着床前診断って必要なのですか?

Suzuki Nobuyuki (スズキ ノブユキ )
鈴木 信行
出典 朝日新聞の医療サイト「アピタル」
のぶさんの患者道場 2013年1月16日
許可を得て複製

すっかり出生前診断の流れができてしまっていますが、今日はさらに問題点が多い着床前診断の話。

2012年10月に、ある誌に、ひとりの患者という立場から着床前診断について書かせていただきました。

今回は、その際に私が書いた内容を、このアピタルでも紹介させていただきます。

先天性疾患の「二分脊椎」。それが私の疾患である。遺伝性疾患ではなく着床前診断の直接的な対象ではないが、 出生前診断で判明する例が多く、実質的にいのちの選別をされる対象である。

さて、私が思うに、そもそも着床前診断という医学的技術が人間社会に必要なのだろうか?  生まれてきた胎児に障害があってはいけないのだろうか?

着床前診断という技術により多くの健常ないのちがこの世に誕生したということは喜ばしいと思う。しかし、一方で、 障害がある子は我が子としては不要との考えがないとは言えまい。私を含め、先天性疾患を持つ人間は、 この世に不要であろうか? 生きる価値はないのだろうか? 一人ひとりの価値を、その夫婦だけでなく、 親族や医療者などが集結しても見いだせないとすれば、その個人や医療者の問題ではなく、社会が貧弱であると、 私は感じる。

それよりも、障害があり育児の手間が必要な子どもたちには、夫婦二人に育児を任せるのではなく、 保育園の柔軟な運用など、社会として広く受け入れる体制の整備が優先されるべきだと考える。

また、着床前診断の技術により妊娠の機会を得た夫婦がいることも理解する。しかし、不妊ではいけないのだろうか?  着床前診断という技術があるがために、本来は単に子どもが授からないだけの夫婦が、患者として医療にかかるという、 いわば「技術が患者という存在を作る」ことになっていないだろうか?

私自身、既婚であり、不妊症でもある。このような夫婦をもっと暖かく認める社会があってもいいのではないか。

ただし、いまさら着床前診断や新出生前診断が浸透する流れは止められないのも現実である。一方で、倫理的な議論は、 場当たり的で数少ないシンポジウムや一部の医療者間でしか行われておらず、 国民的コンセンサスが得られているとは到底言えない。本来、着床前診断の意義や国内での運用の検討などは、 医療者だけに任せることではない。

着床前スクリーニングも、医師と妊婦だけの狭い世界の出来事ではなく、 マスメディアや遺伝カウンセラーの活用などを含め、受診する妊婦の側が賢くなる仕掛けが必要である。

しかし、現状では、一人ひとりが自分なりに答えを出すしかない。そのためには、もっと一般市民を対象にした「教育」 を推進するべきである。一般市民 に必要なのは、着床前診断の技術的な話ではない。有名大学の肩書きが並ぶような方の話でもない。 私のような二分脊椎をはじめとして、先天性疾患の人間をしっかりと見て、その上でいのちとは何かを考える場である。 役所などで定期的に講演会などの教育の場を作り、婚姻届を出す夫婦に案内するなど、やり方はいくらでもある。実際、 高校や大学で行う私のいのちの講演は、生徒や学生から大きな反響がある。 若者の多くは純粋にいのちの大切さを理解しているのだ。

着床前診断、そして新出生前診断の技術の展開については、単に医療の狭い世界ではなく、 幅広い視野から多くの立場の方を巻き込んで、世論が醸成されていくことを強く期待する。

以上です。

出生前診断とは違い、着床前診断は(受診者側ではなく)医療者が選別をしているというところも、 さらに問題を複雑にしています。

みなさんはいかがお考えでしょうか。何が正しいではなく、こういう話をもっとオープンに語り合える場が、 もっと普通に街中にあるべきかな、と私は考えています。

さて、次回は、病気と就労の問題について、考えてみたいと思います。

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