美徳の倫理を中絶の問題に当てはめる

Smith, Janet (スミス・ジャネット)
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道徳論では、倫理的な人生を送ることの重要性は、人がその言動において、良くも悪くも成り得るという事実にあると言われている。すなわち、人の言動のひとつひとつ、つまりは人間要素の意図的な選択から生じる個々の言動が人の種類、言い換えると、個人が持つ人格を決定するのである。したがって、個人が持つ人格は、その人の意思決定に影響する。この見解に同意する人にとって、道徳的要素の観点から行動の正否を判断する上で最も重要になるのが、「このような言動により、自分はどんな人になるのか?」という疑問である。

このような倫理的論法は、要素の倫理、美徳の倫理または人格の倫理として様々に解釈される要素を論点としていることから、その他の倫理的考察とは区別される。だからと言って、人格の倫理に関心のある人が、言動の正否を判断する他の手段に関心がないというわけではない。人格の倫理は、言動を評価するための様々な方法と組み合わせることができる。ただし、人格の倫理において、人格に対する言動の影響という問題は、ある言動が道徳的か否かの判断において、優先的に考慮されるべき事柄の1つである。

ソクラテスは、人格に対する言動の影響をその人物の倫理的思考の基本的特徴のひとつとして最初に考えた人物の1人である。ゴルギアスにおいて、彼は、「他の人を傷つけるより、自分を傷つけたほうがましだ」と述べている。彼は、人は不当な行為を行うことで自分の魂を傷つけるため、自分が他者に対して不当な行為を行うより、他者によって自分が不当に扱われるほうがよい;他者に対して不当な行為を行うことは、他の人の手によって苦悩を経験するより悪いことである、と主張した。ソクラテスほど厳しい考えを持っている人は少ないが、美徳の倫理では、人は自分がその人格に与える影響に気をつけなければならないという考えが重視されている。アリストテレスは、著書であるニコマコス倫理学において、美徳の倫理の基本前提について、次のように詳述している。「ある種の行動によって、それに相応する人格が形成される。このことは、コンテストやパフォーマンスに向けて努力する人々において明らかである。彼らは、そのために練習を続けている。したがって、特定の行動に積極的に関与することで人格が形成されるという事実に気づかないのは、本当に鈍感と言える。」(1114a)この観点において、例えば、真実を損なう、真実に値する何かを傷つける、社会に不信感を生むという理由だけでなく、嘘をつくことで、自分自身の人格が傷つくという理由から、人は嘘をつくべきでない。嘘をつくことは、不誠実な人間という方向にその人格を形作るきっかけとなる。長い間、道徳学者は人格の倫理を無視してきたが、最近になって、人格の倫理に対する関心が復活し始めている。その関心の多くは、人格の倫理の定義に向けられている。具体的には、人格を定義する要素である美徳および悪徳が何であるかの定義が試みられている。この時点で、本稿は、人格の倫理を説明しようとする取り組みの一部に思えるかもしれない。しかし、本稿では、そこから一歩進めて、人格の倫理に基づく基準に従い、特定の行動に対する評価を試みる。美徳を説く倫理学者の多くは、美徳と悪徳、ならびにその普及に対する社会の役割に注目しており、特定の行動が個々の人格に与える影響を評価しようとしていない。ここで主張したいのは、特定の行動の道徳性を判断する際に、美徳の倫理を利用できるということである。本稿では、話題性が低い行為、不貞を最初の話題として選び、美徳に基づく分析によって不貞の道徳性がどう解釈されるかを簡単に説明した後、激しい議論が行われている、さらに見方によっては間違いなく議論を呼ぶであろう中絶という話題について取り上げる。

美徳の倫理

美徳を得る、または悪徳を得る過程において、人はその人格を形成するという事実から、美徳の倫理は、人格の倫理とも呼ばれている。人は、ある種の人格を形成しており、それが将来的な行動の決定に関与する。例えば、妻を欺こうとしている男がいるとしよう。不貞を働くという決断を重ねることで、彼は簡単に不貞を行うようになる。また、不貞以外にも、自分自身が倫理的に間違っている、あるいは不正と思う行動さえも、簡単に行うようになる。例えば、妻に嘘をつくようになり、嘘をつくことが簡単に思えてくる。彼の行動は、彼自身が形成してきた人格に起因している。アリストテレスは、著書であるニコマコス倫理学において、彼の好きな健康の類似性を用いて、人格がどのように形成されるかを説明している。アリストテレスは、健康な人は、自堕落な生活によって徐々に体調を崩し、同様に、不正または自己中心的な行動によって次第に不誠実で自己中心的な人間になっていくと述べている。彼は、この類似性を使って、人に一定の行動を助長する性格を形成する意図がなくても、その行動の選択によって特定の性格が形成させることを示した。

