「涙を流す石」
日米中絶事情の比較

第五章 日米における妊娠中絶の実施及び傾向の比較

A.日米における妊娠中絶に関するデータ及び実施の比較

日本及びアメリカで今日妊娠中絶を実施するにあたっては6つの重要な類似点と4つの重要な相違点がある。まず最初の類似点は、日米どちらの国においても妊娠中絶に関する政府の「公式」発表はいくぶん情報が控えめになっているということである。歴史的にみても民間の家族計画産業がより信頼できる統計を提供していたという主な理由から、アメリカではこの問題はそれほど重要視されてこなかった。だが日米両国とも控えめな数字を発表しているにもかかわらず、中絶の件数、割合、比率は実は非常に高く報告されているのである。それは他のどの先進国よりも高い数字である。

2番目に、日本の妊娠中絶の件数はアメリカの実体に比べて一世代ほど先行しているという点があげられる。日本では公式発表された中絶の件数と独自に算出された数字がここ数年共にゆっくりではあるが安定して減少を続けている。アメリカの中絶件数は水平線のままである。これからみると、アメリカは日本が築いてきた歴史的パターンをそのままたどってきているように思える。つまり、自由な中絶政策が採用されてからの初めの10年間は中絶件数が劇的に増加し、その次の10年間で妊娠中絶をする権利が安定し、そしてその後の25年間で中絶率が徐々に減少していくというパターンである。

3番目は、任意の妊娠中絶が合法化されてからは養子縁組に出される子どもの数が日本でもアメリカでも急激に減ったという点である。要するに黙認された自由な中絶政策が養子縁組に与える影響というのは日本でもアメリカでも同じなのであった。つまり破壊的なのである。「必要とされない」子どもをどうするかというジレンマに陥った時には当然養子縁組に出すより中絶を選ぶのは日米でも同じである。必要とされていない重荷を処理するためには確かに養子として引き取ってくれる他の家庭を探すことより手っ取り早く面倒がかからない。これからわかるように、両国において法的政策及びその実施は、いずれ将来の世代を最も必要とするであろう有権者及び消費者が現在の世代の都合を最優先させている実体を描いている。

4番目に日米両国における国の政策が暗黙のうちに中絶をバース・コントロールの一手段として認めている点があげられる。どちらの国においても中絶を複数回受けることに何の制限もなく、その件数は両国とも増す一方である。つまり日米の家族計画政策は、避妊の失敗や不使用を補う「安全網」としての妊娠中絶を認めている。

5番目は日米両国における妊娠中絶法が実質的には政策をえり好みすることができ、医療関係者達の経済利益を高めている点である。どちらの国でも医者は妊娠中絶関連のサービスを独占したがるものだ。中絶はそれだけ手っ取り早くカネになる医療サービスなのである。両国に設立されている医療機関は、妊娠中絶を大幅に制限したり、規制することになるような変化を現行の法に加えたいとは考えていない。

6番目には、どちらの国でも有りとあらゆる理由で妊娠中絶を許可したり反対に禁止したりすることを人々が望まないという点があげられる。どちらかというと両国の人々は「困難な状況」にある場合のみ中絶を認めたがり、社会的、財政的理由による中絶には反対である。

7番目にあげられる日米間の最も顕著な違いは性関係、及び結婚関係における責任感に見られる。日本では中絶件数の70%を既婚女性によって占められているが、このことからもわかるように妊娠中絶は主に家族の人数を制限するために行なわれている。つまり、夫婦が二、三人以上の子どもを持つことがないようにコントロールし、社会的にも受け入れられるようにするために、妊娠中絶は社会的にも認められている手段なのである。安全とされながらも効果の少ない避妊具しかない国においては、これは家族計画を支えるための「頼みの綱」なのである。もっと信頼できる避妊具が存在することには違いないのだが、非常に危険な可能性もあり、歴史的に見てもその手段はずっと違法とされてきたのである。ダルコンシールドーIUDの大失敗にみられるように、アメリカでは危険な避妊具に対する規制はそれほど厳しくない。避妊具が簡単に手に入らないことや妊娠中絶の合法性からみても、それだけでは中絶が黙認されているという事実を説明できない。アメリカの場合は中絶を受ける女性の80%が独身女性だという状況からもわかるように、妊娠中絶の一番の理由は結婚生活や親としての責任から逃れようという気持ちが働くためである。つまり、彼らにとって中絶は一石二鳥なのである。女性は結婚生活外や娯楽としてのセックスをすることが出来、それと同時に自分や相手に不都合な場合には子どもを生まなくてもすむのである。日米どちらの国においても中絶を一回以上受ける人の割合と数が非常に高くなってきている。アメリカで全中絶件数のうち半分、日本で三分の二にまで達している。要するに両国において中絶はバースコントロールの「頼みの綱」として都合のいいように使われているということがわかる。

