荻野久作博士 (世界の荻野) 4

Suzuki, Atsushi (スズキ・アツシ)
鈴木 厚(内科医師)
出典 平成医新
許可を得て複製

ヴァチカン公認の避妊法

オギノ式避妊法が世界的に有名になったのはスマイダー医師の宣伝がきっかけであったが、 オギノ式避妊法がキリスト教の教義に反するかどうかの議論は決着がつかないままであった。 非公式にはヴァチカンはオギノ式避妊法を認めていたが、オギノ式避妊法に賛成する信者もいれば、反対する信者もいた。 キリスト教はそれまで堕胎はもちろんのこと、避妊さえも公式に認めていなかった。 性行為は子供を作ることが目的であって避妊は堅く禁じられていた。妊娠中の性行為、不妊症夫婦の性行為、 性器以外を用いた性行為、このような妊娠に結びつかない性行為の是非が議論されていた。旧約聖書では、オナニー、 膣外射精でさえも罪とされ、オナンが神に罰せられたと書かれている。しかし時代の流れの中で、 キリスト教がそれまで罪悪視してきた避妊を認めるべきではないかとの議論が盛り上がってきた。 妊娠に結びつかない性行為を宗教的にどう扱うかが議論されるようになった。

そして昭和43年、キリスト教の歴史の中で初めて避妊を認めるか否かの会議が行われた。 避妊についての諮問委員会が開催され、世界中の神学者や医師が集まり議論がなされた。 諮問委員会の意見は避妊容認に傾いていた。そして最後の決断がローマ法王パウロ六世に求められた。 カトリックの長い歴史の中で、初めてピルやコンドームを認めるかどうか、 世界の7億人近いカトリック教徒が法王の決断に注目した。

ちょうどその当時は、フリーセックスなどの言葉が流行し、世界的に性道徳が乱れていた時代であった。 この時流にローマ法王が妥協するか、あるいはこの流れに釘を刺すのか、世界中が注目した。

パウロ六世はこの難題を前に苦悩していた。そして法王は「自然なる性の力を人工的に阻むことは、神の意志に反する」 として、直接に受胎を妨げるピルやコンドームなどの使用を罪として退けた。しかし一切の器具や薬品を使用しない、 禁欲と月経周期を考慮したオギノ式のみは除外するとしたのである。オギノ式だけを唯一の避妊法として認めたのだった。 パウロ六世は荻野学説を「神のおぼしめしの学説」として全世界のカトリック教徒に公表した。「器具や薬品を用いず、 神の定めた人間の身体の法則に従うことは、決して神意に反しない。もし神がこれを嫌うならば、 神は何故人間に不妊期を与えたのだろうか」。 このパウロ六世の発言によりオギノ式避妊法はバチカンが公認した避妊法として世界中の脚光を浴びることになった。 神様でさえ解決できなかった問題をドクター・オギノが解決したと世界中が騒ぎ出した。

オギノ式乱用者に告ぐ

オギノ式避妊法は世界的に有名になったが、荻野が発見したのは「月経と排卵の関係」であり、 それを応用したオギノ式避妊法は彼にとって不本意のことであっ た。荻野学説は子供がほしい人にとっての受胎法であり、あるいは多産による貧困を避けるもので、 通常の避妊を目的とするものではなかった。しかしその考えとは反対に、オギノ式避妊法が世界的に普及し、 多くの避妊法の中で唯一カトリックが認める避妊法となった。仏教徒である荻野は宗教的論争には関心はなかった。 にもかかわらずオギノ式避妊法はオギノ式受胎法をしのぐ勢いで世界中に広まっていった。 荻野は昭和39年の文藝春秋1月号に「オギノ式乱用者に告ぐ」という題の文章を書き、 オギノ式に従うかぎり1日といえども安全日はない、どうしても子供がほしくなかったら、 オギノ式避妊法の乱用はやめなさいと述べている。

オギノ式避妊法は月経から排卵日を想定して禁欲する方法であるが、避妊法としては失敗例が多かった。 次の月経を基準に不妊期をはじき出すため、月経周期がずれれば失敗につながった。 月経周期が安定している日本の女性は2割程度と意外に少なかった。 今度の月経は何日頃だからその前の10日間は子供ができないだろう、また月経前後1週間は妊娠しない、 といったいい加減な方法が用いられた。あまりに多くの人たちがきちんと計算をしないで、「今日は安全日」「 1回ぐらいは大丈夫だろう」などと曖昧な言葉を口にしながら利用した。そのため失敗例が多く、荻野自身も「 失敗率100%」というほどであった。月経が順調な女性でも次の月経を決めるのは難しいことで、 どうしても子供を欲しくない夫婦にとってはオギノ式避妊法の乱用は危険であった。