また、人が、その人格に常に責任を持つものでないことにも注意すべきである。アリストテレスは、優れた人格の形成において、優れた養育が重要であることを繰り返し強調している(例:1095b)。例えば、子ども時代に公正かつ責任を持って行動するよう養育された人は、公正かつ責任感の強い人物になる可能性が高い。反対に、甘やかされ、溺愛されて育った人は、自己中心的で欲深い大人になりやすい。彼らの両親は、子どもたちの人格形成に深く関与していると考えられるが、自己中心的で欲深い性格に悩むのは彼ら自身なのである。人格の倫理では、美徳を持つ人の真似をすることが、美徳を得るための最適な方法のひとつであると仮定している。アリストテレスは、公正な人間になりたければ、公正な人の真似をするべきである;勇敢な人間になりたければ、勇敢な人の真似をするべきであると私たちに教えている。この論法では、ある行動の是非を判断する場合に、我々が尊敬する美徳を持つ人が、熟慮の上にその行動を取るかどうか検討することがひとつの方法になると述べている。この点から、次の公理が形成される:公正(勇敢、親切など)な行動とは何かを知りたいなら、公正(勇敢、親切など)な人を観察しなさい。一方、ある行動が道徳的かどうかを知りたいなら、そのような行動を行っている人の人格について考慮しなさい。アリストテレスは、道徳的な人になりたいなら、彼らが道徳的と考える人々の振る舞いを観察し、その真似をするようにと助言している。例えば、ある人が寛大さを美徳と考え、その徳を磨きたいと願っているとする。しかし、アルコール中毒者にお金をあげるのが寛大な行為かどうか確信が持てない。アリストテレスは、この人に対して、アルコール中毒者にお金をあげることが寛大かどうかを判断する有効な方法として、自分が寛大だと認める人物を観察したり、その人に相談したりするよう助言するだろう。

人格の倫理についてここで詳しく説明し、その考えを擁護する理由のひとつは、美徳および悪徳の性質について、ほとんど意見の一致が得られてないからである。人格の倫理では、男性および女性が持つべき立派な性質や美徳が存在すると仮定している。地域社会もこの人格の育成に役立つと考えられる。アリストテレスは、倫理に関する研究において、善良な人が持つべき美徳や性格の形成において、一般市民の見解を大いに参考にした。ごく最近、Alasdair MacIntyreが、著書「After Virtue(美徳なき時代)」で明らかにしたように、今日では、そのような意見の一致の有無が疑問視されている。この書簡において、MacIntyreは、分裂し、多元化した現代社会において道徳性を論じることの難しさを嘆き、倫理学者が矛盾した仮定に基づく伝統的な見解から答えを引き出そうとしている限り、彼らが合意に達する可能性はほとんどないと見ている。

MacIntyreの忠告は、簡単に退けられるものではないが、最近の倫理体系に矛盾する仮定がある一方で、誰もが持ちたいと願う性質において、共通項が見つかる可能性がある。分裂、多元化し、政治的に問題のある現代社会においてさえも、善良な人間形成にふさわしい性質として、多くの人が称賛する特徴を紹介する。

まず、人間の善良さを構成する性質や特徴を表現する言葉を慎重に選択する必要がある。善良な人が持つ性質として多くの人が挙げるものは?ほとんどの人が、少なくとも、思いやり、寛容さ、自信、忠誠心、献身的、責任感、信頼性、協力的、決断力、誠実さ、正直、気立てのよさ、信用性、自制心を挙げるのではないだろうか?また、我々は、道徳心があり、道徳的な行動に関心のある人を尊敬するのではないか?我々は、自分の行動の理由を明確化し、正当化できる人、自分に課した道徳原理に従って行動する人を尊敬する傾向がある。このような性質を持つ人は多くないものの、こうした性質を持ちたいという意見に我々は同意するだろう。なぜ人はこれらの立派な性質を持ちたいのかという質問に対して、我々のほとんどは、こうした性質を持つことで、自分が希望する役目を果たせるからと答えるのではないだろうか?すなわち、こうした性質を持つことで、我々は自分が望む目標を達成することができ(周囲から善人と認められる)、望ましい関係を持つ、すなわち、良き同僚、良き友人、良き配偶者、良き親となることができると考えている。こうした性質を持つ人は正しい道徳判断をすると考えていないだろうか?我々は、公正な女性は公正に行動し、寛容な男性は寛容に行動すると期待しているのである。

これらの性質を持つ人を我々はどのように評価するのか?一般的な方法のひとつに、その人の行動を観察することが挙げられる。すなわち、我々は一定の行為を寛容と見なし、そうした行動を一貫して行っている人を寛容と判断する傾向がある。したがって、ある行為が寛容な行為かどうか知りたければ、我々が寛容と思っている人に、その人が問題の行動を取るかどうか尋ねればよい。また、我々は、人がその行動を取る理由から、その人の人格を判断する傾向がある。人助けをしたくて寄付をするという人もいれば、選挙に勝つために印象に残る行動を取っているという人もいる。こうした理由によって我々は人を寛容と判断したり、計算高い、場合によっては偽善者と判断したりしている。