8番目は妊娠中絶に対するインパクトがアメリカと日本で異なる点である。日本では中絶によって私生児の出生件数とその割合が半分に減少した。ところがアメリカの場合はロー対ウェイド判決以降その数は倍増している。これにはいくつかの理由があげられる。結婚前に性行為を持つことに対する考え方が文化的に違うことがまずあげられるし、私生児が社会的に受け入れられやすいアメリカと、結婚外の出産に対する世間の冷たい目を気にする日本の違いもあげられる。さらに、日本には家族に与える影響や社会的道徳など結婚外に性関係を持つことをやめさせるような強い文化的な力が存在する。反対にアメリカでは、伝統的な力が結婚外の性行為の減少に働かないばかりか、若者に人気の文化やメディアがその行為を肯定的に受け止めている。最後に、日本の中絶法には中絶が深刻な問題であるというメッセージが込められており、中絶が必要となるような状況に追い込んだというジレンマそのものが深刻な問題であることが記されている。アメリカでは、個人尊重主義を未熟な人間の中には「自分のやりたいことは何でもできる」という間違ったとらえ方をする人もおり、それが性行為や親としての自分に責任を持てなくしている。

9番目は、日本では94%が最後の生理が終わってから11週目までに妊娠中絶を行うのに対してアメリカの場合は90%が12週目まで行っているという違いである。つまり、妊娠後半の中絶率はアメリカが日本の約二倍にもなるということである。

10番目は未成年者が中絶を行う件数及び割合の違いである。日本ではその数が増えてはいるものの、アメリカの統計に比べたらほんの少しにしかならないという点だ。アメリカでは若者のセックスがもてはやされているなどの文化的理由からも、十代の若者が中絶する件数はアメリカの方が日本よりもずっと多い。アメリカの家族計画産業は、性行動が活発な若者の中絶が、十代の性的無秩序になんらかの解決策に導くのではないかと見ている。日本では十代の若者の中絶が増加していることに強い懸念を示しており、よって中絶は未成年には勧められていない。

B.日米における中絶に対する考え方の比較

中絶及び中絶法が日米両国でどのように受け入れられ正当化されているかは幅広い社会的価値観によって決まる。以下にあげる四つの根本的な価値観の比較は注目に値する。まず最初にあげられる日米の中絶正当化に対する概念的違いは、個人のいのちを平等とする社会の価値観によるものである。日本はその歴史から見て階層制度の、タテ社会であった。それに対してアメリカは平等主義のヨコ社会をずっと追い求めてきた。そのため日本では中絶を正当化するのにも人のいのちにランク付けをする階層制度を採用していた。例えば、母親の生活レベルを維持することは日本で中絶を正当化するのに非常に重要なことである。なぜなら母親のいのちは胎児のいのちよりずっと価値あるものとされていたからである。それはつまり夫のいのちが妻のいのちより重視される伝統にも見られることであり、武士のいのちが百姓よりも大切にされたのと同じことである。しかし、中絶に対して「罪悪感」を感じたり、「胎児がかわいそう」と感じる日本人女性が急増した反面、何も感じないという少数派もおり、その間に生じたギャップは、日本にも平等を重んじる新しい価値観が静かに生まれつつあることを物語っているかのようである。

