家族に対してしかるべき生活水準を考えてなどのように、大切な価値を守ろうとして、その母親が妊娠によって宿した子供を自分から捨て去ろうと決断することもあるからです。また、生まれてくる子供が、生まれなければよかったのにと思われるような環境で育つことを恐れる場合もあるでしょう。しかしながら、このような理由、またはこれに類する理由は、いかに深刻で悲劇的であっても、罪のない人を意図的に殺害するのを決して正当化することはできません。

59 母親のみならず、他の人が胎内の子供を殺そうと決める場合もしぱしぱあります。まず第一に子供の父親が責められるべきでしょう。女性に人工妊娠中絶をするよう直接に迫る場合だけでなく、女性にだけ妊娠にまつわる諸問題を押しつけて、女性の側に人工妊娠中絶の決断を間接的に促すような場合です55。こうして家族は、愛の共同体としてのその本性において、また「いのちの聖域」であるべきその召命において、このような致命的な傷を負い、汚されるのです。さらに、時として広範囲にわたる身内や友人などからの圧迫も見逃せません。女性が心理的に人工妊中絶を強いられていると感じるような強い圧力に屈する場合もあります。このような場合、確かに直接的あるいは間接的に女性に人工妊娠中絶を強いる人々の側に道徳上の責任があります。いのちをはぐくむ目的で習得した技術を、死をもたらすために用いるとき、医師や看護婦にも責任があります。

さらにいえば、人工妊娠中絶法を推進し容認した立法府の議員たちに、またこの件について発言権のある範囲内ではありますが、人工妊娠中絶が実施される医療機関の監督者たちにも責任があります。欲しいままに性的享楽を追い求める態度や、母親になることを尊重しない見方を助長してきた人々、家族、とりわけ大家族や著しく経済的に窮乏し、教育の機会を持たない人々を支援するような、実効ある家族政策や社会政策を確立すべきであったのにそうしなかった人々、彼 にも一般的ではありますが、同程度の重大な責任があります。最後に、世界中で人工妊娠中絶を合法化し広めることを組織的に盛んに言い立てる、国際的な機関、財団、団体を含むほどに広がってきた共犯のネットワークを見逃すことはできません。この意味において、人工妊娠中絶は一人ひとりの責任の域を越え、一人ひとりに向けてなされた危害の枠を越え、明らかに社会的な次元に挑戦する問題となっています。それは、まさに社会の促進者、守護者となるべき人たちの手によって社会と文化に加えられるもっとも深刻な傷なのです。『家庭への手紙』で、わたしは次のように書きました。「わたしたちは、個人としてばかりでなく、文明全体のいのちに反する驚くべき脅威の前に立っています56」。わたしたちは、まだ胎内にとどまっている人間のいのちに敵対する、「罪の構造」とでも呼びうるものに直面しているのです。

60 妊娠が判明してもある一定の日数がたつまでは、一人の人間のいのちとはまだ見なすことはできないと主張することによって、人工妊娠中絶を正当化しようとする人がいます。しかし実は、「卵子が受精した瞬間から、父親や母親のそれとは異なる一つの新しいいのちが始まるのです。それは、自分自身の成長を遂げるもう一人の人間のいのちです。受精のときにすでに人間となるでなければ、その後において人間となる機会はありえないでしょう。この不変かつ明白な事実は、現代遺伝学の成果によって裏づけられています。すなわち、現代遺伝学によれば受胎の瞬間ら、受精卵の中にはその生命体が将来何になるのかというプログラムが組み込まれていることが証明されたのです。それはつまり、受精卵は一人の人間、しかも特定の特徴をすでに備えた一人の個人となるということを意味するのです。受胎のときから人間のいのちは冒険を始めますが、それが持つさまざまの偉大な能力は、発揮されるまでに時間がかかるのです57」。いつ霊魂が宿るかということは、経験的データでは示すことはできませんが、受精卵についての科学的な研究の結論は、重要な示唆を与えているといえます。「それを踏まえたうえで理性に基づいて考えるならば、われわれは、人間のいのちが初めに現れた瞬間から、そこに一つの人格の存在を見いだすことができる58」のです。

さらに、問題となっていることは非常に重要なので、道徳上の義務の立場からいって、人間の胚芽の殺害を目的とするいかなる介入をも絶対的に明確に禁じることが正当であるためには、一人の人間にかかわることであるという蓋然性さえあれば十分です。まさにこのような理由から、あらゆる科学的討議や哲学的論証-教導職はその立場に立つと明言してはいませんが-とは別に、教会はいつもこう教えてきましたし、教え続けています。すなわち、人間の生殖活動によって生存を始めたものは、その最初の瞬間から、男性あるいは女性の全体性、および体と霊としての一体性において、倫理的に人間になるはずのものであることへの無条件の畏敬が保障されなければならないということです。「人間は、受胎の瞬間から人間として尊重され、扱われるべきです。そして、その同じ瞬間から人間としての権利、とりわけ罪のない人間だれにでも備わっている不可侵の権利が認められなければならない59」のです。

61 聖書本文は、意図的な人工妊娠中絶にはまったく触れませんから、それを直接的に、また取り立てて断罪することはありません。しかし、母の胎内にある人間に対してはきわめて深い敬意を表すので、聖書は論理的な帰結として、「殺してはならない」という神のおきてが、胎児にも同様に当てはめられるよう求めているといえます。

人間のいのちは誕生に先立つ最初の段階を含め、生存のあらゆる瞬間において、神聖にして不可侵です。すべての人間は、母の胎内にあるときから神に帰属します。神は、人間を探し求め、人間を知っているかた、自らの手で人間を形づくり組み立てるかた、小さな形のない胚芽であるときに人間を見つめ、そのような人間のうちにすでに将来の成長した姿を認めるかたです。人間はこのような神に属するのであり、すべての人の日々は神によって数えられ、その召命は「いのちの書」にすでに書き記されているのです(詩編139・1、13ー16参照)。さらに、聖書のさまざまな箇所が証言するように60、人間は母の胎内にあるときから、一人の人間として父である神の愛とはからいの対象でもあります。

教理省が発表した教書がいみじくも指摘しているように61、キリスト教の伝承は、人工妊娠中絶をとくに重大な道徳上の逸脱であると説く点において、初めのときから現代に至るまでその見解は明白であり一貫しています。ギリシア・口ーマ世界では、人工妊娠中絶と生まれたばかりの子供の殺害が広範囲にわたって実践されていましたが、それに最初に遭遇して以来、初期キリスト教共同体は教えと実践をもって、当時の社会にはびこっていた悪習に猛然と反対しました。このことは、前述した『ディダケ』にはっきりと述べられているとおりです62。ギリシアの教会著作家の一人アテナゴラスは、子供はまだ母の胎内にあるにしても、「すでに神の摂理の保護のもとに63」あるので、キリスト者たちは、堕胎を促す薬物に頼る女性を殺人者と見なしていると記しています。ラテン教会の著作家では、テルトゥリアヌスがこう断言します。「生まれ出ようとするの妨げるのは、先取りされた殺人というべきである。すでに生まれた魂を殺すのか、誕生の瞬間に殺すのかに大差はない。いずれ人間となるその者は、すでに人間である64」。

キリスト教の二千年の歴史を貫いて、教会の教父、司牧者、博士たちは同じ教えを堅持してきました。魂が吹き込まれるのは正確にいえばどの時点なのかということについて、科学的、哲学的な討議を行うときであっても、人工妊娠中絶を道徳的に断罪すべきものとする点には、いささかのためらいもありません。

62 今世紀に入ってから、教皇の教導職はこの一般的な教えを力強く再確認しています。とくに教皇ピオ十一世は回勅『カスティ・コンヌビイー結婚の倫理−』の中で、人工妊娠中絶をまこしやかに正当化する動きを排斥しました65。ピオ十二世は、あらゆる直接的な人工妊娠中絶は許されないとしました。つまり、胎児のいのちを直接的に破壊することに結びつくすべての行為、「そのような破壊行為が目的とされようと、あるいは目的へ至るための手段にすぎなくても66」このような行為を排除しました。ヨハネ二十三世は、「いのちはその始まった瞬間から、神の創造の業を直接的に含む67」がゆえに、人間のいのちは神聖であると再確認しました。すでに述べたように、第二バチカン公会議は人工妊娠中絶を厳しく断罪しました。「生命は妊娠した時から細心の注意をもって守護しなければならない。堕胎と幼児殺害は恐るべき犯罪である68」。

ごく初期のころから、教会の宗規では、人工妊娠中絶の罪を犯した者に罰則を課すとしてきました。多少なりとも厳しい処罰を伴うこの方針は、歴史上さまざまな時点で確認されました。一九一七年版の『教会法典』は、人工妊娠中絶は破門に処すと規定しました69。改訂された教会法規定でもこの伝統は保持され、「堕胎を企てる者にして、既遂の場合は、伴事的破門制裁を受ける70」との法令が定められました。破門は、刑罰が課されることを承知のうえでこの犯罪を犯す者すべてに及びます。そして、その手助けがなければその犯罪が犯されなかったと思われる場合には、共犯者たちにも及びます71。刑罰を繰り返し提示することで、教会は人工妊娠中絶がもっとも忌まわしく、危険な犯罪であることを明らかにし、それによって、人工妊娠中絶を犯した者がすみやかに回心の道を求めるよう励まします。教会が破門の罰を与えるのは、個人にその罪の持つ重大性を十分にわきまえさせ、真正な回心と悔い改めへと進ませるのが目的です。

教会の教義上の伝承、宗規上の伝承がつねに一致していればこそ、パウロ六世は、この伝承はこれまで変わることがなく、今後も変わることはないと宣言することができたのです72。それゆえ、キリストがペトロとその後継者たちに与えた権威に基づき、司教たちとの交わりのうちに-司教たちはさまざまな機会に人工妊娠中絶を非難し、また前述の諮問の際には、全世界に広がっているにもかかわらずこの教えについては全員一致で賛成を表しました-わたしは次のとおり宣言します。「直接的な人工妊娠中絶は、つまり目的として意図された人工妊娠中絶であろうと、手段としてのそれであろうと、罪のない人を意図的に殺害することなので、つねに重大な道徳上の不秩序をなすのです」。この教えは自然法、ならびに教会の伝承が伝え、通常の教導職と普通の教導職が教える書き記された神のことばに基づきます73。どのような環境であれ、どのような目的であれ、いかなる法律であっても、本質的に不正な行為を正当だとすることはできません。それは、すべての人の心に書き記されている神の法、理性そのものによって知られうる神の法、教会が宣言する神の法に反するからです。

63 人工妊娠中絶の道徳性についてのこのとらえ方は、人間の胚芽に介入する近ごろの方式にも当てはめられなければなりません。それ自体は合法的な目的のために行われるとしても、胚芽の殺害を不可避的に含む方式があるからです。生物医学の研究分野で広がりを見せつつあり、また。くつかの国々で適法であると認められている、胚芽に関する実験がそうした事例です。「患者に対するどんな治療方法についても言えることですが、人間の胎児(受精卵・胚芽を含む)を傷つけることなくそのいのちを尊重し、必要以上の危険を冒さず、直接に胎児の治療と結びつき、その健康状態を改善し、または個人としての生存を助けるようなものであれば胎児に対して行われる治療行為は認められる74」のです。しかしながら、人間の胚芽や胎児を実験対象として用いるのは、人間の尊厳に対する犯罪を引き起こすといわなければなりません。人間は、生まれたばかりの子供であれ、他のすべての人間同様、敬意を払われるという権利を持っているからです。75 

この道徳的な見地に立つ非難は、「生物学における物体」として用いられるのであれ、ある種の疾患を治療する際の移植目的で器官や組織を取り出すために用いられるのであれ、体外受精によって、この目的のためにとくに「生産される」ことのある生きた人間の胚芽と胎児を利用する操作方法にも当てはまります。たとえ他人を助けるためになされるのであっても、罪のない人を殺害することは絶対に容認できない行為です。

胎児に異常がありそうな場合、早期発見を可能にする胎児診断技術の道徳的な評価には、格別の注意が払われなければなりません。このような種々の技術が持つ複雑性を考慮して、正確で一貫した道徳的判断が必要です。子供と母親の双方を傷つけるようなふつりあいな危険をもたらすことがなく、また早期治療を可能にし、あるいは心を落ち着けて、しかるべき情報を知らされたうえで出産できるように意図される場合、これらの技術は道徳的に合法となります。しかし、胎内診断の可能性は今日なお制限された範囲内にとどまるので、これらの技術がさまざまな種類の異常を持つ胎児の出生を阻害する目的で、選択的な人工妊娠中絶を容認するといった優生学的な意図をもって用いられる事態がしばしば起きています。これは恥ずべき態度であり、絶対的に避難されるべきです。それは、人間のいのちの価値を、「正常性」と身体的に満足のいく状態という要素においてだけ計ろうとし、こうして生まれたばかりの子供を殺害することやさらには安楽死を合法化することへの道を開くことになるからです。

それにもかかわらず、重度の障害に苦しむ多くの兄弟姉妹は周囲から受け入れられ、また愛情に支えられて、自らの生を勇気と落ち着きのうちに前進させています。彼らのこの勇気と落ち着きは、何がいのちに真の価値を与えるのかを雄弁に物語っており、困難な境遇にあっても、自分とっても他の人々にとってもいのちを尊いものとするのです。教会は、大きな苦悩と苦しみを抱えながら、重い障害を持つ子供たちを進んで受け入れる夫婦の皆さんと連帯するものです。教会はまた、障害や疾患のゆえに両親から見放された子供たちを、養子縁組によって喜んで迎え入るすべての家族に感謝の意を表します。

「わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす」(申命記32・39) 
安楽死の悲劇 

64 人生の終局にあって、人間は死の神秘に向き合います。今日、医学上の進歩の結果、また超越的なものに門戸を閉ざす文化的状況が深まりつつある中で、死の経験は新しい様相を帯びています。快楽と幸福をもたらすか否かという尺度で、いのちの価値を判断するのが趨勢となっています。そこでは、苦しみは耐えがたい妨ザであり、何としてでもそこから抜け出るべきものととらえられているようです。新しい経験、興味深い経験を有する未来へと続くはずのいのちが突然さえぎられると、死は「無意味なもの」と見なされます。ひとたびいのちがもはや意味のないものとされると、あるのは苦痛ばかりで、いや応なしにさらに大きな苦しみを味わわなければならないので、死は「正当な解放」となるのです。

さらに、人間が神との根本的なかかわりを否定し軽視するとき、人間は自分自身が規則であり尺度であると考えるに至ります。つまり、十全にして完全な自律性のうちに、自分のいのちをどう扱うかを決めるのは自分なのだから、そのための方法と手段を社会は自分に保証すべきであるとする権利を要求するのです。このように考えるのは、とくに先進諸国の人々です。医学が着実に進歩しており、さらに医療上の技術が日進月歩の発展を遂げていることから、彼らはそうしたほうがよいと促されていると感じるのです。高度に洗練されたシステムと設備を駆使することで、今日、科学と医療活動は、以前には処置不能と見なされた症例を扱ったり、痛みを緩和したり除去できるようになったばかりでなく、さらには極度に衰弱した状態にあるいのちでも保持し延命させたり、基本的な生物学上の機能が突然危機的な状態になってもその患者を人工的に蘇生させたり、さまざまな器官を移植に利用できる特別な操作を活用できるまでになりました。

このような流れの中で、安楽死を頼みにしたいという誘惑が強まっています。つまり、死をコントロールし、自分のいのちあるいは他人のいのちを「徐々に」終わらせて、本来迎えるべき時に先立って死をもたらそうという誘惑が強まりつつあるのです。これは諭理的で人道的であるように見えますが、より厳密に検討すると、現実には無分別で非人道的な所業であることが分かります。ここでわたしたちは、「死の文化」のいっそう驚くべき兆候の一つに直面します。極端なまでの効率至上主義に特徴づけられ繁栄する社会において、とりわけ力を増しつつある「死の文化」、数を増す一方の高齢者と障害のある人をがまんのできない存在であり重荷と見る「死の文化」が、勢力を伸ばしています。こうして高齢者や障害のある人は、自分の家族や社会から見すてられる場合が少なくありません。そのようなときの家族や社会は、ひたすら生産効率という基準のみに基づく組織となっており、その基準によれば回復の見込みのないいのちは、もはや何の価値もないとされるのです。

65 安楽死について正しい道徳的判断を下すためには、まず明確な定義が必要です。厳密な意味での安楽死は、すべての苦痛を取り除くという目的をもって、自ら進んで、あるいは故意に死をもたらす行為もしくは不作為であると理解されます。「ゆえに、何をもって安楽死とするかは、意志が意図するところとその際に用いられる方法の中に見いだされるべきです76」。

安楽死は、いわゆる「攻撃的な医療処置」に訴えるのを控える決断とは区別されなければなりません。この「攻撃的な医療処置」とは、換言すれば、患者の実状にもはや対応しきれない医学上の処置です。その処置が、今となっては期待された結果につりあわないものとなるか、もしくは患者と家族に過剰な重荷を課すので対応できないのです。このような状況では、死が明らかに迫っていてどうにも避けがたい場合、人は良心において、「このような症例の病人に通常与えるべきケアが中断されずにいるかぎり、根拠の不明確な延命、耐えがたい重荷となる延命を確実にするだけの処置については、これを拒むことができます77。」自分のために心を配る道徳的義務、また他人の世話に自らを任せるべき義務が人間にあるのは確かです。しかし、この義務は具体的な状況を考慮に入れなければなりません。処置をするにあたっての手だてが、よくなる見込みに照らして客観的につりあいのあるものかどうかを見極める必要があります。特別的な手だて、ふつりあいな手段に訴えるのを控えるのは、自殺や安楽死とは同じ意味を持つのではありません。それはむしろ、死に直面して地上にある人間の条件を受け入れることを表します78

