生死の移行期間

Takami Haruhiko (タカミ ハルヒコ)
高見 晴彦
出典 たとえ明日 私が葬られるとしても
2016年12月23日
許可を得て複製

時折、ぼこにゃんが目の前にいることが現実なのか夢なのか一瞬分からなくなることがある…と薄々思っていたら、 実は妻も同じようなことを思っていたようです。

これはおそらく、関係性の不安定さ、つまりは未だ実感が十分ではなく、 認識があやふやに過去と現在を行ったり来たりしているために起こることではないかと考えられますが、W・R・ ラフルーアが「水子-<中絶をめぐる日本文化の底流>」の中で指摘した(※過去記事)、「 人間の幼児期及び老年期はその二つの世界にまたがる曖昧な時期だと日本人に捉えられていた」 ということの要因のひとつが、この確実でないものを確実でないとそのまま受け止める感性にあったのではないか、 という気がしています。翻ってキリスト教は、人間にとって確実と言えないものも、 全能の神にとっては確実であるという前提に立つわけですから、クリスチャンとしての自分の信仰を問われたときに、 どうしても自信がなく思えてしまうのは、 こういったキリスト教的感性と日本人的感性のずれが自身の中で消化し切れていないという理由が大きいのかもしれません 。クリスマスも間近に、相変わらずの不良信徒です(;´Д`)

ところで、ラフルーアの考察がそうであるならば、高齢者についても同じように感じる可能性が十分にあるはずなのですが 、現代日本の現実を見るとあまり当てはまっていないようにも思えます。この理由のひとつには、 高齢者の看取りが身近でなくなっていることがあるように思います。終末期を福祉施設や病院で過ごす人が多くなり、 家族と生活が個別化することで、この曖昧な時期、つまりは肉体的精神的に衰え、徐々にできることが限られてゆき、 いつか枯れて終息を迎えるという、生から死に移行する期間を家族が共有する機会が減少しているからではないでしょうか 。もちろんここでも、西洋医学の流入により、死が時間上において点になったことも少なからず影響しているとも思います 。

そして、日本人のグリーフワークは、この曖昧な移行期間のうちにすでに始まっていたのではないか、 ということも考えてしまいます。死後についても、中有の期間(四十九日の間)などがあることが、 グリーフワークに良い影響を与えるのではないかといって海外からも注目されているようですが、 この死の前後に跨がる長い移行期間を持つことで、 日本人は死を非常に緩やかに受容していく感性がもともとあったのではないでしょうか。気忙しい現代社会において、 近親者の死も、できるだけ短期間で受容しなければならないという必要に迫られているのだとすれば、残念なことです。

(**ぼこにゃんは著者の子どものニックネームです**)

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