「涙を流す石」
日米中絶事情の比較

Wardle, Lynn D (ワードル・リン)
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必要とされていない子どもの処理の仕方については、日本で様々な方法が採られてきた。幼児をまったく捨て去ってしまうという方法は、「涙を流す石」の言い伝えをまことしやかにするものである。母親達は自分の子どもを捨てる時、交差点の角にある道しるべの石の後ろやその近くに置いていた。おそらくどこかの旅人が子どもに気づき、引き取ってくれることを願ってのことだったのだろう。置き去りにされた子どもの泣き声が、特に夜になると、そばを歩く人々に石が泣き叫んでいるように聞こえた。

第一章 序説

鎌倉の長谷寺は日本でも仏教を代表する寺院である。12世紀に金メッキで作られた有名な慈悲の女神観音、長谷観音様の家である本殿への階段を登っていくと、訪問者は「地蔵広場」と呼ばれる焼香をする祭壇の裏にある小さな殿堂を通る。この広場の周辺、及びすぐそばの丘の台地には五万以上もの石でできた小さな地蔵が並んでいる。これらの像は、流産、死産、あるいは中絶によって我が子を失った両親が買って奉るものである。地蔵の多くは手縄みの帽子と上着を着せられていて、その周りには瓶やおもちゃ、小さな供えものが置いてある。これは現代の日本人女性が、日本社会が歩んできたのと同じくらいの歴史を持つ行為に対する苦悩や是認を非常によく表しているものだと考えられる。

この論文は、日本における中絶の歴史、慣習、及び規則について詳しく述べているものであり、同時にアメリカ合衆国における状況との比較の必要性をもたらすものである。中絶法の比較研究は法学会においてもまだ新しい分野である。メアリー・アン・グレンドン教授は、中絶に関する規制は各国間の文化的・法的価値の比較研究に大いに役立つものだと語っている。彼女の研究は主に北米とヨーロッパの20の国々について中絶及び離婚に関する法律を比較するものである。「他の国と比べるとアメリカの中絶対応政策はとても奇妙なものに思えます。なぜなら、例えば、アメリカには〈他の西側諸国と比べて胎児のことを考えた中絶の規制といったものが少ないから〉。」と研究の結果わかったとグレンドン教授は述べています。教授はこのヨーロッパの国々との中絶法における違いは、アメリカ人の「プライバシー」保護主義に基づく急進的個人主義、必要としない子どもを捨てる絶対的権利、妊婦の希望以外を考慮に入れることの拒否、中絶対応政策策定の際の立法機関の力不足などの要因からなっていると結論づけている。

グレンドン教授による画期的な研究にはアジア諸国の事例が含まれていない。しかし、教授はアジアの何ヶ国かはアメリカの場合と同じように出産前の生命に対して「無関心」であるのではないかと示唆している。つまり、アジアの国々についても中絶政策を比較研究することはグレンドン教授の研究にとって論理的かつ重要であることがわかる。

日本の中絶に関する法律や手段は、アメリカにおけるそれとの比較に、次の二つの理由から非常に適していると判断される。まず一つ目は、日米両国とも世界の国々の中でもっとも寛容な中絶法ともっとも高い中絶率を共有している点である。表面的にはいずれの国も現代の中絶法及び中絶方法に関して非常によく似た状況を維持している。しかも、どちらも産業化とともに発展を遂げた国である。つまり、両国とも豊かであり、教育水準も高く、世界の中でも影響力を持っている。だが表面的には中絶に対する対応策が似ていても、日米間には言語や歴史、慣習、宗教、そして社会的価値観などにおいて、大きな文化的相違があるのも事実である。これらの違いが両国の中絶における実施法、理解、規制、それにその結果について影響を及ぼしていることは疑いの余地のないところである。

次に、中絶に関する規制があまりないことから生ずる個人的及び社会的結果として、日本がアメリカよりもある意味で一世代「進んでいる」と考えられる点が挙げられる。現在の中絶に対する寛大な日本の法律と実施策は、1949年から1952年の間にまでさかのぼるものである。アメリカでは拘束力の少ない中絶政策はつい1973年にさかのぼるだけである。従って時間や文化を越えることのできる体験を通じて、日本の中絶法や対策を理解することが、寛大な中絶政策に理解を求めようとするアメリカ人にとってもためになる可能性がある。このような比較研究が、現在意見の対立を引き起こしているアメリカの中絶政策を改善の方向に運ぶ可能性もある。さらに、日米の中絶対策の比較研究が、中絶問題に悩む他の国々の役に立つことも考えられる。

