見えるもの、見えないもの

Torode, Sam (トロデ・サム)
許可を得て複製
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

白い上着を着た女性が部屋に入ってきて、室内灯のスイッチを点け、妻の眠りを妨げた。妻・ベサニーは、この一日で一番長く続いた30分ほどの居眠り中だった。医師から充分な眠りをとるよう命ぜられていたにもかかわらず、看護師がひっきりなしにやって来ては体温や血圧を測っていく。

前日、私達はタイ料理店に招かれ、帰宅後、ベサニーが腹痛を訴えた。きっと食べ物のせいだとベッドで休んでいたが、数時間たってもひかないどころか増す一方の痛みに、盲腸かもしれないと救急病院に向かった。予想は的中し、数時間後、合併症の心配もなく(タイ料理に起因する吐き気が辛かった以外は)無事摘出手術を終えた。

すべて順調で予定通りだった。ベサニーが妊娠15週目という点を除いては。手術の時期も最適で、あともう少し早かったら未熟な胎児に流産の危険が、これ以上遅いと胎児が成長しすぎて盲腸摘出は困難だったと判明した。私達の子どもの心音は手術の前後とも無事に確認され、胎児のためというよりもベサニーを楽に眠らせる目的で、局部麻酔が使用された。手術前、ベサニーの体内を超音波で調べると、彼が羊水の中を泳ぐように動き回る様子を見ることができた。(医師に性別を告げないよう言ってあるが、私達の目には「彼=男の子」の印象だった)

ベサニーのお腹はほとんど目立たず、胎動を感じたこともない、わずか4か月でここまで成長するのかと正直驚いた。超音波検査では彼の頭・頭蓋骨・背骨・肋骨・両腕・両腿・両手・両足まではっきり確認できた。ちっぽけな心臓だが確かに160回/分の心拍数を刻んでいる。母体の病状も忘れるほど、彼が蹴り、動き、くるくる回る様子を夢中で見入った。

新米父親は、妻の中に小さいながら完成された人間が存在し、この世に誘われるのを心待ちにしていることを実感しにくいものだ。超音波技師がプリントしてくれた何枚かの写真を、深夜2時の誰もいない待合室に座って、無料セルフサービスのカプチーノを飲みながら、じっくり見て、彼は今頃どうしているだろうと思いを巡らせた。その中の1枚は、彼が口を開けて何か言わんとしているように見える。頭上に技師が書き添えた「こんにちは!」の文字が。


術後の夜、ベサニーは何より休息を求めていたが、テレビが各部屋に2台あり、同室患者は一日中トーク番組を見続けていた。何とか眠ろうとしてもジェリー・スプリンガーとゲストとのうるさい会話が邪魔する。深夜12時近く、ジェイ・レノのナレーションが終わり、ようやくテレビも消された。ベサニーはやっと眠りにつき、私も彼女のベッドの隣の椅子に深く座り、目を閉じた。

だが、すぐに灯りがついた。ベサニーが不機嫌そうに見ると、医師が側に立ち、連絡用ボードに何か書類をはさもうとしながら「気分はいかがですか」と声をかけた。

「疲れました」静かに休める方法を医師に教えてもらいたくて、そう答えた。

その女性医師は、自分は産婦人科医だと告げ、ベサニーの履歴についていくつか質問をし、メモをとり、翌朝、ある検査をすべきだと言う。

「一体何の検査ですか?」眠気と闘いながら尋ねると「アルファ・フェト・プロテイン検診です」と検査の仕組みと、なぜ退院後かかりつけの医師によってではなく、すぐに行うべきかを説明し始めた。

「この検診によって、ダウン症や脳の発達不良といった、胎児の神経異常の有無がわかります。もし異常が見つかった場合は、安全かつ合法とされる期間内に妊娠を止める選択も可能だからです」

ベサニーを見ると、私と同様に不愉快な表情をしていた。ここは福音の宗派に関係しているキリスト教の病院なのに。私達がおかれた状況下で胎児の中絶は微塵も望んでいない、話し合うまでもない案件だ。話をそらすため「その種の検査は、かかりつけの医師とも相談ずみで、受けるつもりはありません」と答えた。

