鎮静治療を終末医療と考えるべきか?

Valko, Nancy (ヴァルコ・ナンシー)
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英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

ここ数年間において、自殺幇助の観点から、終末期の鎮静治療が生命倫理における重要な問題として議論されはじめている。鎮静治療に関しては、自殺幇助に関する論争でいずれの側に立つかによって、賛否両論が存在する。鎮静治療は、倫理的な終末ケア、自殺幇助に代わる合法的な処置、時間をかけた安楽死などと呼ばれてきた。

1980年の時点で「終末期の鎮静治療」という言葉は一般に知られていなかったが、バチカンの安楽死に関する宣言において、1957年に教皇ピオXII世が、意識喪失や死期を早めるというリスクを負っても疼痛をコントロールするために十分な投薬を行うことを認めた声明文を発表している。しかしながら、この声明には、鎮静処置は「疼痛を効果的に緩和することのみ」を意図して行われるべきである、という注意が付け加えられている。また、教皇は、「重大な理由なくして死期が近い人の意識を奪うことは不当である。」とも警告している(1)。

今日、鎮静治療の支持者は、終末期の鎮静治療を、「特別な疼痛緩和治療や介入が無効となった治療困難な疼痛を緩和する」および/または「治療困難な感情的・精神的苦悩(存在的苦痛、心理的苦悩、感情的疲労)を緩和する」ために、意図的に「覚醒状態を終わらせること」と定義している(2)。深い鎮静は、一時的な疼痛緩和として与えられるものだが、鎮静治療を行うという決定が下れば、患者が無意識に陥った時点で意識を回復させることはできないと判断される。その後、死が訪れるまで鎮静治療が続けられる。

このように、終末期の鎮静治療は、死期が近い人の疼痛を緩和する最終的な手段から、肉体的苦痛以外の心理的・精神的苦悩の永久的な緩和方法にまで拡大している(3)。皮肉なことに、医師による自殺幇助を認めたオレゴン州法の下で死を望む人々の最大の動機は、絶えがたい疼痛の緩和ではなく、単にこのような心理的苦痛の緩和となっている(4)。

変わりつつある終末期の鎮静治療

「終末期の鎮静治療」という言葉が使われるようになったのは最近のことだが、鎮静治療を「包括的鎮静処置」や「苦痛緩和医療」という用語に変更しようという提案がすでにある。用語の変更が提案されているのは、単に表面的な理由からではない。

「終末期」という言葉を使うと、鎮静治療によって死亡する、あるいは鎮静治療は死を目前にした人だけが受けるものという印象を与えるため、鎮静治療を支持する人々は、「終末期」という言葉の使用を避けてきた。鎮静治療を受ける人にとって使いやすい「苦痛緩和医療」や「緩和ケア」という言葉を使用し、「回復の見込みがない」患者に対する永久的な深い鎮静を表現する関係者もいる(5)。

鎮静治療において重要な要素となるのが、食事と水の補給をはじめとした生命維持のための治療の中断や中止であるが(6)、インスリンや血圧調整薬などの日常の投薬治療も中止される場合が多い。医学的に無益、あるいは患者にとって過度の負担となる治療やケアを行わないことについては、その倫理性が一般概念として認められているが、鎮静治療自体はこうした判断に依存するものではない。

例えば、Timothy Quill博士とIra Byock博士は、「終末期における治療困難な苦痛への対応」という論文で、引退後に致命的な脳腫瘍を患い、「家族の負担になったり、正常な精神力を失っていくことに恐れを感じた」放射線技師のケースを紹介している。衰弱が間近に迫っていることに不安を感じた放射線技師は、死期を早めたいという意思を文書で示すと同時に、主治医に対し、飲食と薬の摂取の中止を申し出た。主治医は、死が訪れるまでの間、患者が苦痛なく過ごせるよう協力すると約束した。

不快感をコントロールするために低用量のモルヒネを9日間継続投与した後、放射線技師は脱水状態の症状として混乱と興奮状態に陥った。その時点で鎮静治療が開始され、彼が死亡するまで継続された。

Quill博士とByock博士は、食事や水を患者が自主的に拒むことは、「医師の命令や指示で行われた場合とは異なり、倫理面での問題が少ない」として、この方法を正当化している。ただし、彼らは、これを実行するには「患者が死を迎えるまでの間、適切な緩和ケアを提供できる家族、医師、保健医療チームのサポートが必要になる」ことを認めている。

