荻野久作博士(世界の荻野) 2

Suzuki, Atsushi (スズキ・アツシ)
鈴木 厚(内科医師)
出典 平成医新
許可を得て複製

肉眼による卵巣の観察

荻野は女性の排卵期をつきとめるため、開腹手術に際しては必ず卵巣を観察していた。卵巣は他の臓器と違い、 一ヵ月単位で周期的に形態が変化するので、それを肉眼で確認していた。そして排卵の証拠となる黄体の観察を行っていた 。卵巣の黄体は卵巣周期によって出没することから、何としても排卵と月経の関係を黄体を手がかりに解明したかった。 つまり卵巣の肉眼所見から排卵と月経の関係を解明できると考えていた。荻野の卵巣の観察は一つひとつが緻密であった。 そして開腹手術を行うたびに多くの臨床データを蓄積させていった。

女性の卵巣周期について説明すると次のようになる。卵巣は約一ヵ月周期で三段階に変化する。 まず卵巣の中で卵子の元となる原始卵胞が発育しながら成熟卵胞になる(卵胞期)。 そして膨らみを増した成熟卵胞は卵巣の表面に近づき、成熟卵胞の中の卵子が卵巣からパチンと排卵される(排卵期)。 そして排卵後に残された成熟卵胞が黄体へと変化する。黄体は排卵後1日から4日の間に形成され、 赤黄色から黄色に変化しながら直径1センチぐらいの大きさになり(黄体期)、 妊娠しなければ14日ぐらいで萎縮して消失する。もし妊娠すれば黄体は大きさを増し、 胎児が成長するまで黄体ホルモンを出し続ける。この卵巣周期は肉眼で観察することができた。

このように卵巣の形態を観察すれば約一ヵ月の卵巣周期を知ることができ、黄体の有無、 形状によっていつ排卵したかが分かった。つまり卵巣に黄体があればそれは排卵後の卵巣で、 黄体がなければ排卵前の卵巣ということになる。

病院では毎日のように開腹手術が行われていた。荻野は婦人科疾患の開腹手術だけでなく、 大腸癌などの外科的疾患で手術が行なわれる場合にも手術に参加し、卵巣の状態を観察した。 そして黄体のある排卵後の患者と、黄体がみられない排卵前の患者について、 次に来る月経が手術から何日目であるかを詳細に記録していった。 排卵したばかりの新鮮な黄体が手術時に観察できた患者の月経は、多くは手術後14日目にあったが、 遅い場合でも17日目までに月経がみられた。この観察は女性の卵巣周期を知る上で価値の高いものであった。 なぜ17日目までに月経がみられるのかは分からなかったが、この観察がその後の荻野学説の基盤をつくることになる。

昼は診察、夜は研究

大正11年2月、荻野は新潟医学専門学校(後の新潟医科大学)の病理学教室で研究を行う決心をした。 そのため東京帝国大学の木下正中教授から新潟医学専門学校の病理学教室に紹介状を書いてもらい、病理学教授、 川村麟也の部屋を訪ねた。大学で研究を行う場合、研究テーマは担当教授が決めるのが通常である。 しかし病理学教室の川村教授は、荻野に何の研究をしたいかと尋ねた。 教授は東京帝国大学を卒業した荻野に一目置いていたのだった。

荻野は「排卵と月経の関係」を博士号の研究テーマとひそかに決めていたので、即座に「 排卵周期によって卵巣内で変化する黄体を研究テーマにしたい」と申し出た。「研究材料はどうする」と川村教授が訊くと 、荻野は「手術した臓器を保存してあります」と答えた。この即答に川村教授は荻野の申し出を受け入れ、 教室にある卵巣の標本を自由に使うことを許可した。 川村教授はドイツ留学中に脂質の研究を行っていたので卵巣の黄体にも興味があった。荻野は川村教授の指導を受け、 大正11年2月から7年間、新潟医科大学病理学教室で病理学の研究を行うことになった。病理学教室で「 排卵の時期と黄体、そして子宮粘膜の変化についての組織学的関連性」を探求する研究に取り組んだ。

