終末期医療

Suzuki, Atsushi (スズキ・アツシ)
鈴木厚(内科医師)
2011年12月13日掲載
出典 「平成医新」DoctorsBlog
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私たちは、生まれた瞬間から死を約束されている。生まれた瞬間から死刑宣告を受け、 その執行を待っているようなものであるが、実際の死刑囚と違うのは、私たちはその事実から常に目をそむけ、 死をタブー視していることある。

死を異質なものとして遠ざけ、たとえ死を考えても終末期医療の意思を明確にしていない。そのため死期がせまっても、 本人の意思を知ることができず、本人が望む「安らかな死」が蘇生医療の進歩により「壮絶な死」 になってしまうことが多い。

患者には「医療における自己決定権」があり、がんの告知、遺伝子診断、新薬治験への参加、臓器移植、 カルテ開示などさまざまな分野で患者の自己決定権が尊重されている。 もちろん終末期医療も自己決定権が優先されるべきであるが、多くの場合、本人の意思を知ることは出来ない。

かつて「畳の上で家族に看取られての大往生」が日常だった頃は、死は身所かで穏やかなものだった。 しかし病院での死が通常になってから、死は非日常的で異質なものになった。そのため死期がせまっても死を実感せず、 本人は最後の自己決定権を行使せず、また決定権を委ねられた家族も死を受け入れられずにいる。家族のかすかな期待が、 悲惨な終末期、本人の尊厳を軽視することになるが、それは無理からぬことである。死を身近に捉えられない者に、 生死観や宗教観を持たない者に、また医療の進歩を知らない家族に、死を決めさせることは無理がある。 たとえ家族が死を受け入れても、納得しない家族もいて一様ではない。

医師にとっても躊躇がある。蘇生が不可能とわかっていれば、多くの医師は自然な死を迎えさせたいと思っている。 しかし終末期といえども蘇生で救命できる場合がある。その一方で、植物人間や脳死のままの場合もあり、一様ではない。 患者の心情を思いやり、人間としての尊厳を尊重したくても、医療の中止や消極的医療に法的保護はなく、むしろ訴えられ 、刑事罰を受ける可能性さえある。

終末期医療とは、治療が期待できず死が間近に迫っている期間の医療のことである。終末期医療を緩和ケアと定義すれば、 それほどの問題はない。問題は、在宅や施設の老人が救急車で搬送された場合である。救急蘇生に時間的な余裕はなく、 医師は瞬時の判断を迫られる。

意識のない患者の意思は分からず、終末期かどうかも分からず、家族も即座の判断が出来ず蘇生医療となる。緊急時、 医師は医療行為をせずに死を迎えさせることはできない。気管内挿管、人工呼吸器、心マッサージ、 強心剤と一連の蘇生を行ってしまう。

患者の苦痛を緩和すること、患者の希望を優先させることは医師として当然であるが、 各患者の病態は終末期であっても多様であり、がんであっても生命を脅かすのは肺炎などの合併症である。

医療の進歩がもたらした長寿という恩恵が超高齢化社会を招き、生命の尊厳と延命医療、 さらにはそこに医療費負担増が絡み合っている。また意識がない場合、呼吸が止まった場合、心臓が止まった場合、 脳が活動しない場合、このように死の捉え方は人それぞれで、それらを蘇生医療が可逆的にしたことが、 また老衰と病気の区別が明確でないことが混乱を招いている。

ここで、平成20年4月に施行された後期高齢者医療制度を思い出してみよう。後期高齢者医療制度は施行と同時に、 連日のようにマスコミが騒ぎ、「老人を見殺しにするのか」、「姥捨て山法案」などの怒鳴り声が国中に響き渡った。 政府は発足と同時に「長寿医療制度」と名称をかえたが、それが「名前で誤魔化すのか」と国民の反感をかった。 このように後期高齢者医療制度は大きくつまずいたが、特に終末期相談支援料が批判の的になった。終末期相談とは「 終末期における延命治療の有無を本人と相談して文章に残す」ことであるが、厚労省は世間の猛反発を受けこれを凍結した。

終末期相談支援料は「在宅での看取りを6割、病院での看取りを4割」を目標にした政策であったが、 在宅での看取りを望む患者もいれば、家族にとっては肉体的負担や精神的不安がある。また一人暮らしも多く、 年金が絡んだ「消えた高齢者」などの例があるほど家族は多様化している。