Quill博士は、自殺幇助の代表的な擁護者であるが、反対にByock博士は自殺幇助を強く非難している人物である。しかし、彼らの双方が、患者が食事、水、その他の生命維持手段を自主的に拒否した上での鎮静治療は、自殺幇助に代わる有効な方法であり、患者の自主性の現れであるという考えを示している。

しかし、私はこの考えに反対である。この放射線技師の死が、医療従事者の物理的・心理的後押しなくしては成立しなかったという事実は無視できない。放射線技師は、苦痛を緩和する医療が処方されなければ、飢えることも脱水状態になることもなかった。これは、自然死でもなければ、死期を延期したり早めたりしないというホスピスの哲学にも反するものである。

鎮静治療の支持者たちは、こうしたケースにおいて「二重効果」という容認された原理を指摘している。医師の判断を最優先と考え、予見された死という不幸よりも耐えがたい苦痛を緩和するという利点が重視されるのである。この考えは、かなり不誠実なものである(7)。Jack Kevorkianのような医師でさえも、明らかに致死量の注射を行った際に、法的および道徳的な自己防衛手段としてこの考えを持ち出している(8)。

上述の放射線技師の場合、死期を早めることが自分の意思であることを明記している。医師らは、耐え難い苦痛の定義を心理的な苦痛にまで拡大し、恐ろしいことに、それが今オランダでは身体的に健康な人々への安楽死の施行を正当化する根拠として用いられている。

教皇評議会が発布した1994年の「保健従事者のための憲章」では、別の観点から次のような警告が出されている:

「患者の意識レベルを低下させる麻酔剤を計画的に使用することは、時に、死期が近い患者との関わりを断ちたいという医療従事者の無意識の願望をカモフラージュする行為でもある。こうした場合、麻酔剤の使用は、患者の苦痛を取り除くというよりは、看護者の都合を考えた行為といえる。死期が近い患者は、人間としての価値が損なわれる無意識の状態まで意識レベルを下げられ、「自分自身の人生を生きる」可能性を奪われてしまうのだ。したがって、単に死期が近い患者の意識を奪う目的で麻酔剤を使用するのは、「あるまじき行為」と言える。(9)

最後に、前出の主治医が、死期を早めたいという放射線技師の要望を受け入れず、いかに未来に希望がなくても彼の人生を価値のあるものとして認めた場合、どのような結果になったかについて考えてみる必要がある。放射線技師は、できるだけ早く死にたいという自分の意思を尚も主張しただろうか、それとも彼が苦しまず自然に死ねるようにその時期が来た時点で医師が手助けをするという確約のもと、自分の決断について考え直しただろうか?

それは誰にもわからない。

非自発的な終末期の鎮静治療?

鎮静治療に関する議論の多くは、鎮静治療を希望する末期癌患者に関するものだが、鎮静治療の支持者たちは、再起不能の患者もその対象と考えている。Perry Fine博士など鎮静治療を擁護する人々は、その根拠として「緩和できない苦痛に直面した場合に鎮静治療を行うことを十分に暗示または要請した」事前指示の存在、あるいはそうした指示がない場合は、「医療上の代理人」に決定を依頼することを挙げている(10)。

しかし、現実的には、再起不能の患者において、覚醒状態を終わらせる、あるいは無意識の状態を維持するという決断が行われる状況は様々で、必ずしも患者が末期状態にあるとはいえない場合もある(11)。

例えば、脳傷害や痴呆などの患者に対し、治療の中断や中止の決断を行い、それと同時に患者の苦痛を取り除くために鎮痛剤および/または鎮静剤の投与を開始することも珍しくない。また、例えそれが実際の希望ではないとしても、患者が呼吸を回復しないだろうという予測から、人工呼吸器を停止した時に鎮静剤および/または鎮痛剤の継続的な投与を開始または強化することも多い(12)。

生存の可能性はあるものの、重度の卒中を起こした患者の場合、多くの家族は、回復の見込みは低いという医師の予測を受け入れ、「ママはそんな風になってまで生きていたいとは思わないはずだ」という考えから、緩和ケアに同意する。こうした状況下での治療の場合、意識がほとんどない、あるいは眠った状態なので口からの食事ができないという結果になることが多いのだが、治療は鎮静治療ではなく、「緩和ケア」と呼ばれることが多い。