アメリカでは少なくとも1776年以来、社会的にも道徳的にもさらに法的にも伝統としてすべての人は平等に造られたものと考えられてきた。だからいちばん初めに行なわれた中絶法の改革は、19世紀半ばのアメリカ中に広まり、胎動が始まってからのみならず、すべての妊娠期間中において中絶を禁止したのであるが、それは人間は生命が始まったと同時に保護を受ける権利が平等にあるという基本的考え方に乗っ取ったものだった。それらの法は反奴隷制度法や憲法修正案と同時期に採用されたものであったため、治療力のない中絶を禁止するというアメリカの伝統にも平等主義が確実に根付いていったのであった。アメリカ社会に平等主義が根付いたおかげで、中絶支持者達は生きて成育しているおなかの中の赤ん坊を「人ではない」という立場をとらざるを得なくなった。なぜならもしおなかの中の子どもを社会に実在する一員(法的用語では「人」)とするならば、彼らにも平等主義の理念のもとに生命の保護を受ける権利が平等に与えられるべきであるからだ。平等主義に基づいたアメリカの中絶主義に存在するこの相容れない矛盾があるためにアメリカにおける中絶自由主義の正当化がより階層的になってきているのではないだろうか。よって女性の権利として自由な中絶を訴えるフェミニスト達は、おなかの中の子どもよりも母親の存在の価値を強調し、分析の際には胎児を完全に除外している。このように日本人が中絶に対して平等主義になりつつある一方で、アメリカは段々と階層主義的になっている。

2番目に、日本で行なわれる中絶は、国内における宗教的伝統を長年に渡って特徴つけてきた宿命的運命に関連している。悪運はどうすることもできないという受容の哲学は、何世紀にもわたって支配されてきた仏教及び儒教の教えの一つである。現代の作家達が誤って解釈する「依存関係」と同じ質や社会的特性はこの運命受容、運命論という古代の考え方を現代風に表現したものである。この意味で中絶は国の家族計画に従うため、あるいは経済的理由のために子どもが欲しいと願う家族によって「悲劇的にも受け入れられている」のである。

アメリカでは中絶をしたい時にするという政策が今まで個人やプライバシー保護や選択における倫理と結びつけられていた。本人が望まない運命の結末から逃れることができる強壮な個人のテーマは、悪運からの逃避という有益な手段として中絶を描くことにある。だから日本でもアメリカでも中絶行為と基本的価値観の間には常に緊張と不安がつきものなのである。日本では痛ましい必要性や後悔の念、アメリカでは権利拡張運動という姿を装った抑圧された罪悪感である。

3番目に日本では中絶行為が哀悼や悲しみといった感情を引き起こすことである。日本では責任感を認識することが社会的にも奨励される。その結果、中絶を公に悲しむ儀式は、女性の感情に関していえば有益かつ同情的に癒すものであると同時に子どものいのちが犠牲にされたことを認識するという点で非常に正直なものである。一方アメリカは責任を否定し、罪悪感を押さえ、悲しみをこらえる。罪悪感や悲しみは弱さの象徴だとされてしまうからだ。フェミニストたちは口々に「謝ったりするな。」「恥じるのではない。」と叫び、中絶は立派な権利だとする法的主義は、アメリカの女性を脅し、いずれも彼女達の悲しみを遮るのである。しかしながら中絶を行うアメリカ人女性達は深い葛藤に苦しんでいる。子どもを失ったことをひどく悲しむ女性もたくさんいる。悲しみを否定することは、少なくともアメリカのティーンエイジャー達にとって代理妊娠や複数回の中絶問題に直結するものなのである。アメリカのフェミニストがこの悲しみを否定し続けることは短い目でみれば政治的に有益であるかも知れない。しかし、女性の生活が平和で満ち足りたものであるかという長期的な目で見るとそれは未熟で冷淡なものでしかない。

4番目に、アメリカでの中絶は「権利」に焦点を当てている。一方日本は人々のつながりを重視している。日本の考え方は特にきずなや関係など人生においてお金ではどうすることもできない無形の次元に対してより敏感であり、より全体観を備えている。それは妥協や和解を促し、関係する人々すべての利益を少なくともある程度は考慮しようとするものである。ところがアメリカの場合は、感情よりも主義が優先される概念や抽象化を重んじる傾向にあり、さらにその実体や絶対的なものは妥協という主義を認めない。

以上からわかるように、日本での中絶は社会的必要性という点で正当化されており、今日行なわれていることも「よい日本人」、つまり一家族に三人以上の子どもを生まないという必要に応じることを物語っている。アメリカでは妊娠中絶が反社会的で全くの個人的価値観のもとで正当化されている。中絶したい時にするという慣習はプライバシーや「一人になる権利」という言葉で表され、いかなる社会の利益をも拒否している。