不貞

中絶の問題に移る前に、以上の点から不貞について評価する。この分析は、不貞が間違っていることを証明しようとするものではない。不貞を働く人の人格を判断し、尊敬される人格を持つ人が不貞を働く可能性が高いか、またはそれが一般的かという疑問に答えることがその目的である。ただし、不貞を働く人が好ましくない人格を持つ、および/または彼らが不貞を働くことで好ましくない人格が形成されることが事実なら、この分析は、証明にはならないが、少なくとも、不貞が間違った行為であることを示唆するものとなる。

美徳の倫理に従った分析では、下記の疑問に答えることが(「美徳の倫理を中絶の問題に当てはめる」の13ページ中3ページ目)効果的と考えられる:どんなタイプの人が不貞を働く人なのか?例えば、正直なのか、温和なのか、親切なのか?彼らはその行動を選択した理由をどう説明しているか?彼らは自分の行動をどのように評価しているのか?彼らは、自分の選択を道徳的と考えているのか、それとも非道徳的と考えているのか?不貞を働く人は、なぜ配偶者以外の人とセックスするのか?彼らが不貞を行う理由は利己的か、非利己的か?彼らは、自分がその行動を選択した理由について正直に話しているように見えるか、それとも正当化しようとしているか?その行動を選択するまでにどのような人生を送ってきたか?その人生は私たちが尊敬できる特徴を示しているか?

倫理学者が不貞について一般論を適用できるとしよう。倫理学者は、不貞を働く人の大半は、結婚生活に何らかの問題を抱えていると言うかもしれない。不貞を働こうという意図を持って結婚生活を始める人はまずいないだろう。彼らは、配偶者と夫婦関係があるにも関わらず、そのような意図を持つのである。不貞の多くは、不満、選択、婚姻関係において「心が離れること」が積み重なった結果、起こっている。しかし、結婚に同様に不満を持っている2人の人物がいたと仮定し、1人は不貞を拒み、1人は不貞を選択する場合、1人の人物が行った不貞という行為は、彼がもう1人の人物とは異なる「種類」の人間であることを示している。したがって、不義の機会に対する人の反応は、不貞を働く、または不貞を拒むという選択を行う前のその人物の性格を十分反映するものであり、選択後の人生の方向性さえも、ある程度伺わせるものと言える。

不貞がそれを働いた人の結婚生活、子どもや家族との関係、同僚との関係にどのような影響を与えるかを理解することも重要と考えられる。不貞を働いた人が、そうでない人と比較して、酒量が多かったか、職場で不正を働くことが多かったか、家族と疎遠だったかを調査することで、興味深い結果が得られると考えられる。彼らの生活にこうした混乱が見られれば、それが原因となってある種の性質が生まれ、それが不貞を働くという選択によって助長されたと結論づけることができるだろう。

不貞の実例は、T.V.での福音伝道および1988年の大統領選挙戦の前に既に存在していた。しかし、私が説明しようとする内容を的確に表現しているのは、Bakker氏とHart氏の幸運あるいは不運である。Gary Hart氏は、なぜ大統領選から降りたのか?Jim Bakker氏はなぜ大臣を辞任したのか?私が読んだり見たりしたニュース解析の多くは、米国人が不貞を働く人を信用できないと思ったことが理由と自信たっぷりに伝えていた。国民は、Gary Hart氏がDonna Riceとの関係について嘘をついていたと考えた。また、疑惑の情事について嘘を突き通すために、さらに嘘をつかなければならなくなったとも考えた。国民は、彼のために働いたにも関わらず、裏切られた彼の選挙スタッフの扱いに落胆した。不貞と見なされる行動を選択したことで、Hart氏は判断力に乏しく、どのような行動が候補者にふさわしいか理解していないと考えた国民もいた。一部の国民は、Hart氏を未熟な人間と考えた。また、残酷といわないまでも、妻に対する思慮に欠けると彼を非難する国民もいた。ある評論家は、彼の行動は、自分がセックスの対象として利用した女性に対する搾取であると非難した。Jim Bakker氏の支持者も、大変な偽善者という印象を与えた彼の判断に対して、同様の印象を持った。

