ヒトクロ−ニング

Watt, Helen (ワット・ヘレン)
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

ヒトクロ−ニングは、他の誰かの人間の遺伝的なコピ−を作ることです。細胞の中心部分である核には、遺伝物質のほとんどが含まれています。クロ−ニングにおいては、体細胞(たとえば皮膚の細胞)の核が、未受精卵の核に置き換えるために用いられます。活性化によって、胚が作られ、その胚は核が採取された個人のクロ−ンまたはその双子となります。その胚を私たちがどのように扱いたいかによって、クロ−ニングは「生殖目的の」とか「治療目的の」とか呼ばれます。しかしながら、クロ−ンを作るための最初の技術は同じものになるでしょう。胚性の人間のクロ−ンを作ったという主張が確かになされてはいますが、誰かがすでに作ったかどうかはまだ明らかではありません。

クロ−ンを女性の体内に移し、それを生まれさせることが目的であるならば、「生殖目的の」クロ−ニングが起きることになるでしょう。体の一部を手に入れる目的でクロ−ンを破壊することが目的であるなら、「治療目的の」クロ−ニングが起きることになるでしょう。私たちが手に入れたいと思っているものは、胚の中心にある幹細胞で、これらの細胞が取り出されたとき胚は死ぬことになります。その細胞は、ある病状の人々に移植する可能性を研究するために利用することができるでしょう。幹細胞は万能の細胞であり、個々の患者によって必要とされる種類の細胞に分化することが期待されています。しかし、大人の骨髄や出産のときに捨てずに取っておいた臍帯のような胚を用いずに幹細胞を得る方法がほかにあるのです。

イギリス政府は最近治療目的のクロ−ニングに賛成の決定を下しましたが、それはそのようなクロ−ニングを勧めるドナルドソンレポ−トの発表と一致する動きでした。しかしながら、政府の提案に関しては、国会では自由投票が行なわれるでしょう。政府は生殖目的のクロ−ニングには反対だとの見解を発表しましたが、多くの科学者は自分たちの意見を述べる番になると、生殖目的のクロ−ニングは避けられない運命だと言っています。 クロ−ニング論争の背景を簡単に述べるのはこのくらいにしておきましょう。ここでの道徳的な問題は何でしょうか。胚とは何でしょうか。そして胚を単なる細胞の供給源として扱うことは正しいことでしょうか。いのちを創造する方法としてのクロ−ニングには本質的に問題があるでしょうか。人間とは何であるかというもっと根本的な問題に帰ることなくこれらの問いに答えることはできません。

人間

キリスト教の教えと、全ての二元論でない哲学においては、人間とは肉体を持った存在であり、単に精神的な存在ではありません。私たちは天使でもなければ、幽霊でもありません。私たちは生きた人間という統一体または有機体であり、一生の間に連続的な段階を経ていきます。もちろんキリスト教徒も魂の存在を信じていますが、魂は単なる思考するものでなく、肉体の生命原理、つまり肉体を生きさせているものなのです。したがって、人間の魂をもたない人間の生きた肉体が存在することはありえないのです。魂がいつ始まるか(そして人間がいつ始まるか)を見いだすためには、いつ生きた人間が存在を始めるかを発見すれば十分なのです。

生きた人間の肉体が単細胞期から存在するということには現在十分な証拠があります。アクイナスが信じたように、私たちはもはや精子が経血に作用することによってなんらかの種類の人間ではないいのちが形成されるとは信じていないのです。胚は全く人間なのです。それはなんらかの漠然とした植物的なものでもなければ、漠然とした動物的なものでもないのです。それは理性を有する種類の存在である人間という有機体、健康で成熟したときに理性をもつ存在なのです。言い換えればそれは人なのです。