オギノ式避妊法は月経周期を6回以上記録し、もっとも長い周期と、もっとも短い周期をみつけ、 それをこれからの予定月経日とする。それに精子の生存期間を3日、卵子の生存期間を2日と想定し、 さらに安全のため2日を加え、安全日をカレンダーにマークするという面倒なものであった。 またオギノ式は次の月経を基準とするため、月経不順な女性にとっては一日といえども安全な日はなかった。 このように計算が面倒で、月経周期が不順な女性には適さないことから、 オギノ式避妊法を用いて思わぬ子供を身ごもった例が多かった。成人のほとんどはオギノ式避妊法の名前を知っていたが、 その正確な計算法を知らなかった。またいざというときのために、 月経周期を6回以上記録して準備している女性は皆無に等しかった。オギノ式避妊法は性感を害せず、無害で、 費用もかからず、失敗しても胎児に影響を与えないという利点があるが、失敗例も多かった。 荻野学説は正しかったが避妊法としての応用は難しいといえた。

避妊法のリスク

とはいえ、その後もオギノ式避妊法は世界中に広まっていった。特に信心深い夫妻たちにとって大きな福音となった。 世界中の厳格なカトリック信者たちにとっては、今でも、「法王が認めた避妊法」 としてオギノ式避妊法だけが用いられている。

現在、排卵期と月経との関連性についての荻野学説はすでに定説となっている。昭和20年頃、 アメリカのリューペンスタインは「排卵日には女性の体温が0.3から0.5度下がる」ことを発見、 これが後に基礎体温法として避妊に応用されたが、基礎体温法によっても荻野学説の正しいことが証明された。 荻野学説は欧米の教科書にも記載され、単なる学説ではなく人体の生理的真実の発見として評価されている。 またこれほど一般庶民の生活に密着した学説も珍しいものである。

昭和40年の国立社会保障人口問題研究所のデータによると、日本人の避妊法の約6割がコンドームで、 約4割がオギノ式であった。このようにオギノ式避妊法は多くの日本人に用いられていた。現在、 日本では約8割がコンドーム、欧米ではピルに取って代わられオギノ式は1割前後で、以前ほど用いられていない。 しかし今日でも、安全日はオギノ式、 危険日はコンドームというように2つを組み合わせて用いるカップルが多いのが現状である。 妊娠しやすい時期を避けて性交するオギノ式避妊法は薬剤や器具を用いないため安価で安全であるが、 いい加減な計算による失敗例が多かった。

昭和50年頃から基礎体温法による避妊法が一般に広まってきた。基礎体温法はオギノ式と同じ周期避妊法であるが、朝、 目を覚ました直後、身体を動かす前に婦人体温計を口の中に入れ体温を測る方法で、面倒で煩わしいという難点があった。 さらに基礎体温法は禁欲期間が長いこともありオギノ式よりも普及していない。

なお、オギノ式や基礎体温法できちんと避妊しても、女性が1年間で妊娠するのは100人中約15から20件、 コンドームでも12件、ピルを用いても約3から7件とされている。

驚異的業績の数々

荻野が女性の神秘を真正面から研究し、「排卵と月経の関係」を解明したことは、 人間の身体の謎のひとつを解き明かすものであった。誰も解明しえなかった人間の永遠の真理のひとつを解明したのだった 。しかも特記すべきは、彼の研究成果は新潟医大病理学教室という研究の場はあったものの、 そのほとんどが日常診療からヒントを得たものであったことだ。開腹手術時の卵巣の観察、 排卵痛を訴える患者の言葉を見逃さなかったこと、妻をはじめとした看護婦や患者の月経カレンダー、 このように日常診療における観察の積み重ねが大きな成果をもたらした。荻野久作は158センチの小柄な身体であったが 、その身体には診療と研究を両立させる大きなエネルギーと情熱が隠されていた。

荻野久作は荻野学説で有名になったが、ほかにも多くの業績を残している。 京都大学の岡林秀一教授が開発した子宮頚部癌の手術法に独創的な改良を加え、「岡林術式荻野変法」 という合理的で根治率の高い子宮頚部癌の術式を開発し普及させた。 この手術法は現在の子宮癌治療の基礎をつくったとされ一般には荻野術式と呼ばれているが、 あくまでも岡林術式荻野変法として発表したことは彼の謙虚さを象徴している。

大正10年から昭和26年までに行った子宮癌の手術件数は674件で、患者の5年生存率は61.1%であった。 当時としてはこの治癒率は驚異的成績であった。荻野は手術をした患者の術後の経過を年単位ですべて記録していた。 消息不明の患者がいると、本籍や現住所の役所に出向いて患者の予後を調べた。 このように彼の研究は緻密でデータは正確であった。そして荻野久作の子宮癌の手術件数、 治癒した患者数は世界一というのが医学界での定説となった。 市中の多忙な開業医の仕事の中で現在の子宮癌手術の基礎を築き上げ、 さらに58におよぶ論文を書いたことも驚異的な業績である。