今日、このような理論を展開する人の多くは、様々な理由から不貞を誤った行為と考えている。固い誓いを破ることを誤りと考える人もあれば、夫婦間の愛、少なくとも信頼を裏切ることを誤りと考える人もいる。また、神に対する冒涜である、不貞は配偶者と愛人の双方への虚言である、と言う人もいれば、不注意から不貞が見つかってしまうのは愚かだと考える人さえいる。そして、もちろん、(「美徳の倫理を中絶の問題に当てはめる」の13ページ中4ページ目)、上記の理由すべて、あるいはそのうちのいくつかを理由に、不貞を誤りと考える人もいるだろう。また、不貞を誤りとする理由に同意しない、さらに、場合によっては不貞を道徳的選択と考える人でも、不貞を行う人を最高にすばらしい人物と見なすことはないだろう。実際、状況によって不貞は道徳的な選択になると考える人でも、彼らが完全なニヒリストでない限り、不貞を正当化する適当な理由が必要と考えている。不貞を働く人はすべて嘘つきで不誠実で信頼できないと断言することをためらう人が一部いるものの、ほとんどの人は、不貞を働く人に関して、不貞は概して我々が称賛する美徳に相反するものであるという考えを裏付ける一般論があってしかるべきだと考えている。若者に不貞を働くべきでない理由を説明しようとするとき、彼らは次のように話すだろう。「不貞を働く人を見てみろ。嘘をついてコソコソ逃げ回り、八方塞になることもある。誰にも信用されず、配偶者、家族、友人との関係を危険に晒している。」良好な家族関係を持ち、正直で信頼できて、優しく安定感のある人間になりたいという人から、不倫関係がその目標に反するかと質問されたら、我々は迷わず不貞を行わないよう助言するだろう。これは、不貞行為を働く人たちの人格に基づいた不貞に対する反論と言える。我々が言いたいのは、「そのような行為をしてはならない。なぜなら、そんなことをすれば、自分がある種の人間、あるいはそのような種類の人間になりつつあること、すなわち自分が尊敬し、そうなりたいと願う種類の人とは異なる種類の人間であること証明することになってしまう。」ということである。

我々が不貞を働く人の性格に対して行っている判断は、不貞を働く人に関する科学的調査に基づいたものではない。我々は、幼少期の道徳の授業、過去に読んだ小説、不貞を働いた人の経験から、こうした結論を導いている。確かに、不貞を働く人は、陽気で、人生を楽しむ寛容な人であると考える人がいるかもしれない。不貞を働く人の性格に対する我々の分析と異なる意見を持つ人がいれば、判断が異なる理由を比べてみても面白いかもしれない。しかし、人格の倫理は、このような判断を基本としている。それには、あらゆる情報を収集し、それを利用して、人の性格とそれに対する行動の影響について判断する必要がある。

人格の倫理を中絶に当てはめる前に、他の人の人格を判断する上で注意すべきことを説明する。人格は、行動を選択する理由に大きく依存するため、その人物が取る行動に基づいてその人の人格を主張することは、必ずしも正しいとは言えない。我々は、ある行動を取る人が、その行動において典型的な理由に基づいて行動していると考える傾向にあるが、実際にその人が、そういった理由で行動しているかどうかを判断する必要がある。特定の行動を取る人々には、特定の人格が存在する可能性が高いと言える。もちろん、特定の個人がその行動を選択した理由を確認できれば、我々の評価はさらに正確なものとなる。「不貞は信頼を損なうものである」といった過度の絶対化が簡単に行えることから、これは重要なことである。その可能性は高いが、その事例が必ずそうとは限ら ないのである。さらに、不貞を働く人が概してある種の人間であると主張することで、不貞を行わない人は尊敬できる人格を持つと断言できるわけでもない。(例えば、裕福な配偶者にクレジットカードを解約されるなど)不貞を働かない理由が尊敬できるものとは限らないのである。繰り返しになるが、人がどんな理由でその行動を選択したのかが、非常に重要な問題なのである。

中絶と人格

人格の倫理の定義、一定の行動に対するこの定義の適用方法(「美徳の倫理を中絶の問題に当てはめる」の13ページ中5ページ目)、この適用の限界についての注意を説明したところで、人格の倫理という観点から中絶について検討する。中絶と人格の関係に関する分析が正しければ、中絶の道徳的側面の理解に役立つだけでなく、新たに有意義な議論が展開されることになるかもしれない。

中絶する女性については、かなりの多くの情報がある。人間要素に対する認識の観点からこれほど十分な記述が行われている道徳的行為は他にないだろう。中絶の決意に至る理由と中絶経験に関する洞察を求める人にとって、この資料を読むことの価値は非常に大きい。この資料は、ほぼすべてが、中絶は道徳的に許容されると考える人々によって作成および評価されており、したがって、何らかの偏向があるとすれば、中絶を適切な行為として描写する方向に偏っていることになる。正直なところ、そのことが私の解釈に偏りを生じる可能性があるため、中絶に対する私の立場をあらかじめ説明しておく。私は、中絶は客観的に誤った行為だという考えを持っている。私は、中絶を無垢の人命を奪う行為と考えている。中絶を選択する女性は、重大な過ちを犯していると思う。確かに、中絶した女性への面談の内容をどう評価するかは、ある程度、その人が中絶をどう考えているかに左右される。こうした面談に参加した女性の人格に対する評価は分かれているが、それでも尚、著者は、中絶を道徳的に許容できる行為と見なす人も含め、大半の人が、面談の結果を読み、中絶を行う女性の人格、ならびに中絶を決意させる道徳的論法に不快感を持つと判断する。さらに詳しく言うと、私は、中絶を決意した女性の多くが述べている理由は、中絶を道徳的に許容できる行為と見なす人も含め、我々の大半が尊重または容認できる理由とは異なっていることを指摘したい。中絶の選択は、我々の大半が称賛し、そうありたいと願う性質として上記に挙げた一覧にほとんど対応していない。また、中絶によって人格が傷ついているのは女性だけでないことにも言及したい。この分析が正しければ、当事者である男性、中絶に関与した医師および医療関係者、女性に中絶を勧めた人はすべて、人格が損なわれる危険性に晒されている。ここでは、中絶に最も直接的に関与する女性について述べる。

