日本 プロライフ ムーブメント

多様性を認めて神の国が豊かになる

マルコ9:38-43,45,47-48

信徒の皆さんは、司祭の異動を通して次の経験をしたことがあるでしょう。「前の神父様はこうしていたけれども、今度の神父様は違う仕方をする。」ここで信徒の皆さんが偉いなぁと思うのは、以前のやり方と今度の神父様のやり方が違っていても、徐々に合わせてくれるという点です。

「前の神父様のやり方しか受け入れない」ではなく、「今度の神父様のやり方でも、教会を前に進めていこう」その精神が偉いなぁと思うのです。今週の福音朗読はまさにそうした体験と重なる出来事が起こっています。

「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』」(9・38)当時、教会共同体があちこちで生まれてくる中で、「自分たちと違う」「これまでと違う」そういう違和感を覚えた共同体とぶつかっています。

しかしイエスの答えは違っていました。「やめさせてはならない。(中略)わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」(9・39-40)違いを、認め合うことで、どんな集まりでも豊かになっていくのです。それは教会共同体でも全く同じです。

皆さんがすでに体験したことを一つ、例に挙げましょう。聖書愛読運動は、長崎教区で取り組んで22年になりますが、どの書物を、どのように読むのか、二年前と去年からの取り組みとは全く違うでしょう。「前までの取り組みと違うのでやめさせようとしました」と考えますか?決してそうは思わないでしょう。

むしろ、「こんな聖書愛読の仕方もあるんだなぁ」と、豊かさを味わうまたとない機会になっていると思います。主任司祭は小教区を三つ回っていますが、それぞれ、どの書物を読むか、どのように取り組むか、違いがあります。それは混乱をもたらすものではなく、確かに豊かさをもたらし、聖書に親しみを持つ機会となっているのです。

違いがあるところでは、時に摩擦を生むかも知れません。お互いに、「自分たちのやり方が絶対良い」とさえ言い出す人が現れるかも知れません。けれども、違うということに、少し窓を開いてもらえないでしょうか。自分と違う人に少し心を開くと、「どうすればお互いの良いところを活かせるか」考えるようになるでしょう。それは豊かさを生む鍵だと思うのです。

こちらに住んで、景色はさほど特別とは感じませんが、石垣は立派だなぁと感じることがあります。武家屋敷通りとか、立派ですよね。石垣を積み上げている石は、もちろん一つずつ、少しずつ違いがあります。違いを見極めながら、かつて職人たちが石を積み、立派な石垣に仕上げたのです。人工の石垣にはない美しさと強さが、それぞれ違う石を積み上げた石垣の素晴らしさです。

教会に集まる皆さんも、一人一人、違っています。もし違いを認めないなら、偏った教会家族になり、もろさを晒してしまうでしょう。違いを認め、活かし合うのは難しいことですが、最後に一つの家族にしてくださるのはイエスです。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と仰ったイエスが、今日も、この教会を豊かにしてくれます。

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ちょっとひとやすみ

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▼一つずつ覚えていく。一度に一つしか覚えられない。場合によっては一つ覚える間に一つ抜けたり忘れたりする。それは同時に迷惑をかける原因となる。「あれもこれも、同時にしてほしい。」悲しいけれども、今の自分には一度に二つも三つも期待されるのは荷が重すぎる。

▼神様の愛、あふれ出る愛を、私たちは受けて満たされ、養われていく。しかし私たちの器はそれぞれ違う。あふれ出る神様の愛を、うまく受けとめる形になっていないかもしれない。教会共同体に、器の形、器の大きさが違う人たちが集まれば、神様の愛をその教会家族は豊かに受けることができる。

▼教会には多様な「味方」が必要なのだから、多様な人に集まってもらうために多様な「見方」も必要だ。紋切り型の物の「見方」では、多種多様な「味方」を集められないのではないか。

Nakada Kouji (ナカダ コウジ )
中田輝次
カトリック福江教会

出典 こうじ神父のブログ  年間第26主日 

https://ameblo.jp/thomasknkouji/entry-12869035014.html

Copyright © 2024年9月28日(No.1317)

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