現代医学において、「一時的に緩和をもたらす方法」と呼ばれる治療に注意が向けられています。この治療法は、疾患の最終段階において苦痛をより耐えやすくしようとするものであり、苦難のうちにある患者を支え、力づけようとするものです。このような状況においてはさまざまな問題が起こりますが、その中に、患者のいのちを縮める危険性を伴うとしても、患者の苦痛を和らげるためのさまざまな種類の鎮痛剤や鎮静剤を使用するのは許されるか否か、という問題があります。覚醒した意識状態にとどまり、信者であれば主の苦難にはっきりした意識をもってあずかるために、鎮痛効果をもたらす治療を差し控え、自ら進んで苦痛を引き受ける人は称賛に値します。けれども、そのような「英雄的な」態度は、すべての人にとって義務であるとは認められません。教皇ピオ十二世は、「もしほかに手段がなく、その状況ではその治療が他の宗教的、道徳的義務の遂行を妨げることがなければ79」、治療の結果、意識の覚醒が低下しいのちを縮めることになっても、麻酔剤を用いて痛みを和らげることは許されると確認しました。このような場合は、正当な動機から死の危険を冒すとしても、死を望んだり、求めたりしていることにはなりません。医療が提供する鎮痛剤を使用することによって、痛みを効果的に和らげようとの願いがあるだけです。それでも、「重大な理由なしに、瀕死の人から意識を奪うのは正しいことではありません80」。死が目前に迫っている人でも、道徳的義務、家族の一員としての務めを果たすことができて当然です。とりわけ、はっきりした意識状態で、神との決定的な出会いに備えることができて当然なのです。

このような区別を考慮に入れ、わたしの先任者である教皇たちの教導職に従い81、カトリック教会の司教との一致のうちに、わたしは、安楽死は神の法への重大な侵犯であると確認します。安楽死は、意図された、道徳的に容認できない殺人だからです。この教えは自然法、および教会の伝承によって伝達され、通常の教導職と普遍の教導職によって教えられる82神の書き記されたことばに基づいています。

状況いかんによっては、安楽死は自殺あるいは殺人行為として固有の悪を持っています。

66 自殺は殺人と同様、つねに道徳的に見て反対すべきものです。教会の伝承は、つねに自殺を重大な悪の選択として排斥してきました83。心理的、文化的、社会的なある条件が、いのちを志向する生来の傾きを根本的に否定する行為を実行させて、それがために当人の主観的な責任を軽減せたり逃れさせることがあっても、自殺は客観的に見れば、重大な反道徳的行為です。実際、自殺は自己への愛の否定を含んでいます。そして、隣人、自分が属する共同体、全体としての社会に対して正義と愛の義務を断念することを含みます84。自殺は現実のもっとも深いところで、神が有する生と死への絶対的主権を拒絶するものです。イスラエルの古代の賢者は、祈りの中でその主権をこう宣言します。あなたは生死をつかさどる権能をもち、人をよみの門まで連れ行き、また連れ戻される」(知恵16・13。トビト13・2参照)。

自殺をしようとする人の意向に同意すること、そして、いわゆる「自殺幇助」に加担してそれを実行させることは、自殺者が要請したとしても、決して許されることのない不正義に協力することであり、時にその自殺の実行犯になることを意味します。驚くほど適切な表現で、聖アウグスチヌスはこう記しています。「人を殺すことは、決して許されません。たとえ当人が望むにても、実際に生死の境をさ迷い、肉体のきずなに対して苦闘し、解き放たれるのを熱望する魂を自由にしてくれと頼んでも許されません。病人がこれ以上は生きられない場合であっても許されません85」。苦しんでいる人のいのちのことで重荷を負いたくないという身勝手な拒絶によって動機づけられなくても、安楽死は偽りの慈悲というべきであり、慈悲の名を借りた憂慮すべき「こじつけ」に違いないのです。真の「深い同情」とは、人と苦しみを分かち合うものであり、苦みを背負いきれないといって人を殺すことではありません。それどころか、忍耐と愛情をもって家族の一員に対処するはずの身内の者によって、あるいは医師たちのように特殊な職業上の立場ゆえに、もっとも痛ましい末期においてさえ病人を看護するはずだと期待される人々によってなされるなら、安楽死はいっそう邪悪なものとなります。

当人が求めてもおらず、まったく同意もしていない人を、他の人たちが殺害するという形をとるとき、安楽死を選択するのはいっそう深刻な問題となります。医師や立法府の議員のような人たちが、この人は生きるべきだ、あの人は死ぬべきだ、と決定する権限を、正当な理由なく要求するとき、自由裁量と不正義は極みに達します。ここで再び、わたしたちはエデンの園におけるあの誘惑の前にいることに気づきます。すなわち、「善悪を知る」(創世記3・5参照)神のようになろうとするのです。神のみが生と死を支配する権力を持っています。「わたしは殺し、また生かす」(申命記32・39。列王記下5・7、サムエル上2・6参照)と言われているとおりです。しかし、神がこの権力を行使するのは、知恵と愛の計画に沿ったときに限られます。思慮のない自分勝手な考えにとらわれて人間がこの権力を不当に用いるとき、人間は必然的にその権力を不正と死のために用いるのです。こうして、弱者のいのちは強者の手に握られます。社会において正義の意味は失われ、すべての真正な人間関係の基礎である相互の信頼は、根底から崩されてしまいます。

67 これとはまったく異なり、愛と真の慈悲の道があります。わたしたちの人間性はこの道を必要としており、死んで後によみがえり、絶えず新しい光を注ぐあがない主キリストヘの信仰は、この道に基づきます。苦しみと死に最終的に遭遇するとき、とりわけまったき絶望の中ですべを投げ出してしまいたい誘惑に直面するときに、人の心にわき上がる願いは、何よりも試練のさ中にあって仲間でいてくれること、共感してくれること、支えてくれることをおいて、ほかにありません。あらゆる人間的な望みが消え去るとき、なお望み続けるのは、助けを求める渇きです。第二バチカン公会議は次のように教えます。「死を前にして、人間の条件についてのなぞは頂点に達する」のですが、「人間は正しい心のひらめきによって、自己の完全な破壊と決定的な消滅を嫌い退けます。人間の中にある永遠なるものの種は、物質だけに還元することはできないので、死に対して立ち上がる86」のです。

死へのこの本性的な嫌悪、そして初めに抱く不滅への志向は、よみがえりのキリストの勝利にあずかることを約束し、それを差し出すキリスト教信仰によって照らされ、完成へと至ります。それは、あがないをもたらすキリストの死によって、「罪が支払う報酬」(ローマ6・23)である死から人を解放したかたの勝利、復活といのちを保証する聖霊を与えてくださったかたの勝利です(ローマ8・11参照)。自分の行く末は不滅であると確信すること、そして約束された復活に希望を置くことは、苦しみと死の神秘に新しい光を投げかけ、神の計画に全幅の信頼を置く驚くべき力によって信仰者を満たします。

使徒パウロは、あらゆる人間的条件を受け止めた主に完全に属するものとなるという観点から、この新しさを次のように表しました。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。したがって、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14・7−8)。主のために死ぬとは、父が望み選んだ「時」(ヨハネ13.1参照)が来たら、進んで死と向き合おうとし、父への極みまでの従順の行為(フィリピ2・8参照)として、自分の死を体験することを意味します。人がこの世で巡礼の旅をなし終えて初めて、死は意味を持つことができるのです。また、主のために生きるというのは、苦しみはそれ自体いまだに悪であり試練であっても、つねに善の源になりうるということを認めることを意味します。神の恵み豊かなたまものと自分自身による自由な選択によって、十字架につけられたキリストの苦しみにあずかろうとする愛のために、そしてこのような愛をもって死を体験するとき、その変化が生じます。こうして、主において自分の苦しみを生き抜こうとする人は、より完全に主の姿にあやかるものとなり(フィリピ3・10、一ペトロ2・21参照)、教会と人類のためにイエスが成し遂げたあがないのわざに、いっそう緊密に結ばれます87。これは聖パウロが体験したところであり、苦しみのうちにあるすべての人はこの体験へと招かれています。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(コロサイ1・24)。

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5・29) 
市民法と道徳法 

68 今日、人間のいのちに加えられる攻撃の特徴の一つは-これは何度も触れてきたことですが-、少なくとも一定の条件のもとにおいてとはいえ、これらの攻撃は、国家が市民の権利として認めるべきものであるかのように主張し、そのような攻撃を法的に正当化しようとする動向にあります。したがって、医師や医療従事者から安全で自発的な手助けを得て、これらの権利を行使することは可能とされるべきだと要求する傾向があるのです。

胎児と重度の障害を持つ人のいのちは、相対的に善であるにすぎないという主張もたびたび耳にします。つまり相対的なとらえ方、あるいはまったくの打算から、この善は他のもろもろの善と比較され、考量されるべきであるとされます。具体的な状況に居合わせ、それに個人的にかかわる人だけが、問題となるもろもろの善を正確に判断できるとさえ主張する人もいます。その結果、このような人だけが、自分の選択の道徳性について判決を下しうることになるのです。ですから、市民の共存と社会の調和を図る国家は、人工妊娠中絶と安楽死を容認するということにおいても、個人の選択を尊重すべきだと唱えます。

このほかに、市民法は、すべての市民は自分自身承認し共有することよりもより高い道徳的基準に従って生きをべきだと要求することはできない、という主張があります。それゆえ、法はつねに市民の過半数の意見と意思を表すべきであり、少なくとも一定の極端な事例においては、人工妊娠中絶と安楽死を行う権利さえも認めるべきだということになります。さらに、そのよううな事例において人工妊娠中絶と安楽死を禁じ、処罰の対象とすることは、いわば違法行為を不可避的に増大させることになるのです。そして、このような違法行為は、社会が当然のこととして行う管理の外にはみ出すものとなり、医療上危険を伴う方法で行われることになるのです。実際上、強制力を持たないある法律を支持するのは、あらゆる法律の権威を結局は徐々に空洞化することになりはしないか、という問題も提起されています。

最後に、いっそう過激な見解によれば、次のように主張するまでになっています。すなわち、現代の多様な社会では、胎児のいのちと同様に自分のいのちに始末をつける完全な自由が認められるべきであるというのです。そこでは、さまざまな道徳上の意見の中でどれを選択するかは法律の務めではない、ましてや法律には、他者に不利な一つの特定の意見を押しつける権利はないと主張します。

69 とにかく現代の民主主義的文化においては、どのような社会の法体系も過半数の人々の確信を考慮し容認することに限定されるべきだと、一般的にとらえられています。ですから、過半数の人々自身が道徳にかなうと見なし、現実に実践していることにのみ基づくべきだとされるのです。さらに、すべての人が共有する客観的真理は事実上達成されないと信じられるなら、民主主義の体制にあって真の主権者と見なされる市民の自由に対する敬意は、立法上のレベルでは各人の良心の自律性が承認されるべきだと要求します。したがって、社会的共存に絶対的に必要なこれらの基準を定めるときの唯一の決定的な要因は、それがどんなものであろうと、過半数の意思であるべきだとします。それゆえ、活動に携わるすべての政治家は、公の活動領域と個人の良心の領域とをはっきり区別しなければならないというのです。

その結果、真正面から対立する二つの思潮が立ち現れます。一方で、各個人は、道徳的領域において何を選択するかについてもっとも完全な自由を自分のために主張します。そして、国家はどのような倫理的立場をとるべきでもなく、またこれを課すべきでもなく、他の市民の自由と権利を損なわないことを唯一の留保条件として、各人の自由について最大限の幅を保障することにその活動を限定すべきだと要求します。他方、公共の義務と職務上の義務を果たす場合、何を選択するかの他人の自由を尊ぶがゆえに、法律が認め保障する市民のあらゆる要求を満たすために、各個人は自分の確信を控えるべきだと主張します。すなわち、人が義務を遂行する場合、唯一の道徳的基準は法律そのものによって定められることであるべきなのです。各個人の責任は、こうして少なくとも公共の領域にあっては、個人の良心を否認して、市民法へ引き渡されることになります。

70 これら二つの思潮の根底には、今日の文化を大きく特徴づける倫理的相対主義があります。寛容、人々の相互の尊敬、過半数の人々の決定の容認を保障するのは倫理的相対主義だけであると考えられる限り、このような相対主義は民主主義の本質的な条件であると見なす人がいます。それに対して、客観的で拘束力があると見なされる道徳上の規範は、権威主義と不寛容を招くと考えられているのです。

しかし、このような立場には、恐るべき結末を伴うどのような誤解や矛盾が潜んでいるかを示すことは、まさにいのちに対する尊敬にかかわる問題です。

歴史上、「真理」の名のもとに犯罪が行われた事例があるのは事実です。しかし、同じような重大な犯罪や自由の極度の抑圧が「倫理的相対主義」の名のもとに犯されてきたのであり、また現に犯されています。立法機関あるいは社会の過半数が、少なくとも一定の条件のもとに胎児殺害は合法であると宣言するとき、人間としてもっとも弱い者、何ら身を守るすべを持たない者に対して、実際には「専制君主的な」決定をしていることにはならないのでしょうか。すべての人の良心は、わたしたちの世紀が味わってきた人間性に敵対するこのように悲しむべき犯罪を間違いなく退けます。しかし、悪辣な専制君主たちが犯す代わりに、そのような犯罪が国民の合意によって合法とされるなら、これらの犯罪は犯罪ではなくなるのでしょうか。

民主主義は道徳律に置き換えられる、あるいは不道徳をいやす万能薬であるとするまでに偶像化されるはずはありません。民主主義は根本的に一つの「体制」であり、つまりは手段であって目的ではありません。民主主義の「道徳的」価値は、機械的に機能するのではなく、道徳法に合致するかどうかによります。人間の行動の他のあらゆる形態と同様に、民主主義はこの道徳法に従わなければなりません。換言すれば、民主主義の道徳性は、民主主義が追求する目的の道徳性と、採用する手段の道徳性のいかんによります。今日、民主主義の価値に関してほとんど普遍的とでもいえる合意を認めるなら、教会教導職がたびたび言及してきたように88、これは明らかな「時のしるし」と見なされるべきです。しかし、民主主義の価値は、民主主義が具体化し推進するさまざまな価値によって、立ちもすれば倒れもします。もちろん、あらゆる人格の尊厳、不可侵で譲り渡すことのできない人権への敬意といった諸価値、および政治全般を規制する目的であり基準として「共通善」を採るといったことは、きわめて重要であり、なおざりにされることがあってはなりません。

このような諸価値の基礎は、暫定的な移ろう「過半数」の意見ではありえず、人間の心に「自然法」として書き記されている、客観的な道徳法を承認することのみがその基礎となりうるのです。この客観的な道徳法は、市民法そのものを評価判断する際の拘束力ある基準です。集団の良心が不幸にも不明瞭にされる結果、懐疑主義的な意見が道徳法の根本的な諸原則さえも首尾よく疑問視することになるなら、民主主義の体制そのものは根底から揺さぶられ、純粋に経験な基礎に依拠して、さまざまに対立する利害を調整する単なる機構に引き下げられるでしょう89

より望ましいものがほかにないなら、この程度の機能でさえも社会の平和のために資すると評価すべきだと考える人がいるかもしれません。この点である程度の理があると認めるにしても、客観的な道徳の基礎がなければ、民主主義でさえ安定した平和を保障できないのは容易に認められます。それは、とりわけ一人ひとりの尊厳とすべての人の間の連帯という価値の上に築かれない平和は、まぼろしに終わるからです。直接参加方式を採る統治においてさえも、利害の調整は多くの場合、もっとも強い者に有利になるようにことは運ばれます。強者は権力のレバーを巧みに操作できるだけでなく、合意を形づくることのできる者として、第一位に位置するからです。このような状況では、民主主義は容易に空虚な言葉と化してしまいます。

71 ですから、社会の将来と健全な民主主義の発展のためには、これらの本質的にして人間に本来備わる、道徳的な諸価値を再発見することが急務です。これらの諸価値は人間存在の真理そのものから流出し、人間の尊厳を表し擁護します。いかなる個人、過半数の人々、国家といえども、この価値を造り出すことも修正することも破壊することもできず、ただ容認し尊重し伸張させる義務を負うのみです。

したがって、市民法と道徳法との密接な関係に見られる基本的な諸要素を再発見する必要があります。これらの要素は教会が促進しているものですが、人類の偉大な法律上の伝統の遺産でもあるのです。

確かに、市民法の目的は道徳法とは異なっており、その範囲は、道徳法と比べていっそう制限されています。しかし、「生活のどの領域においても、法律は良心に取って代わったり、自らの権限の及ばぬことについて規範を定めたりすることはできない90」のです。権限の及ばないこととは、人々の基本的な権利を認め擁護することをとおして、人々の共通善を保障し、平和と公共の道徳の促進を確かなものにすることを指します91。市民法の実際上の目的は、真の正義における秩序ある社会的共存を保障することであり、こうしてすべての人が、「つねに信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送る」(一テモテ2・2)ようになるためです。まさにこの理由から、民法は、社会を構成するすべての人が一定の基本的な諸権利を尊重されるのを確保するものでなくてはなりません。これらの権利は本来、人格に属するものであり、あらゆる実定法はこの権利を承認し保障しなければならないのです。これら諸権利の中で第一に来るべき基本的なものは、あらゆる罪のない人のいのちに対する不可侵の権利です。公権は時に-それが禁じられているにしても-より深刻な害を引き起こすであろうと思われるものを差し止めない方策を選択しうるものです92。けれども、いのちの権利のような基本的権利を無視することによって引き起こされる他者に対する犯罪を、各個人の権利として-たとえ彼らが社会の過半数を占める場合でも-合法化することは断じてできません。人工妊娠中絶や安楽死を法的に容認するのは他人の良心を尊重することに基づく、と主張することは決してできません。それは、まさに良心の名のもとに、また自由を口実にして生じうる悪習に対して、社会は自らを擁護する権利と義務を持っているからです93

