日本 プロライフ ムーブメント

「選択権」のにがい代償

私は大学生だった時、「間違って出来た子どもを産むな。中絶を合法化せよ」と書かれたバンパーステッカーを自分の車に貼っていた。私はキャンパス内の数少ないフェミニストの一人だった。「中絶する権利」は目に見えた旗印であり、手に届く範囲のはっきりしたゴールだった。女性の誰がそれに反対しただろう? 

しかし今、私は反対する。中絶賛成の立場から反対の立場に変わるプロセスには時間がかかった。そして意図しない妊娠が、破壊的な問題を引き起こすということもわかっている。けれど私は中絶の合法化は間違った解決法、と実感せざるを得ない。 

計画外の妊娠をしてしまった女性が直面するのは「不便さ」以上のものである。学校あるいは職場や家庭での経済的、社会的な、多くの逆境にぶつかる。私達が間違っていたのは、これらの問題に目を向けないで、「その女性自身に非があり、その女性が変わらなければならない」と決めつけていたことである。私達が彼女にアドバイスしたのは、「この手術を受ければ、すべてうまくいくよ」ということだった。 

何という忠告を彼女にしてしまったのか。彼女は手術台に上がり、レイプよりもひどい暴力に耐えなければならなかった。 

これを「女性の選択の権利」とするのは残酷なジョークである。それは、私達女性が自分の人生やキャリアを犠牲にするか、屈辱的で侵略的な手術を受けて子どもを犠牲にするかの、どちらを選んでもいいという権利なのである。なんて恵まれているんだろう!私達は選ぶことができるのだ!そろそろスローガンを修正した方がいいのではないだろうか。「中絶、女性の降参する権利」と。 

もし女性がどちらか一つを選択することを拒否したら、もし人生も赤ちゃんも両方そのままそっくりキープすると主張したら、社会はこれにどう変化しなくてはならないだろうか?どうすれば中絶は必要なくなるだろうか?学校の制度を柔軟にし、パートの仕事や在宅での仕事を増やし、条件の良い養子縁組制度を作り、安全な家族計画の選択肢を増やし、性の責任についてサポートする。これらはほんの一部である。けれど、毎年1,600,000回も女性が中絶手術台に上がっているという現状が続く限り、こういう変化は絶対に起らない。「何百人もの女性が中絶を選んできた」とブラックマン裁判官に言わしめる程に、私達はこの外科手術を代用することに慣れてしまった。私達が望んでこの屈辱的な外科処置を受けている、自分の人生設計を傷付けない為には仕方のない代償だと受け入れている、と思われるのはとんでもないことである。 

百年以上もの間フェミニストは、「中絶とは、女性とその子どもに対する弾圧と暴力に他ならない」と訴え続けてきた。彼女らは中絶のことを、「幼児殺し」(スーザン・B・アントニー)、「女性の格下げ化」(エリザベス・ケイディー・スタントン)、「最も野蛮な行為」(マーガレット・サンガー)、そして「女性の価値の放棄」(シモンヌ・ド・ボアー)と呼んでいた。このような賢明さを、私達はどこで失ってしまったのだろうか? 

中絶は、計画外の妊娠に対処する方法として受け入れられてきており、中絶以外の選択をする女性は何か変わり者で遅れている、自分勝手な人だと見られている。アメリカ全土では、3,000もの妊娠緊急相談センターが、財源もなく承認もされずに、これらの女性を妊娠前でも後でも、住む場所、着る物、医療手当、仕事の研修などの面で助けようと奮闘している。このようなボランティアの人達は、特に「赤ちゃんは要らない」と言われる貧しい女性達に「彼女達は中絶するべきだ」とする動きと戦わなければならない。このままでは中絶賛成者により、女性が力づくで中絶されるようになる恐ろしい日を招くだろう。そしてその日は近い。 

更に恐ろしいことは、中絶を支持するということは、フェミニズムの奥深くのいくつかの価値を毒してしまう、ということである。例えば「胎児を認めない」とする裏付けから生じる言葉は、それを女性に当てはめてみると、とんでもないことになるのである。「小さすぎる」「必要とされていない」「障害を持っている可能性がある」「虐待されるかもしれない」。女性とは多くの場合、小さかったり不必要だったり障害があったり虐待されたりするではないか。このような要素が、人格を否定してしまって良いと、本当に思うのだろうか? 

最後に、まだ私達が考えたことのない、更に恐ろしい中絶の犠牲がある。これまで私達は胎児を失うということを、悲しいけれど避けられない喪失、戦争の犠牲者と同じような感覚の、論理的な喪失としてしか扱っていない。ここで気づかれていないのは、失われた子どもというのが敵の子どもでも隣人の子どもでもなく、自分自身の子どもだということである。失われるのは不活発な形のないただの組織ではなく、歴史上一人しかいない発育中の人間なのである。受精した一つの細胞は、新しい個人であり、例えば青い目をした背の高い、おじいさんの赤い髪とイーダ大叔母さんの美しい歌声を受け継いだ女の子の、今現在の姿なのである。どの家族を見ても、特徴や性格が、流れのように代々受け継がれているのがわかるであろう。私達の子どもはそうではないといえるだろうか? 

ヴェルディーのオペラ「トロヴァトーレ」に出てくるジプシーのように、私達は自分のフラストレーションが高まると、自暴自棄の行動に出てしまう。裁判官の無慈悲な判決に怒り、彼女は彼の子どもを奪い、復讐に気が狂い、その子を火の中に放りこんでしまう。あるいは彼女はそう思ったのだ。何故なら振り返えってみると、彼女の後ろには裁判官の子どもが安全に寝ていたから。彼女が火の中に放りこんだのは、自分の子どもだったのである。それを知った時の衝撃は、彼女と同じ位、私達にとっても破壊的なものとなる。 

その時がくるまで、合法化された中絶により、私達は一日に4,500回も、それを繰り返していくのであろうか。 

Green, Frederica (グリーン・フレデリカ)
Copyright © 2005.1.23.許可を得て複製