予期せぬ危機的な妊娠とキリストの手

Wilkinson, R. (ウィルクンャ刀Eランディー)
許可を得て複製

「どうして大事な我が子を殺すなどできるのでしょうか。中絶は明らかに殺人なのです。」と、ベブはそう言ったし、その気持ちに偽りはありませんでした。

そのような時に、15歳になる彼女の娘が妊娠したのです。

「どうして私の幼い娘に子どもなんて産むことができるでしょうか。中絶なんてただ少し組織を取ってしまうだけのことよ。」と、ベブが言うのを聞いて、私は耳を疑いました。

ベブ・グリーンは私が牧師補をしている教会の熱心な信者です。彼女の信仰は本物で、信念もしっかりしたものです。「生きる権利を求める会」の支部長として、私はいろいろなプロジェクトで彼女に協力を求めてきました。

ですから、彼女の身内に起きた、この妊娠に対する彼女の対応が、なぜそんなに私にとってショックだったのかお分りいただけると思います。しかしながら、彼女の対応は、私達が成人して、中絶反対運動をしたり神の慈悲を教える聖職者になった時に、私達みんなが学ばなければならない大切な教訓も同時に教えてくれたのです。

「この話には大勢の登場人物がいます。子どもの母親、父親、家族、ベブの夫などです。しかし、ベブを主人公にして話させてください。」

ベブと接するようになって、私がそれまですっかり軽蔑するようになっていた否定や、遠回しな言い方や、都合のよさに関する議論にぶつかりました。実際、人が中絶合法化をマインドコントロールされている時、自分にはその嘘を暴けるくらいの専門的知識はあると、私は自負していました。しかし驚いたことに、ベブが身内の予期せぬ妊娠で今までの言い方を変えた時、彼女がなぜそのようなことを言ったか分かってきて、哀れむ気持ちがわいてきたのです。もちろん、私は腹を立てていましたが、それはベブに対してではありません。ベブをそそのかし、首尾よく事が運んでいると思ったに違いない相手に、私は腹を立てていたのです。彼は、それまでに数限りないほど、そうやって騙してきているのです。

ベブが娘の中絶を主張しているのを初め聞いた時、私は彼女と話し合うつもりでいました。

「事実をもう一度聞けば、彼女はきっと考え直すに違いないわ。」と私は思いました。しかしその時、神は私にその妊娠との関連で生じる恐れ、ストレス、怒り、自暴自棄、裏切り、もろさ、失敗などの心理状態を、垣間見せてくれたのです。ベブは神に見放されていると心の底から感じていました。一方で、この事態を打開するのは自分しかいないという責任感を強く感じながら、もう一方で、ことの重大さに全く対処できないという無力感を抱いていました。どのような話し方をしても、こういう場合には何の役にも立たないことを私は知りました。

このように精神的に激しく動揺している時に、子どもができたという事実よりも、「問題」が起きたという事実の方が、ペプに重くのしかかったのです。苦しみの最中にいて、彼女は道徳的に正しいことでなく、最も苦しまなくて済む方法を、捜し求めたのです。「妊娠を中断させる」という言葉は事実を隠そうとして計算された考えではなく、正気を失わないための必死の策として使われたのです。自分の手に負えない状況で、ベブの娘のお腹にいる子どもは「組織の塊」として見られたのですが、それは子どもの人間性を残酷にも否定することからそうなったのではないのです。もしベブがどうにもできない状況の中で何かしようとするならば、そう表現することが必要だったのです。彼女は自分が赤ん坊を育てなければならないことを知っていました。夫や娘はほとんどあるいは全く何もしてくれないだろうということも知っていました。

中絶反対運動の最前線で闘っている人達は、毎日、このような心理状態を扱っています。彼らは予定しなかった妊娠に直面して、傷つき苦悩する女性や家族と絶えず向き合っています。私自身は、この闘いに教育面、立法面で関わってきたので、私はまだ私達が扱っている獣の本性をわからずにいました。今回のベブの対応で、私は新たに、おぼろげながら「欺瞞」の実体がわかったのです。

精神的、感情的大混乱の中で、悩み苦しんでいる人達に、嘘はたやすく根をおろします。それは、その嘘が思いもよらないことを考えつかせるすべを与えるからなのです。危機的状況の搬中にいる人達にとっては、思いもよらないことが唯一解決策のように思えるのです。この場合、欺瞞の前には、ベブの信仰や信念などは、全く無力だったのです。心の奥底では何が正しいのか分かっていながら、あまりにも 事態が大きすぎて、彼女は間違いだと分かっている方を選んでしまったのです。「中絶(この言葉を自分の日記で使うことにベブは耐えられないのですが、)の傷のほうが、何もしないでいる傷よりも治りやすいだろう。」と、絶望の声がベブの心の中でしだいに大きくなるにつれて、今の事態を打開しようとする思いが道徳的な信念に優先したのです。

この叫びを黙らせることができるのは神の穏やかな声だけでした。神は、彼女が事態を切り抜けれることを説得しはじめました。神は、自分が彼女のすぐそばにいることを教えました。神は彼女の娘と孫の面倒をみることを約束しました。おそらく最も大事なことでしょうが、彼女は落伍者などではなく、神にとって特別な人なのだと、神は彼女に告げました。ベブは「生命」を選び、そのことを神に感謝しています。

私が受けた教訓とは、絶対に、中絶は間違っているという信念を揺らがせてはいけないということです。しかし、他の人が精神的な混乱の中にいて同じ信念を持てなかったり、その信念をしっかりつかんでいることができない時に、忍耐力を失わずにいることはできません。時には、これは決まりきった、白か黒かの問題だと私たちが主張することで、その人を取り巻くさまざまな要因や感情に気持ちが捉われている人達を遠ざける結果になることもあります。ベブは本物の精神的なジレンマに陥っていたのです。「それは間違いだ。」という簡潔な答えだけでは、彼女の救いにはならなかったのです。彼女は、自分に子どもが育てられるという自信が、欲しかったのです。クリスチャン仲間からの白い目にも対処できると信じる必要があったのです。彼女の夫に、気持ちの面でも実生活の面でも、助けてもらえるという安心感が欲しかったのです。自分は一人ではないと、実感したかったのです。

ベブはそれ以来何度か、「私が、大事な可愛いこの子を殺したいと思ったなんて信じられない。」と、私に話したことがあります。実際に、彼女が子どもを殺したいと思ったのではないのです。悪魔が自分の思いを遂げようと、この怯えて苦しんでいる中絶反対論者を利用したのです。彼女に必要だったのは、砂のようにもろい境遇と感情から真実と神の愛があふれるしっかりした大地へ、ゆっくりと自分を導いてくれる誰かだったのです。彼女の信念は命綱としてずっとそこにあったのです。しかし、彼女が自分自身でそのことを分かり、つかみ取ることができないくらい、彼女の周りの状況が彼女を苦しめたのです。こんな時こそ、私達がそこにいて手を差し伸べるべきなのです。

キリストは、井戸のところにいる女性に、姦淫の悪に関して教えることはしませんでした。その代わりに、どこで生きていくための水が手に入るかを告げました。この水こそ、予期せぬ妊娠に直面している女性や家族がもっとも必要としているものなのです。

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