教皇ヨハネ二十三世は、回勅『パーチェム・イン・テリス-地上の平和-』の中で次のように指摘します。「現代では共通善は、特に人間の人としての権利と義務を守ることにあると考えられる。公権の役目は、一方では、特に権利を認め、これを尊重し、種々の権利の間を調整し、これを守り、これを発展させること、そして他方では、各市民の義務の実行を容易にすることである。なぜなら、『人間の人としての不可侵の権利を保護し、各自が自己の役割を、もっと容易に果たすことができるようにすること、これこそあらゆる公権のおもな任務だからである』。それゆえ、もし公権が人権を認めず、あるいはこれを侵す場合には、その任務にそむくばかりでなく、その命令は法的価値を持たないのである94」。

72 市民法が道徳法に合致する必要があることについての教えは、教会のこれまでの伝統を受けつぐものです。ヨハネ二十三世の回勅には、明白にこう記されます。「権威は倫理的秩序の要求するところであり、神から発する。それゆえ指導者たちが、この倫理的秩序に反し、したがって神の意志に反して、法律を定め、なにかを命ずることがあるとしたら、そのような法律も、許可も、市民の良心に義務を課することができない。……そのうえ、このような場合、権威は権威でなくなり、圧制に堕してしまうのである95」。このことについて、聖トマス・アクィナスははっきり教えて、次のように記しています。「人定法はそれが正しい理性に合致しており、永遠法に由来する限りにおいて法である。しかし、法が理性に反する場合、その法は不正な法と呼ばれる。だがその場合、不正な法は法ではなくなり、暴力の一行為に変わるのである96」。トマスはまた次のように言っています。「人間の手になるあらゆる法は、自然法に由来するかぎり法と呼ばれうる。しかし、その法が自然法に対立するところがあるならば、そのときその法は実際上法ではなくむしろ法の腐敗である97」。

ここでこの教えが第一に、また即座にかかわるのは、基本的権利と他のあらゆる権利の源泉を無視する人定法です。この基本的権利は、すべての人が持つ権利、いのちに対する権利です。したがって、人工妊娠中絶や安楽死によって罪のない人を直接に殺害することを合法化する種々の法律は、すべての人に固有ないのちに対する不可侵の権利に真正面から対立します。ですから、そのような法律は、法の前におけるすべての人の平等性を否定します。当事者が十分に意識があって要求する安楽死については、それは妥当しないとの反対意見が出されるかもしれません。しかし、そのような要求を適法とし、その実行を是認するどのような国家も、いのちに対する絶対的な尊敬についての、またあらゆる罪のないいのちを擁護することについての根本的な諸原理に背いて、自殺という殺人行為を適法と認めることになるでしょう。このように、国家はいのちにる尊敬の念を次第に抱かなくなり、人々の間の信頼を損なう行為へと扉を開くことの一因となるのです。人工妊娠中絶と安楽死を是認し促進する法律は、それゆえ個人の善だけでなく、共通善にも激しく対立します。そうであるなら、このような法律は、真正な法律上の有効性を完全に欠いているのです。いのちの権利を無視することは、まさに社会が仕えるために存在している当人を殺すことになるので、共通善を成し遂げる可能性に真正面から対立します。したがって、人工妊娠中絶や安楽死を是認する市民法は、是認するその事実によって、真の道徳的に拘束力のある市民法ではなくなります。

73 このように、人工妊娠中絶と安楽死は、いかなる人定法も合法であるとして要求することのできない犯罪です。そのような法律に従う良心の義務はありません。それどころか、良心的拒否に基づいてこのような法律に反対する、重大かつ明白な義務があります。使徒たちは、教会の誕生の当初から、合法的に構成された公権に従う義務のあることをキリスト者たちに説いてきました(ローマ13・1ー7、一ペトロ2・13−14参照)。しかし同時に、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5・29)と警告するのを怠りませんでした。いのちに対する脅威に関して旧約聖書には、権力者たちの不正な命令に抵抗を示す意義深い事例があります。ファラオは生まれた男の子をすべて殺すように命じましたが、ヘブライ人の助産婦たちはこれに従いませんでした。「エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(出エジプト1・17)のです。助産婦たちがファラオに従わなかった最大の理由に注目すべきです。「助産婦はいずれも神をおそれていた』(出エジプト1・17)のです。まさに神への従順の行為から、不正な人定法に抵抗する強さと勇気が生じたのでした。神の絶対的な主権を認める畏敬は、この神に対してのみ帰せられるべきです。このような態度が、「聖なる者たちの忍耐と信仰」(黙示録13・10)を励ますものであると確信して、投獄されることも斬首の刑に処せられることも引き受ける覚悟のある人々の強さであり勇気です。

人工妊娠中絶や安楽死を許容するような法律、また本質的に不正な法律の場合、これに従うこと、あるいは、「このような法律を支持する宣伝活動に参加すること、もしくは支持して票を投じることは決して許されません98」。

すでに可決されたかなり寛容な法律、あるいはほどなく表決に付される寛容な法案に代えて、容認される中絶数を制限する目的を持つ、より厳しく制限する法律を通過させることについて、自分の投じる一票が表決に決定的な力を持つ場合、良心にかかわる特別の問題が生じます。そのような事例は珍しくありません。世界のある地域では、人工妊娠中絶を支持する法律を導入する運動が続けられており、強力な国際機関がそれを支援する場合も多々あります。また、ある国々、とくにこのような人工妊娠中絶に寛容な法律が苦々しい実りを生み出すのをすでに体験した国々では、この問題を再考する兆しが見られるようになったのも事実です。ここに言及したよう事例において、人工妊娠中絶を容認する法律をくつがえしたり完全撤廃したりすることが不可能な場合、人工妊娠中絶に対して個人的には絶対に反対の立場にあることが広く知られている人が立法府の議員に選出されると、その人はこのような法律がもたらす害を制限すること、そして一般世論と公共道徳のレベルで、その否定的な結果を減らすことを目的とする提案を合法的に支持することができます。このことは、実は不正な法に不法に協力することを意味するのではなく、その法の悪い面を制限する、合法的で妥当な試みなのです。

74 不正な法律が可決されることは、協力という点に関して道徳的に公正な人々にとっては、良心についての難しい問題をしばしば引き起こします。彼らには、道徳的に邪悪な行為に加わるのを強いられたくないと求める権利があるからです。何を選ぶべきかという選択は、時に困難を極めます。選択いかんでは、信望を集めている職業上の地位を犠牲にしたり、出世のしかるべき望みを放棄したりすることを迫られることになります。他の場合には、まったく不正な法律によって準備されたある種の行為、しかしそれ自体では可もなく不可もない、あるいはどちらかといえば建設的な、そのような行為を実施することは、脅威にさらされている人間のいのちを擁護するために役立つという事態が起こりうるのです。しかしながら、そのような行為を進んで実施することは、世間の物議をかもしたりいのちを攻撃する者に対して必要な反対を弱めたりするだけでなく、黙認する心を徐々に許容するようになる心配があるのも確かです。

このような難問に光を投じるには、邪悪な行為に協力することに関する一般原則を思い起こす必要があります。あらゆる善意の人々と同様に、キリスト者たちは、たとえ国の法律が許容するにしても、神の法に敵対することを実践することについては公権に協力してはならないと、良心の重大な義務のもとに求められます。確かに、道徳上の観点からいって、公式に悪に協力することは絶対に許されません。その行動の本質そのもの、あるいは具体的な状況においてとる行動によることですが、ある行為が罪のない人のいのちに敵対する行為に直接参画するものとして、あるいはその行為を犯す人の不道徳な意向を分け合うものとして明確に提示されうるとき、そのような不法な協力の問題が生じます。他者の自由の尊重を引き合いに出しても、市民法がその行為を許容したり要求したりするという事実に訴えても、この協力は決して正当化されることはありません。各個人は実際上、当人が個人的にとる行動に道徳上の責任を負うのです。だれもこの責任から免れることはありません。すべての人は、この責任に基づいて神自身の審判を受けるのです(ローマ2・6、14・12参照)。

不正行為に加担するのを拒むのは、道徳上の義務であることにとどまらず、基本的な人権でもあります。そうでなければ、人間は本質的に、人間の尊厳とはかけ離れた行動をとるよう強いられることになります。こうして、人間の自由そのもの、また真なるものと善なるものへの方向づけに見いだされる真正な意味と目的は、極端なまでに危険にさらされるのです。ですから、問題となるのは、まさにそのように市民法によって承認され擁護されるべき本質的な権利なのです。この意味で、いのちに敵対する種々の行動を検討し、準備し、実行する各段階に参画するのを拒否する機会が、医師、保健医療施設、そして病院、診療所、回復期患者療養施設の責任者に保障されるべきです。良心上の拒否に訴える人については、法律による罰則規定から守られるべきであるだけでなく、法律上、規律上、経済上、職業上の各局面においても、不利な結果から保護されるべきです。

「隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ1O・27) 
いのちを「守リ育てる」 

75 神のおきては、わたしたちにいのちの道を教えてくれます。ある特定の行動を選ぶのは道徳上容認できないと宣言する、否定的な文言による道徳上の戒律は、人間の自由に対して絶対的な価値を持っています。これらの戒律は、いつでもどこでも例外なく有効です。これらは、ある特定の行動のあり方を選ぶことは、神の愛と、神のかたどりのうちに創造された人間の尊厳とに根本的に相いれないことをはっきりと示します。神の愛と人間の尊厳に相いれないような選択は、意向が善良でありあるいは結果がよいからといって、よしとされることはないのです。そのよう選択は、人々の間のきずなに根本から敵対します。自分のいのちを神へと方向づける根本的な決断を、真っ向から否定するものです99

この意味で、否定的な文言で表される道徳上の戒律は、きわめて重要な積極的機能を持っています。これらの戒律が無条件に要求する「してはならない」は、絶対的な制約を明示します。自由な各個人は、その制約のもとでは自らを卑しめることがあってはならないのです。同時にこれらの戒律は、人間が最低限尊ぶべきことを示します。また、いくたびも「はい」を口にするために、しかもやがては次第に善の地平全体を包含するに至る(マタイ5・48参照)「はい」を口にすために、そこから出発しなければならない最小限度を示します。神の十戒、とくに否定的文言で表される道徳上の戒律は、自由を目指して進む旅の始まりであり、また必要不可欠の第一段階です。聖アウグスチヌスは次のように言っています。「自由の始まりは、殺人、姦通、姦淫、窃盗、欺瞞、冒涜などの犯罪から自由であることです。これらの犯罪を犯すのをやめるとき(キリスト者はこれらを犯すべきではありません)、人間は自由に向けてその頭を上げ始めます。しかし、それは自由の始まりにすぎず、完全な自由ではありません100」。

76 したがって、「殺してはならない」というおきては、真の自由が始まるための出発点を定めるのです。わたしたちは、いのちを意欲的に守り育て、いのちに仕える特別な考え方と行動のあり方を発展させることになります。このようにしてわたしたちは、ゆだねられている人々に対する責任を果たし、行いと真実において、いのちという偉大なたまもののゆえに神への感謝を表します。(詩編139・13ー14参照)。

創造主は、人間のいのちを人間の責任ある配慮にゆだねました。それは、勝手に使うためではなく、知恵をもっていのちを保ち、真心を込めていのちを世話するためです。契約の神は、受け与える相互依存の法、自分を与え他者を受け入れる法に従って、一人ひとりのいのちをその仲間である人間に、兄弟姉妹にゆだねました。時が満ちて肉をまとい、自らのいのちをわたしたちのために与えることによって、神の子はこの相互依存の法がどれほどの高さと深さに到達しうるものであるかを示しました。その聖霊のたまものをもって、キリストは相互依存の法に、互いにゆだねられているわたしたちのあり方に、新しい内容と意味を与えます。愛における交わりを築き上げる霊は、わたしたちの中に新しい友愛と連帯、至聖なる三位に固有な、互いに自らを与え相手を受け入れる神秘についての真の省察を生み出します。聖霊は信仰者に力を与え、自らのたまものを分かち合う責任、他者を受け入れる責任を信仰者のうちに覚醒させる新しい法となります。イエス・キリスト自身の限りない愛に、だれもがあずかるようになるのです。

77 この新しい法はまた、「殺してはならない」というおきてに精神と形を与えます。キリスト者にとってこのおきては、イエス・キリストにおける神のいつくしみ深い愛の要求と一致して、すべての兄弟姉妹のいのちを尊び、愛し、守り育てるようにとの絶対的規範を含みます。「イエスは、わたしたちのために、いのちを捨ててくださいました。だから、わたしたちも兄弟のためにいのちを捨てるべきです」(一ヨハネ3・16)。

「殺してはならない」というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても一人ひとりに拘束力を持っています。そのおきては、創造主である神が人類との間に結んだ最初の契約を告げる響きとして、すべての人の道徳的良心にもう一度響き渡ります。このおきては理性の光に照らされて、すべての人が認めることができるものであり、望むところに吹き(ヨハネ3・8参照)、訪れ、この世界に生きるすべての人に影響を与える聖霊の神秘的なわざのおかげで、遵守されうるのです。

ですから、ある人のいのちが、とくに弱められたり脅威にさらされたりしているときにつねに擁護され守られるのは、わたしたちが隣人の安全のためにすべてをかけてかかわる愛の奉仕があればこそです。これは個人的な配慮だけでなく、わたしたちが大いに育成しなければならない社会的な配慮でもあります。刷新された社会の基礎である人間のいのちを無条件に尊ぶような配慮なのです。

わたしたちはすべての人のいのちを愛しあがめるよう求められており、堅忍と勇気をもって働くよう求められています。それは、これほど多くの死のしるしに彩られるわたしたちの時代が、ついには真理と愛の文化の実りである新しいいのちの文化を打ち立てることをあかしするためなのです。

四章:それは、わたしにしてくれたことである 
(人間のいのちの新しい文化のために) 

「あなたがたは、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗やみの中から驚くべき光の中へと招き入れてくださったかたの力あるわざを、あなたがたが広く伝えるためなのです」(一ペトロ2・9) 
いのちの民、いのちのために働く民 

78 教会は喜びと救いの宣言、源泉として、福音を受けました。教会は、「貧しい人に福音を告げ知らせるために」(ルカ4・18)父が派遣したイエスからのたまものとして福音を受けました。教会は、キリストが全世界に派遣した使徒たちをとおして福音を受けました(マルコ16・15、マタイ28・19ー20参照)。この福音をのべ伝える活動から生まれた教会は、日ごとに聖パウロの警告の言葉を耳にします。「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)。教皇パウロ六世はこう述べています。「福音を伝えることは、実に教会自身の本性に深く根ざしたもっとも特有の恵みであり、召命です。教会はまさに福音をのべ伝えるために存在しています101」。

福音宣教は包括的、漸進的な活動であり、これをとおして教会は、主イエスの預言者、祭司、王としての使命にあずかります。ですから、福音宣教は教えを説くこと、祭儀、愛の奉仕に解きたく結びついています。福音宣教は、福音の個々の働き手を、皆それぞれのカリスマと役務に応じて行動へと奮い立たせる、きわめて教会的な行いです。

いのちの福音、その福音の必要不可欠な部分、つまりイエス・キリスト自身をのべ伝えることに関しても、同じことがいえます。わたしたちはこの福音をたまものとして受けており、「地の果てに至るまで」(使徒言行録1・8)全人類にそれをのべ伝えるために遣わされるという自覚に支えられて、この福音に仕えます。ヘりくだりと感謝のうちに、わたしたちは自分がいのちの民であり、いのちのために働く民であることをかみしめます。これこそ、わたしたち自身をすべての人に示す道なのです。

79 わたしたちはいのちの民です。それは、無条件の愛のうちに神がいのちの福音をわたしたちに与えたからであり、この同じ福音をもってわたしたちは変容され救われたからです。わたしたちは「いのちへの導き手」(使徒言行録3・15)によって、このかたの尊い血の代価をもってあがなわれました(一コリント6・20、7・23、一ペトロ1・19参照)。洗礼の水によって、わたしたはキリストに接ぎ木されたのであり(ローマ6・4ー5、コロサイ2・12参照)、キリストという樹木から養分を吸い上げ、豊かな実りをもたらす枝となりました(ヨハネ15・5参照)。「主であり、いのちの与え主である」聖霊の恵みによって内的に新たにされて、わたしたちはいのちのために働く民となったのであり、これにふさわしい者として行動するよう招かれています。

わたしたちは派遣された者です。わたしたちにとって、いのちに仕える者であることは、誇りではありません。むしろ、わたしたちが、「神のものとなった民であり、それは暗やみの中から驚くべき光の中へと招き入れてくださったかたの力あるわざを広く伝えるため」(一ペトロ2・9参照)であるという自覚から生じる義務なのです。旅路の途上にあって、わたしたちは愛の法によって導かれ、支えられます。この愛の源であり原型は、人となった神の子、「死をとおして世にいのちを与えた102」かたです。

わたしたちは一つの民として派遣されています。人は、だれもがいのちに仕える義務を持ってます。それはまさしく「教会的な」責任であり、教会の全成員とキリスト者の共同体のあらゆる部門による、共同の寛大な行動を求めます。しかし、このような共同体のかかわりは、すべての人の「隣人となりなさい」という主の招きを受けている各人の責任を取り除いたり軽減したりすることはありません。すなわち、「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ1O・37)と言われています。

わたしたちはだれもが皆、いのちの福音をのべ伝える務め、典礼と生活全体においてその福音を祝う務め、そして、いのちを支え育てるさまざまなプログラムや種々の組織をもっていのちに仕える務めを感じ取るのです。

「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝える」(一ヨハネ1・3) 
いのちの福音をのべ伝えること 

