「遺伝子診断と差別」生まれる苦しみ

Tanaka Masahiro (タナカ マサヒロ)
田中 雅博
坂東20番西明寺住職・普門院診療所内科医師
出典 藪坊主法話集
2003年2月
許可を得て複製

河童

芥川竜之介作『河童』は昭和2年に書かれた。物語は痴呆症の主人公によって語られる。「けれどもお産をするとなると、 父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、お前はこの世界へ生まれて来るかどうか、 よく考えた上で返事をしろ、と大きな声で尋ねる・・・すると細君の腹の中の子は多少気兼ねでもしていると見え、 こう小声に返事をした。僕は生まれたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は・・・」。

人間の誕生は本人の思い通りにはならない。お釈迦様は、思い通りにならないこと(苦諦)の最初に「生まれること」 を説かれた。「生」という苦は、お釈迦様の時代と比べると、現在大きく様相を変えつつある。

愚かな行いをする権利

私が好きな愚行権は自己決定権の五要素の一つだ。(1)判断能力のある成人は、(2)自分に所属するものごとについて 、(3)他人に危害を加えない限り、(4)たとえ愚かな選択であっても、(5)自己決定権を有する。 私の曾祖父の名は太愚という。私はこの名前が気に入っていて密かに太愚四世と自称している。 太は大大の意味だから大大愚で痴呆とも共通点がある。

ある遺伝子診断に関する研究が、先日倫理委員会で次回再審査となった。私が判断保留にしたのは、 血縁者に診断結果を知らせるか否かを、検査を受けた本人の自己決定に委ねるという点だった。 はたして自分の遺伝子は自分のものと言えるのだろうか? 同じ遺伝子をもっている家族との共有ではないだろうか。 世界保健機構(WHO)の指針でも、 治療法が有る場合に遺伝的危険性をもっている血縁者に告知をすることは倫理に反しないとしている。 この遺伝子診断に関連して、アメリカでは既に医療保険や雇用での差別の実例が報告されている。日本でも今後、 患者予備軍と遺伝子診断された人の生命保険が心配される。

アルファベット二億五千万字相当

ヒトゲノム(DNAの総体)には約三十億の塩基対があり、四種の塩基三個で一文字六ビットだから、 全体は二億五千万バイトに相当する。遺伝子の数は六、七万(その後二万位に訂正された)といわれている。 二十年位前から遺伝病に関連する遺伝子の情報が蓄積されてきたが、 遺伝病の子供を持つ両親が次の子供の出生前診断を希望する場合が問題だ。出生前診断は、 羊水穿刺や絨毛生検により検査する。これらの検査は比較的安全で、また診断の精度も高いようだ。

優生思想

患者本人のためでなく親や家族や社会のために医療を行うのが優生思想だ。「 しかし両親の都合ばかり考えているのはおかしいですからね」と河童は言う。河童の世界では「遺伝的義勇隊を募る!  健全なる男女の河童よ! 悪遺伝を撲滅するために不健全なる男女の河童と結婚せよ!」と、 ある意味で優生思想と逆の立場だ。これは一概に愚かな行いとは言い難い。 不都合な遺伝形質を持つ子供を産まないようにすると、遺伝子の多型性を減らしてしまう。 遺伝子の多型性は進化や種の存続に必要と考えられるので、 優生思想には人類の種の存続を危うくしかねない自己矛盾がある。 遺伝病保因者が子供をもつ権利や生まれるはずだった子供の人権についての配慮も必要だ。 優生保護法は1996年改正まで(遺伝病でない)ハンセン病の不妊手術を認可していた。 出生前診断が優生思想とは限らないが、遺伝病撲滅が目的で障害者差別が助長されるという心配もある。一方で、 障害を個性としてとらえようとする社会福祉の新しい動きもある。

医療倫理と七仏通戒偈

WHO遺伝医療に関する指針を読むと、私は七仏通戒偈を思い起こす。諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教だ。昔、 坐禅中の唐の巣力という僧侶を、高名な詩人李白がからかって言った。「何をしているのか?」「仏教の心の制御」「 仏教とは何か?」「諸々の良いことをし、悪いことをしない、これができるように自ら其の心を清らかにする、 これが諸仏の教え」「悪いことをせず善いことをするなど、七歳の子供でも知っているぞ」「 七歳の子供でも知っていることだが、私は七十になっても未だにできない」

医療倫理の原則で諸悪莫作に相当する倫理規範は、危害を加えないという原理だ。衆善奉行は、 個人及び家族の福祉を最優先させるという原理。自浄其意は、人々を公正、且つ公平に扱うこと。 諸仏の教えは対機説法であり、自己決定の尊重に通じる。

遺伝データは、本人の承諾なしに、保険会社、雇用者、学校、政府機関に伝えてはならない。 保険会社等はテストの結果にアクセスしてはならない。 健康状態に直接関与しない検査結果たとえば配偶者が実父でない事実等は開示しなくてもよい、等々が指針に含まれている 。

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