「キリスト教と仏教」
ローマ教皇庁訪問雑感

Tanaka Masahiro (タナカ マサヒロ)
田中 雅博(1946年ー2017年3月21日)
元 坂東20番西明寺住職・普門院診療所内科医師
出典 藪坊主法話集
2003年7月掲載
許可を得て複製

健全なる精神は病気の身体に宿る

お釈迦様の病気と死について前回書いた。お釈迦様は死に至る病の覚悟をされておられたので、 死亡の当日まで変わることなく法を説かれた。生まれたものは 必ず死ぬ。これが釈尊出家の課題でした。そして死ぬことを覚悟された。覚悟は「さとり」で、 これによって最高の徳をそなえた人になられた。

我々凡夫は病気になって初めて健全なる精神を得る。 死を覚悟して生きている癌の患者さんの中には仏と共通する人徳をもった人がおられる。健全なる身体には健全なる精神は宿りがたい。古代ローマの詩人ユエナーリスもこれに同感だったのだろう。「 健全なる精神が健全なる身体に宿るようにと祈る」これが人間に許された唯一の祈りだとユエナーリスは書いている。昨年バチカンからの招待でローマを訪れたとき、 巨大なサンピエトロ寺院で私が祈ったのは、私が唯一憶えているラテン語の言葉「健全なる精神が健全なる身体に宿るように」であった。

バチカンでローマ教皇庁医療司牧国際会議に出席した。 現地の新聞の第一面に私がローマ法王と握手している写真が載ったのには驚いた。世界のカトリック関係者七百名の前で仏教の素晴らしさを紹介できて感激だった。会議での私の発表は好評だった。 しかし三日間の会議が終わって緊張が解けると空しい寂しさを感じた。カトリック関係者達は医療現場に積極的に関わっている。仏教は素晴らしいが、 日本の仏教の現状は実践が伴っていない。

旧約聖書と人類最初の女性イヴ

キリスト教の新約聖書はイエスの生涯の物語だが、お釈迦様の十四無記にも通ずる場面があって興味深い。 死刑になるイエスが逮捕された時のピラトの尋問 「真理とは何か?」の答えが無記なのだ。お釈迦様の十四無記とは異質で旧約聖書には天地創造の記載がある。 初めに神は天地を創造された。そして、地はカオス(混沌)であったという。カオスという言葉は別の意味で現代科学に復活した。決定論から導かれる偶然性に関連し、 今後のコンピューターの飛躍的高性能化によって気象現象などの多くの複雑な問題を解決する今世紀の科学の主要な分野と期待されている。

創世記第六日目に神は御自分にかたどって人を男と女に創造された。 これは聖書の記載等から計算すると約六千年前のことになるそうだ。 最初に創られた女性イヴに関連して現代科学では遺伝情報の研究によって興味深い事実が解っている。

ミトコンドリア・イヴ

遺伝情報を担っている物質DNAは細胞の核にある染色体に存在する。細胞内には核以外の小器官があり、 その一つのミトコンドリアは元々は別の独立した生命体であったと推定されている。その理由の一つとしてミトコンドリア内にもDNAがある。 ヒトのミトコンドリアDNAは一万六千五百六十九塩基で構成され 三七個の遺伝子が存在する。数万個の遺伝子をもつ核のDNAと比べると非常に小さいので違いの比較が容易だ。 しかも一個の細胞内に千個以上のミトコンドリアDNAがあるので、組織から大量に収集できて研究しやすい。

排卵された唯一個の卵子と射精された数億の精子の中の一個が受精卵となり両親の核DNAが子孫に受け継がれる。 しかし精子由来のミトコンドリアは発生の過程で破壊されてしまい、ミトコンドリアDNAは卵子由来のみとなる。 ミトコンドリアDNAは既に母子鑑定にも用いられて威力を発揮している。母系だけのミトコンドリアDNAは父系と母系が混在している核DNAと違って系統関係を復元しやすい。 核DNAの場合には十世代遡るだけで四十六本の染色体の由来は 四万七千百四本となってしまうが、ミトコンドリアDNAは何世代遡っても一人の女性由来なのだ。 現在地球人口六十億人のミトコンドリアDNAの由来をたどれば、人類の起源まで一本の線で繋がっている。

このような研究から人類はアフリカで生まれて各地に広がったと考えられるようになった。 現代人にミトコンドリアDNAを伝えたのは唯一人の女性で、この人類共通の大祖母はミトコンドリア・イブと名付けられた。 そしてイブの子孫すなわち現代人に三十五の分岐点を持つ系統樹が明らかにされている。イヴ誕生の年代は聖書に基づく計算よりも古く十四万年から二十九万年前の間とされ、従って現代から一万世代以上位遡ることになる 。一世代で平均四キロメートル移動すれば、地球一周四万キロメートルにイヴの子孫が広がる計算になる。

仏教の真理と女性

お釈迦様の無記は形而上学質問への沈黙であり、従って天地創造に関して質問されても沈黙されたと思われる。 しかし一方で新約聖書に無記のピラトの問い 「真理とは何か」には明確に答えている。お釈迦様の答えは四つの真理すなわち四諦で、これに関する無知が無明だ。 四諦を理解して歩む八正道の究極目標は一 人の女性に喩えられる。その女性の名はイヴではなくヴィドヤーすなわち「明」である。

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