80 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、いのちのことばについて……あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」(一ヨハネ1・1、3)。イエスは唯一の福音です。これ以外に、わたしたちには言うべきことも、あかしすることもありません。

イエスをのべ伝えるとは、いのちをのべ伝えることにほかなりません。イエスは「いのちのことば」(一ヨハネ1・1)だからです。イエスにおいて「いのちは現れました」(一ヨハネ1・2)。イエス自身が、「御父とともにあった永遠のいのち」であり、「わたしたちに現れた」のです(一ヨハネ1・2)聖霊のたまものによってこの同じいのちは、わたしたちに与えられています。すべての人の地上のいのちが余すところなく成就するのは、いのちの充満、「永遠のいのち」に定められた状態においてです。

このいのちの福音に照らされて、あらゆる驚くべき新しさのうちに、その福音をのべ伝え、それをあかしする必要をわたしたちは感じます。万物を新たにし103、罪に由来し死へと導く「古いもの104」を討ち滅ぼすのは、イエス自身にほかならないので、この福音はすべての人の期待をはるかに超え、人間の尊厳が恵みによって上げられる至高の極みを啓示します。これはニッサの聖グレゴリオが理解したことです。「一存在者として、人間は取るに足らないものです。ちりであり、草であり虚無です。けれども、ひとたび人間が天地万物の神によって子とされると、人間はその卓越性と偉大さをだれ一人として見たり、聞いたり、理解したりすることのできない、存在そのものであるかたの家族の一員となります。いったいどのような言葉、考え、精神の高揚が、この恵みの有り余る豊かさをほめたたえることができるのでしょうか。人間は、自らの本性を超えるものとなったのです。すなわち、死ぬべき人間は不滅のものとなり、滅びゆく人間は滅びを知らいものとなり、はかない人間は永遠に生きるものとなり、人間的なものが神聖なものとなりました105」。

人間にこれほど比類ない尊厳が恵まれていることを感謝し、喜ぶわたしたちは、このメッセージをすべての人と分かち合いたいという思いに駆られます。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです(一ヨハネ1・3)。わたしたちはいのちの福音をすべての人の心にもたらし、社会のあらゆる部分に浸透させなければなりません。

81 このような務めには、何よりもまずこの福音の核心をのべ伝えることが含まれます。すなわち、わたしたちの近くにいて、自らとの深い交わりに招いてくださり、永遠のいのちについてのある種の希望を呼び起こしてくださる、生きた神をのべ伝えることです。それはまた、人間、人間のいのち、そして人間の体との間の、分けることのできない結びつきを肯定することです。それは、人間のいのちを、関係性の中で生かされるいのち、神のたまもの、神の愛の実り、そのしるしとして提示することです。それは、イエスがすべての人と独自の形でかかわっていることを伝えることです。わたしたちはこのかかわりによって、すべての人の顔のうちにキリストの顔を認めることができるのです。それは、わたしたち一人ひとりの自由を実現するもっとも完全な道として、「自分を真正なささげものとせよ」という呼びかけです。

それはまた、この福音の重大性をすべて明らかにすることを含みます。これらの重大性は、次の点にまとめられます。つまり、神のたまものとしての人間のいのちは、神聖で不可侵なものということです。これがために、人工妊娠中絶と安楽死は絶対に許されないのです。人間のいのちは奪い取られてはならないばかりか、心からの配慮のうちに擁護されなければなりません。いのちの意義は、愛を与え愛を受けるところに見いだされます。そして、この光のもとに、人間の性と生殖は、その真実の完全な意味を獲得するに至ります。愛はまた、苦しみと死にも意味を与えます。苦しみと死は神秘に包まれていますが、それらは救いをもたらす出来事となりうるのです。いのちを尊重することは、科学と技術がつねに人間と人間に絶対に必要な発展とに寄与するものでなければならないことを要求します。社会は全体として、いかなるときでも、またどのような生活状況にあっても、すべての人の尊厳に敬意を払い、それを擁護し、守り育てなければなりません。

82 偽りなくいのちに仕える民であるためには、わたしたちは福音をのべ伝えるその初めから、絶えず勇気をもってこのような真理を提示しなければなりません。それに続くカテケジス、さまざまな形で行われる説教、個人的な対話、あらゆる教育の場での活動においても同様にすべきです。教師、カテキスタ、そして神学者たちは、あらゆる人間のいのちに対する敬意の基礎となる人間学的な論拠を強調する務めを負っています。このようにして、いのちの福音が持つ新しさを輝かせつつ、わたしたちもまた、すべての人が理性と個人的な経験に照らし合わせて、キリスト教のメッセージが人間について、また人間の存在と実存の意味について余すところなく啓示してるのを発見する手助けができるのです。こうして、わたしたちとともにいのちの新しい文化を打ち立てることに携わる信者ではない人々との接触や対話が重要になります。

対立する見解が多数あり、人間のいのちに関する健全な教えが広く拒絶されている状況の中で、パウロがテモテに懇願したことは、わたしたちにも当てはまることが分かります。「みことばをのべ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(二テモテ4・2)。この励ましの言葉は、真理の「教師」として教会の使命にさまざまな形で直接にあずかる教会構成員の心の中に、格別の力強さをもって再び響き渡るべきです。とくに、司教の任にある人々にとってそうなりますように。いのちの福音をたゆまず説き続けるようまず求められたのは、わたしたち司教です。司教には、この回勅であらためて説れている教えを欠けることなく、忠実に伝えていく務めがゆだねられています。司教は、教会の教えに反するあらゆるものから、信者たちを守るためにふさわしい手だてを講じなければなりせん。神学部、神学校、カトリックの教育機関にあっては、健全な教えが教授され、説明され、いっそう研究が進められるよう十分に配慮する必要があります106。すべての神学者・司牧者・教師に、またカテケジスと良心の形成に責任を負うすべての人の心に、パウロのあの励ましが届き、響き渡りますように。自分たちの特別な役目を意識し、教導職が忠実に示し解釈しているいのちの福音に反するような個人的な見解を彼らが示すことによって、真理と自らの使命を裏切るような悲しむべき無責任に陥るようなことが決してありませんように。

この福音をのべ伝えるにあたって、反対や不評を恐れてはなりません。また、世の考え方に従うことになるいかなる妥協やあいまいさをも拒絶しなければなりません(ローマ12・2参照)。わしたちはこの世にいなければなりませんが、この世のものであってはなりません(ヨハネ15・19、17、16参照)。わたしたちは、死と復活によって世に打ち勝ったキリストから力を受けているからです(ヨハネ16・33参照)

「わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている」(詩編139・14) 
いのちの福音を祝うこと 

83 わたしたちは「いのちのために働く民」として世に派遣されているので、わたしたちがのべ伝えることは、いのちの福音を真に祝うものともなるべきです。この祝いは、その身ぶり、シンボル、儀式をはつらつと表す力を備えて、この福音の美しさと威厳が伝えられる、貴重で意義深い土台となるべきです。

そのようなことが実現するには、第一に、わたしたち自身においても他の人々においても、観想を中心に据える立場を培う必要があります107。そのような立場は、すべての人を「驚くべきもの」(詩編139・14参照)として創造した、いのちの神への信仰から生じます。それはいのちをより深い意味でとらえる人々の立場であり、いのちがまったくの無償のたまものであることを理解し、いのちが自由と責任への招きであることといのちの美しさとをわきまえる人の立場です。現実を自分の力でつかみ取ろうとは考えず、むしろ万物の中に創造主のみ手を見いだし、すべての人の うちに創造主の生きたかたどりを見る(創世記1・27、詩編8・6参照)人の立場です。このような立場にある人は、病人、苦しむ人、社会から見捨てられた人、死の迫っている人に直面するときにも、落胆することはありません。むしろ、そうした状況にあっても、このような人は、意味を見いだすよう促されるのを感じ、このような境遇にあればこそ、すべての人のうちに出会いと対話と連帯への招きがあることを見抜くようになるのです。

今こそ、わたしたちだれもがこの立場に立つべき時であり、深い宗教的なおそれをもって、すべての人を尊びあがめる能力を再発見すべき時なのです。教皇パウロ六世は、その最初のクリスマス・メッセージでこのことを呼びかけました108。観想を中心にするこの立場に鼓舞されて、かけがえのないいのちのたまものに対して、そして一人ひとりがキリストによって恵みのいのちにあずかり、わたしたちの創造主であり父である神との終わりのない交わりそのものにあずかるようにと招く神秘に対して、あがなわれた新しい民は喜びの歌、賛美、感謝をもってこたえずにはいられないのです。

84 いのちの福音を祝うことは、いのちの神、いのちを与える神を祝うことになります。「他のあらゆるいのちが由来する、永遠のいのちを祝わなければなりません。何らかの形でいのちにあずかるあらゆる存在は、その能力に応じて、この永遠のいのちからいのちを受けます。他のあらゆるいのちに勝るこの神のいのちは、いのちを与え、保ちます。あらゆるいのちといのちあるあらゆるものの運動は、すべてのいのちといのちをつかさどる一切の原理を超越する、永遠のいのちから派生します。魂が不滅であるのは、このことに由来します。このことのゆえに、いのちの非常にかすかな輝きを受けているにすぎないあらゆる動植物が生存しているのです。永遠のいのちは、霊と物体とから成る存在である人間に、いのちを与えます。わたしたちが永遠のいのちを投げ捨てるようなことがあるにしても、人間に対するあふれるばかりの愛ゆえに、永遠のいのちはわたしたちを回心させ、自分自身へと呼び戻すのです。そればかりではありません。永遠のいのちは魂と体から成るわたしたちを完全ないのちへ、不滅へと連れて行くことを約束します。この永遠のいのちこそ生き続けると、いくら言っても言い過ぎではないのです。それはいのちの根本原理、究極の原因であり、いのちの唯一の尽きることのない源泉です。いのちあるすべてのものは、このことを観想し、賛美すべきです。いのちの満ちあふれ、それは永遠のいのちです109」。

詩編作者のように、わたしたちも個人として、また共同体として行う日ごとの祈りにおいて、母の胎内でわたしたちを組み立て、胎児であったわたしたちを見て愛した(詩編139・13、15−16参照)父である神をほめたたえます。抑えがたい喜びに促されて叫ぶのです。「わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。みわざがどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている」(詩編139・14)。実に、「その困難、その隠れた神秘、その苦痛、そしてその避けがたく伴うはかなさにもかかわらず、この死ぬべきいのちは、このうえなく美しいもの、絶えず新しく心を揺さぶる不思議、喜びと栄光のうちに称揚されるに値する出来事です110」。さらに、人間とそのいのちは、創造のもっとも偉大な不思議の一つしてわたしたちに現れるだけではありません。それは、神にわずかに劣るものである尊厳を、神は人間に与えたからです(詩編8・6ー7参照)。生まれたすべての子供のうちに、そして生きあるいは死ぬすべての人のうちに、わたしたちは神の栄光のかたどりを認めます。わたしたちはすベての人のうちにあるこの栄光、生きる神のしるし、イエス・キリストのかたどりをたたえるのです。

わたしたちはいのちのたまものへの驚きと感謝を表すよう招かれており、また個人の祈りと共同体の祈りの中だけでなく、典礼暦の祝いにおいても、いのちの福音を喜び迎え、これを楽しく味わい、これにあずかります。とりわけこれに関して大切なのは、キリスト者の生活において、イエス・キリストの現存と救いをもたらすわざの実効的なしるし、つまり秘跡です。秘跡はわたしたちを神のいのちにあずからせ、その完全な意味において、生と苦しみと死を引き受けて生きるのに必要な霊的な力を備えます。それら秘跡の儀式が持つ意味をしっかりと再発見し、いっそう深くその真価を認めるなら、わたしたちの典礼祭儀、とくに秘跡の祭儀は、誕生、生、苦、死に関する十全な真理をさらに明らかに表現するものとなるでしょう。また、誕生、生、苦、死を、十字架につけられてよみがえったキリストの過越秘義にあずかるものとして生きるよう助けるもとなるでしょう。

85 いのちの福音を祝うにあたっては、さまざまな文化と民族が持つ伝承と慣習のうちにある所作とシンボルという富を高く評価し、それを十分に利用する必要があります。誕生したいのちを喜ぶこと、個々の人間のいのちへの尊重とその擁護、苦しむ人や困窮のうちにある人の世話、高齢者と死に直面する人のそばにいること、苦悶する人の悲嘆にあずかること、不滅のいのちへの希望と熱望などの表現は、国や文化によって異なり、それを表す特別な時期や方法があります。

この点を考慮し、また一九九一年の枢機卿会議の提案に従って、わたしはすべての国で毎年、「いのちの日」を祝うよう提案します。この日は、いくつかの司教協議会ではすでに制定されています。この日の祝いは、地方教会に属するすべての部門の積極的な参加をもって計画され、実施されるべきです。この祝いの第一の目的は、各個人の良心において、家族において、教会において、市民社会において、あらゆる段階と境遇にあっても、人間のいのちの意味と価値を認めることを助長することです。人工妊娠中絶と安楽死の重大性には、時に慎重に考察するに値するいのちについての他の側面を軽視することなく、機会や状況に応じて格別の注意を向けなければなりません。

86 神に喜ばれる霊的な礼拝そのものとして(ローマ12・1参照)、いのちの福音は他者に自己を与える愛に満たされるべきで、毎日の生活でとくに祝われなければなりません。このようにして、わたしたちの生活は、いのちのたまものを真っすぐに責任をもって受け取るものとなるでしょう。また、このたまものをわたしたちに与える神に対する心からの賛美と感謝の賛歌となるでしょう。このことは、私心のない寛大なさまざまな行為においてすでに営まれています。このような行為は、男性と女性、子供と大人、若者と高齢者、そして健康な人と病人によって、たいていは謙虚で人目につかずに行われるような行為です。

きわめて人間味豊かで、愛に満たされた英雄的な行為が生まれるのも、このような状況においてです。このような行為は、いのちの福音のもっとも荘厳な祝いであるということができます。それは、その行為は自分を全面的に譲り渡すことをとおして、いのちの福音をのべ伝えるからです。このような行為は、愛する人のために自分のいのちを与える(ヨハネ15・13参照)という、至高の愛のまばゆいほどの現れです。その行為は、イエスがすべての人の価値を啓示し、自己を真心から贈り物とするとき、いのちはどのようにしてその完全さに至るかを啓示した、十字架の秘義にあずかるものです。このような際立った機会のほかに、真正ないのちの文化を造り上げる大小さまざまな分かち合いの意志から成る、日常的に行われる英雄的な行為があります。そのような意志の特別に称賛に値する事例は、時に何の希望もない病人に健康を取り戻し、場合によってはいのちを永らえる機会を与えようとして、倫理的に認められる方法で実施される臓器の提供です。

この日常的に行われる英雄的行為には、勇気あるあらゆる母親たちの、静かな、しかし実りある雄弁なあかしとなる生活があります。「このような母親たちは無条件に、家族のために献身的に尽くすのであり、子供たちを産み、自分自身の一番よいものを子供たちに伝えるために、どのような努力も惜しまず、どのような犠牲をもいとわぬ覚悟を持っています111」。自分の使命を生き抜くにあたり、「このような英雄的な女性たちは、自分を取り巻く世界に必ずしも支えがあるわけではありません。それどころか、メディアがしばしば助長し広める文化的なモデルは、母親であることを推奨することはないのです。進歩と現代的な生き方という美名のもとに、キリスト者である多くの妻や母親たちが、今日まであかしをし、またこれからも卓越したあかしを続ける、忠実、貞節、犠牲といったもろもろの価値は、すでに時代遅れのものとして扱われています。……わたしたちは、英雄的な心を持つ母親の皆さんの不屈の愛に感謝します。わたしたちは皆さんの、神への信頼、神の愛への大胆な信頼に感謝します。生活の中で犠牲をいとわぬ姿に感謝します。……過越秘義の中で、キリストは、皆さんがキリストにささげた贈り物を返し与えてくださいます。実に、皆さんがキリストに供えものとしてささげたいのちを返し与える権能を、キリストは持っているのです112」。

「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2・14) 
いのちの福音に仕える 

87 キリストの尊い使命にあずかってわたしたちが行う、人間のいのちを支え伸張させる務めは、愛の奉仕をとおして成就されなければなりません。この愛の奉仕は、ボランティア活動、社会的活動、政治的活動といったさまざまな形をとる、個人的なあかしという姿で現れます。「死の文化」がこれほどまでに強力に「いのちの文化」に敵対し、時に優位に立っているように思われる今の時代では、このことはとくに急を要することです。それは、このような事態になる以前でも「愛の実践を伴う信仰」(ガラテヤ5・6)から生じる必要です。ヤコブの手紙は次のように諭します。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わななら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2・14−17)。

愛の奉仕に携わるにあたり、わたしたちは一つの明確な態度に鼓舞され特徴づけられなければりません。すなわち、他の人を世話する場合は、神がわたしたちに責任をゆだねた一個人として世話しなければならないのです。イエスの弟子として、わたしたちはだれに対しても隣人となように(ルカ1O・29−37参照)、またきわめて貧しく、孤独であり、困窮のうちにある人たちに特別な厚意を示すよう求められています。胎児や死を前にして苦しむ高齢者と同様、飢える人、渇く人、外国人、裸の人、病人、捕らわれ人を助けるたびに、わたしたちはイエスに仕える機会を手にするのです。主自らこう語りました。「わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)。それゆえ、わたしたちは聖ヨハネ・クリゾストモのこのうえなく適切な言葉に諭され、自分の行いについての決算を求めら裁かれると感じざるをえないのです。「キリストのからだを尊びたいのですか。それなら裸でいるキリストをさげすんではなりません。教会堂の中で絹の布をあげてキリストを尊びながら、戸外にあって寒さと裸で震えているキリストをなおざりにしてはなりません113」。