中絶を行う女性の人生には、その人格を反映するものとしてどんな特徴があるか?彼女たちは、どんな理由で中絶しているのか?前述の調査から、彼女たちが中絶の決断をどのように考えているかがわかる。中絶経験のある女性に面談を行った結果、中絶する女性の人生ならびに中絶の決断の特徴がかなり明らかになった。調査の結果、中絶する女性は将来的に子どもを持てる関係にない;中絶する女性の大半と言わないまでも多くは、計算した上での選択ではなく、「偶然に」妊娠してしまった;女性の多くが中絶によって人命を奪っていると考えていることが判明した。こうした主張を裏付ける根拠を示す。

関係

中絶した多くの女性から得た証言に基づき、Stanley Hauerwasは次のように述べている。

…中絶を擁護したり反対したりする何百もの記事を読んでいたにも関わらず、人々が中絶を行うか行わないかを決める方法は、そうした記事で議論されている問題とほとんど無関係であることに驚かされた。中絶を考えている人は、胎児に生きる権利があるか、生命はいつ始まるか、あるいは中絶が正しいか間違っているかといった疑問を持ったりしない。むしろ、男女間の関係の質(あるいは関係の欠如)が決断の主な理由になっているように思われる。

Hauerwasが述べたとおり、男女間に存在する関係の質は、中絶の決定において、しばしば重要な役割を果たす。中絶を行う決心をした女性にほぼ共通する特徴として、彼女たちがいずれ子どもを持つという発展的な関係にないことが挙げられる。中絶する女性の大半は、未婚であったり、夫以外の子どもを妊娠した女性だったりする他、既婚者で、結婚生活に問題が多く、子どもを持ったり、次の子どもを産むことに不安を感じている人も多い。未婚の女性は、性的関係はあるものの、セックスによって妊娠した子どもを育てられるだけの強い関係にない場合が多い。一般に、中絶する女性は、責任が生じた場合に、それにすべて対応できるような関係にないため、特に無責任に見えると言ってよいだろう。

また、女性とパートナーとの関係は、彼女たちが妊娠したときに十分なサポートを得られるものでないように思われる。子どもの父親に妊娠のことを決して告げない女性もいる。当事者の男性に妊娠を告げる女性も、中絶を決める過程に男性の関与や意思表示を心から期待しているわけではなく、単に自分の決心を伝えるだけのように思われる。男性の意見を十分聞かずに自分で決心する女性が多いことから、パートナーとの関係が安定的で満足できるものではないという見解が裏付けられる。彼らの関係に、共に人生を分かち合い、決断するという姿勢はないように思われる。

さらに、女性の半数以上が当事者の男性の同意なく行動したという事実から、彼女たちの関係が問題を抱えていることがわかる。Linda Bird Franckeという研究者は、その調査において、独身者同士の関係の大半が、中絶の前後に破綻すると述べている。Franckeは、婚姻関係において中絶は肯定的な行為であるとする調査結果も紹介しているが、この調査は、中絶からわずか6ヶ月後に行われたものである。既婚女性の発言の多くは、夫に対する憤りだった。このことから、中絶する女性とパートナーの関係は、不安定で、コミュニケーションが不足し、本当の相互理解に欠けているものと考えられる。さらに、こうした関係にある人は、無責任で、自分が本当に望むことを理解していないように思われる。その結果、自分自身とパートナーの双方に対して明らかに不誠実になってしまうのである。

避妊習慣

この「無責任さ」という罪は、中絶する女性(および彼女たちのパートナーである男性)の避妊習慣に現れている。彼らは、自分が対処できない結果の原因となる行為を行うだけでなく、自分が責任を取る準備ができていない状況の発生を防ぐための手段を講じようともしていないのだ。調査では、中絶をする女性が避妊方法を知らないわけではなく、その多くは、避妊法を使用した経験があることがわかっている。それ以外の女性でも、ほとんどが避妊について十分な知識を持っているが、Zimmermanが分析しているように、彼らは避妊法の利用について不注意だったり、無関心だったりするのである。