このような考え方に反対の主張もありますが、その主張はよく調べてみると妥当なものではありません。胚は双子になるのだから一個人とはなりえないと主張する人もいます。クロ−ニングは、単にそれだけなら、このような議論が起きないと希望的に考える人もいます。しかし、今までにも増して、生きた個人が新しい個人を生じさせることができ、その時点で「親」となる個人は破壊されるか、その子孫と共存することになるということが明らかになっているのです。植物は若芽を生じさせることができます。アメ−バも新しいアメ−バを生じさせることができます。羊もクロ−ンを生じさせることができます。人間の胚の場合、ある環境においては胚が2つに分裂して破壊されてしまうかもしれないという事実は、もっと条件のよい環境においても胚は正常に発達できないということを意味するものではありません。受胎産物が望ましい環境にあればのちに発達して人間になる可能性があるとすれば、現状況がどうであれその受胎産物自身が人間なのです。それが精子と卵子であれ卵子と核であれ、その受胎産物が作られたもとの生きている体の一部とは違って、生きている人間の統一体としての非常に異なった能力を持っているのです。その細胞が依然としてさまざまなものに変わることができ、異なった種類の組織を、あるいはもしかすれば新しい人間を作るために利用できるという事実は、これらの細胞が生きている人間の一部を形成しつつあるということを意味しているのです。

胚はその物理的な外観から人間としてのステイタスを持つことはできないと主張する人がいます。初期の胚は実際非常に小さいものです。それはまたその構造や形においてもっと成長した人間と全く違っています。ひとたびそれがどのような姿をしていて何ができるかということがわかれば、胎児のことを理解することはかなり易しくなるでしょうが、初期のヒト胚ほど異なった外観をしているもののことを理解することはずっと難しいでしょう。

このような考えは感情的に訴える強い力を持っていますが、理性に訴える力はほとんどありません。人間としての私たちの権利は、私たちの外観によるのではなく私たちの存在そのものによるのです。たとえば、あまり可愛くない赤ん坊が、他の子どもたちよりも魅力が少ないからという理由で「人間でない」ものとして扱われるなら、それは全く受け入れられないことでしょう。同じように、外観が受け入れがたいから胚は人間以下のものであるということは認めることのできないことです。人間は人間としての有機体で、他の生物と同じように異なった段階を経ていくものです。いも虫は、それが成長してなる蝶と同じ虫なのです。同様に胚は、その外観が非常に異なった段階を経ていくけれども、胎児、幼児、そして大人と同じ人間なのです。たとえば、胚胞壁の原条は、無から生じるわけでなく、胚そのものによって注意深く作られたものです。一つの段階は次の段階へとつながっていきます。突然の中断はないのです。

胚は、自然に流産することがあるので、人間としてのステイタスを持ちえないと主張する人々もいます。しかしながら、多くの人間は、自然的な原因によって危険にさらされていても、人間としての権利を持っているのです。貧しい国の赤ん坊も、生存する可能性の高いイギリスの赤ん坊と同じ人間としての倫理的なステイタスを持っているのです。早く死ぬかもしれない赤ん坊であっても、ケアが必要なのであって、そのいのちがすでに危険な状態にあるからという理由で意図的に殺されることは決して許されないのです。

私たちが人間のいのちを終わらせるとき、私たちはその人間から価値あるもの、つまりどんなに長くても短くてもその人の未来を奪うことになります。もちろん胚はこのようなことが起こっていることを認識できませんが、それでも未来が奪われるのです。何かに興味を持つために何かに興味を持つ必要はありません。知ろうと知るまいと、私たちは自分の利益になることに興味を持つのです。私たちが持つ興味の一つは、いのちに対する興味、つまりこの世界における私たちの存在に固有の善に対する興味です。臓器のために赤ん坊をタ−ゲットにしないように、新生児においてこの興味が尊重されなければならないのと同じように、そのことはいのちが芽生えるやいなや全ての人間において尊重されなければならないのです。倫理的に人間以下に位置付けられる生きた人間などというものは存在しません。普通の受胎であれクロ−ニングであれ、生まれたばかりの人間は、いのちが芽生えた瞬間から自分の未来に幸福に関する関心と権利を持っているのです。

生殖目的のクロ−ニング

ヒトのクロ−ニングによって提起される倫理上の問題には、他にどんなものがあるでしょうか?胚がどのように扱われるかという問題は別にしても、胚がどのように作られるかという関連した問題が存在します。このことを議論するには、おそらく「生殖目的の」クロ−ニングの場合を見ればよいでしょう。その場合、クロ−ンは出産予定日までずっと育てる目的で作られることになるでしょう。このような目的でクロ−ンを作ることには、もしあるとすれば、どのような問題があるでしょうか?