いのちがあるところでは、愛の奉仕は徹して首尾一貫したものでなければなりません。愛の奉仕は、偏見や差別を許容することはできません。それは、人間のいのちはどのような段階にあり、またいかなる境遇にあろうとも、神聖で不可侵だからです。人間のいのちは分割できない善なのです。ですから、わたしたちはすべてのいのちに対して、まただれのいのちに対しても、「気遣いを示す」必要があります。実に、いっそう深いレベルで、わたしたちはいのちと愛の根源そのものへ分け入る必要があるのです。

幾世紀にもわたって卓越した愛の歴史を築いたのは、すべての人に対するこの深い愛です。この歴史とは、いのちに対するさまざまな形の奉仕を教会と社会の中に生じさせてきた歴史で、公平な評価を下す人々は皆、このような奉仕に対して称賛の声を上げています。あらゆるキリスト者の共同体は、新たな責任感をもって、さまざまな司牧活動と社会活動をとおして、この歴史を書き続けなければなりません。そのためには、新しいいのちを支援するにふさわしい、実効あるプログラムが行われなければなりません。配偶者からの手助けすらなく、それでも恐れずに子供を産み育てようとする母親たちに対する、特別の親愛の情をもって行われなければならないのです。社会から見捨てられ苦しむ人のいのち、とりわけ死に臨むいのちに、同様の世話が向けられなければなりません。

88 以上のことはすべて、一人ひとりが他人の重荷を担うよう励ます(ガラテヤ6・2参照)ことを目的とする、忍耐強く果敢な教育活動を伴います。仕えることへの召命を、とくに若者たちのうちに育て続けることが必要です。そこには、福音によって鼓舞された、長期にわたる実践的な計画と責任ある決断が欠かせません。

この目的を得るためには、多数の手だてがあります。それらは、熟練と真撃な献身によって開発されなければなりません。いのちの最初の段階については、受胎調節の自然的な方法を扱うセンターが設立され、責任ある親となることができるよう価値ある手助けが提供されるべきです。そこでは、すべての人が、また何よりも子供たちがその権利において認められ、尊ばれ、さらにあらゆる決断が、自己を心からの贈り物とするという理想によって導かれるのです。結婚・家庭相談所は、人間、夫婦、そして性に関するキリスト教的な見方に立脚した人間学に基づいて実行される指導と予防という特有の働きによって、愛といのちの意味を再発見することにおいて、また「いのちの聖域」としてその使命を担うあらゆる家族を支援し、家族とともに歩むことにおいて、大いに貢献しています。生まれたばかりのいのちは、援助センター、および新しいいのちを歓迎する家庭やセンターにおいても世話を受けています。このようなセンターの活動のおかげで、多数の未婚の母と困窮のうちにある夫婦は、新しい希望を見いだし、身ごもったばかりのいのち、あるいは生まれたばかりのいのちを受け入れる困難や恐れに打ち勝つための助けや支えを得ています。

いのちが、困難、不均衡、病気、あるいは拒絶などの状況に直面するとき、薬物中毒に対処する共同体、未成年や精神的な疾患のある人のための宿泊設備のある共同体、エイズ患者を世話し救済するセンター、とくに障害のある人々との連帯のために活動する施設などというようなプログラムは、すべての人に希望への新しい根拠といのちへの具体的な手がかりを与えるために、愛がどれほどのことをなしうるかを雄弁に語るのです。

地上に存在するものが終焉に近づくとき、高齢者、とくに自分で自分の面倒をみることのできない人々、そして末期患者たちが純粋に人道的な援助を享受して、とりわけ不安と孤独の中で苦悩する彼らが、自分に必要なことにふさわしい対応を受けることができるよう、最適の手段を講じるのもまた愛なのです。このような事例においては、家族の役割は欠かせません。しかも、家族は社会福祉機関から多大な援助を受けることができます。また必要ならば、公共の組織や家庭で受けられる、相応の医療上のサービスや社会的なサービスを利用して、一時的に看護を肩代わりしてもらうこともできます。

とくに、病院、診療所、回復期患者保養所の役割を再考する必要があります。これらの施設は、病人や死に臨む人々に看護を提供するだけにとどまるべきではありません。何よりもそれらの施設、苦しみ、痛み、そして死が、その人間的な意味ととくにキリスト教的な意味において認知され、理解される場でなければなりません。修道者が職員として勤務する施設、あるいは何らかの形で教会に関係する施設において、このことはとくに明確に示され、実効あるものとならなけばなりません。

89 いのちへの奉仕にあたる機関とセンター、また状況によって必要となる、いのちを支え、いのちに連帯する他のあらゆる発意工夫などは、惜しみない心で取り組む人々によって、そして個人と社会の善にとっていのちの福音が有する重要性を十分に自覚する人々によって、管理される必要があります。

医師、薬剤師、看護婦、病院付の司祭、男女修道者、管理責任者、ボランティアに携わる人、これらの健康管理業務に従事する人々には、固有の責任があります。このような職業に従事するには、人間のいのちを保護しそれに仕える者であることが求められます。現代の文化的、社会的潮流において、科学と医学の実践は、自らに本来備わっている倫理的な面を見失う危険性を帯びており、健康管理の職業は、時にはいのちを操作する立場に立ったり、あるいは死さえももたらすものとなりうるのです。このような誘惑を前にして、彼らの責任は今日、よリ大きくなっています。このような責任ある人々にとって最強の励みとなるもの、また最強の支援となるものは、健康管理の職業に本来的に伴う否定しがたい倫理的な側面のうちに見いだされます。この倫理的な側面は、古代の人々によってすでに承認され、今なお今日的な意義のある「ヒポクラテスの誓い」であり、これは人間のいのちとその神聖さに絶対的な敬意を表すことを、自らのこととして引き受けることをすべての医師に求めます。

あらゆる罪のない人に絶対的に敬意を表すことはまた、人工妊娠中絶と安楽死の実施を良心に基づいて拒絶することを要求します。「死をもたらすこと」は、仮にその意向が単に患者の要求に応じるだけであっても、医療処置の一つとは決して見なされることはありません。むしろ、健康管理という職業に完全に背きます。この職業は、情熱をもって、断固としていのちを肯定するを意図するからです。生物医学の研究もまた、人類に多大な福利を約束する分野であり、人間の不可侵の尊厳を軽視し、それによって人々への奉仕をやめ、代わりに人々を助けるということを口実にして、実際は人々に危害を加える手段と化すような実験や研究あるいは臨床応用は、つねに退けなければなりません。

90 ボランティアに携わる人々は、特有な役割を担っています。彼らは専門の能力と寛大で私心のない愛をもって協力するとき、いのちへの奉仕に貴重な貢献をします。いのちの福音は彼らを鼓舞し、他者に対する彼らの善意を、キリストの愛の極みへと押し上げます。激務と疲れの中にあっても、すべての人格の尊厳についての認識を日ごとに新たにさせるのです。また、人々が何を必要としているかを探し出し、人々の必要とするものが多くて世話と支援が追いつかない場合には、必要なら新しい方針を立てるようにするのです。

愛が現実に即したもの、実効あるものであるためには、かつてなかったほどに複雑で多様なこの社会においては、いのちの価値を擁護し伸張させる方法として、社会的活動と政治的分野での尽力といった手だてをもって、いのちの福音が成就されることが求められます。個人、家族、グル−プ、種々の団体は、理由と方法が異なっていても、すべて一つの責任を持っています。すなわち、社会を形成し、文化的、経済的、政治的、立法上の計画を進展させる責任です。これらの計画は、あらゆる民主的諸原則を尊重し、これと一致して各人の尊厳が認められ、保護され、すべてのいのちが擁護され、その質が高められるような社会を築くうえで貢献するでしょう。

この務めは、社会の指導者たちにとって特別の責任です。人々と共通善に奉仕するよう求められて、彼らはいのちを支援することにおいて、とくに立法上の処置をとおして勇気ある選択をする義務を持っています。法律と決定が多数の人の合意に基づいて成立する民主主義の体制では、権威を賦与された各人の良心における責任の感覚は弱まるといえるでしょう。しかし、だれもこの責任を放棄することはできません。とくにその人が、立法上の権限、あるいは何ごとかを決定する権限を委任されている場合にはなおさらです。その権限は、当のその人が神にこたえること、自らの良心にこたえること、そして共通善に反するかもしれない選択について社会全体にこたえることを求めるものです。法律は、人間のいのちを擁護する唯一の手段に限られるものではありませんが、それにもかかわらず、考え方と行動のパターンに影響を与えて、きわめて重要で時には決定的な役割を果たします。わたしはここで再び繰り返します。いのちに対する罪のない人の本性的権利を侵害する法律は不正であり、そのような法は法として無効なのです。それゆえわたしは、人間の尊厳を無視することによって、社会の枠組みそのものをむしばむ法律を通過させてはならないと、すべての政治指導者たちに再び訴えます。

多種多様な形態をとる民主主義において、いのちを実効ある法的手段で擁護することは容易でははないということを、教会は十分に承知しています。それは、異なる見地の強力な文化的潮流があるからです。同時に、だれの良心においても、道徳上の真理が持つ重要性は十分に認められると確信して、教会は政治指導者たちに、まずキリスト者である人たちから始めて、くじけることなく、現実的に達成可能なところを考慮して、いのちの価値を擁護し守り育てるにあたって、正当な秩序を再構築するようになる選択をするよう励まします。その際、不正な法律を取り去るだけでは不十分なことに注目しなければなりません。とくに家族や母性に対して独自の支援を保障することによって、いのちに攻撃をしかける潜在的な原因を取り除かなければなりません。家族政策はあらゆる社会政策の基礎であり、推進力でなければなりません。このような理由で、親であることに関しては、選択の真の自由に先立つ諸条件を保障することのできる、社会的、政治的決断がなされる必要があります。さらに、労働政策、都市政策、住宅政策、社会福祉政策について再考する必要もあります。それは、一日の労働時間帯を家族のために利用できる時刻に合わせるためであって、その結果、子供たちや高齢者たちを効果的に世話することができるようになります。

91 今日、いのちを大切にするさまざまな政策が抱える重要な点は、人口増加という問題です。確かに公権は、「人口動態統計を方向づける目的で介入する114」責任を持っています。しかしそのような干渉は、夫婦と家族が持つ基本的な責任と譲り渡すことのできない責任をつねに考慮に入れ、尊ばなければなりません。またこのような干渉は、すべての罪のない人のいのちの権利から始まり、人格と基本的人権を尊重しないで済ませる方法をとることはできません。ですから、出生を規制するために、避妊、不妊手術、人工妊娠中絶といった方法を用いることを推奨し、それらが濫用されるに任せるのは、道徳上容認することはできません。人口問題を解決する方法は実にさまざまです。各国政府と種々の国際機関は、何よりもまず夫婦が完全な自由と真の責任をもって、生殖に関して選択するのを可能にする、経済的、社会的な公衆衛生上の文化的条件を造り出すよう努力しなければなりません。それゆえ政府と国際機関は、「より多くの機会が提供され、より公平な富の分配が行われ、だれもが地上の資財に公平にあずかることができるよう努力しなければなりません。国内および国際的秩序の両面で、交わりの真の秩序と物的財の分かち合いを打ち立てることによって、地球規模での解決が探られなければなりません115」。諸民族の真正な文化遺産と同様に、各個人と家族の尊厳をも尊ぶ方法は、これ以外にはありません。

したがって、いのちの福音への奉仕は、広範にわたる複雑な任務となります。この奉仕は、カトリック以外の諸教会に属する兄弟姉妹や、教会としての組織を持つ種々の共同体との積極的な協力にとって、貴重で実り多い領域としてますますその姿を現しています。これは、第二バチカン公会議が権威をもって奨励した116実際的なエキュメニズムに合致するものです。いのちの福音への奉仕は、他宗教の人々との、またあらゆる善意の人たちとの対話と共同の努力のための一つの摂理的な場としても現れます。いのちを擁護し守り育てるにあたっては、いかなる個人も団体も独占的にかかわるのではありません。これらのことは、すべての人の任務であり責任です。紀元二〇〇〇年を間近に控えた今日、わたしたちが直面する挑戦は厳しいものです。いのちの価値も信じるすべての人が協力して行う努力だけが、文明が予測だにしなかった重要性の後退を阻止することができるのです。

「食卓を囲む子らは、オリーブの若木」(詩編128・3) 
「いのちの聖域」としての家族 

92 「いのちの民、およびいのちのために働く民」という枠組みの中で、家族は決定的に重要な責任を持っています。この責任は、結婚に基づくいのちと愛から成る共同体としての家族の本質そのものに由来するのであり、また、「愛を守り、表し、伝える使命117」に由来します。愛とはすなわち神自身の愛であり、両親は、父である神の計画に沿っていのちを伝達し養育するとき、神の愛の協力者であり、いわばその解釈者となるのです118。これが無私の心、受容する態度、贈り物となる愛です。家族の一人ひとりは家庭において受け入れられ、尊敬され、あがめられますが、それは一人ひとりがまさに一個の人間だからです。家族のだれかがとても困っている場合、その人が受ける世話はいっそう真剣で心のこもったものとなります。

家庭には、家族一人ひとりが誕生から死までの生涯を生きる間に果たすべき特別な務めがあります。家庭はまさに「聖なるものです。家庭こそ、神の贈り物である生命がふさわしく迎えられ、ふりかかる多くの攻撃から守られる場であり、真の人間的成長をもたらしつつ発展することができる場なのです119」。したがって、いのちの文化を築くにあたって家族の役割は決定的に重要であり、かけがえのないものなのです。

家庭は家庭教会として、いのちの福音をのべ伝え、祝い、仕えるよう求められます。それはまず第一に、夫婦にかかわる責任です。夫婦は生殖の意味をより深く自覚したうえで、いのちをもたらす者となるよう求められています。生殖は、人間のいのちとは受け取られるたまものであり、神から与えられたたまものであるということを明らかに示す、かけがえのない出来事です。新しいいのちの芽生えのとき、両親は、子供が「夫婦相互の愛のたまものの実りであり、また同時に夫婦への贈り物、二人から生まれ出るたまものである120」と認めます。

家庭がいのちの福音をのべ伝える使命を具体的に歩むのは、何よりも子供たちを養育することにおいてです。日常生活でのさまざまなかかわりと選択の繰り返しの中で、また具体的なもろもろの行動としるしをとおして、言葉と模範によって、両親は、自分を心からささげる姿のうちに現実のものとなる真の自由へと子供たちを導きます。また両親は、子供たちに、他者への尊敬、正義の感覚、心を開くこと、対話、寛大な奉仕、連帯、さらに、たまものとしてのいのちを生きるよう他の人々を手助けすることなど、他のあらゆる価値について教育します。子供たちの教育についていえば、キリスト者の両親は、子供たちの信仰に関心を持ち続け、子供たちが神から受けた召命をまっとうするよう助けなければなりません。教育者としての両親の使命にはまた、子供たちに苦しみと死の真の意味を具体的に教示することが含まれます。両親が身の回りのあらゆ種類の苦しみに敏感であり、さらに家族の中の病気の高齢者に対する親しさ、支え、分かち合いの態度を育てるなら、子供たちは両親の願う方向に育つでしょう。

93 家族は、個人的な祈りと家族で行う祈りを毎日ささげることによって、いのちの福音を祝います。家族は、いのちのたまもののために神に栄光を帰し、感謝するために祈ります。また、家族は困難や苦しみにあっても、望みを失うことのないように、神に光と力を懇願します。しかし一切の祈りと礼拝に意味を与える祝いとは、愛に満ちた生活、自分を与える生活が営まれるなら、家族がともに生きるその日々の生活の中にこそあるのです。

こうしてこの祝いは、いのちの福音への奉仕となります。この奉仕は、日々のありきたりの出来事の中に示される、心配りの行き届いた思いやりのある愛情深い配慮という形をとって、家族の中で、また家族の周辺で経験される連帯をとおして表されます。家族間を結ぶ連帯を非常に意義深いものとして表すのは、両親に見捨てられた子供たち、あるいは深刻な虐待のうちにある子たちを進んで養子縁組し、受け入れる態度です。親としての真の愛は、他の家族から子供たちを受け入れるために血肉のきずなを喜んで超えようとし、子供たちの幸福と十全な発育のために必要なら何でも与えようとします。養子縁組にはさまざまな形態があります。ある家庭が、ただ経済上の貧しさから子供の養育を断念するといった場合に望ましい、「一定の距離を置いた養子縁組」を考慮すべきです。この種の養子縁組によって必要な援助が与えられ、両親は親子の自然な状態から引き離されることなく、自分たちの子供たちを支え、養育できるのです。

「自らをかけて共通善のために働くべきであるとする堅固な決断121」の具現として、連帯も、社会生活と政治生活に参加することをとおして実践される必要があります。ですから、いのちの福音に奉仕することは、家族がとりわけ家族の団体の一員であることをとおして、国家の法律と機関が、妊娠から自然死へ至るまでのいのちの権利を決して侵害することのないように、むしろいのちを守り育てるようにするために活動することを意味します。

94 高齢者には特別な配慮が払われるべきです。ある文化では、高齢者は重要かつ積極的な役割を担う家族の一員としてとどまりますが、他の文化においては無用の重荷と見なされ、置き去りにされます。ここに、安楽死に訴える誘惑が比較的安易に生じる素地があります。

