2003年正月号「藪医迷僧の診療説法」藪医者生臭坊主

Tanaka Masahiro (タナカ マサヒロ)
田中 雅博
坂東20番西明寺住職・普門院診療所内科医師
出典 藪坊主法話集
2003年1月
許可を得て複製

後ろめたい話

「何か知っていて役立つ医療知識を、なるべく楽しく、抽象論議などは控えめに」という原稿依頼だが、 私には難しい注文だ。苦しむ人との付き合いの毎日だから、楽しい話など思いつかない。

以前テレビで中坊公平さんが言ってた。「医者と坊主と弁護士、この三つの職業は人の苦しみで飯を食っている。 だからある種の後ろめたさを感じた聖職でなければならない」と。中坊さんは弁護士一つだけれど、 私は医者と坊主の二つだ。二倍の後ろめたさを感じなければならない。

現代医学

西洋医学という言葉がある。この言葉を聞くと私は何となく嫌な気分になる。東洋医学という言葉も同じだ。 これらの言葉を私が使う場合、私は過去の歴史上の言葉として用いる。科学である現代医学に西洋も東洋も無いからだ。

しかし、これらの言葉が、現在でも西洋と東洋に別の医学があるかのように勘違いして使われることもある。 この他に代替医療や民間療法などという言葉もある。勿論これらの言葉の意味をよく知っていれば問題はない。 しかし間違うと大変な被害をうけることがあるので注意が必要だ。実際これまで、その様な被害の相談を沢山受けた。

お釈迦様の出家の理由、老病死という問題は、現代では医療従事者以外の人々の目に触れにくい状況にある。 しかしこの仏教の根本問題は、現代でもお釈迦さまの時代と変わらず、本人の思い通りにはならない。 いつまでも若く元気で死なない人などおらず、人生の死亡率は相変わらず100%だ。しかし病気の治療に関しては、 お釈迦様の時代よりも現代の方が優れている。現代医学の特徴は科学という批判方法にある。良いものを選ぶ方法として、 実験と観測というテストで間違いを探す。間違っていることが解ったら、その知識を捨てる。科学以前の時代には、 間違った知識と共に心中していたわけだ。

人体実験

科学に反することを探し続けることこそが科学なのだ。世界規模の間違い探しで常に進歩している。 そこで問題となるのが人体実験だ。人に関する科学にとって、最終的には人体実験が不可欠だ。 そして人体実験は倫理委員会で充分な審査を受けなければ行えないようになっている。 倫理委員会を通っていない研究論文は受理されない。

論文は審査員によって厳しく間違い探しが行われ、合格しなければ拒否される。 このような論文の蓄積全体が現代医学なのだ。この厳しい科学の土俵に乗らないで行っている民間療法や代替医療は、 倫理委員会を通さず結果の公表もせずに人体実験をしているようなものだ。

このことをよく理解していないと、現代医学で良い治療法が無い場合に、インチキ医療の被害を受ける可能性がある。 民間療法を勧める人も、悪意からではなく、善意で病気を治してあげようと思っているから事は難しくなる。 民間療法が効くという根拠は、厳しく批判された人体実験の結果ではない。もしそうであれば、 それは現代医学の知識として世界中で利用される。民間療法の宣伝根拠は、多くの場合、治った事例報告と理屈だ。 どちらも科学的根拠ではない。どんなに治った人の事例があっても効くという証拠にはならない。 治らなかった事例の方が重要なのだ。また、科学では理屈を言うことも捨ててしまった。

日本に蘭学として入ってきた頃、西洋医学では、例えば、吐き気を催した患者には吐剤を与えた。「 自然が吐かせようとしているのだから吐かせた方がよい」 という理屈だ。勿論現代医学では、吐剤など使わない。逆に吐き気を止める薬を使う。タバコを食べてしまったとか、 何か身体に悪いものが胃の中に残っているような場合は別だ。吐き気を起こす原因は沢山ある。例えば車酔い、 この場合は内耳の平衡感覚器官が刺激されて吐き気が起きる。つわりの吐き気は子宮の刺激だ。 どこが刺激されても吐き気は起きると言ったら言い過ぎかもしれないが、胃内容が吐き気の原因であることは少ない。 しかし現代でも、吐き気があると「胃が悪い」と思いこむ人がいる。 

自然は良いものという迷信は根強く残っている。しかし、自然ほど危険なものはない。科学以前の方法では、 それが原因で何十年もたってから起こる病気のことなど解らなかったのだ。 科学によって現代人の平均寿命は飛躍的に延びて長寿社会を迎えることになった。

非科学的なもの

科学で扱える問題、それは間違っていることがテストできる問題に限られる。 科学で扱える問題を科学以外の方法で解決しようとするのは愚かなことだ。しかし、科学で解決できない問題が沢山ある。 科学は、価値や善悪の問題を扱えない。非科学の重要性がここにある。間違いがテストできない場合、 どのようにして良いものを選ぶことができるだろうか。それは古典研究だ。 学者達による批判研究の長い歴史を絶えて残った文献、古典を参照して私たちは非科学的な問題の解決を計ることが出来る 。

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