第六章 結論

この論文から妊娠中絶政策においてかなりの点で類似点があるにもかかわらず、日米両国の中絶法には大きな違いがあることを学んだ。日本の中絶法はアメリカのものほど絶対的ではないし融通もきく。またより利己的で民主主義に根差したバランスを保ち、社会のしきたりに根差していて、妊娠後期の生命に対しても保護力が強い。日本の中絶法は少なくとも表面上は道徳的立場を貫いている。一方アメリカの場合は全く道徳観念に欠けていると言えるだろう。今日の日本の中絶精神はアメリカの法律と比べて歴史的なアプローチの仕方や価値観に密着している。文化的にも政治的にもさらに法的にも日本の中絶法はアメリカのものよりも正当で現実的なプライバシーを保護している。さらに日本の方が法の修正に対してもフレキシブルに妥協点を見いだすことが可能である。

実際の中絶に関しては、日本の方がアメリカよりも一世代進んでいるようであり、アメリカが日本のパターンに追随しているかのようである。どちらの国でも中絶はバースコントロールの手段としてとられているが、日本は家族の規模を制限するために既婚女性が中心なのに対して、アメリカでは結婚外及び娯楽のための性行為の結果自分のそれまでの生活を脅かすものから逃れるために独身女性によって行なわれる場合が多い。

日本では文化的にきちんと定義づけられた家族及び親としての責任を全うするために中絶が行なわれ、人々にもそのように理解されているのに対して、アメリカは結婚そのものに対する責任や親としての責任から逃れるために中絶が利用されている。妊娠後期での中絶の割合は日本よりもアメリカの方が高く、そのうち十代の女性が占める割合もアメリカが勝っている。一人が何度も中絶を受けるという点に関してはどちらの国でも珍しいことではない。日本では中絶が暗黙のうちに了解されていることで私生児の数もその割合も減っている(いずれも半分に)が、アメリカでは自由に中絶できることでその件数も割合も倍増した。ところが日本でもアメリカでも、今日の中絶したい時にできるという政策のもと、養子縁組の件数は劇的に減った。

日米どちらの国においても、いかなる理由でも中絶できること、あるいは何の理由もないのに中絶することは好まれていない。両国ともほとんどの人々は「困難な場合」のみの妊娠中絶が好ましいと考えているのである。中絶に対する考え方で最も印象的な違いは、日本では悲しみや罪の意識が芽生えるのに対して、アメリカではその「中絶に関するプライバシー保護の権利」が存在する文化の中で、悲しむということが社会的に認められていないという点である。

法や法政策の違いが日本とアメリカの中絶に対する実施や考え方に相違をもたらしていることは間違いない。同じように文化的側面に違いがあることもその一因であろう。どの違いが法的理由からなるもので、どれが文化的理由からなのかを明確に分けることは非常に難しい。中絶の実施や考え方に中絶法が及ぼす影響について今後も研究していく必要があることは言うまでもない。今日になってやっと学者の間でも注目を集めるようになった真剣な比較研究も長い間延び延びにされてきたのである。

以上の日米間の中絶法比較は、「比較の見地から見るとアメリカの中絶法は無二である」なぜならアメリカには「他の西洋諸国」のみならず最古かつ最大のアジア諸国に比べても「胎児を守るための中絶規制が少ない。」というグレンドン教授の見解を裏付けている。日本はアメリカと「政治的、社会的、文化的側面において」また、「人口増加の不安」という点でかなり違っているのだが、アメリカの法的な「おなかの中の子に対する無関心」が日本ではそれほどひどくないことは明らかである。この研究は、グレンドン教授のアメリカの中絶法が極端に個人主義的なものであるという見解を立証している。また、アメリカの中絶法の絶対的急進的個人主義がアメリカ国内の問題を分裂させたという教授の見方が正しいことを物語っている。アメリカの賢い立法者達が日本や他の国々の中絶法や中絶体験から学ぶべきことは多いはずである。


英語の論文名:"Crying Stones": A Comparison of Abortion in Japan and the United States. By Lynn D. Wardle.

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