クロ−ンを女性の体内に移し生まれさせる生殖目的のクロ−ニングには、依然として多くの人が難色を示しています。しかし、この種のクロ−ニングを擁護し始めている哲学者や科学者もいます。遺伝子的につながりのある子どもを持つことが全く望めない男性にとってクロ−ニングは唯一の方法であるかもしれないと指摘する学者もいます。彼らはまた、クロ−ニングによって、遺伝的な病気を持つ人たちがその病気を子どもたちに伝えることを回避できるかもしれないと指摘しています。クロ−ニングは、男性から遺伝物質をもらわなくても、独身の女性または女性の同性愛者たちが子どもを産む方法になり得るとも言われています。私たちが複製したいと思う人と全く同一のコピ−を得る手段としてのみ、クロ−ニングを擁護する人もいます。たとえば子どもを失った親が、その子を「再生する」目的でクロ−ンを作ることもできるでしょう。

倫理上の観点から、治療目的のクロ−ニングほど悪いものでなくても、生殖目的のクロ−ニングはやはり非常に間違ったものです。まず、作られる子どもたちや子どもたちを妊娠する女性たちへの医学上のリスクのために、間違っていると言えるでしょう。生存している一頭の羊ドリ−を作るために、277の胚が作られたのです。明らかに、一つの胚が生き残り赤ん坊として生まれるために、277のヒトクロ−ンを作ることは倫理に反することでしょう。

クロ−ニングは生産手段となるでしょう。そしてその理由のために、体外受精の場合と同じような考え方を人間が作り出したものに対してする結果になる可能性があります。残念ながら体外受精の胚が大切に育てられ保護される権利を持った新しい人間としてより、生産物または親の所有物として扱われているというのが実情です。体外受精の胚が過剰に作られ、「余り」や異常なものは捨てられるのと全く同じように、クロ−ン胚の場合でも同じことが起こる可能性があります。実際、クロ−ン胚の方に異常がより多く発生するということが真実であれば、異常を理由にクロ−ン胚が捨てられる可能性はずっと高くなるでしょう。

しかしながら、クロ−ニングは、他の人間と遺伝的に同一の人間を作り出すことに関して、さらなる問題を引き起こします。子どもが健全な精神の発達をするためには、親とも他人とも異なった別の人間であると子どもが感じる必要があります。通常の人の生殖には、セックスそのものの段階においてばかりでなく受精の段階においても、貴重で象徴的な意味があります。新たな別の個体を作るための両親の遺伝物質の融合は、それが血のつながりの象徴として、同時に違いの象徴として起こります。子どものいのちが新たな始まりであると同時に過去のおかげで存在するのとちょうど同じように、子どもは両親と遺伝的につながりがあっても、遺伝的に独特なものなのです。

子どもは身体や外見が両親と異なっているばかりでなく、(一卵性双生児の場合を除いて)兄弟姉妹とも異なっています。子どもの性格や体格の予測は不可能だという、生殖の不測の性質は、子どもにとっても親にとっても貴重な意味を持っているのです。遺伝的に新しいものであるということと予測が不可能だということは、よき親であることと子どもが健全に発達するということが持つ進歩的で柔軟な性質、つまり親と子がある種の新鮮さと自由を持って人生を生きるべき方法を考えさせるものとしての役割を果たします。

親であることは、子どもに対して「自分の枠から出て」いくこと、つまり違いを認めることが必要ですし、そうあるべきです。しかしながら、親は、子どもの特性を過度にコントロ−ルし、ただ自分自身の要求をいかにうまく子どもたちが満たすかで子どもたちを評価する誘惑にかられます。そもそもクロ−ニングには親の管理が非常に多く関与しているので、クロ−ニングは親がこの誘惑から逃れる手立てを何も与えてはくれないでしょう。自然な生殖の場合でさえ、子どもは親と違った別個の独自性を確立するために必死で努力しなければならないことが多々あるでしょう。子どもが、社会的な親あるいは親が再生を望んでいる人と遺伝子が同一である場合には、さらにどれだけの努力が必要とされるでしょうか?