この論文の第二章では、日本の中絶規制の歴史的発展の詳しい検証によって現代の中絶法をまとめている。第三章はアメリカの中絶法の歴史を振り返り、憲法における中絶のプライバシー保護主義と自由という観点から見た中絶について述べる。第四章では日米の中絶政策や主義を比較研究し、第五章で日米における現在の中絶実施法や考え方をまとめる。第六章では二国間の中絶に対する考え方やその実施策を比較査定してみる。そして第七章で日米それぞれの社会における中絶実施策とその規制の果たす役割を比較し、結論付けをする。

第二章 日本の中絶規制の歴史

A. 近世以前の日本の中絶(1867年以前)

「堕胎間引き」という言葉は日本の歴史学者の間では聞き慣れた文句である。堕胎とは中絶を意味し、破壊を暗示する荒々しい単語である。間引きというのは文字から言えば「減少させる」ことであるが、元々は余分な新しい食物、特に大根の数量を減らすことに使われており、伝統的に幼児殺しの砕けた言い方として使われてきた言葉である。歴史的に見れば、中絶の実施と幼児殺しは日本の歴史における記録の中では同じくらいの過去にさかのぼることになる。この結合語から見てもわかるように、中絶と幼児殺しにはさほど違いはなかったようである。幼児殺しが安く済んだために百姓や農民などの村落地方でよく行われたのに対して、中絶は都市部や上流階級の人々の間で広く行き亘っていた。「中絶はエリート階級、つまり徳川家や大名、侍、そして裕福な商人などに利用されるものであって、幼児殺しはもっぱら百姓の間で行われるものだった。」

中絶を日本史を通して見る場合、多くの学者は平安時代(A.D.794〜1185年)にまでさかのぼる。この時代の伝説や詩に中絶に関する下りが数多く残されており、中絶が公に行われて一般的にも認められていた、つまり違法行為ではなかった、ということがうかがえるからである。同じように、後に続いた鎌倉時代(A.D.1185〜1333年)の文献にも中絶に関するものがたくさん残されている。日本の最初の中絶医師であった中条帯刀は、安土桃山時代(A.D.1568〜1600年)に活躍した外科医であった。17世紀までには中絶方法などを詳しく書いた医学書が何冊も出されていた。

徳川時代(A.D.1600〜1868年)より以前は、中絶は干ばつや飢饉など深刻な自然災害を理由に行われるものであり、地域ごとに散漫的に行われるものであった。しかし、徳川時代、とくにその後半には、中絶はごく日常的なものとされていたのである。

封建制度後期の徳川時代の二世紀半の間に中絶と幼児殺しが広く容認された理由に、多くの学者は二つの理由を挙げている:(1)極度の貧困、特に村落地方の百姓と低い地位にあった武士、(2)ふしだらな性関係の横行、特に商人や職人、武士、そして都市部のエリート役人等である。この時代の中絶と幼児殺しはとても頻繁に行われており、この時期日本の人口は一世紀以上も2600万人で安定していたとされている。婚外の性関係が横行していたのも明らかとなっており、特に中央政府あるいは幕府のあった江戸(現在の東京)では著しいものがあった。しかしながら正式には階級ごとの規律や行動規律、そして法律において不義や姦淫は厳しく禁止されていた。しかし実際は、この規制は不義や婚外行為を隠しておけるのならば問題はないという程度のものでしかなかった。しかし、私生児の誕生など、規則の違反が明るみに出た場合、その結末は非常に厳しいものであった。その結果、中絶や幼児殺しは婚外の性交渉という正式には禁止されている行為が招く事態を無効にし、体面や評判を保つために広く行われていたことになる。

徳川時代に中絶や幼児殺しが頻繁に行われたもう一つの要因に貧困が挙げられる。低い地位にあった武士達は、固定給を米で受け取っていた。生活や自分の地位を守るために、人々は家族の人数を制限することを余儀なくされ、よって中絶や幼児殺しという手段に頼るしかなかった。ほとんどが農民で占める百姓階級は経済的にさらに苦しい立場に置かれていた。封建社会における厳格な階級制度のもと、農民は上から厳しく抑圧され重税を課せられていたので貧困の苦しみは想像を絶するものであった。最低限の生活を守るためには幼児殺しや中絶で家族の人数を制限することは仕方のないこととして広く認められていたのである。この時代の文献には、それ以上の子どもを育てる余裕のない一般の家族が、仕方なく中絶や幼児殺しを行っている内容のものが数多く残されている。