あるケースを紹介しよう。ケイという高齢の女性が重症の卒中を起こして入院し、医師は末期症状と判断した。ケイは、安楽死反対グループを通じて事前指示を出しており、自分が再起不能になった場合は、治療方針に関する判断を妹に任せると記されていた。この事前指示は、治療上禁忌とならない、あるいは死が差し迫り避けられないものでない限り食事や水などの基本的な生命維持治療を行うように具体的に指示していた点を除けば、他の多くの事前指示と変わりはなかった。

数日後、ケイの姪が私に電話をくれ、意識がないにもかかわらず、ケイがまだ生存し、呼吸をしていることについて不安を抱いていると言った。親戚たちは、意識がないことが末期を意味するのか、そうでないなら、食事や水を与えるべきではないのかということを懸念していたのだ。

最初に、私はケイがモルヒネの投与を受けているかどうかについて尋ねた。姪は、ケイがモルヒネの静脈点滴を受けていると答えた。モルヒネは、医師が緩和ケアとして処方したものである。

一般に「卒中」と呼ばれる脳血管傷害は、通常、末期疾患ではなく、人によって最初に頭痛があること以外はほとんど痛みを伴わない。卒中を起こしてからの時間から考えてケイの卒中は末期疾患ではないと考えられ、したがって、必要な食事や水を含む基本的な治療を施すことが必要と考えられた。

私の助言を受けて、姪はモルヒネの投与を止めるか減らすかしてケイの意識レベルを調べ、実際に彼女が痛みを感じているのか確認するようケイの妹に話をした。ケイの妹は、ケイが目覚めたら食事を与えることに同意した。

モルヒネの量を減らした後まもなくケイが反応するようになったと、いとこから後に報告があった。ケイは目を開け、自分に話し掛ける人の顔を見ただけでなく、親戚たちが誰なのかも認識しているようだった。しかし、ケイの妹は、このように一見反応していると思われるものは単に「反射」に過ぎず、モルヒネの点滴を再開すべきだ、と司祭から助言を受けたと言っている。水や食物がない状態で人間は長期間生きられないのだから、卒中から2週間後にケイが死亡したのも不思議はなかった。姪や心配した親戚たちが、ケイの生存中に事前指示を実行するべきか弁護士に相談しようとも考えたが、家族がさらにバラバラになることを恐れ、事前指示に従わないことにした。

ケイの場合は遠方で、その時は彼女のカルテを直接閲覧することはできなかったが、彼女のケースは、私自身や全国から私に同じような事例を報告してきた看護士たちの経験に共鳴するものであった。残念ながら、ケイのようなケースは増加しており、このことから、不適切と思われる鎮静治療の実施例が増加し、終末ケアの対象が拡大しているのではないかという懸念も強くなっている。

再起不能、あるいは致命的な病状の患者に、疼痛などの緩和を目的として十分な治療を施すことに反対する人はいないが、従来の緩和ケアには、最近まで、無意識を維持するという決定が含まれていなかった。

看護士の見解

内科・外科病棟、在宅医療/ホスピス、腫瘍科、ICUなどに看護士として34年間勤務したことで、私は、私自身の家族も含め、患者への終末ケアにおいてさまざまな経験をしてきた。また、あらゆる点で、私は医師の倫理観と権限に従って働くことを余儀なくされてきた。医師の中には、患者に感情的、精神的、肉体的な面で十分なケアを行いたいとする医師もいれば、死期が迫った患者との関わりをできるだけ避けようとする医師もいた。

死期が差し迫った患者にさえ、中毒性を恐れて十分な鎮痛剤や鎮静剤を使用しようとしない医師、そして「患者の呼吸が止まるまで」私たち看護士にモルヒネの滴下量を増加させようとする医師の双方に、私は憤りを感じてきた。

また、医師の薦めを受動的に受け入れるだけの患者やその家族、あるいは医師や私たち看護士に自分たちの苦悩を取り除いてくれるようひたすら要求する患者や家族にも懸念を抱いてきた。

終末医療の問題は、病院だけでなく、老人ホームや患者の自宅など、医療制度のどこにでも起こり得る問題である。看護士は、全体的なケアだけでなく、鎮静治療など、議論の余地のある介入を含めたケアを実行し、評価する上で必須の存在なのである。

しかし、医師とは異なり、看護士には担当患者の割り当てがあるため、看護士自らが患者を選ぶことはできない。倫理的な問題から特定の患者の看護を拒否することは、良心を持つ権利が保護されていない状況下において、それが患者の法的権利を守るためであっても、人手不足の現場で他のスタッフに不当な要求をしているように受け取られかねない。したがって、看護士たちは、専門家としての信念や倫理観を曲げて、終末医療に立ち会うことになる。