さらに、避妊法を利用しないことは、中絶を行う女性の別の特徴を示している。もちろん、避妊法を使用しない理由として、微妙な心理的問題が存在することも事実である。Zimmermanは、女性たちが述べた様々な理由について報告している。それには、関係が破綻して避妊が不要と思えた、ピルを購入するための身体検査が嫌だ、副作用が嫌だ、ピルの購入が面倒または難しいといった理由が含まれる。Zimmermanは、未婚女性の多くは、自分の性的欲求が強いと思いたくなく、避妊を行うことは、自分が好む自己イメージに反すると考えていると報告している。避妊を行わないことは、女性の多くが、性的欲求が強いことを好まない傾向を表している。すなわち、多くの女性は、何らかの理由で、自分が認めたくない行動を取っていると言える。こうした女性は、自分についてよくわかっておらず、優柔不断とも考えられる。彼女たちは、思慮深く責任感のある人物なら自ら認めることのない物事を「成り行きまかせ」にしているように思われる。

「計画的な」妊娠

Kristin Lukerは、以前の著書、「運任せ:中絶と避妊をしない決意(Taking Chances: Abortion and the Decision not to Contracept)」において、避妊法が普及しているにも関わらず、多くの女性(事実上、誰もが避妊法を知っている)が望まない妊娠をし、中絶を経験している理由を探ろうとした。調査の結果、Lukerは、女性が中絶に至るのは、単なる「不注意」や「無責任」ではなく、中絶に至る妊娠が計画されたものであり、計算されたリスクの結果であるという結論を導き出した。Lukerは、まず女性が中絶する理由として一般に言われている見解を退け、若い女性がパニックになったり、未婚の女性が中絶しなければ未婚の母になってしまうことが中絶の理由であるという見解を否定した。また、Lukerは、中絶が貧しい女性や「生活保護を受けている母親」が使う最終手段であったり、養いきれない数の子どもを持つ女性が中絶するという見解が、統計上事実でないことも指摘している。Lukerの目的は、女性たちに避妊経験があり、避妊を行わないことのリスクを知っていたにも関わらず、避妊しなかった理由を洞察することである。Lukerは、その調査において以下の事を証明している。「望まない妊娠は、情報に基づいた決断プロセスの結果であり、そのプロセスとは、女性たちがその目標に適した手段を講じる論理的なものである。調査に回答した女性の妊娠は、彼女たちの大半が、単に妊娠を防ぐことより、自分にとってより大きな目標を達成しようとした結果なのである。」

Lukerは、こうした女性(避妊しないでセックスしているが、妊娠する意思のない女性)にとって、避妊することは一種の「コスト」であり、妊娠することは一種の「ベネフィット」であると論じている。これらの女性は、避妊しないことのベネフィットと妊娠することのベネフィットが、妊娠と中絶の必要性というリスクに勝ると計算している。Lukerによる避妊という「コスト」の分析は、Zimmermanの分析によく似ている。例えば、多くの女性は「自然なセックス」を好み、自分のことを「性欲が強い」と考えたくない。Lukerは、自分が妊娠できるかどうか知るために避妊をしない女性もいると述べている。多くの女性にとって、妊娠には様々な「ベネフィット」がある。例えば、妊娠することで「自分が女性であると証明される」、妊娠可能であることがわかる、「二人の関係を明確にする」口実ができる、両親に気遣ってもらえる、「精神的な準備を行う手段」として利用できるなどである。

後半の章において、Lukerは、女性が避妊しないセックスというリスクを冒す理由について、「女性が置かれた状況から」分析を行っている。彼女は、「低迷する結婚市場」において、結婚を余儀なくする手段として妊娠が利用されていると分析した。ただし、Lukerは、自分が次のように示唆しているわけではないと主張している:「女性は、結婚市場において競争的不利な立場に立たされているため、結婚するために妊娠してそこから抜け出そうとしている。そこまで打算的だったり、無警戒な女性はほとんどいない。そうではなく、女性たちが不利な立場にあるとき、妊娠のリスクを負うことの上には、社会的に誘導された目的という「後光」が射すようになる。そのような「後光」に、女性たちは潜在的にしか気づいていない。」結論として、彼女が言いたいことは、女性は結婚するために、打算あるいは無警戒によって妊娠するのではなく、「結婚を余儀なくすること」がひとつのプレッシャーとしてその他の要素と結びつき、女性に妊娠のリスクを冒させるということである。また、彼女が面談した未婚女性の大半に結婚という選択肢(および妊娠を全うする選択肢)があったにも関わらず、誰もその選択肢を選んでいないことにも注目すべきである。Lukerは、彼女たちがそうした状況での結婚を望まないこと、こうした結婚と彼女たちが思い描く結婚とに隔たりがあること、さらに、妊娠は男性ではなく自分の責任であり、男性のサポートは要求できないという考え方が、結婚を選択しない理由ではないかと述べている。