18世紀の半ばになると中絶と幼児殺しの件数の増加がある経済的問題を引き起こすようになった。農家の労働力となる子どもが減ってしまったのである。その結果不景気となり、農業活動が鈍り、米の収穫から税収を得る政府にとって危機が訪れることになった。そこで幕府(中央政府)と藩(地方政府)の高官達は農作物生産と税収の増加を目指して中絶と幼児殺しを禁止し、農村における人口増加を奨励したのである。

徳川時代の後半になると、幕府は公然とした、しかしあまり効力のない中絶規制を行った。それは同時に三つの方法をとった:道徳的奨励、財政的援助、それに刑法上の規制である。道徳的奨励には「書き物の配布(命の破壊を非難するもの)と説教師(仏教僧)の派遣」があった。いのちあるすべてのものを尊重することを信義とする仏教僧は、幼児殺しや中絶を激しくののしったが、知識人達は中絶や幼児殺しに象徴される社会全体の退廃及び道徳の低下を非難するにとどまっていた。

中絶や幼児殺しを阻止するために、中央及び地方政府が設置した財政報奨金制度は驚くほど洗練された進歩的なものだった。18世紀の終わりには大家族を支えるための米や時には金銭も含む政府の補助計画は日本中で採用されるようになっていた。徳川時代の中絶及び幼児殺しについて深い研究を続けてきた高橋梵仙によれば、この時代の後半にかなりの数の補助制度が大家族支持のために中央及び地方政府によって実施されたようである。

日本で最初の中絶禁止の法令あるいは法律は17世紀半ばに制定された。1646年に幕府は、事実上の政府が位置した江戸でのみ有効な法令を制定し、一般的に商業的中絶事業を禁止し、看板などによる大々的な中絶広告を禁止した。その21年後の1667年には幕府は中絶の広告そのものと隠れた中絶を禁止し、違反した場合は江戸から追放すると発表した。1680年には中絶に関わった医者や女性は尋問にかけられることになった。しかしこの場合の刑については明らかになっていない。その後の法令は162年後、それは徳川幕府崩壊まであと25年という年に制定された。法令は二つであった。一つは中絶を要求したり実施した者は江戸から追放されるというもの。もう一つは中絶を要求、手配あるいは実施したとされる者は調査を受け罰せられるというものであった。

これらの幕府の法令は江戸においてのみ有効なものであった。だが、地方の地主達もこれを模範にしたのである。つまり、同じような政策が藩にも採用された。さらに、地方における中絶及び幼児殺しを阻止するために、多くの藩主は農民の妊娠を報告させたり、死産の場合の「特別調査」を義務づけたりした。

だがそれでも法的措置を用いて中絶を抑制しようという試みはそれほど厳しく行われることはなかった。中絶を広告するにしても、法を犯すことなくビジネスの範囲で人々に訴えることができたため、禁止令をた易く回避することができた。規制は弱く、刑罰は緩やかで存在しないに等しかった上、効力はほとんどなかったのである。

B.近代日本の中絶規制:明治から第二次世界大戦まで(1867〜1945)

1867年、何世紀もの間名目だけが天皇であった若い睦仁天皇は、天皇としての最高権力を再び行使すると宣言した。帝国軍はすぐに徳川幕府に忠誠を誓った軍を負かし、当時19歳だった天皇は皇居を京都から東京に移し、政権を自分の手中に入れた。これによって700年にも及んだ将軍による軍事政権に終止符を打ち、人類の歴史においてもっとも著しく急速な近代社会の形成が始まった。たった50年間の明治(啓発された統治)時代に、日本は封建社会から半民主主義社会へ、ことわざ通りのアジアのドアマットから世界の軍事力保有国へ、時代遅れの農業国から近代的工業国へ、孤立した閉鎖的社会からダイナミックで活力ある世界の一員へと移行を遂げたのである。