高齢者をなおざりにすること、あるいは彼らをまったく排斥することは許されません。家族に高齢者がいること、あるいは、生活空間が限られるか、ともに生活することを不可能にする他の理由がある場合には、少なくとも彼らが家族の近くにいることは、家族と高齢者が相互にかかわり合う雰囲気を作り出し、さまざまな世代間の交流を豊かにすることにおいて根本的に重要です。ですから、世代間の一種の「契約」を保持すること、それが失われてしまっているところでは再び結び直すことが大切です。このようにして、両親は自分が年を取ったとき、彼らが子供たちを世に産み出したときに子供たちに与えた受容と連帯を子供たちから受け取るのです。これは、あなたの父母を敬え(出エジプト20・12、レビ19・3参照)という神のおきてへの従順が求めることです。しかし、それ以上のことが含まれています。高齢者は、わたしたちの関心、近しさ、奉仕の対象だと見なされるだけではありません。彼ら自身、いのちの福音のために貴重な貢献となるのです。長年にわたって獲得した経験という豊かな宝のおかげで、高齢者は知恵の源、希望と愛のあかしとなることができるのであり、またそうならなければなりません。

「人類の将来は家庭をとおして過ぎ越していく122」のは真実ですが、現代の社会的、経済的、文化的な諸条件がいのちに奉仕する家族の務めをいっそう困難なものとし、過酷な要求をするものしていることは認めざるをえません。「いのちの聖域」としての召命を成就するために、家族はいのちを愛し、いのちを温かく迎える社会の細胞として、緊急に助けられる必要があります。共同体や国家は、真に人間的な方法で自分たちの問題に相対するために、家族が必要とする経済上の援助をも含めたあらゆる支援を保障すべきです。教会としては、家族を対象とした司牧的な世話を行う計画を忍耐強く推進しなければなりません。あらゆる家族に、いのちの福音を促進する使命を喜びと勇気をもって再発見させ、それを生きることを可能にする計画を進めなければならないのです。

「光の子として歩みなさい」 (エフェソ5・8) 
文化の変容をもたらすこと 

95 「光の子として歩みなさい。……何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗やみのわざに加わらないように」(エフェソ5・8、10−11)。「いのちの文化」と「死の文化」との間の劇的な闘争に特徴づけられる現代の社会風潮においては、真の価値と必要を識別できる、深い批判的判断力を研ぎ澄ます必要があります。

まず必要なのは、いのちを擁護する大規模な運動を展開するために、広く良心を結集することであり、倫理的なことがらについて団結して努力することです。これらすべてをもって、わたしたちはいのちの新しい文化を打ち立てなければなりません。新しいとは、人間のいのちに影響を及ぼす今日の前例のない諸問題に直面することができ、解決することができるからです。また、すべてのキリスト者によって、より深くより力強い確信をもって取り上げられ、さらにあらゆる当事者の間で、真剣な、腹の据わった文化的対話を行うことが可能となるであろうからです。このような文化的な変容を起こす緊急な必要性は、現今の歴史的状況に関連していますが、同時に教会が持つ福音化の使命に根ざしています。実際、福音の目的は、「人類を内部から変容させ、新しくすること123」です。パンの生地全体を発酵させるパン種のように(マタイ13・33参照)、福音はあらゆる文化に浸透し、内側からいのちを吹き込むはずです124。こうしてあらゆる文化は、人間について、そして人間のいのちについて、十全な真理を説き明かすことになります。

わたしたちはキリスト者の共同体そのものの内部で、いのちの文化を刷新することから始める必要があります。信者たちは、教会生活の中で積極的に活躍する人でさえ、結局はいのちに関する倫理的要求からキリスト教の信仰を切り離してしまい、それゆえ道徳的主観主義とある種のあるまじき行動に陥るということが往々にして起こります。大いなる率直さと勇気をもって、わたしたちは自分たちの教区において、一人ひとりのキリスト者、家族、各グループ、各共同体の間に、今日、いのちの文化がどのくらい根づいているかを自問する必要があります。わたしたちは、同等の明瞭さと確かさをもって、逐一いのちに奉仕するためにとるよう求められる手段を明らかにしければなりません。同時に、知的な会合でもさまざまな専門的分野での討議でも、また、人々の日常生活のレベルにおいても、信者でない人をも含めたすべての人と、人間のいのちという根本的な論点について、真剣で徹底的な意見交換を推進する必要があります。

96 この文化的変容を目指すにあたっての根本的な第一歩は、あらゆる人間のいのちが無比の、不可侵の価値を持つことに関して、良心を育て上げるところにあります。いのちと自由との間に本質的な結びつきを回復するのは、最重要の課題です。いのちと自由は切り離せません。一方が侵害されると、もう一方も侵害されることになります。いのちが歓迎されず愛されないところには、真の自由はありません。自由なくして、いのちの豊かさはありません。いのちと自由の双方に、両者を解くことができないほどに結び合わせる本来的な特別な何かがあります。それこそ愛への召命です。自らを心からの贈り物とする愛は125、人間のいのちと人間の自由に正確な意味を与えるのです。

同様に、良心を育てるにあたって決定的なのは、自由と真理との間に必然的に伴う結びつきを再発見することです。しばしば述べてきたように、自由が客観的真理から引き離されるとき、自由は、堅固な理性的基礎の上に人間の諸権利を打ち立てることはできなくなります。社会が、各個人のしたい放題の意思や公権の圧倒的な全体主義の言いなりになる、その根拠が据えられるのです126

ですから、神がたまものとして、また義務として存在といのちを授けた、その被造物としての人間が、自分たちに生来備わった条件を承認すべきことは本質的なことです。人間の生来的な依存性を認めて初めて、人間はその自由を余すところなく生きることができ、その自由を行使できるのです。同時に、他のすべての人のいのちと自由を尊重することができます。ここでわたしたちは、とりわけ次のことを理解できます。つまり、「あらゆる文化の中心とは、もっとも大いなる神秘、すなわち神の神秘に対して人間がとる態度にほかならない127」ということです。神が否定され、神が存在しないかのように、あるいは神のおきてに無頓着なところでは、人間の尊厳と人間のいのちが不可侵であることもまた、最終的には排斥され危険にさらされることになります。

97 良心の形成に密接にかかわるのは、教育の務めです。この務めは、各個人がよりいっそう人間的になるのを助け、人々をより完全に真理へ導き、いのちを尊ぶ心を徐々に育て、正しい人間関係を身につけさせるのです。

とくに、最初期からのいのちの価値について教育する必要があります。性・愛・いのちの全体が持つ真の意味に従って、そしてこれら相互の関連の中で、若い世代が性と愛といのちの全体を受け入れ経験するのを手助けせずに、人間のいのちの真の文化を築くことができると考えるのは幻想です。人間全体を豊かにする性は「愛のうちに自己を与えるように人格をはぐくむことで、そのもっとも深い意味を表します128。新しく芽生えたいのちを侮るようになった主な原因に、性がありふれたものとなったことがあげられます。真の愛だけが、いのちを守ることができるのです。とくに青少年や成人して間もない人たちに、性と愛にかかわる真正な教育を提供すること、人格の成熟を助長し、肉体についての「結婚生活での」意味を尊重できるようにする徳としての貞潔の面での訓育を含む教育を提供することは、避けることのできない義務なのです。

いのちへの奉仕の面での教育の務めは、夫婦に責任ある生殖について教えることを含みます。真の意味で責任ある生殖は、夫婦が主の招きに従順であり、主の計画の忠実な解釈者として行動るよう求めます。たとえ重大な理由があり、また道徳法を尊重して、夫婦が新しい誕生を当座もしくは無期限に回避する道を選ぶとしても、家族が新しいいのちに寛大に心を開くとき、また夫婦が率直な態度といのちへの奉仕を保持するとき、神の招きに忠実でなければなりません。道徳法はあらゆる場合に、本能と情熱の衝動を制御するように、また、彼らの人格に刻まれている生物的原則を尊重するように義務づけます。責任ある生殖を行うにあたり、受胎の自然調節法を合法とするのは、まさにこの尊重なのです。このような方法は、科学的見地からますます精度を高めており、実際、道徳上の諸価値に合致した選択を可能とします。このような方法の効果の程を偏りなく評価するには、いまだに広く保持されているある種の偏見を取り除かなければなりません。また、ヘルスワーカーやソーシャルワーカーなどと同様に、夫婦にもこの領域での適切なトレーニングの重要性を確信させなければなりません。教会は、個人的な犠牲を払い、時には人知れずささげる献身をもって、このような方法の研究と普及、およびこのような方法が前提とする道徳的諸価値についての教育の推進に身をささげる人々に感謝します。

教育の務めは、苦しみと死についての考察を回避することはできません。苦しみと死は人間存在の欠くことのできない要素であり、これについて隠したり無視したりするということは、誤解を招くだけでなく無益なことなのです。それどころか、人々には、それがいかに厳しい現実であろうと、苦しみや死の深遠な神秘を理解するよう助けが与えられるべきです。痛みや苦しみでさえも、それらが受け与える愛と密接に結ばれて体験されるとき、意味と価値を持つのです。この点に関して、わたしは「世界病者の日」を毎年祝うよう訴えてきました。これは、「キリストとの交わりにおいて体験されるなら、あがないの神髄に属する苦しみをささげることは救いをもたらす129」ということを強調するものです。死それ自体は、希望のない出来事では決してありません。死は永遠に向かって広く開かれる戸口であり、キリストにおいて生きる人々にとっては、キリストの死と復活の秘義にあずかる体験をすることへ続く戸口なのです。

98 要するに、わたしたちが主張する文化の変容は、さまざまな価値についての正確な尺度に基づいて、個人、家族、社会、国際的レベルで行われる具体的な選択に存する新しい生き方を自分のものとする勇気を、すべての人に求めることだということができます。持つことよりも、どのようにあるかが重要130であり、物よりも人間が重要であるという尺度131です。この刷新された生活様式は、無関心から他者に関心を抱くことへの、また排斥することから他者を受け入れることへの過ぎ越しを含みます。他者は、わたしたちが彼らから身を守らなければならないライバルではなく、支援されるべき兄弟姉妹です。他者は、彼ら自身のゆえに愛されるべき存在であり、彼らがいること自体がわたしたちを豊かにしてくれます。

いのちの新しい文化を目指すこの動きの中で、自分だけが除外されると考えてはなりません。だれもが、果たすべき重要な役割を持っているのです。家族とともに教師や教育者には、とくに果たすべき貴重な貢献が期待されています。若い人々が真の自由について教育を受け、人生についての他の新しい理想、真正な理想を自分たちの力で保持し、それらを他者に伝えることができるかどうかは、教師や教育者にかかっています。家族や社会の中で、すべての他者を尊重し、また他者に奉仕することにおいて若者が成長するかどうかも同様です。

人間のいのちの新しい文化を築くために、知識人にも多くのことが可能です。カトリックの知識人は、特別の任務を引き受けることになります。彼らは、文化が形成される指導センターや学校、大学、科学研究の場、技術研究の場、芸術的創造の場、人間研究の場などでの参加と活動を求められています。福音の生きた力によってその才能と活動をはぐぐまれて、彼らは真剣に十分に練られた論文を提供することによって、いのちの新しい文化への奉仕を引き受けなければなりせん。この論文は彼らの優秀さのゆえに、世界に広く尊厳と関心を引き起こすことができるものです。まさにこの目的のために、わたしは教皇庁立生命アカデミーを設立し、次の任務を与えました。すなわち、「いのちを守り育てることに関する法律や生物医学の主要な問題、とくにそれらの問題がキリスト教の道徳と教会の教導職が出した指示とに直接にかかわる場合、このような諸問題について研究し、情報を収集し、また教育にあたる132」という務めです。大学研究機関、とりわけカトリック大学、また生命倫理に取り組むセンターや研究所、委員会には格別の貢献が期待されます。

マスメディアの分野で働く人々には、重要かつ重大な責任があります。彼らが効果的に伝達するメッセージが、いのちの文化を支持するものであるように招かれているからです。彼らは、いのちの優れたモデルを提示する必要があり、また人々の積極的で、時には他者のためにささげる英雄的な愛の実例のために時間を割くべきです。彼らはまた、大いなる敬意をもって性と人間の愛という積極的なさまざまな価値を提示すべきであり、人間の尊厳を傷つけ軽んじるようなことを主張すべきではありません。物事を解釈する際には、いのちに関して無関心な心情や態度、軽侮や排斥といったことを暗示したり助長したりするようなことを強調しないように注意すべきです。事実に基づいた真理への誠意ある関心をもって、情報伝達の自由を、すべての人に対する敬意と人類という深遠な感覚を尊ぶ立場とに結び合わせるよう彼らは求められています。

99 いのちを支えるものとなるよう文化を変容させる営みにおいて、女性は思想と行動の面で、独特の決定的な位置を占めています。社会生活のあらゆる面における女性の真の特質を認め、肯定し、さらに一切の差別と暴力と搾取を打破するために、典型的な「男性支配」に倣う誘惑を退ける「新しいフェミニズム」を推進することは、女性にかかっています。

第二バチカン公会議の閉会メッセージの言葉をもって、わたしは女性の皆さんに切に訴えます。「人々をいのちと和解させてください133」。皆さんはまことの愛の意味、すなわち自らを贈り物としてささげることの意味をあかしするよう招かれています。また、夫と妻の関係にとくに現存するのですが、他のあらゆる人間関係の核にあるべきものとしても他者を受け入れることの意味をあかしするよう招かれています。母性を体験することから、皆さんは他の人格に敏感に気づくようになります。同時に、ある特定の務めを受けています。「胎内に生命が発達するにつれて、母性は生命の秘義と特別な交わりを持つようになります。……自分の中で成長しつつある新しい人間とのこの独特な交わりは、母親に人間に対する態度、自分自身の子供ばかりでなくすべての人間に対する一つの態度を持つようにしむけます。この態度こそ、女性の個性を深く特徴づけるものです134」。母親は、自分の中に別の人間を迎え入れ、身ごもります。その新しいいのちが自分の中で生育できるようにし、場所を与え、新しいいのちが他者であることにおいてそれを尊びます。人間関係が他の人格を受け入れることへ開かれているなら、女性はその人間関係が本物であるこをまず学び、次いで他の人にそのことを教えます。つまり、他の人格とは、有用性、力、知能、美、健やかさなどのような他の考察に由来する尊厳ではなく、人格であるそのことからくる尊厳のゆえに認められた人格、愛された人格としてのものなのです。これは、教会と人類が女性に期待する根本的な貢献です。そしてこのことは、真の意味での文化的な変化が起こるために、絶対に欠かせない必要条件です。

わたしはここで、人工妊娠中絶を経験した女性の皆さんにとくに申し上げます。教会は、皆さんの決心に影響を及ぼしたと思われる多くの要因があることを知っています。また教会は、多くの場合、それは苦渋に満ちた、身を裂かれるような決断であったであろうことを疑いません。皆さんの心の傷は、いまだにいやされていないかもしれません。確かに、現実に起こったことは大きな過ちでしたし、今なお過ちとして残っています。けれども、落胆のうちに沈み込まないでください。望みを失ってはなりません。むしろ、起こったことをよく理解し、それに誠実に向き合うようにしてください。まだ悔い改めていないなら、謙遜と信頼をもって悔い改めに身をゆだねてください。いつくしみ深い父はゆるしの秘跡によって、そのゆるしと平和をあなたに与えようと待っています。決定的にすべてが失われたのではないことが、やがて分かるでしょう。そして、今は主のもとで生きるあなたの子供に、ゆるしを求めることもできるでしょう。他の人々からの友情に満ちた、専門的な援助と助言によって、さらに皆さん自身が味わった痛ましい経験の結果、皆さんは、すべての人がいのちの権利を持つことのもっとも雄弁な擁護者となりうるのです。これから子供たちの誕生を受け入れることによって、あるいは自分の身近にいてくれる人を必要とする多くの人々を迎え入れ、世話をすることによって、いのちとかかわることをとおして、皆さんは人間のいのちに対する新しい見方を推進する人となるでしょう。

100 いのちの新しい文化を創造するために全力を尽くすにあたって、わたしたちは、いのちの福音は神の国と同様に、成長して豊かな実を結ぶ(マルコ4・26−29参照)ということを知っていることからくる確信に励まされ、元気づけられます。「死の文化」を推進するもろもろの勢力が手にすることのできる効果的な方策と、「いのちの文化」のために働く者たちが自由に使える手段との間には、確かに途方もない不均衡があります。しかし、わたしたちは、できないことは何もない神(マタイ19・26参照)の助けに頼ることができることを知っています。

この確信に満たされ、またすべての人の運命への強い関心に動かされて、わたしは多くの困難のただ中で、その難しい使命を果たす家族に語ったことを繰り返します135。いのちのためにいっそ熱烈な祈りをささげることが、今こそ求められています。この祈りは、世界中を貫いて立ち昇るでしょう。さまざまな思いに導かれてささげる祈りによって、また日ごとの祈りにおいて、創造主、いのちを愛する方である神に熱烈な嘆願がささげられますように。あらゆるキリスト者の共同体、あらゆるグループと団体、あらゆる家族、そしてすべての信仰者の心からの祈りがささげられますように。イエスは自ら、悪魔の勢力に対抗する第一のもっとも効果的な武器は祈りと断食であることを身をもって示しました(マタイ4・1ー11参照)。イエスが弟子たちに教えたように、ある種の悪魔はこれ以外の方法では追い出すことはできないのです(マルコ9・29参照)。ですから、新たに謙虚さと、祈り断食する勇気を発見しましょう。天の高いところからの力が、偽りと欺瞞の壁を打ち砕くでしょう。いのちに敵対するさまざまな実践や法律が持つ悪を、多くの兄弟姉妹の目から覆い隠す壁を打ち砕くでしょう。この同じ力が、彼らの心を、いのちと愛の文明によって鼓舞された決意と目標へと向けさせてくださいますように。

「これらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(一ヨハネ1・4) 
いのちの福音は、人間社会全体のためのもの 

101 「これらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(一ヨハネ1・4)。いのちの福音の啓示は、あらゆる民族によって分かち合われなければならない善として、わたしたちに与えられています。こうしてすべての人は、わたしたちと、また三位の神と親交を結びます(一ヨハネ1・3参照)。わたしたちがこの福音を他者と分かち合わず、ただ自分たちのうちにとどめるなら、わたしたちの喜びは完全なものにはなりません。

