荻野久作博士 (世界の荻野) 3

Suzuki, Atsushi (スズキ・アツシ)
鈴木 厚(内科医師)
出典 平成医新
許可を得て複製

ついに排卵時期を発見

排卵痛を訴える女性はそれほど多くない。おハナやドイツの女性に当てはまっても、すべての女性に当てはまるとはかぎらない。次回の月経が排卵時期を決定するという結論を出すにはまだ早かった。荻野の推論が正しいかどうかの検証が必要だった。

荻野は65例の開腹手術で子宮内膜、卵巣、黄体を観察しており、詳細な記録を残していた。そして手術後何日目に月経が来たのかを記録していた。黄体の状態と月経との関連を調べてみると、例外なく月経前の12日から16日に排卵日が集中していた。このことは排卵は次の月経と密接な関係をもつが、月経が次の排卵を決定することはないことを示していた。

また患者に書いてもらった月経カレンダーの膨大なデータを調べてみると、月経カレンダーは荻野の考えを裏付けていた。そこで彼は「排卵は次の月経予定日から逆算して、12日から16日前の5日間に起きる」とする新説を唱えたのである。多くの学者が「月経から何日目に排卵がくるか」で争っている時に、不妊患者おハナの言葉をヒントに、「排卵日を次の月経から逆にさかのぼる」という天才的な発想であった。

ついに荻野久作は世界で初めて排卵時期を発見した。女性の月経周期がまちまちなのは、排卵から次の月経までの期間(黄体期)は一定しているが、卵胞が大きくなって卵巣から排卵するまでの期間(排卵期)が一定していないことが原因であった。だから月経を起点に排卵の日を計算する方法では、一定しない排卵期を算出することになり混乱を生じていたのだった。

排卵後に黄体ホルモンによって子宮の粘膜は柔らかくなり、受精卵が着床しやすい状態になる。そして受精しなかった場合に、黄体ホルモンの低下により子宮内膜がはがれ血液となって体外に排泄される。これが月経の本態であった。だから月経から排卵日を求めるのは大きな間違いであった。月経は妊娠しなかったための結果であった。荻野久作はついに女性の神秘の謎を解いたのである。

さらに荻野は自説が正しいことを証明するために妻に頭を下げた。予想される排卵日を避けて性交し、妊娠しないことを確認する。次に、予想される排卵日に性交して妊娠する。この人体実験を妻に頼んだのである。妻のトメは、子供は天からの賜りものだから、意図的に子供をつくるような実験に最初は応じなかった。 しかし久作の学問的熱意に負け、しぶしぶ応じることになった。そして荻野の学説どおり1年後に妊娠した。大正13年9月に次男の荻野博が誕生、次男は荻野学説を証明する子供となった。

荻野はこれまでの成果を2つの論文として同時に完成させた。「人類黄体の研究」を大正12年、「北越医学会雑誌」第38巻第1号に発表。「人類の黄体の発生について」は「日本病理学会雑誌」の同年2月号に掲載された。黄体発生機序について書かれた論文であるが、その中で「月経は排卵によって起きる」という新しい知見を示していた。

大正13年、荻野久作は東京帝国大学に主論文「人類黄体の研究」を提出し、同大学から医学博士号を取得した。この博士論文の審査に関し、担当教授はこれまでの学説とはまったく異なっている論文に対し、学位授与を思いとどまるように周囲から忠告を受けたほどである。

そして同年、この基礎研究をさらに発展させた論文が「排卵の時期、黄体と子宮粘膜の周期的変化との関係、子宮粘膜の周期的変化および受胎日について」という長い題名で「日本産婦人科学会誌」第19巻第6号に掲載された。この論文で、「婦人の排卵期、つまり婦人の受胎期は、月経の長短にかかわらず、次にくる月経の12日から16日前までの5日間である」ことを証明した。

それは竹山病院の118例の症例を検討しての論文であった。この論文の中に、1人の女性の月経記録が記載されていた。実名は伏せられ37歳の女性と紹介されていたが、その記録は自説を証明するための妻との12ヵ月におよぶ人体実験のデータであった。月経は斜線、性交日は×で示されていた。はじめの10ヵ月は排卵予定日とずらした日に性交し、そして11ヵ月目は排卵予定日に一回だけ性交するという実験であった。そして最後の×印の後に月経が停止し、見事に妊娠したのである。