「患者の希望や尊厳を守る」という終末期相談支援料の理念は正しいにしても、そこには医療費削減の魂胆が見えていた。 在宅死が病院死よりも医療費が安く、病院でも終末期治療を定額払いにすれば、病院は経営上の理由から治療をしなくなる 。さらには終末期と宣告されれば緩和も治療も受けられない不安、 終末期と判定する医師が報酬を得られることへの不信感があった。そのため終末期医療の国民的合意が得られず、 尊厳死の具体化が遠のいてしまった。

しかし冷静に考えれば、終末期の定義を明確にしていれば、終末期相談支援は人間の尊厳を守る良い制度になるはずだった 。癌の末期でも、食事ができなければ高カロリーの点滴、あるいは胃にチューブ(胃瘻) を入れることは通常おこなわれている。肺炎になれば抗生剤の投与は当然で、死期を早める考えは医師にはない。 また患者さんの痛みを取るのは医師の常識である。

ではどうすればよいのか。若くして癌に冒されても、癌が不治とは言えない医療の進歩がある。 また病院に入院している老人に、人工呼吸器や心臓マッサージの説明は、あまりに残酷すぎる。 さらに認知症患者への説明と同意は本来無意味である。このように終末期の治療の選択は、 本来ならば本人が元気なうちに決めておくべきであるが、多くは、他人に迷惑をかけずにぽっくりと逝きたいと願い、 延命治療は無意味と思いながら、その意思を表明する前に意識を失うのである。

終末期医療に関してふたつの課題ある。ひとつは「終末期を迎えた患者さんの呼吸が止まった場合、 人工呼吸器をつけるのか、心臓マッサージをするのか」である。人間が死ぬ場合は、テレビドラマのようにはいかない。 数分前までしゃべっていたのに、スーッと死んでしまう。そうかと思えば、意識が消失しても、何日も、 何週間も生き続ける患者もいる。人工呼吸器や心臓マッサージは、その場を乗り越えれば救命できる場合に行うもので、 気管内挿管には相当の痛みを伴い、心臓マッサージは肋骨が折れるほどの力で行うが、 その苦痛に見合うだけの利益が患者にあるかどうかである。

次に食事が出来ない認知症患者への対応がある。多くは胃ろう増設となるが、一般人でさえ胃ろうの存在を知らないのに、 本人の意思とは無関係に増設されている。本人が元気なころはそれぞれが死生観、美意識をもっていたはずである。 認知症といえども、胃ろうが肉体的死を決めるとしても、本人がそれを望んでいたかどうかである。

ここで参考になるのが、筋萎縮性側索硬化症(ALS)という疾患である。ALSは重篤な筋力低下をきたし、 発症後3年から5年で呼吸筋の麻痺をきたす。そのため人工呼吸器を必要とするが、それでも麻痺は進行し、 眼球も動かせず、意識があっても、意思の疏通ができなくなる。この人工呼吸器を、 本人の懇願から家族や医師が外せば殺人になるが、患者は人工呼吸器を最初からつけないという権利を持っている。 人工呼吸器をつけないことは死を意味するが、装着を拒否することもできる。これこそが自己決定権である。

「願わくば花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃」、かつて西行法師が詠んだように、 多くの人は安らかで美しい最後を願っている。もちろん死生観は人それぞれで、欧米では治療を受けない権利があり、 オランダのように安楽死が合法化されている国もある。ここで必要なことは、各自が死を見つめ直し、 自分が望む終末期医療を、意識を失う前に、認知症になる前に明記しておくことである。具体的には、 終末期医療の内容を明確に定義し、本人への説明と納得の上で、保険証に本人の意思を明記しておくことである。 保険証は毎年書き換えられるので、本人の意思の変化にも対応できるはずである。本人の意思にそった医療を、 医師の合意のもとで決定するのがよい。

日本は法治国家であるが、終末期医療は法律になじまない。いっぽう日本の医療は、患者も医療側も、 診療報酬で縛られている。このことを考えると、 まず終末期によりよい緩和ケアが誰でも受けられる医療体制と診療報酬を構築すべきで、 次ぎに終末期医療の自己決定権を国民に啓蒙し、それを本人に委ねることである。

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