いのちの福音は、信仰者のためだけのものではありません。すべての人のためのものなのです。いのちという課題、そしてそれを擁護し推進することは、キリスト者だけの関心事ではありません。信仰は特別な光と力とをもたらしますが、真理を探し求め人類の未来を案じるすべての人の良心にこの問題は起こります。いのちには確かに神聖で宗教的な価値がありますが、その価値は信仰者たちだけが抱く関心にとどまりません。このような価値は、人間だれもが理性の光でとらえることができる、そのような価値だからです。それゆえ、すべての人に必然的にかかわるものなのです。

したがって、わたしたちが、「いのちの民、そしていのちのために働く民」として行うすべてのことは、正しく解釈されるべきであり、賛同をもって迎えられるべきです。すべての罪のない人の-受胎から自然死に至るまでの-いのちの権利を無条件に尊重することは、あらゆる市民社会がよって立つ支柱の一つであると教会が宣言するとき、「教会は、人間的な国家を推進することを望んでいるにすぎません。それは、国家の第一の義務としてとくにもっとも弱い者の権利、人間の基本的権利の擁護を承認する国家です136」。

いのちの福音は、人間社会全体のためのものです。人工妊娠中絶合法化に積極的に反対するのは、共通善を促進することをとおして、社会の刷新に貢献することになるからです。いのちの権利を認めず、擁護せずに、共通善を促進することはできません。各個人の譲渡することのできない他のすべての権利は、いのちの権利に基づくのであり、いのちの権利から育っていくのです。一方で、人格の尊厳、正義、平和などの価値の重要性を主張しながら、他方で、とりわけ人間のいのちが弱くなり見捨てられるところに見られるように、その価値が奪われ、侵害されるさまざまな手段を許容し黙認することによって根本的には正反対のことを実践するとき、社会は堅固な礎を欠いているのです。いのちを尊重することだけが、民主主義や平和というような、社会のもとも貴重で本質的な善の基礎であり保障となりうるのです。

すべての人格の尊厳を認めることなくして、また人々の諸権利を尊重することなくして、真の民主主義はありえないのです。

いのちが擁護され守り育てられなければ、真の平和もありえません。教皇パウロ六世はこう指摘しています。「いのちに対するあらゆる犯罪は、平和への攻撃です。とりわけ人々の道徳行為を攻撃するとき、平和への攻撃となるのです。……しかし、人権が真に公言され、公に承認され、また擁護されるところでは、平和は社会においていのちの喜びに満ちた、適切な思潮となります137」。

「いのちの民」は、いのちにかかわる責務を他の多くの人と共有できることを喜びとします。それゆえ、「いのちのために働く民」が着実にその数を増し、愛と連帯の新しい文化が人間社会全体の真の善のために発展しますように。

結び

102 本回勅を結ぶにあたり、「わたしたちのために生まれた幼子」(イザヤ9・5参照)である主イエスにおのずから再び目を転じます。このイエスのうちに「現れたいのち」(一ヨハネ1・2)を観想しましょう。キリスト誕生の秘義のうちに神と人間との出会いが起こり、神の子の地上での人生の旅、十字架上で自らのいのちをささげることを頂点とする旅が始まります。キリストはその死をもって死に打ち勝ち、人類全体のための新しいいのちの源となるのです。 

すべての人の名のもとに、すべての人のために、「いのちであるかた」を受け入れたのは、おとめにして母であるマリアでした。こうしてマリアは、いのちの福音にもっとも緊密に、また個人的にも結び合わされます。お告げの時のマリアの同意とその母性は、キリストがそれを人類に与えるために来た、いのちの神秘の出発点に位置します(ヨハネ1O・10参照)。人となったみことばのいのちを受け入れ、愛情を込めてはぐくむことをとおして、人間のいのちは決定的な死、つまり永遠の死への判決から救われたのです。 

この理由から、マリアは、「自身がそのかたどりである教会と同じように、再生の恵みを受けたすべての人の母です。事実、マリアは、すべての人を生かしているいのちそのものであるかたの母です。マリアはこのいのちそのものであるかたを産んだとき、そのいのちにあずかって将来生きるすべての者を再生させたともいえるのです138」。 

マリアの母性を観想するとき、教会は教会自身の母性が有する意義を発見し、その意義を表すよう求められる方法を見いだします。同時に教会は、母性を体験するところから、いのちがどのように迎えられ、はぐくまれるべきかを示す比類ない模範として、マリアの体験を深く理解するようになるのです。 

「天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとっていた」 (黙示録12・1) 
マリアの母性、教会の母性 

103 教会の秘義とマリアとの相互関係がどのようなものであるかは、黙示録に描かれる「大いなるしるし」にはっきりと現れます。「天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙示録12・1)。教会はこのしるしに、教会自身の秘義を表す表象を見つけます。現在、教会が神の国の地上における「芽生えと始まり」となっているかぎり、教会は歴史を超越していることを知っています139。教会は、マリアに見られる徹底的かつ模範的な態度のうちに、この秘義が成就するのを見るのです。マリアは栄光に包まれた女性です。神の計画は、マリアのうちで最高の完全さをもって成就したからです。 

「太陽を身にまとった女は身ごもっていた」と黙示録は語ります(黙示録12・2)。教会は自らのうちに、主であるキリスト、世界の救い主を身ごもっていることを十分に承知しています。教会は人間を神自身のいのちのうちに新しく産み出すことにより、キリストを世にもたらすよう招かれていることを自覚しています。しかし教会は、「神からの神」、「まことの神からのまことの神」であるかたを身ごもり産んだマリアの母性によって、教会の使命が可能となったことを忘れることはできません。マリアはテオトコス、つまりまことに神の母です。マリアの母性において、すベての女性に神から授けられる母性への召命は、至高の高みへと上げられます。こうしてマリアは、「新しいエバ」、信仰者たちの母、「いのちあるもの」の母と呼ばれ(創世記3・20参照)、教会の模範となるのです。 

教会は、その霊的な母性が子を産む痛みと苦しみをとおして(黙示録12・2参照)初めて成就するということをも承知しています。これはつまり、キリストに抵抗しつつ今なお世の中を徘徊し、人間の心を襲う悪の諸勢力と絶えず緊張関係にあるということです。「ことばのうちにいのちがあった。いのちは人間を照らす光であった。光は暗やみの中で輝いている。暗やみは光を理解なかった」(ヨハネ1・4ー5)。 

教会と同じように、マリアもまた苦しみのただ中にあって、母性を生きなければなりませんでした。「この子は反対を受けるしるしとして定められています。-あなた自身も剣で心を刺し貫かれます-多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」(ルカ2・34ー35)。救い主が地上での生涯を始めたその最初の時に、シメオンがマリアに語った言葉は、イエスが拒絶されるならマリアも同じ拒絶を受けることを要約し、予告するものでした。その拒絶はカルワリオの丘で頂点に達します。「イエスの十字架のそばに」(ヨハネ19・25)マリアは立ち、神の子が自らをささげものとしたその譲渡にあずかります。つまり、マリアはわたしたちのためにイエスをささげ、譲り渡し、そして死へと産み出したのです。お告げの時にマリアが口にした「はい」という答えは、イエスが十字架にかかったときに完成に至りました。弟子となった者に御子の救いをもたらす愛を注いで、彼らすべてを自分の子として受け入れ、産む時が来たのです。「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です』」(ヨハネ19・26)ということばを残したのです。 

「竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた」(黙示録12・4) 
悪の諸勢力に脅かされるいのち 

104 黙示録では「女」の「大いなるしるし」(黙示録12・1)に、「天に現れた別の大いなるしるし」が続きます。これは、もう一つの「赤い大きな竜」(黙示録12・3)で、歴史に働きかけ、教会の使命に敵対するあらゆる悪の勢力、悪の人格的な力であるサタンを表します。 

ここでもマリアは、信じるすべての人の共同体の上に光を注ぎます。事実、悪の諸勢力が持つ敵意は、イエスの弟子たちを襲う前に、イエスの母に突き付けられた陰険な敵対でした。イエスを危険このうえない脅威として恐れる者たちからイエスのいのちを救うために、マリアはヨセフとイエスとともにエジプトヘ逃れざるをえませんでした(マタイ2・13−15参照)。 

こうしてマリアは、いのちはつねに善と悪、光とやみとの間の大いなる戦いの真ん中にあることを教会が悟るよう助けます。竜は、「生まれてくる子供」を食い尽くそうとします(黙示録12・4参照)。この子供とはキリストの象徴です。マリアは、「時が満ちると」(ガラテヤ4・4)この、キリストを産んだのであり、教会はどの時代の人々にも絶え間なくこのイエスを提示しなければなりません。しかし、ある意味では、この子供はあらゆる人格、あらゆる子供、とりわけそのいのちが脅かされ、身を守るすべのないあらゆる幼児の象徴でもあります。それは、第二バチカン公会議が想起させるように、「神の子は受肉することによって、ある意味で自らをすべての人間と一致させた140」からです。キリストが自らを啓示し続け、わたしたちと親しい交わりを結び続けるのは、まさにあらゆる人格の「肉」においてなのです。こうして、人間のいのちを拒絶することは、その拒絶がどのような形で行われようと、実際にはキリストを拒絶することにほかなりません。これは魅惑的ですが、過酷な要求をする真理でもあり、キリストはこの真理をわたしたちに啓示し、教会はこの真理をたゆまずのべ伝え続けています。すなわち、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マタイ18・5)「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)。 

「もはや死はない」(黙示録21・4) 
復活の輝き

105 天使がマリアに語ったお告げは、次のような励ましを与える言葉で表現されています。「マリア、恐れることはない。……神にできないことは何一つない」(ルカ1・30、37)。おとめにして母であるかたの全生涯は、実に、神は近くにいてくださるという確信、神はその摂理的なはからいをもって伴ってくださるという確信に貫かれています。教会にとっても同じことが当てはまります。教会は荒れ野に、すなわち試練の場であると同時に神の民に向けられる神の愛が顕現する場でもある(ホセア2・16参照)荒れ野に、「神の用意された場所」(黙示録12・6)を見つけるからです。死に対して戦う教会にとって、マリアは生きた慰めの言葉です。神の子をわたしたちに示しつつ、教会は、死の諸勢力が御子においてすでに打ち負かされていることを保証します。「死はいのちと戦った。戦闘は不思議なしかたで終わりを告げた。いのちそのものの主は葬られたが、生きて治めている141」。 

葬られた小羊は生きており、復活の輝きのうちにその受難のしるしを身に帯びます。御子だが、歴史上のあらゆる出来事の支配者です。御子はその「封印」を解き(黙示録5・1ー10参照)、時の中で、そして時を超えて死に勝るいのちの力をのべ伝えます。人類がそこを目指して旅をする新しい世界、「新しいエルサレム」では、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もありません。最初のものは過ぎ去ったから」(黙示録21・4)です。 

旅する民、いのちの民、いのちのために働く民であるわたしたちは、「新しい天と新しい地」(黙示録21・1)を目指して信仰をもって進むとき、「確実な希望と慰めのしるし142」であるマリアにより頼みます。 

ああ、マリア、 
新しい世界の輝かしい夜明け、 
いのちあるものの母、 
わたしたちのいのちをあなたにゆだねます。 
産声を上げられなかった赤子たち、 
いのちの危機に瀕している貧しい人々、 
残忍な暴力の犠牲となっている男女、 
無関心と誤ったいつくしみのゆえに殺害される高齢者や病人たち、 
これらの人々に母としてのまなざしを注いてください。 
御子キリストを信じるすべての人が、 
真心と愛を込めて、 
今の時代に生きる人々にいのちの福音をのべ伝えることができますように。 
この福音を、 
まったく新しいたまものとして受け入れる恵みと、 
生涯をとおして感謝のうちにたたえる喜びと、 
堅い決意をもってあかしする勇気を与えてください。 
創造主であり、いのちを愛するかたである神の賛美と栄光のために、 
すべての善意の人々と手を携えて、真理と愛の文明を築くことができますように。 

一九九五年(教皇在位第十七年)三月二十五日 神のお告げの祭日 

ローマ、聖ペトロ大聖堂にて 教皇ヨハネ・パウロ二世


注 

序文 

1. 「いのちの福音」という表現は、それ自体は聖書には見られない。しかし、この表現は聖書のメッセージの本質的な側面と合致するものである。[Back

2. 第二バチカン公会議『現代世界憲章』22(Gaudium et Spes)。 [Back

3. 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『レデンプトル・オミニスー人間の贖い主(一九七九年三月四日)』10(Redemptor hominis:AAS 71[1979]275)参照。 [Back

4. 同14(op.cit.,285)参照。[Back

5. 第二バチカン公会議『現代世界憲章』27。 [Back

6. 教皇ヨハネ・パウロ二世「『いのちの福音」に関する全司教あての手紙(一九九一年五月十九日)」(Insegnamenti XIV,1[1991]1293ー1296)参照。[Back

7. 同(op.cit.,1294)。 [Back

8. 教皇ヨハネ・パウロ二世『家庭への手紙(一九九四年二月二日)』4(Gratissimam sane: AAS 86[1994]871)。 [Back

9. 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『新しい課題−教会と社会の百年をふりかえって−(一九九一年五月一日)39(Centesimus Annus:AAS 83[1991]842) [Back

第一章 

10. 『カトリック教会のカテキズム』二二五九。[Back

11.  聖アンブロジオ『ノアについて』(S. Ambrosius,De Noe,26,94-96:CSEL 32,480ー481)参照[Back

12. 『カトリック教会のカテキズム』一八六七、二二六八参照。 [Back

13. 聖アンブロジオ『カインとアベルについて』(S. Ambrosius,De Cain et Abel,II,10,38:CSEL 32,408)。 [Back

14.  教皇庁教理省『生命のはじまりに関する教書−人間の生命のはじまりに対する尊重と生殖過程の尊厳に関する現代のいくつかの疑問に答えてー(一九八七年二月二十二日)』(Donum vitae:AAS80[1988]70-102)参照。[Back

15. 教皇ヨハネ・パウロ二世「デンバーにおける第八回世界青年大会の徹夜の祈りにおける演説(一九九三年八月十四日)」II・3(AAS 86[1994]419)。 [Back

16. 教皇ヨハネ・パウロ二世「『いのちの権利とヨーロッパ』に関する研究部会の参加者への演説(一九八七年十二月十八日)」(Insegnamenti X,3[1987]1446ー1447)。 [Back

17. 第二バチカン公会議『現代世界憲章』36。 [Back

18. 同16参照。 [Back

19. 聖グレゴリオ一世『ヨブ記に関する教訓的注解』(S. Gregorius Magnus,Moralia in Iob,13,23:CCL 143A,683)参照。 [Back

20. 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『レデンプトル・オミニス』10(op.cit.,274)。 [Back

21.  第二バチカン公会議『現代世界憲章』50。[Back

第二章 

22.  第二バチカン公会議『啓示憲章』4(Dei Verbum)[Back

23. “Gloria Dei vivens homo”(聖イレネオ『異端反駁』[S.Irenaeus,Adversus haereses,IV,20,7:SCh 100/2,648-649])。 [Back

24. 第二バチカン公会議『現代世界憲章』12。 [Back

25. 聖アウグスチヌス『告白』(S. Augustinus,Confessiones,I,1:CCL27,1)。 [Back

26. 聖アンブロジオ『ヘクサエメロン』(S. Ambrosius,Hexaemeron,VI,75-76:CSEL 32,260-261)。 [Back

27. “Vita autem hominis visio Dei”(聖イレネオ『異端反駁』[S. Irenaeus, Adversus haereses, IV,20,7:SCh 100/2,648-649])。 [Back

28. 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『新しい課題』38(op.cit.,840-841)参照。 [Back

29. 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『真の開発とは−人間不在の開発から人間尊重の発展へ−(一九八七年十二月三十日)』34(Sollicitudo rei socialis : AAS 80[1988]560)。 [Back

30. 第二バチカン公会議『現代世界憲章』50。[Back

31. 教皇ヨハネ・パウロ二世『家庭への手紙』9(op.cit.,878)。教皇ピオ十二世回勅『フマー二・ジェネリス(一九五〇年八月十二日)』(Humani generis : AAS 42 [1950]574)参照 [Back

32.  “Animas enim a Deo immediate creari catholica fides nos retinere iubet”(教皇ピオ十二世回勅『フマー二・ジェネリス』[op.cit.,575])。[Back

33.  第二バチカン公会議『現代世界憲章』50。教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『家庭−愛といのちのきずな−(一九八一年十一月二十二日)』28(Familiaris consortio : AAS 74 [1982]114)参照。[Back

34.  アンフィロキオ『説教』(Amphilochius : Orationes,II,I : CCSG 3,39)。[Back

35. たとえば、詩編22・10−11,71・6、139・13−14参照。 [Back

36. 聖アンブロジオ『ルカ福音書注解』(S. Ambrosius, Expositio Evangelii secundun Lucam, II, 22-23 : CCL 14, 40-41)。 [Back

37. アンチオケの聖イグナチオ『エフェソのキリスト者への手紙』(S. Ignatius Antiochenus, Ad Ephesios, 7, 2 ; Patres Apostolici, ed. F. X. Funk, II, 82)。 [Back

第三章 

38. ニッサの聖グレゴリオ『人間創造論』(S.Gregorius Nyssenus, De hominis opificio,4 : PG 44,136)。 [Back

39. 聖トマス・アクィナス『神学大全』(S. Thomas Aquinas,Summa Theologiae, I-II, Prol.)に引用された、ダマスコの聖ヨハネ『正統信仰論』(S. Ioannes Damascenus, De fide orthodoxa,2, 12 : PG 94, 920)参照。 [Back