明治天皇は自分の側近らの知恵を借り、かなり早い時期に日本が世界の主要国の一員として活動していくためには、それまでの古いしきたりを急速に変えて、早急に西側諸国のやり方を取り入れなければならないという決断を下した。非常に劇的だったのは西側の法制度を取り入れたことで、それを日本の文化に合うように必要な個所は修正して採用したことだった。明治の若者達は西側の法制度を学ぶために西洋の各国、特にフランスとドイツに送られた。また、フランス人法律学者が天皇の側近のためにフルタイムで雇われ、後には天皇の議会のために近代法典を作成する事になったりもした。

刑法典の第一号は、明治天皇在任13年目にあたる1880年に発布され、1882年に遂行された。ヨーロッパ、特にフランスの法典にならって、中絶は禁止された。中絶を行った女性には1ヶ月から6ヶ月の禁固刑、中絶を実施した者には1年から3年の禁固刑が言いわたされることになった。中絶を実施した医者や助産婦は第一級殺人罪に問われることになった。

その約25年後の1907年に、この刑法典はさらにドイツの法典の影響を受けて改訂された。それによると医者や助産婦あるいは薬剤師であろうと中絶を実施した者には3ヶ月から5年の禁固刑が科されるというものだった。もし中絶の過程で女性が傷つくようなことがあれば、その場合の刑は6ヶ月から7年という重いものになるとされた。1908年に発効されたこの規定は、今日の日本の中絶犯罪禁止の基礎となった。日本では今でも中絶は建前上犯罪とされている。

この明治の改革の精神は次第に日本社会に普及した。それは希望と進歩に満ちた新しい時代の幕開けであり、国中の誰もがそれを感じていた。社会一般の考え方は反中絶の方向に傾向していった。家庭では将来のチャンスへと希望に満ちていた。家族の人数が急激に増え、人口も増し、経済は繁栄し、中絶や幼児殺しの件数は大幅に減った。

明治天皇が1912年に死去してからまもなくして、経済の面でも政治の面でも困難が生じるようになった。経済及び社会に対して人々の信用が揺らぎ始めた現れの一つに中絶件数の増加があげられる。中絶がさらに増えることを懸念した役人達は、1920年代と1930年代の間に反中絶法の施行を非常に強化したのであった。1918年から1931年の間に中絶法の下に逮捕された件数は377から899件にも上るとされている。

1940年に国会(日本の議会)はナチスドイツで採用された法律に基づく国民優生法を採用した。この民事法はある限られた状況においてのみ中絶を合法とみなすものだった。限られた状況というのは特に優生上の理由が認められる場合で、種の純潔を守り、国の負担を避けるためとされた。認めてもらうためには医師の認定と政府機関への報告が義務づけられた。国民優生法は「生めよ、増やせよ。」という時代の精神を反映していた。当然「欠陥のある」子どもは国を弱体化させると考えられたので、その場合の中絶は認められるのであった。

C.近代化以降の日本の中絶法(1846〜現在)

第二次世界大戦は、当然ながら日本の法律や社会のあらゆる面において大きな影響を及ぼした。中絶に関する法律や慣習も例外ではなかった。戦争当初、日本は攻撃的な軍事力を持ち、西側社会のことを道徳的に堕落し、贅沢に腐敗した国とみなしていた。終戦間近になると日本は廃虚と化した。戦争が終わると、アメリカの占領とともに「新しい考え方や慣習がどっと」押し寄せてきた。「新しい考え方」の一つが中絶法の緩和の動きへとつながっていった。

戦後の中絶法緩和への圧力にはいくつかの要因があった。まず第一に、飢えや経済再建が非常に危ぶまれたことが挙げられる。終戦を迎えた1945年の9月にはいくつもの都市が爆撃によって消滅し、産業能力は打撃を受け、農作物の生産は破壊されていた。日本を占領下に置いた連合国軍の公式記録には終戦時の農業の現状が次のようにそっけない記述で残されている。「連合国軍の空海による攻撃で、降参時の日本は飢えが目の前まで差し迫っているほど衰えていた。」経済は完全に混乱し、何百万世帯もの家庭が貧困にあえぎ、国外に住む何百万もの日本人兵士と民間人がまもなく送還されてくることになっていた。多くの日本人指導者達は戦後の「べビー・ブーム」に対する更なる圧力が戦争を生き延びた人々の犠牲を増幅させ、経済回復に向けての努力が水の泡になってしまうことを恐れた。

