問題は平等に関すること

Valko, Nancy (ヴァルコ、ナンシー)
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net


 10年以上前のことです。私は3人目の子どもを妊娠中で、ベビ−・ドゥ−(匿名の赤ん坊)に関する論争はまだ続いていました。

 ベビ−・ドゥ−はダウン症で、食道に欠陥があり、哺乳ビンでの授乳に先だって外科的矯正が必要な男の赤ちゃんでした。この手術はこういう問題を抱えた新生児にはごく普通のことでしたが、ベビ−・ドゥ−の両親はそれを拒否し、裁判所は両親の決定を支持しました。何組かの夫婦がベビ−・ドゥ−を養子にし、さらに手術の費用を支払いたいと名乗り出ました。彼らの申し出は拒絶され、ベビ−・ドゥ−はミルクを与えられずに6日後に死亡しました。

 私はショックを受けました。なぜ裁判所や法律は、そのように明らかな差別からベビ−・ドゥ−を護らなかったのでしょうか?どうして両親の弁護士は、それが「愛情のこもった決定」だと主張できたのでしょうか?それは、障害を持った子どもに、いのちを維持するための治療を受けさせる親は愛情がないという意味なのでしょうか?

 4ヶ月後、娘のカレンが、ダウン症とベビ−・ドゥ−よりもっと重症のいのちに関わる心臓の欠陥を持って生まれた時、その問題の重大さを改めて知りました。カレンの主治医が、「手術をすることができますが、その成功率は80〜90%です。たとえあなた方が手術をしないと決めても、『100%』あなた方夫婦の決定を支持します。」と言ったとき、私は茫然としました。

 私は腹が立ちました。娘に知的障害がなければ、そのような手術は一つの選択肢ではなくて、科学技術的恩恵として与えられていただろうということを、看護婦として私は知っていたからです。私は医者に、そのような差別に憤慨していること、娘には娘自身の権利があること、ダウン症の子どもに対して偏見を持っているのであれば娘に触れないでほしいと話しました。

 その医者が、善意からの間違いを認め、娘のために最善を尽くすと約束してくれたことはすばらしいことでした。そして彼は実際そうしてくれました。

 しかし、善良で思いやりのある医者でさえそのような偏見を持っていることに私は大変驚きました。我が子や私が頼っている医療関係者をすべて本当に信用していいのだろうかと私は思いました。ベビ−・ドゥ−の両親の「私的な」決断が、社会的な慣習や考え方に多大な影響を与え、もし私が我が子を護らなければ、我が子が危険にさらされていただろうということが、私はわかるようになりました。

 ベビ−・ドゥ−も私のカレンもふたりとも(一人は親の指示で、もう一人は最良の医療にもかかわらず)数年前に死んでしまいましたが、私がクリスティン・ブサラッチ論争の行方に興味を持って見守っていたとき、しばしば二人のことが心に浮かびました。障害の程度に差はありましたが、ベビ−・ドゥ−やカレンと同じく、クリスティンにも知的障害がありました。ベビ−・ドゥ−の両親と同じく、クリスティンの父親も、娘は生きていてもしかたがないと思い、授乳を打ち切るために裁判に訴えました。ブサラッチ氏も、法を変えるのでなく、政治や司法に従って権利を「勝ち」取ったのです。

 しかし、ベビ−・ドゥ−訴訟で提起された問題と同じ問題を再び提起しなけれなりません。それは、両親が我が子のいのちに絶対的な力を持ってしかるべきか、また国家や社会に、障害者であれ健常者であれ、誰もが必要なケアや治療を受ける権利を持っていることを保証する義務があるのかということです。

 ベビ−・ドゥ−訴訟以前に、私たちはその答えは明らかだったことを忘れてしまっているのです。知的障害の娘は死んだほうが娘のためになるだろうという自分の考えに基づいて行動する権利が父親にあるかどうかなど疑問に思う人は誰もいないだろうと主張しながら、子どもたちや老人に害となることを、家族の関与とは無関係に、国家や社会が取り上げなければならない問題だとなぜ私たちはみなすのでしょうか?

 ブサラッチ論争は、医療的な決定をすることに関するものではなかったのです。クリスティンは瀕死の状態でもなければ、重体で食物を摂取できなかったのでもありません。実は、一九九一年に父親が栄養管のみの栄養補給を主張する前は、食物のほとんどを口から摂取できていたのです。

 論争は障害のひどさに関するものではなかったのです。現在介護や治療を受けている人で、(いわゆる「反射行動」であっても)クリスティンにできたような、微笑んだり、食べたり、笑ったりすることができない人はたくさんいます。しかし最近の研究によって、「植物状態」という不快で、医学的に検証しようのないレッテルをはられていても、調査された家族のほとんどは栄養補給や水分補給の打ち切りをしたがらないことがわかりました。

 問題は、実際には平等に関することなのです。単に知的障害があるからという理由だけで、知的障害のない人々には与えられなければならないことになっている介護や治療が拒絶されてはならないのです。

 しかし今のところ、ミズ−リ州の最高裁と州政府は、家族の選択が最優先事項であることを認めて、ブサラッチ訴訟のようなケ−スの裁決を拒否しています。さらに私が個人的に調べてわかったことですが、死の決定をする際に家族に喜んで同意しようとする医者を見つけるのは困難なことではありません。

 クリスティン・ブサラッチの計画された死が、家族の権利の勝利として描かれるのを今悲しく見守らなければならないのは、精神的な障害を持った、愛する者に可能な限り最高の生活の質を与えようと努力した私たちのような家族なのです。

 障害者の権利運動は、障害者用の駐車スペ−スや公共の建物が利用できること、障害者のための教育が受けられることを保証する点においては大いに成功をおさめています。障害者が、食物や水等の簡単なものを手に入れることが保証されないときが悲劇なのです。

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