クロ−ンは自然界で一卵性双生児の形で見つかり、そしてそれには何も不具合なところはないというのは、異議を唱えられるかもしれません。実際一卵性双生児が別個の独自性を十分に認めずに育てられれば、社会的個人的発達に問題が起きることがあるのです。そのような問題はクロ−ニングの場合には確かに起きやすくなるでしょう。それは、一卵性双生児の場合には意図的に同一に作られたのではないのに対して、クロ−ンの場合には他の誰かに似せるために少なくともある程度はそうであるからなのです。ふたりの人間の類似点を確実にするためにクロ−ニングのようなことまでする人々は、まさにその事実によって、ふたりの人間が非常によく似ていてほしいという彼らの願いを表しているのです。

クロ−ンとオリジナルの年齢差は問題を悪化させるでしょう。クロ−ンは、好ましいものであろうとなかろうと、ある特徴を持ったオリジナルの人を見て、このすでに存在している人と一緒にいるとそわそわした気持ちを感じることでしょう。同様に、オリジナルの人間も、自分とクロ−ンを比較したい気持ちになるでしょう。たとえクロ−ンが、クロ−ン同士やオリジナルの人と全く会うことが無くても、遺伝子が同一の人が存在したということを知るだけで、クロ−ンとオリジナルの人間両方に不完全感を与え、少なくともある程度それぞれの人生に集中できなくなるだろうと思われます。

オリジナルの人間に酷似しているということによって子どもが抱く困惑感は、血統に関する混乱によってさらに複雑なものになるでしょう。卵子や精子の提供による体外受精の場合には、子どもは遺伝上の一方の親あるいは両方の親を奪われますが、クロ−ニングの場合には、奪うことのできる、一般的な意味での遺伝上の親さえいないのです。性別の違う2人の人間がクロ−ンを作るのに使われた場合でさえ、クロ−ンには一般的な意味での遺伝上の親は文字通り存在しないのです。その代わりに子どもは、核の提供者や核を取り除かれた卵子の提供者を1人かまたは複数人持つことになるでしょう。クロ−ニングは、性別の違う2人の人間がもはや必要とされないという意味において、体外受精よりもより極端な意味で性に無関係なのです。したがって独身の女性が自分自身の遺伝物質だけを使って子どもを産むことが可能なのです。つまりそれは自己陶酔とは言えないまでも、著しく孤独な出産形態です。女性同性愛者のカップルが、一方の女性からの核ともう一方からの核の無い卵子を使って子どもを産むことも可能でしょう。これらのどちらの場合においても、偶然によってではなく意図的な選択によって、子どもは社会的な父親も遺伝的な父親も奪われてしまうでしょう。社会的な父親も遺伝的な父親も奪われてしまった子どもが、妊娠にも出産後のケアにも関与しなかった性との関係において望ましい影響を受けるだろうと主張することは難しいでしょう。

結論

最後に治療目的のクロ−ニングに話を戻すと、クロ−ン胚を関心のある研究者に特に手に入れやすくさせるのは、まぎれもなくこの遺伝上の親の欠如です。少なくとも体外受精の親の中には胚に対して親としての関心を持つ人がいますが、クロ−ンが作られた元の人たちは親のような気持ちには全くならないでしょう。もちろん、クロ−ンを作るには卵子が必要ですが、女性は現在研究用の胚を作るために卵子を提供するにはかなり抵抗があります。このために、研究者が中絶された女性の胎児から採取した卵子を使うようになる可能性が現実に存在しているのです。中絶を考えている女性に、中絶された胎児を研究に使うことに同意してくれるように依頼することがすでに行なわれています。特に、胎児の卵子はすでに研究に使用されているので、再び使用されるようになるのは間違いないでしょう。

結びに当たって、クロ−ニングは体外受精や同様の処置によって引き起こされる全ての問題と、加えてそれ自体の問題をも引き起こします。したがって、「治療目的」であっても「生殖目的」であっても、クロ−ニングは避けるべきです。クロ−ニングは、前もって決められた設計書に従って子どもを作ることです。つまり本当の意味での遺伝上の親を持たない子どもを作ることなのです。誰かが使うための幹細胞を提供するために、作られた子どもが実験室で死ぬとすれば、このことを進歩と呼ぶことはほとんどできないでしょう。胚は医学や科学の研究のための原料ではないのです。それらは、そのいのちも肉体も尊重されるべき幼い人間なのです。これが実情であるとの確信が持てないヒトは、そうであるかのように行動したほうがよいでしょう。もし胚が人間である可能性が十分ありさえすれば、そして少なくともそのようなのですが、クロ−ンや胚に関する研究は全廃すべきです。

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