第二に、新しい占領国家においてバース・コントロールを広く押し進めながら社会的策略実験に携わる機会を持つことは、外国の人口統制専門家にとっては非常に魅力的な体験であった。連合国は、これからの日本を、形だけの民主主義ではなく真の民主主義国家にするべきだと決断した。家族計画に携わる国際機関は、人口圧力が日本の軍国主義や侵略行為を招いたと理論立て、日本の侵略行為を減少させるためには人口増加を制限するべきだとの論を唱えた。

三番目に、衛生上、安全上の問題が浮上してきた。戦後の占領の間、アメリカの軍人が時にはレイプともいえるような状況下で日本人女性を妊娠させるケースが増加した。これが計り知れない個人的、家族的、社会的苦痛を招いたのである。さらに中絶におけるやみ取引が頻繁に行われるようになり、公衆の衛生状況に不安を与えた。

これらの圧力を受けて国会内の医師団は「困難な場合」に限り中絶を認める法案を提出した。法案は1948年に可決され、優生保護法(EPL)と呼ばれるようになった。総体的には以前の国民優生法を模範にしたもので、その新しい法律は厳密に限られた五つのケースにのみ中絶を認めることを保証している。中でももっとも一般的なのが、それ以上の妊娠や出産によって母胎の健康が著しく損なわれる場合というものであった。その際、母親の担当医はまず地域の優生保護委員会に申請をし、委員会が中絶を認めれば中絶の資格を持つ医師によって実施することが可能となった。従って、1948年に制定された法律は実質的にも手続き的にも「自由な」中絶法とはほど遠かった。

翌1949年、優生保護法にいくつかの修正が加えられた。もっとも大きな変化は健康上の例外が拡大されたことだった。中絶は「肉体的、経済的理由からそれ以上の妊娠や出産によって母胎の健康が著しく損なわれる場合」に認められるとされたのである。経済的理由による中絶の正当化は、日本の実質的中絶法を限定的なものから任意のものへと変えていくことになった。よって1949年6月24日は日本の中絶政策に自由な「理由」を採用した日とされる。この「経済的条項」を加えた理由には、経済的原因から引き起こされた中絶のやみ取引が最初の優生保護法制定以降、氾濫していたこともあげられている。

中絶のためのかなり緩やかな実質的基本が用意されたにもかかわらず、実際に中絶をするのは手続き上の理由から限られた場合だけであった。しかし、1952年に優生保護法が再び修正され、委員会の承認の必要がなくなると、中絶実施の可否は一人の医師の手にゆだねられるようになった。従って、事実上いつでも中絶を受けることができる社会へと日本が移行したのは1949年から1952年の3年間のことであった。この法律は、1880年の明治の改革から採用されてきた中絶にまつわる規制の数々を事実上無効にし、撤回するものであった。

1952年以降、日本では「経済的困難」という非常に寛容な理由から中絶をすることができるようになった。それも一人の医師の判断だけで決めることができ、法的には何の責任も問われないのである。日本におけるこの中絶実施の手続き上の自由化は人々に衝撃を与えた。1952年から1953年の間に報告された中絶件数は798,193件から1,068,066件まで増加した。一年間で34%もの増加であった。

優生保護法では中絶を「妊娠の人工的妨害」と呼んでおり、それは生育可能となった胎児と胎盤の強制的排除と定義することができる。厚生省は初め妊娠8ヶ月後からを生育可能と規定していたが、1976年にはそれが7ヶ月までに短縮された。1978年にはさらに最後の生理が終わってから24週までに減らされた。現在日本で中絶が認められるのは、最後の生理から数えて妊娠23週目までか、受精したと考えられる日から21週目までのみである。

優生保護法及び厚生省の規制は、中絶一件ごとに詳細な記録をとることを医師に求めている。厳密に言えば、中絶は既婚女性にのみ適用される。女性の配偶者の同意と「承認印」が必ず必要とされるのである。しかし、夫の「印鑑」と同じものはいとも簡単に手に入れられるし、夫の同意を「偽造」するのは簡単なことである。法律では未婚女性の中絶の禁止を明示しているが、実際はそのようなケースは非常に多い。理論上では未婚女性の場合、未成年であろうと成人であろうと親の同意が必要だとされているが、これも法の遵守というよりは違反だと考えられる。中絶は「指名を受けた医師」のみが担当できるとされているが、実際、産科医や婦人科医はすべて指名を受けた医師である。日本にはおよそ13,000人の指名を受けた医師がいる。

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