前述の通り、Lukerは、妊娠する意図がないにも関わらず、女性たちは、理論に基づいてリスクを取り、避妊を行っていないと主張している。彼女は、それが明らかな打算とは限らないものの、女性は、避妊を行うコストより、妊娠に伴うコストとベネフィットを重視すると論じている。Lukerは、体重が増えるという理由でピルを使用しなかった未婚女性を例に挙げた。この理由に加え、その女性は、彼女を認めないボーイフレンドの両親の前で彼に彼女との交際を公認させ、結婚せざるを得ない状況にしたいと考え、避妊しないことを決めた。Lukerは、この女性が自分の目的を達成するために特定の手段を選んだことから、彼女の決断は「論理的」であると述べている。さらに、Lukerは、女性が妊娠の「可能性」を低いと考えた点でも、その決断を「論理的」と見なしている。彼女たちは、自分たちが妊娠する可能性は低いと考えていたのである。Lukerは、これを喫煙者でありながら癌になる可能性は低いと考える人になぞらえた。さらに、リスクから「うまく逃れている」人は、その行動を継続する傾向があり、女性は長い間妊娠しないことも多いため、自分は「大丈夫」と思いがちであることも指摘している。こうした決断の結果、すなわちLukerが面談した女性全員が中絶した事実を見て、多くの女性は、自分のこれまでの行為を非論理的と考えるようになるが(彼女たちが接触する医師、看護師などもそう評価する)、Lukerは、彼女たちの決断は、「ある状況下において」「理性的」であると反論している。

Lukerの分析には、当然のことながら疑問が生じる。第一に、Lukerは、これらの女性の人格を評価したり、中絶するという彼女たちの決断の道徳性を判断しようとしているわけではない。Lukerの調査目的は、女性には避妊を行わない理由があること、その理由が、避妊に伴うリスクという点から判断して正当化できることを示すことだった。この見解に基づき、Lukerは、避妊の機会を増やし、それを改善しても、望まない妊娠の流れを止めることはできないと主張し、中絶の増加を警告した。ただし、Lukerは、「論理的」という言葉を未認識な部分にまで拡大している。厳密に言って、「論理的」とは、状況が持つ事実に従った明確な判断に基づき、自分の目標を達成するために行うよく練られた行動を意味する。Lukerは、その意図にかかわらず、こうした女性たちは不適切で不明瞭な理由やプレッシャーに基づいたリスク、自分の目的を達成するには不適切に思われるリスクを取っていると述べている。Lukerは、女性たちが自分の目的を達成する他の手段を見つけた場合について洞察しようとはしていない。彼女は、例えば、家族に構ってもらうために、自分が妊娠できることを証明するために、あるいはボーイフレンドが自分を大切に思っていることを確認するために、妊娠し、中絶することが、若い女性にとって賢明な決断かどうかということに疑問を呈していないのである。

Lukerは、女性が中絶する理由について理解する目的ではなく、彼女たちが中絶する理由を明らかにする目的で調査を行った。彼女の調査結果は、中絶する女性は、人生で直面する問題の解決策を見つけ、パートナーとの関係やその関係に対する自分の期待を現実的に評価することが苦手であると結論づけている。Lukerの主張には同意できないが、Lukerの調査が、中絶を選択する女性の大半と言わないまでも、その多くが、無責任で非理性的であるという主張を裏付けているのは確かである。

中絶:女性の価値を侵害する選択

女性の妊娠には様々な理由があるが、中絶の理由で一番多いのは、女性が子どもに責任を持つ準備ができていないことである。前述の通り、その大半が、相手の男性と結婚していない、あるいは結婚する意志を持っておらず、それが子どもを持てない理由になっている。ただし、子どもを持つ準備ができていないにも関わらず、多くの女性は、仕方なく中絶を受けている。彼女たちの多くは、両親の反対が怖い、反対されることがわかっている、ボーイフレンドや夫に別れを告げられる、あるいは友人や同僚が中絶こそが責任ある選択だと考えているなどの理由から、中絶すべきだというプレッシャーを感じたと述べている。このことは、多くの女性にとって、中絶が自分の弱さが原因の決定ではなく、彼女たちを取り巻く状況や「助言者」から中絶するようプレッシャーを受けたための決断であることを示唆している。道徳的発達の観点から中絶を研究しているGilliganは、女性は、社会において、自分で物事を選択したり、自分の選択に責任を持つよう期待されていないと主張している。また、女性は自分の人格に責任を持っていないように思われるが、中絶の決意が、女性自身の価値観ではなく、周囲が彼女たちに課すプレッシャーによるものであることを示す根拠も提示されている。自分の価値観にしたがって選択することは、優れた人格の現れであるが、中絶する女性の多くは、理由が何であれ、その力を欠いているように思われる。