疼痛を「5つめの生命維持に必要なサイン」として評価しようという運動が高まっていることで、看護士たちには、原因にかかわらず疼痛のあるすべての患者において、疼痛緩和治療の成否を常時モニターし、調整を行ったり医師に提言することが求められている。疼痛管理を本当に有効なものとするには、医師だけでなく看護士も、さまざまな状況における疼痛管理の技術、ならびにそれに伴う倫理的配慮をしっかりと身に付ける必要がある。しかしながら、疼痛管理の臨床ガイドラインが単純明快で広く受け入れられている一方、鎮静治療など論争中の介入法では、耐えがたい苦痛の範囲については主観的な判断に頼っており、死の原因となるあるいは死期を早めるという点について倫理的な懸念を生じている。早かれ遅かれ、私たちは「医療倫理は個人の解釈なのか、それとも法律的な解釈になるのか、あるいはコンセンサスの基になるような普遍的な原則があるのか?」という大きな問題に対し、答えを出す必要が出てくるだろう。

終末期の鎮静治療に関する今後の予想

数件の研究では、鎮静治療をめったに行われない最終手段と考える代わりに、末期患者における終末期鎮静治療の普及率を3%から52%と報告している(13)。卒中や痴呆をはじめとする重篤な疾患を持つ患者に、未知数の覚醒状態の終了や無意識の維持が実際に行われている事実を考えると、「緩和ケア」としての鎮静治療の利用数は、ホスピス以外の領域においても疾病数の増加に比例して増加していると考えられる。

鎮静治療を法律で規制することは不可能だろう。鎮静治療は、致死量の薬剤を1回だけ過剰投与するというより、ひとつの過程であることから、技術的な点で自殺幇助とは異なると言える(14)。しかし、合法的であることが必ずしも倫理的とは言えず、残念ながら、善意ある医療専門家や倫理学者でさえも、死期を「早める」必要性を感じたり、クオリティ・オブ・ライフの低下から患者とその家族を守ろうと考えたりすることもあるだろう。

また、コスト削減を重視した新しい医療保険制度や、過剰労働でストレスを抱えた医療従事者たちが、鎮静治療を患者とその看護に携わる人たちにとって魅力的で、かつ危険なものへと導いていく可能性がある。

しかし、末期の疾患の場合でも、鎮静治療に代わる方法は確かに存在する。

長い間、重度の疼痛に対しては、十分かつ有効な用量に達するまで鎮痛剤の用量を徐々に上げていく方法が、標準的かつ信頼できる方法として行われてきた。抗不安剤と鎮痛剤を組み合わせることで、ほとんどの場合、患者の平静と覚醒をできるだけ保ちながら、最大の鎮痛効果を得ることができる。

もちろん、一度の投薬や注射で効果的な疼痛管理に不可欠な真の慈しみや安心感を患者に与えることはできない。

稀にではあるが、短期または長期的に深い鎮静治療が必要なこともある。もし、患者がそれを必要とし、それに耐え得るのであれば、医学的な給餌など、基本的な医療が行われている限り(15)、死を誘引したり死期を早めるのではないかとうい懸念は軽減される。

数十年前に発表された死に対する精神面に関する画期的な研究論文でElizabeth Kubler-Rossが述べたように、死は単に肉体的な問題ではない。私の経験では、末期状態の患者は、死を歓迎する気持ちと恐れる気持ち、希望と絶望、弱さと強さの間を揺れ動いているように見える。死を受け入れることは往々にして死に向かう過程より困難だが、私は職業柄、多くの人々が人生最後の重要な旅をする姿に立ち会ってきた。人生最後の旅は決して楽でもなければ穏やかなものでもないが、そこから患者とその家族、医療従事者が得るものも極めて大きい。

無意識のうちに死ぬことで苦しみから逃れることは、末期状態の患者だけでなく、衰弱した高齢者、身体障害者、慢性疾患患者などにとっても大きな魅力である。私たちがどんなに努力しても、一部の患者、その家族、時には医療従事者までもが死期を早める権利を主張することがある。

そのようなときも、自殺幇助や安楽死の場合と同じように、「拒否」の態度を取ることが唯一最良の答えであるべきだと思う。

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