荻野学説が認められる

この論文が、「排卵と月経の関連性」を明らかにした荻野学説の最初の論文となった。それまでの産婦人科医の常識は「月経があって排卵が起きる」というドイツ学説によるものであった。しかし荻野学説はドイツ学説を完全に否定する「排卵があって月経がくる」という考えであった。排卵と月経のメカニズムを、次回の月経に結びつけるという偉大な発想であった。荻野は人間の原点ともいえる排卵時期を発見したのだった。

論文発表の翌年、名古屋で行われた第23回日本産婦人科学会総会で、荻野久作の論文が産婦人科学会の懸賞論文に当選した。学会会場にいた荻野はまさか自分の論文が当選するとは思っていなかった。あまりの名誉に驚き、会場を飛び出し鶴舞公園をとめどなく歩き回った。

懸賞論文は「日本婦人科学会誌」に発表された最も優れた論文を、年に一編だけ選び懸賞金を与える制度である。この懸賞論文の制度は、日本産婦人科学会を創立した荻野の恩師である木下正中東大教授が設けたもので、すでに木下教授は退官していたが500円を学会に寄付をしてつくられたものである。荻野には金メダルと賞金200円が渡された。

懸賞論文は学会評議員によって決められるが、荻野の論文を当選させるかどうかで収集がつかないほどもめた。それまでの懸賞当選論文は動物実験ばかりで、臨床研究から大きな発見がなされた論文はなかった。また「月経や性行為が排卵の誘発となる」というこれまでの常識が、荻野の学説では婦人の排卵には誘発というものはなくなってしまう。また、「月経とは排卵後に形成される黄体に由来する黄体ホルモンの分泌量低下に伴っておきる出血」となる。このことはそれまでの学説とはまったく違っていた。荻野の論文はあまりに画期的すぎて、評議員たちは世界で初めて排卵期を発見したこの学問的価値を判断できなかった。しかも大学教授や助教授の論文ではなく、田舎の民間病院の医師の論文である。「田舎の医者に何がわかる」という偏見が強かった。荻野学説が間違っていたら当選させた評議員に責任がおよぶ。このような意見が出され当選論文とすることに反対する委員が多くいた。しかし会長のとりなしで荻野の論文は当選となった。そして彼の当選論文は英訳された。

ドイツ留学と海外での支持

この論文を発表した後、反対説も多く出たが、荻野学説は比較的容易に日本の医学界で受け入れられた。しかし彼は荻野学説の真価を世界に問いたいと考え、昭和4年8月、ドイツに1年間留学することを決意した。荻野はドイツ語の読み書きはできたが、ドイツ語はしゃべれず、英語もしゃべれなかった。紹介状も持たず、「ドクトール・オギノ」の名刺を持って婦人科で有名な大学を訪ねてまわるという無謀な留学であった。それでもベルリン大学の産婦人科教室では、手術やお産の見学をさせてもらった。言葉は分からなくても、手術やお産は見れば分かるので勉強になった。そして持参した論文をベルリン大学に提出し、「ドイツ婦人科中央雑誌」に「排卵日と受胎日」と題する論文を発表した。そして「婦人の受胎期は月経周期の長短にかかわらず、次回月経前12日から19日の8日間である」とする論文は世界の常識をひっくりかえすものであった。

次の月経から排卵日を逆算する荻野学説は、学者たちから多くの批判を受けながらも世界的に大きな反響を生んだ。彼が「ドイツ婦人科中央雑誌」第22巻第2 号(1930年)に提出した「排卵日と受胎時期」の論文は、(1)受胎時期は次に来るべき月経前の12から19日目の8日間である。(2)次の月経前の20から24日目の間では受胎は可能であるがまれである。(3)次の月経前の1から11日目の間では受胎は不可能である。このような結語であった。

これまでの考えとは逆である荻野学説に反論が出るのは当然であった。荻野学説の真偽を問う議論が白熱する中、荻野学説の追試が始められた。第24回ドイツ婦人科学会総会でアルブレヒト教授は「ドイツ女性1033例中、荻野学説に当てはまるもの1000例、当てはまらないもの33例」との成績を発表し、荻野学説を支持した。他にも多くの産婦人科医が追試して荻野学説の正しさを証明した。また実験結果も次々に荻野学説を支持していった。

