人間の尊厳の根本

Suwa, Eijirou (スワ・エイジロウ)
8月2006年
許可を得て複製

そもそも正義と平和の実現には生命への尊敬が根底にながれていると思われます。では人間(生命)の尊厳はどこに根拠をもつのでしょうか。「わたし」という人間がなぜ大切なのか考えてみたいとおもいます。「あなたは何の役にも立たない」(歴史においては絶えずこのことが行われている)と人間を何かの基準で相対化(比べて)して見ていくと、人の尊厳は普遍的ではなくなるのです。人を相対的に評価する今の時代にあって、人は自らにその尊厳を見いだし得ず、ただ不安に陥るのです。

「人間とは何か」を絶対的(普遍的)なものとしてとらえる必要を感じます。聖書の言葉から照らされてみたいと思います。「人とは何か?悪とは、苦しみとは何か」あたかも後生の人々に語りかけるように、創世記に人生の序文のように表します。 創世記1章3節『神は言われた。光あれ。すると光があった。』これは次のように読めるのです。『神が望んだ。あなたあれ。こうしてわたしが存在した。』

人は何らかの偶然に生まれ出たものではない、と言いたいのです。神が望まれて「わたし」がある、と主張するのです。見えない神の想い(愛)が結晶し私として存在するのです。それが「わたし・人間」だというのです。ここに聖書は人を「神の似姿」として見るのです。(創世記1章27節) 『わたしはあなたを愛した』(ヨハネ15章9節)と言うイエスの言葉にも人間の尊厳が表れています。あなたが「いい人」だから、「役に立つから」「徳をつんだ」からではなく、実にあなたが「あなた」だから、イエスは私の存在を丸ごと受け止めておられるというのです。ここにわたしを「人格」とし、「あなた」と呼びかけとしてくださる方がいるのです。人は絶対的な神の呼びかけによって自らを「人格」と発見できるのです。イエスがこよなく愛された「あなた」なのです。ここに人の尊厳の絶対的な根拠を見いだすのです。ここに「正義と平和」に生きる根拠があるのです。人の尊厳は相対化されてはならないのです。

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