「今が理想的な時期なのです。これ以上先送りにしたら手遅れになりますよ」医師はつきはなしたように続けた。「病院で検査を強要するのは、もし障害児が生まれた際、”なぜ告知してくれなかったか”と両親は我々に責任を求めてくるからです」

「私達はどんなことがあっても中絶するつもりはありません。たとえ障害を持って生まれてこようと構いません。検査は受けません」

「わかりました。そこまでいうなら強要はできませんから」と来た時同様に素早く去っていった。ベサニーは泣き出した。


再び妻が眠り、彼の超音波写真を見直した時、私も涙がこぼれてきた。例の1枚では、腕の骨までほとんど完成しているのがはっきり確認できる。この幼さにしてもうスポットライトを浴びて恥ずかしそうに「こんにちは!」と手を振っているかのように見える。

あの医師がここにいたら訊けたのに、「この写真にうつっているのは一体何ですか」と。

科学においてさえ一個の人間だと承認されているというのに。精子と卵の結合による受胎で、確固たる体内組織をもち、両親どちらの遺伝子とも違う固有の人格をもつ存在となる。受胎間もない、ミクロ顕微鏡を通してしか確認できないごくごく小さな赤ちゃんも、胎内で母のホルモン状態が、新しい生命に栄養を与えうる良好な状態に調整する引き金としての役割を果たしている。その固体は、自然な発達段階にそって、接合子から胎児、乳児、よちよち歩きの幼児からティーンエイジャーへと、根本は変わることなく成長を続ける。

科学はしかし、この人間にどのような価値があるかまでは定義づけていない。子どもを妊娠したが喜ばしくない状況だったり、検査の結果、異状が認められたり、IQが低かったり、神経組織に欠損があり数年以内に死ぬだろうと言われても、どんなことがあっても妊娠を止めてはいけないのではないか!?

聖書では、人は神の姿・かたちに似せて創られたとある。科学的ではないが、詩的見解だ。神の姿はミクロ顕微鏡では見られないし、超音波検査でも確認できないかわりに、詩で言い表されている。

詩編で、創造主への賛美を作者は次のように語っている。

「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている_」(詩編 139:13〜14)   この詩を信じれば、人はみな神の創造力の集大成で、いのちは喜んで受けるべき賜物であり、人が造ったものでもないのに、我々がいのちを奪う権利などない。

もし出会う人がみな神の姿を有するのなら、誰ひとりとして除かれてはならない。身長・年齢・知能の差に関わらず、我々はみな無二の、かわることのできない、はかりしれない価値をもっている。愛のみをもって接するべきだ。

我々が神に似せてつくられているなら、自分以外の誰かにしたことは、究極的には神に対してしたのと同等だ。イエスはこう語る。「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』(マタイによる福音書  25:40)

とりわけ、子ども達にあてはまるとイエスは言う。「そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて、わたしの名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」 (マタイによる福音書  18:2、5)


十二使徒の一人、パウロは、信仰こそが、見えないけれど理想とされる物事を確かめる方法だと著している。だが、見えないばかりが信仰でなく、もう一つ別の信仰もあります。間近に見たり、聞いたり、理解できる種類の信仰もある。

「この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。」(マタイによる福音書  13:15)

この世の中において本物を見極めるには、顔にくっついている字義通りの目のみならず、心の中の詩的な目も開かなければならない。いやされることで、すべてが形作られる。頭と心、科学と詩歌、理性と信仰、これらは反発しあうのではなく、補い合って真実を判断する助けとなる。

深夜1時ちょうど、疲れいるが眠れず、病室でベサニーのベッドの横にある小さなプラスチックの椅子で、姿勢を変えながらどうにか休もうとしていた。再度、子どもの超音波写真を見て、その白黒画像が訴えようとしていることを、しっかり胸に刻もうと決めた。妻の胎内の奥深くで神秘的に育まれている彼の肉体と血液と骨格が合わさった様子を心の中で描いた。この地球に一度きり、とり換えのきかない、ひとりの人間。その生命が続くかぎり、永遠に私達両親に守る責任のある、かけがえのない魂。見えない神の姿が見えるような気がした。

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