海外に広まるオギノ式

昭和5年7月、荻野久作が帰国するとスイスの国際連盟から手紙がきていた。その内容は、オランダのスマイダー医師から荻野の論文をオランダの医学雑誌に転載してよいかどうかの照会であった。荻野が許可すると、スマイダー医師はオランダの医学雑誌に荻野久作の論文を転載するとともに、「この荻野学説は周期的禁欲法として避妊に応用できる」と宣伝文を挿入したのだった。さらに「オギノ式避妊法はキリスト教徒に対する救いの手である」という文章で賞賛した。スマイダー医師はカトリックの医師で、それまでの周期的禁欲法があてにならないことを知っていた。そこでオギノ式なら絶対に大丈夫だと紹介したのだった。これによってオギノ式避妊法が脚光を浴び、荻野久作の知名度は海外で加速度的に高まっていった。特にキリスト教徒のあいだではオギノ式避妊法が大反響で迎えられた。

キリスト教徒たちは避妊具の使用は禁じられていて、夫婦であっても子供をほしがらない夫婦、あるいはこれ以上子供を欲しくない夫婦は、生涯にわたり夫婦間の性行為はできないという難問に直面していた。オギノ式避妊法は1、2年の間に世界中のカトリック信者の間で広まっていった。「避妊暦」が市販され、カトリック信者以外の人々の間でも流行することになった。そして大流行とともに、オギノ式を避妊法として用いることがキリスト教の教義に反するかどうかの大論争が始まった。

荻野学説の目的は子供をほしがる夫婦のための受胎法であったが、その本来の目的をはずれ、いつのまにか避妊法として一人歩きしていった。荻野学説はもともと妊娠を希望する夫婦が、妊娠しやすい排卵日を知って妊娠に役立てるためのものであった。しかし逆に、妊娠したくない人にとっては妊娠せずにすむ避妊法と受け取られ、このことから新潟の荻野久作は世界のドクター・オギノになった。その後、この欧米の反響が日本に逆輸入され、荻野は日本でも有名となった。

国内でも有名に

日本国内では荻野久作の新しい学説は産婦人科医の間では有名であったが、一般人の間では知る人は少なかった。最初に荻野学説を一般人に紹介したのは、昭和2年の「主婦の友」12月号である。「誰にでもわかる、妊娠する日と妊娠せぬ日の判別法」という記事であった。この文章は医師、赤谷幸蔵が書いたもので、 荻野学説に基づいた妊娠暦の紹介であった。つまり荻野学説によって受胎期が算定できることから、受胎調節が可能とした。しかしこの時期には受胎調節法であるオギノ式避妊法はまだ一般には浸透していなかった。

新潟の民間病院の勤務医だった荻野の学説が注目されるようになったのは欧米からの逆輸入によってである。昭和8年に雑誌「産科と婦人科」が創刊され、その第1号に荻野学説が紹介され、徐々に荻野久作の名前が日本でも浸透するようになった。当時は昭和不況下で、子だくさんに悩む人たちが多かった。そのような人たちの間でオギノ式避妊法が迎え入れられた。しかし戦争が激しくなると「産めよ増やせよ」の富国強兵の国策に沿った受胎法として紹介されることになる。 戦争時代は避妊法を語るのは禁句という雰囲気があった。避妊を口にすることは国賊と言われてもおかしくはなかった。荻野自身も避妊法と受け取られるのは迷惑で、むしろ子供をほしがっている夫婦に役立つ学説であると主張した。しかし婦人雑誌は競ってオギノ式の計算機を付録につけて宣伝した。うまく妊娠する方法と紹介されていたが、もちろん読者はその裏に隠れた避妊法としての荻野学説を応用していた。

戦後になると人口増加と食糧難から産児調節が叫ばれ、オギノ式避妊法が広まってゆくことになる。小中学生でも荻野久作の名前を知るようになった。オギノ式避妊法は世界の家庭で一般に用いられる避妊法となった。子供を産むため、あるいは産まないために、世界の半数以上の人々がオギノ式避妊法を利用した。

戦後、アメリカの医師が世界的に有名な荻野久作を訪ねてきたが、あれほど有名な学者がこんな質素な病院で働いていることを知り驚いたという逸話が残されている。

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