恍惚の人(昭和47年)

Suzuki, Atsushi (スズキ・アツシ)
2010年3月11日掲載
「平成医新」Doctors Blog 医師が発信するブログサイト
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恍惚の人とは有吉佐和子の小説「恍惚の人」から生まれた言葉で、恍惚の人はすなわちボケ老人を意味していた。小説「恍惚の人」が昭和47年6月に出版されると大きな社会的反響をよび140万部を売り上げるベストセラーとなった。小説の題材としては暗く深刻になりがちなボケ老人を恍惚の人というネーミングを用い、全体的に明るくユーモアを含んだタッチで書かれていた。

この小説は確実にやってくる高齢化社会の流れを先取りし、老人問題を初めて正面から扱っていた。「恍惚の人」は昭和47年の流行語となり、翌48年には映画化がなされた。

ボケ老人の問題はそれまでは家族の恥とされ、世間から隔離され、そのことを話題にするのはタブーとされていた。その当時の日本の平均寿命は男性が69 歳、女性が74歳で、今後予想される高齢化社会をわずかに意識するようになったばかりであった。65歳以上の高齢者は現在人口の20%であるが当時は7% にすぎなかった。

それまでの日本人は高齢化社会を問題にしていなかった。それは定年を過ぎたころになれば、何らかの病気で死んでいったからである。そして老人は長寿を全うして死を迎えるものと思いこんでいた。そのため老人性痴呆は現実的な問題とはされていなかったが、医学が進歩し、平均寿命が延びるにつれ、脳味噌の老化ともいえる老人性痴呆の患者が増えたのだった。その意味では「恍惚の人」は、誰もが抱く高齢化という現実的不安を直視し、高齢化に向かう社会の変化に初めて光を当てた小説であった。

小説「恍惚の人」は84歳の舅・茂造がもうろくしてしまい、それを献身的に介護する息子の嫁・昭子の苦労話である。会社員である昭子の夫・立花信利は東京の郊外に住み、離れに信利の父・茂造夫婦が住んでいた。それまで一家の大黒柱だった舅・茂造が定年になり、定年後に勤めた保険集金をやめたころから舅の様子がおかしくなってきた。茂造の痴呆が明らかになったのは老妻の死がきっかけであった。茂造は老妻の死を理解できず、数日後にはボケが進行して徘徊するようになる。茂造は突然家をでてしまい、家族が探し回るようになった。

舅のボケは立花家にとって降って沸いたような問題であった。平均的サラリーマンの平穏な家庭を突然おそった恍惚という悲劇だった。茂造は何もかもを忘れ幼児化していった。雪の日にコートを着ないで外出したり、食べ物を際限なく食べたり、空腹を訴えながら突然徘徊したり、それは想像もつかない奇行の連続であった。嫁いびりをするほど元気だった茂造は、自分の息子や娘の顔を忘れ、息子の立花信利を暴漢呼ばわりした。それでいながらいじめ抜いていた昭子と孫のことは覚えていた。茂造は子どものような無邪気な笑顔を見せながら便をそこら中に塗りつけるようになった。昭子は懸命に介護を行うが、夫の信利は何の役にも立たなかった。

昭子はそれまで勤めていた法律事務所を休み、茂造の介護を一身に引き受けた。しかし何も手伝わない夫や親類があれこれと口を出し、昭子の悩みは深まっていった。福祉事務所に相談しても何の役にも立たなかった。虚栄だけの夫、口先だけの親戚、預ける福祉施設もない馬鹿げた社会、精神病院に入れるしかないという福祉事務所、その結果、昭子ひとりで茂造の面倒を見なければならなかった。いつ終わるとも分からない介護の日々が待っていた。何が起きるか分からない介護、それは家庭崩壊を予感させるような戦場であった。

昭子は「生かせるだけ生かしてやろう」と必死に茂造の世話をするが、茂造はしだいに衰弱してゆき、排泄の始末もできなくなり寝たきりとなった。そして間もなく茂造は安らかに死んでいった。茂造が死ぬまでの日々は、昭子の毎日は心身をすり減らすような戦いの連続であった。

当時はボケの原因は分かっていなかった。昭子は茂造が痴呆となったのは無趣味だったからではないか、潜在性の病気を持っていたからではないか、精神的ストレスがあったからではないか、このようなさまざまな考えを巡らしていた。女性の社会進出が進み、核家族のなかで、読者は、親、あるいは自分を襲ってくる老後と重ね合わせていた。

高齢化社会を前にして、介護は妻の役割とする社会通念、立ち後れた老人福祉、人間の生死の意味、高齢者の孤独、寝たきり老人と老人性痴呆、恍惚の人は多くの問題を読者に投げかけてきた。痴呆症になった老人を抱えた家族の苦悩、老人を励ましながら、それでいて老人の死を期待する隠れた心情などが理解できた。身につまされるテーマが読者の関心を呼んだ。

誰もが抱える問題でありながら、日本の老人福祉は遅れていた。老人ホームは数年の入所待ちであり、痴呆老人は老人ホームには入所できなかった。痴呆老人を預けることができるのは精神病院だけで、途方にくれる主人公の心情が伝わってきた。