竹山病院での多忙な診療に追われ、夜は病理学教室で研究するという毎日が始まった。荻野の頭の中から「 排卵と月経の関係」が離れることはなかった。排卵日が分かれば、子供に恵まれない夫婦の役に立ち、 また子供が多すぎて困っている夫婦にも役に立つ。このような強い信念が彼を支えていた。 荻野は竹山病院での仕事を終えると、新潟医大の病理学教室に直行し、夜遅くまで研究に没頭した。 この生活は土曜日も日曜日もなく毎日繰り返された。一介の町医者として日々の診療に追われながら、 夜は病理学研究室で研究生活を送った。

荻野は教科書だけでなく、ドイツを始めとした欧米の論文を読みあさった。 しかし排卵と月経の関連を解き明かす答えは思い浮かばなかった。「排卵と月経の関係」 を博士論文のテーマと決めたものの、それはあまりに大きな謎に包まれていた。 妻や患者が持ってくる月経カレンダーを眺めても、月経と排卵には何ら法則性を見出すことはできず、 膨大な月経カレンダーを前にしながら、その謎に頭を抱えこむ毎日だった。

発想の転換

妊娠を喜ぶ女性もいたが、その一方では8人以上の子供を身ごもりながら、貧困のため苦悩に暮れる婦人も多かった。 子供は授かりものというものの、もし排卵日が分かれば女性たちは望むときに子供を身ごもることができる。 そうなれば女性たちは不妊や多産の苦しみから救われる。この思いが荻野の研究を支えていた。女性の排卵日はいつなのか 、この人体の謎を解明することが彼の研究者としての純粋な気持ちだった。しかし研究は行き詰まっていた。 月経周期と排卵の関係がつかめなかった。

ある日のことである。以前に子宮筋腫の手術を行った「おハナ」が夫を伴って竹山病院を訪ねてきた。 おハナ夫婦は子供を希望しているのに、子宝に恵まれないとしきりに訴えた。 荻野はおハナの子宮を調べたが異常はなかった。夫の精子を調べたが問題はなかった。 荻野はなぜこの夫妻に子供ができないのか不思議だった。おハナと夫は定期的に性行為を行いながら、 子供ができなかったのである。しかし話を聞いているうちに、おハナは妙なことを言い出した。「 いつも月経が始まる2週間前に腹痛があるので、腹痛のある日は、お腹にさわると思い性行為を拒んできた」 ということであった。この言葉に荻野ははっと気がついた。その腹痛とは排卵時に感じる排卵痛であろう。 そうであれば排卵時に性行為を拒めば子供ができないのは当然のことだった。おハナ夫婦に「 お腹が痛いときに性交渉を行えば子供ができる」と教えると、翌月、おハナは見事に妊娠した。

そのときおハナが言った、「月経が始まる2週間前に必ず腹痛がある」という言葉が久作の頭から離れなかった。 このおハナの言葉を聞き逃さなかったことが荻野学説誕生のきっかけとなった。これまでの「排卵と月経」 に関する学説のすべては、最終月経から次の排卵日を求めるものだった。だから迷路に迷い込んでいたのである。

月経から次の排卵日を求めるこれまでの学説は間違いで、本当は逆ではないだろうか。月経は排卵の結果であり、 排卵日が月経日を決定しているのではないだろうか。つまり「月経があって排卵があるのではなく、排卵があって、 その結果として月経がある」という発想にたどりついた。この発想の逆転はまさに「コロンブスの卵」だった。 荻野はこの学説が本当かどうか、過去のデータを調べ直すことにした。 まずドイツの産婦人科学会誌にツィルデバーンが書いた「月経と排卵痛」を記載した論文を思い出し、 書斎に埋もれたその論文を探し出すと徹夜で調べ直した。

ツィルデバーンの論文には、ある婦人の月経と排卵痛の日が、1917年(大正6年) から1年8ヵ月にわたり記載されていた。その婦人の月経の周期は29日前後が多かったが、 24日から36日と一定していなかった。そのため月経から次の排卵日を求める従来の方法では、 排卵日は月経が始まってから14日から22日目とばらつきがあった。 これまで信じられていたドイツのシュレーダー学説では、この女性の月経と排卵日の間に法則性は見出せなかった。 しかし排卵痛の次に来る月経から逆算して計算してみると、排卵痛は次回月経前の12日から16日の間に集中していた。 排卵痛から次の月経までの期間は、月経周期の長短に関係なくほぼ同じだった。おハナが言っていた「 月経の2週間前に腹痛がある」という言葉が正しかったのである。  (続く)

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