偉大な真の臨床医

荻野は竹山病院の勤務医として60年以上にわたり、生涯に25万人の患者を診察し、約7000人の患者を手術した。 新潟市の人口は40万人であることを考えると驚くべき数値である。彼は無口であったが、 温厚で優しい診察態度は多くの患者の共感を得ていた。新潟市民にとって荻野久作は新潟の誇りであり、 頼りになる存在だった。産婦人科医として、日曜でも夜中でも急患があれば病院に駆けつけた。昼は町医者として働き、 夜は研究者として勉学に励み、学問と診療一筋の半生であった。 そしておハナさんの排卵痛の言葉を聞き逃さなかったことからも分かるように、患者の話をよく聞き、 患者を注意深く観察し、両手で診察し、そして患者の病態を考えたことが臨床医として尊敬すべきところであった。

この臨床に対する鋭い観察力が偉大な荻野学説に結びついたのである。臨床経験から荻野学説を作り上げた荻野久作は、 その意味では本当の臨床家であった。現在のように、コンピュータの画面ばかりを見ている医師は、 この臨床医としての荻野久作の診療に対する基本的姿勢を是非とも学んでほしいものである。

そして臨床ばかりでなく真理を追求する科学者としても荻野は鋭い情熱を合わせ持っていた。 学問の常識に流されることなく、常に真理を求めていた。医師として、 あるいは学者としての価値観が他の人物とは違っていた。出世は眼中になく、各大学からの教授就任依頼、 大病院からの引き抜きをすべて断った。名声を顧みず、町医者を自認し、聴診器とメスで新潟市民の健康のために尽くした 。お金や名誉にはまったく無頓着で、名誉よりも新潟市民を愛し、患者が回復することを喜び、 生まれた赤ちゃんの泣き声を聞くことを何よりの楽しみとしていた。

昭和26年、荻野久作は新潟市名誉市民の称号を受けた。昭和30年、世界不妊学会名誉会長となり、 昭和41年には勲二等の旭日重光賞を受賞した。 勲二等の旭日重光賞を受賞したのは荻野学説による人口問題への貢献がその理由であったが、朝日新聞は「 法王が認めた避妊法」との見出しを掲げ荻野久作の業績を説明した。荻野があまりに有名になったため、 新潟大学の産婦人科教授になる人がいないといわれたほどであった。多くの講演の依頼があったが、 竹山病院の診察を優先し、そのほとんどを断った。荻野は新潟の産婦人科医として、一人ひとりの患者を大切にしていた。 人間そのものが偉大だった。

昭和11年から昭和32年まで竹山病院の院長を務めたが、院長の職を辞してからも同病院の婦人科の医局員として勤務し 、80歳を過ぎても手術をおこなった。90歳まで診察を続け、 メスは持たなかったが手術の見学を唯一の楽しみとしていた。 新潟の人々にとって診察一筋の荻野久作は偉大な臨床医であった。

昭和50年1月1日、荻野久作は新潟市寄居町の自邸で老衰によりその生涯を安らかに終えた。除夜の鐘の音に耳を傾け、 静かに雪の降り積もる中、眠るように息を引き取った。明治15年生まれの92歳、 それは長寿をまっとうした大往生であった。1月15日の葬儀は新潟市と竹山病院の合同葬として行われた。 葬儀の日は汚れたものを全部包み隠すような大雪だった。電車も飛行機も止まるほどの大雪であったが、 多くの市民はオーバーを脱ぎ、荻野久作の好きだった「蛍の光」を歌い、別れを惜しんだ。

荻野久作が亡くなった時、地元の新聞は佐藤総理よりノーベル賞にふさわしい人物と書いた。 たしかに彼はノーベル賞にふさわしい人物であった。それは学者としての業績だけでなく、 新潟の片隅で何万人もの患者のために力を尽くした医師としてふさわしい人物であったと回想される。

荻野久作は新潟市寄居町に住み、自宅前の市道「寄居通り」を60年近く毎日のように竹山病院に通っていた。 昭和50年3月29日、荻野久作の功績を称え「寄居通り」は「オギノ通り」と名称が変えられた。また平成14年には、 荻野の自宅跡にオギノ公園が完成した。

緑と花があふれ、せせらぎの流れるオギノ公園には、 椅子に座りタバコを楽しみながらバラを眺めている荻野久作博士の銅像が建てられている。 彼の慈愛に満ちた優しい人柄をその銅像からしのぶことができる。 オギノ公園には荻野久作が愛したバラが数多くの花を咲かせ、新潟市民の憩いの場所となっている。 世界的な学者でありながら名誉を欲せず、新潟市民のために尽くした荻野久作、 その名前は永遠に新潟の地に残ることになった。 (完)

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