40.  教皇パウロ六世回勅『フマーネ・ヴィテー適正な産児の調整について』一九六八年七月二十五日)』13(Humane vitae : AAS 60[1968]489)。[Back

41. 教皇庁教理省『生命のはじまりに関する教書』序文の5(op.cit., 76-77)。『カトリック教会のカテキズム』二二五八も参照。 [Back

42. 『ディダケ』(Didaché I, I ; II, 1-2 ; V, 1,3 : Patres Apostolici, ed. F. X. Funk, I, 2-3,6-9,14-17)。『バルナバの手紙』(Epistula Pseudo-Barnabae, XIX, 5 : op. cit., 90-93)参照。 [Back

43.  『カトリック教会のカテキズム』二二六三ー二二六九参照。さらに、『トリエント公会議のカテキズム』III・三二七ー三三二も参照。[Back

44. 『カトリック教会のカテキズム』二二六五。 [Back

45. 聖トマス・アクィナス『神学大全』(S. Thomas Aquinas, Summa Theologiae, II-II,q. 64, a. 7)、聖アルフォンソ・マリア・デ・リゴリ『倫理神学』(S. Alphonsus Maria De’ Liguori, Thologia Moralis, 1.III, tr. 4, c. 1, dub. 3)参照。 [Back

46.  『カトリック教会のカテキズム』二二六六。[Back

47. 同参照。 [Back

48.  同書二二六七。[Back

49. 第二バチカン公会議『教会憲章』12(Lumen gentium)。 [Back

50.  第二バチカン公会議『現代世界憲章』27参照。[Back

51. 第二バチカン公会議『教会憲章』25参照。 [Back

52. 教皇庁教理省『安楽死に関する宣言(一九八O年五月五日)』II(Iura et bona : AAS 72 [1980]546)。[Back

53. 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『真理の輝き(一九九三年八月六日』96(Veritatis splendor: AAS 85[1993]1209)。 [Back

54.  第二バチカン公会議『現代世界憲章』51(”Abortus necnon infanticidium nefanda sunt crimina”)。[Back

55. 教皇ヨハネ・パウロ二世『女性の尊厳と使命(一九ハハ年八月十五日)』14(Mulieris dignitatem: AAS 80 [1988]1686)参照。 [Back

56. 教皇ヨハネ・パウロ二世『家庭への手紙』21(op.cit., 920)。 [Back

57. 教皇庁教理聖省『堕胎に関する教理聖省の宣言(一九七四年十一月十八日)』12ー13(AAS 66 [1974]738)。 [Back

58. 教皇庁教理省『生命のはじまりに関する教書』I・1(op.cit., 78-79)。 [Back

59. 同(op.cit., 79)。 [Back

60. 預言者エレミアはここで次のように述べる。「主のことばがわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた』」(エレミヤ1・4ー5)。詩編作者は主に対して次のように語る。「母の胎にあるときから、あなたによりすがって来ました。あなたは母の前から、わたしを取り上げてくださいました」(詩編71・6。イザヤ46・3、ヨブ1O・8ー12、詩編22・ 10ー11参照。)それで、福音記者ルカも、エリザベトとマリアという二人の母親の出会いと、この二人の母親の息子でまだその母の胎内にいた洗礼者ヨハネとイエスの出会いについて語るすばらしい場面において(ルカ1・39−45参照)、たとえこの二人の幼子が誕生するどれほど前であっても、彼らは交わることができることを強調する。すなわち、幼子(洗礼者ヨハネ)はもう一人の幼子(イエス)の到来を悟って喜び踊るのである。 [Back

61.  教皇庁教理聖省『堕胎に関する教理聖省の宣言』7(op.cit., 740-747)参照。[Back

62. 「中絶によって子を殺してはならない。また、一度生まれた子を殺してもいけない」(『ディダケ』[Didaché, V, 2 : op.cit., I,17)。 [Back

63.  アテナゴラス『キリスト者のための弁明』(Athenagoras, Libellus pro christianis, 35: PG 6,969)。[Back

64. テルトゥリアヌス『護教論』(Tertullianus, Apologeticum, IX, 8 : CSEL 69,24)。 [Back

65.  教皇ピオ十一世回勅『カスティ・コンヌビイー結婚の倫理−(一九三〇年十二月三十一日)』II(Casti connubii : AAS 22 [1930]562-592)参照。[Back

66.  教皇ピオ十二世「生物医学協会『サン・ルカ』に対する演説(一九四四年十一月十二日)」(Discorsi e radiomessaggi, VI[1944ー1945]191)。教皇ピオ十二世「イタリアのカトリック助産婦協会への演説(一九五一年十月二十九日)」2(AAS 43 [1951]838)参照。[Back

67.  教皇ヨハネ二十三世回勅『マーテル・エト・マジストラーキリスト教の教えに照らしてみた社会問題の最近の発展についてー(一九六一年五月十五日)」3(Mater et Magistra : AAS 53 [1961]447)。[Back

68.  第二バチカン公会議『現代世界憲章』51。[Back

69.  旧教会法第二三五〇条第一項参照。[Back

70. 教会法第一三九八条。東方教会法第一四五〇条第二項も参照。 [Back

71.  教会法第一三九八、一三二九条参照。東方教会法第一四一七条も参照。[Back

72.  教皇パウロ六世「イタリアの弁護士全国大会に対する演説(一九七二年十二月九日」(AAS 64[1972]777)、教皇パウロ六世回勅『フマーネ・ヴィテ』14(op.cit.,490)参照。[Back

73.  第二バチカン公会議『教会憲章』25参照。[Back

74.  教皇庁教理省『生命のはじまりに関する教書』I・3(op.cit.,80)。[Back

75.  『家庭の権利に関する憲章(一九八三年十月二十二日)』4b(Charta iurium familiae : Typographia Polyglotta Vaticana,1983)。(編集部注・この文書の翻訳は、教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『家庭』の日本語版に所載)[Back

76.  教皇庁教理省『安楽死に関する宣言』II(op,cit.,546)。[Back

77. >同IV(op.cit.,551)。 [Back

78.  同参照。[Back

79. 教皇ピオ十二世「国際医師会に対する演説(一九五七年二月二十四日)」III(AAS 49 [1957]147)。教皇庁教理省『安楽死に関する宣言』III(op.cit.,547-548)参照。 [Back

80. 教皇ピオ十二世「国際医師会に対する演説」III(op.cit.,145)。 [Back

81.  同(op.cit.,129-147)、検邪聖省「無罪の人を直接殺害することに関する教令(一九四〇年十二月二日)」(AAS 32[1940]553-554)、教皇パウロ六世「フランスのテレビ局へのメッセージ『すべてのいのちは神聖なもの』(一九七一年一月二十七日」(Insegnamenti IX [1971]57-58)同「国際外科医大学に対する演説(一九七二年六月一日)」(AAS 64 [1972]432ー436)、第二バチカン公会議『現代世界憲章』27参照。[Back

82.  第二バチカン公会議『教会憲章』25参照。[Back

83. 聖アウグスチヌス『神の国』(S. Augustinus,  De Civitate Dei, I, 20 : CCL 47, 22)聖トマス・アクィナス『神学大全』(S. Thomas Aquinas, Summa Theologiae, II-II,q. 6, a. 5)参照。 [Back

84. 教皇庁教理省『安楽死に関する宣言』I(op.cit.,545)、『カトリック教会のカテキズム』二二八一ー二二八三参照。 [Back

85. 聖アウグスチヌス『書簡』(S. Augustinus, Epistula 204,5 : CSEL 57,320)。 [Back

86. 第二バチカン公会議『現代世界憲章』18。 [Back

87.  教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『サルヴィフィチ・ドローリスー苦しみのキリスト教的意味−(一九八四年二月十一日)』14−24(Salvifici doloris : AAS 76 [1984]214ー234)参照。[Back

88. 教皇ヨハネ・パウロニ世回勅『新しい課題』46(op.cit.,850)、教皇ピオ十二世「クリスマスのラジオ・メッセージ(一九四四年十二月二十四日)」(AAS 37 [1945]10ー20)参照。 [Back

89. 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『真理の輝き』97、99(op.cit.,1209-1211)参照。 [Back

90.  教皇庁教理省『生命のはじまりに関する教書』III(op. cit., 98)。[Back

91.  第二バチカン公会議『信教の自由に関する宣言』7(Dignitatis humanae)参照。[Back

92.  聖トマス・アクィナス『神学大全』(S. Thomas Aquinas, Summa Thelogiae, I-II,q. 96,a. 2)参照。[Back

93.  第二バチカン公会議『信教の自由に関する宣言』7参照。[Back

94. 教皇ヨハネ二十三世回勅『パーチェム・イン・テリスー地上の平和−(一九六三年四月十一日)』II(AAS 55[1963]273-274)。ここでの引用は、教皇ピオ十二世「一九四一年の聖霊降臨祭のラジオ・メッセージ(一九四一年六月一日)」(AAS 33[1941]200)からの引用。この話題については次の回勅を参照。教皇ピオ十一世回勅『ミト・ブレネンデル・ゾルゲ(一九三七年三月十四日)』(Mit brennender Sorge : AAS 29 [1937]159)、同回勅『ディヴィニ・レデンプトーリス(一九三七年三月十九日)』III(Divini Redemptoris : AAS 29[1937]79)、教皇ピオ十二世「クリスマスのラジオ・メッセージ(一九四二年十二月二十四日)」(AAS 35 [1943]9-24)。 [Back

95.  教皇ヨハネ二十三世回勅『パーチェム・イン・テリス』II(op.cit.,271)。[Back

96. 聖トマス・アクィナス『神学大全』(Summa Theologiae,I-II, q.93, a. 3, ad 2 um. )。 [Back

97.  同(Ibid., I-II, q. 95, a. 2)。聖トマスは聖アウグスチヌスの次の言葉を引用する。”Non videtur esse lex, quae iusta non fuerit “(聖アウグスチヌス『自由意志論』[S. Augustinus, De libero arbitrio, I, 5, 11: PL 32, 1227])。[Back

98.  教皇庁教理聖省『堕胎に関する教理聖省の宣言』22(op.cit.,744)。[Back

99.  『カトリック教会のカテキズム』一七五三−一七五五、教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『真理の輝き』81−82(op.cit.,1198-1199)参照。[Back

100. 聖アウグスチヌス『ヨハネ福音書講話』(S. Augustinus In Iohannis Evangelium Tractatus,41,10: CCL 36, 363)。教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『真理の輝き』13(op.cit., 1144)参照。 [Back

第四章 

101. 教皇パウロ六世使徒的勧告『福音宣教(一九七五年十二月八日)』14(Evangelii nuntiandi : AAS 68 [1976]13)。 [Back

102. 『ミサ典礼書』拝領前の司式者の祈りを参照。 [Back

103. “Omnem novitatem attulit, semetipsum afferens, qui fuerat annuntiatus “(聖イレネオ『異端反駁』[S. Irenaeus, Adversus haereses, IV, 34, 1 : SCh 100/2,846-847])参照。 [Back

104.  “Peccator inveterascit, recedens a novitate Christi”(聖トマス・アクィナス『ダビデ詩編講話』[S. Thomas Aquinas, In Psalmos Davidis lectura, 6, 5])参照。[Back

105.  ニッサの聖グレゴリオ『真福八端論』(S. Gregorius Nyssenus, De beatitudinibus, Oratio VII : PG 44,1280)。[Back

106.  教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『真理の輝き』116(op.cit.,1224)参照。[Back

107.  教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『新しい課題』37(op.cit.,840)参照。[Back

108.  教皇パウロ六世「一九六七年のクリスマスのメッセージ」(AAS 60 [1968]40)参照。[Back

109.  デイオニシオ・アレオパギテス『神名論』(Pseudo-Dionysius Areopagita, De divinis nominibus 6, 1-3 : PG 3,856-857)。[Back

110.  教皇パウロ六世『死についての考察』(Pensiero alla morte, Istituto Paolo VI, Brescia 1988,24)。[Back

111. 教皇ヨハネ・パウロ二世「イシドロ・バカンヤ、エリザベッタ・カノリ・モーラ、ジャンナ・ベレッタ・モラの列福式における説教(一九九四年四月二十四日)」(L’Osservatore Romano, 25-26 Apr. 1994, 5)。 [Back

112. 同。 [Back

113. 聖ヨハネ・クリゾストモ『マタイ福音書講話』(S. Ioannes Chrysostomus, In Mattaeum, hom. 50, 3 : PG 58, 508)。 [Back

114.  『カトリック教会のカテキズム』二三七二。[Back

115.  教皇ヨハネ・パウロ二世「サントドミンゴにおける第四回ラテンアメリカ司教会議総会に対する演説(一九九二年十月十二日)」15(AAS 85 [1993]819)。[Back

116. 第二バチカン公会議『エキュメニズムに関する教令』12(Unitatis redintegratio)、同『現代世界憲章』90参照。 [Back

117.  教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『家庭』17(op.cit.,100)。[Back

118. 第二バチカン公会議『現代世界憲章』50参照。 [Back

119.  教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『新しい課題』39(op.cit., 842)。[Back

120. 教皇ヨハネ・パウロ二世「『生命と死に対する現代の態度−福音宣教への挑戦』をテーマに開かれたヨーロッパの司教による第七回シンポジウムの参加者への演説(一九八九年十月十七日)」5(Insegnamenti XII 2 [1989]945)。子供たちは聖書の伝統において、まさに神のたまもの(詩編127・3参照)、神の道を歩む人に対する神の祝福のしるし(詩編128・3−4)として与えられる。 [Back

121. 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『真の開発とは』38(op.cit.,565-566)。 [Back

122. 教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『家庭』86(op.cit.,188)。 [Back

123. 教皇パウロ六世使徒的勧告『福音宣教』18(op.cit.,17)。[Back

124. 同20(op.cit.,18)参照。 [Back

125. 第二バチカン公会議『現代世界憲章』24参照。 [Back

126. 教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『新しい課題』17(op.cit.,814)、同回勅『真理の輝き』95ー101(op.cit.,1208-1213)参照。 [Back

127. >教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『新しい課題』24(p.822)。 [Back

128.  教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『家庭』37(op.cit.,128)。[Back

129. 教皇ヨハネ・パウロ二世『世界病者の日を制定する手紙(一九九二年五月十三日』2(Insegnamenti XV, 1 [1992]1410)。 [Back

130.  第二バチカン公会議『現代世界憲章』35、教皇パウロ六世回勅『ポプロールム・プログレシオー諸民族の進歩推進についてー(一九六七年三月二十六日)』15(Populorum progressio : AAS 59 [1967]265)参照。[Back

131. 教皇ヨハネ・パウロ二世『家庭への手紙』13(op.cit.,892)参照。 [Back

132.  教皇ヨハネ・パウロ二世自発教令『ヴィテ・ミステリウム(一九九四年二月十一日)』4(Vitae mysterium: AAS 86 [1994]386-387)。[Back

133. 教皇パウロ六世「女性に向けた第二バチカン公会議閉会のメッセージ(一九六五年十二月八日)」(AAS 58 [1966]13)。 [Back

134. 教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『女性の尊厳と使命』18(op.cit.,1696)。 [Back

135. 教皇ヨハネ・パウロ二世『家庭への手紙』5(op.cit.,872)参照。 [Back

136. 教皇ヨハネ・パウロ二世「『いのちの権利とヨーロッパ』に関する研究部会の参加者に対する演説」(op. cit., 1446-1447)。 [Back

137. 教皇パウロ六世「一九七七年の世界平和の日のメッセージ」(AAS 68[1976]711ー712)。 [Back

結び 

138. イニーの福者グウェリクス『聖母マリアの被昇天についての説教』(Beatus Guerricus D’Igny, In Assumptione B. Mariae,sermo I, 2 : PL 185,188)。 [Back

139. 第二バチカン公会議『教会憲章』5。 [Back

140. 第二バチカン公会議『現代世界憲章』22。 [Back

141. 『ミサ典礼書』復活の主日の続唱。 [Back

142. 第二バチカン公会議『教会憲章』68。 [Back

略号

AASActa Apostolicae Sedis
CCLCorpus Christianorum series Latina 
CCSGCorpus Christianorum series Graeca 
CSELCorpus Scriptorum Ecclesiasticorum Latinorum 
PG Patrologia Graeca 
PL Patrologia Latina 
SCh Source Chrétiennes 

*聖書の引用は原則として日本聖書協会『聖書新共同訳』(一九九四年版)を使用しました。ただし、漢字・仮名の表記は本文に合わせたことをお断りいたします。 

あとがき 

本書は、教皇ヨハネ・パウロ二世が昨年三月二十五日に発表した回勅” Evangelium vitae”の翻訳です。その題名からも分かるように、教皇は本書で「いのち」の尊さの根拠を説き明かし、人工妊娠中絶、安楽死など、現代人が避けてとおることのできない重要な問題に対して確固たる見解を示しています。 

本文は英語から訳出しました。翻訳の労をとってくださった裏辻洋二師(イエズス会司祭)と、多くの貴重な助言をくださった上智大学の青木清教授はじめ生命科学研究所のかたがたに厚くお礼申し上げます。 

一九九六年六月 

カトリック中央協議会出版部 

教皇ヨハネ・パウロ二世回勅 

いのちの福音 

1996年7月15日発行 

日本カトリック司教協議会認可 

訳者 裏辻洋二 

発行 カトリック中央協議会 

東京都江東区潮見2−10−10 日本カトリック会館内 

〒135 � 03-5632-4411 

印刷 株式会社精興社 

事前に当協議会事務局に連絡することを条件に、通常の印刷物を読めない、視覚障害者その他の人のために、録音または拡大による複製を許諾する。ただし、営利を目的とするものは除く。なお点字による複製は著作権法第37条第1項により、いっさい自由である。 

ISBN4-87750-083-9 C0016 

Copyright © 2000—2002 Japan-lifeissues.net Kochi, Japan

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