現在、痴呆性老人は65歳以上では8%、85歳以上では33%とされている。痴呆老人は老年性痴呆、脳血管性痴呆、アルツハイマー病の3種類に大別することができる。老年性痴呆とは脳動脈硬化が進むことから大脳の前頭葉の働きが徐々に低下してボケの状態になる。内臓は普通に働き、運動障害も軽度でありながら脳の機能機能が低下するのである。脳血管性痴呆は高血圧症や脳卒中発作の既往歴を持つ人が多く、発症の時期が明確で経過は階段状に進行する。脳血管性痴呆は軽度で自覚症状があるが、老年性痴呆の痴呆は進行性で自覚症状に乏しい。アルツハイマー型痴呆の原因は不明であるが女性に多く、人格が変わることがある。アルツハイマー型痴呆は痴呆老人の1から2%である。

昭和47年当時の平均寿命は現在より短かったが、近い将来、高齢化社会を迎える日本において老人問題は他人事ではなかった。人口の高齢化、老人問題への不安はすでに20年前に始まっていた。そして昭和47年、時代の流れに鋭敏な有吉佐和子はいち早く痴呆症の老人を取り上げ「恍惚の人」を書きあげたのである。

当時は老人を大切にすべきとする考えが、核家族化が進む中でまだ残されていた。嫁が老人の世話をするのが当然とする考えで、このことが老人問題、痴呆症問題という現実に直面した場合に悲劇を大きくした。福祉は遅れており、ようやく老人病院が建てられようとしていたが少なかった。運のよい老人は老人病院や施設に預けられるようになった。現在ではこのような病院や施設は多くなり、家族の負担は軽減されたが、軽減されるとともに面接にもこない、親の年金を当てにしているような家族が増えていった。当時はこのようなことは考えられないことであり、その意味ではかつては苦しくても親子の、あるいは人間関係の暖かさに包まれていたといえる。当時の社会における家族の人間らしい心情を描いた小説といえる。

有吉佐和子は避けて通れない老いのさみしさを、老人になる入り口で考えてみようとしたのである。人間として老化は避けて通れない問題であった。有吉佐和子は時代を見抜く才女であった。また有吉佐和子は印税1億円を老人施設に寄付したが、地方税を含め8000万円の税金がかかることが判明し、この税制のゆがみに対し有吉佐和子は新聞に意見広告を書き大きな社会問題となった。そしてこの意見広告をきっかけに、厚生省は社会福祉施設への寄付を免税とする制度を作ることになった。免税という言葉は美的であるが、それまで福祉施設に対する免税を所得の15%までとしていたのを20%まで引き上げたにすぎなかった。

有吉佐和子は恍惚の人ばかりでなく、環境汚染に警鐘を鳴らした複合汚染を昭和49年から半年間朝日新聞連載し、大きな反響を呼びベストセラーになった。 複合汚染とは2種類以上の物質により汚染が増幅されることで、その当時は公害、農薬、排気ガス、合成洗剤など環境汚染が問題になっていたが、それらひとつひとつが汚染の原因だけでなく、それらが組み合わさって予想を超える汚染を引き起こすことを忠告している。

有吉佐和子は高度成長にともなう公害が自然を破壊し、農薬中心の農作物が健康を損なわせ、これらが人間そのものを汚染し、人間を破壊から滅亡に追いやるという現状に対し強い危機感と憤りを持っていた。「複合汚染」は農薬や化学物質に依存する農業のあり方を問う衝撃的な内容であった。恍惚の人、複合汚染は 社会問題を先取りしたという意味では社会派小説といえる。

昭和6年、有吉佐和子は和歌山県で生まれた。幼少期は銀行員の父親の関係からジャワで生活、豪邸の中で召使にかしずかれて育った。少女時代は病弱で読書が趣味であった。戦時中に帰国し、軍国主義の日本に失意の日々を送った。昭和27年、東京女子短大英語科を卒業。大学在学中から歌舞伎や芝居に凝り劇評を書き、同人雑誌・白痴群に参加していた。

昭和31年、25歳のときに書いた「地唄」が芥川賞候補となり文壇に登場した。紀州を舞台にした年代記「紀ノ川」を書き本格的作家活動にはいる。小説 「華岡青洲の妻」では約200年前に世界で初めて全身麻酔による乳がん摘出手術に成功した和歌山出身の医師・華岡青洲の生涯が書かれている。そのほか「出雲の阿国」「有田川」など50以上の作品を残している。有吉佐和子は「恍惚の人」を書いたが、そのきっかけは彼女が35歳の時、英語の辞書で同じ言葉を何度も引くようになったことに老いを感じてのことであった。

有吉佐和子は女性でありながら怒りの作家、社会派作家とされている。昭和50年の四畳半襖の下張り裁判では言論の自由をめぐり、裁判に負けたら自分もポルノを描くと公言した。そして裁判が負けるとポルノ小説「油屋おこん」を新聞に連載した。しかし主人公と自分の娘の年齢が同じだったことから、筆が進まず途中で連載を止めてしまった。女性ながら根性の入った作家だった。昭和59年8月30日、睡眠中に突発的心不全をきたし急死、享年53であった。時代と闘いながら、生き急ぎ、死に急いだ作家であった。

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