中絶した女性への面談において共通した顕著な特徴として、中絶によって人命を奪っているという考えを持つ女性が多かったことが挙げられる。もちろん、いのちを奪っているのではないと主張する女性もいる。例えば、Chrisという若い女性は、その気持ちを次のように述べた:「ここを紹介してくれた牧師様と話しているとき、生命の始まりについて私の考えを聞かれたの。私は、赤ちゃんが誕生して、背中を軽くたたいて呼吸を始めた時と答えたわ。私にとっていのちとはそういうこと。その前は何者でもないと思う。生育途中といった感じかしら。」しかし、多くの女性は違う考えを持っている。別の面談で聞いた話を検討してみよう;感情的に子どもを持つ準備ができていないという理由で中絶を決心した17歳のDawnは、「とにかく〔中絶は〕子どもを殺すことになる。でも、うまく考えをまとめられないけど、とにかく中絶は子どもを殺すことだと思う。」と述べている。Mariaは、2回目の中絶について次のように述べている。「今回は、男の子が欲しくて、その子を産みたいと思った。夫と私は何度も話し合い、その結果、中絶せざるを得ないと考えたの。すでに子どもがいるので、中絶の決断はとても辛かった。妊娠し、自分を頼ってくれる子どもを持つことがどんなにすばらしいかわかっているからよ。今回は、中絶するのが生きている人間だという考えを捨て切れなかったわ。」また、Sandraは、「中絶は殺人を体裁よく言い換えた言葉だと思っていた」と述べ、中絶について、次のように話した:「中絶は道徳的に間違っているけど、状況的にそれが正しいと考え、私は中絶するわ。」面接を行ったZimmermanは、中絶する女性の多くは、中絶する前には、自分たちの場合とは異なる特定の状況において、中絶に賛同していないことを発見した。調査の結果から、彼女は次のような結論を述べている。「今回の調査に参加した女性の中絶前の態度は、特定の状況下においてのみ中絶は容認できるというものだった。女性の多くは、レイプされた、妊娠によって健康上の問題が生じる、経済的な理由から子どもを養育できない場合を除き、中絶に反対する傾向がある。興味深いことに、彼女たち自身の中絶はこうした状況に該当しない…多くの女性は、中絶に賛成し、その後で、『まさか自分が妊娠すると思わなかった』『中絶するほうがまだましだ』と言ってその発言を正当化している。どの女性も、自分が中絶を容認することを正当化する発言を行った。こうした女性の大半が、全面的に中絶に賛同した上で、中絶を受けているわけではないという事実に注目すべきである。」Zimmermanは、女性たちが自分の選択を例外として評価していると述べている。「モラルの薄氷を踏んでいる」という気持ちから、彼女たちは、自分の中絶を隠そうとし、自分の中絶が道徳的に批判されるリスクを回避しようとする。

ここで傾向が見えてきた。以上の証言から、中絶する女性は、彼女たちにとって最も重要な価値観に従って生きていないことがわかる。彼らは、全員と言わないまでも、その多くが、中絶および中絶するという自分の決心を、人命を奪うことと考えている。これらの女性は、概して中絶に賛成していないが、自分は例外と考える。女性が中絶の理由とするものは、中絶を道徳的に許容できるものと考える人々、中絶を受けようとしている人々さえも含めた多くの人々にとって、尊重できる、あるいは容認できる理由ではない。自分の信条に従って行動することが美徳だとすると、中絶する女性の多くはこの美徳を持っておらず、その美徳の獲得につながらないやり方で行動していると考えられる。

中絶反対フェミニズム

この分析は、中絶を経験した女性たちの証言、ならびに中絶は道徳上許容できると考える女性たちからほぼ独占的に集めた証言に基づいている。面接官の全員と言わないまでも、大半は、自分のことをフェミニストと考えている。彼らは、彼女たちの受胎率を制御することで、中絶する女性が、これまで男性だけのものとされていた美徳や性格を獲得できると考えている。フェミニズムの価値観に賛同する人々の多くは、中絶を選択する女性が、自己主張、自分の人生に対する理性的な管理、独立心など、称賛できる特徴を得ていると判断する傾向がある。自分を「中絶反対のフェミニスト」と評するSidney Callahanは、中絶はフェミニズムの根本的な価値観を侵害し、男性にも女性にも好ましくない特徴を助長すると非難している。

Callahanの議論にはいくつかのポイントがある。彼女は、フェミニストの使命は抑圧された人々の権利を確保することであり、フェミニストたちは、平等、法的な正当性、公正に関心があるとしている。したがって、フェミニストが生まれてくる子どもの生きる権利を否定し、無力で罪のない者を葬るためにテクノロジーの力を利用することは矛盾しているとCallahanは説明している。彼女は、フェミニストたちは、人命を完全に支配するという考えに基づく個人の自主性に価値を認めるべきではないと主張している。この場合の支配や自主性は、予期せぬ妊娠に伴う責任を否定することに他ならない。Callahanは、人類の一員であり、女性の一員であるには、選択の自由があるか、便利かどうかに関わらず、受け入れるべき一定の責任が生じると述べている。しかしながら、この主張において最も重要なことは、中絶する女性の人生では、ほとんどと言わないまでもその多くにおいて、漠然としたカオスがあり、人生における性の位置づけ、職業人としての生活と個人としての生活において重要な特徴の関係について、深刻な混乱が認められることである。彼女は次のように述べている:

…中絶反対のフェミニストたちは、彼ら自身の二重基準について説いている。仕事やキャリアが重視させる世の中において、女性たちは立派に成長し、十分な自己鍛錬と自制心を示すよう求められている。彼女たちは、長期間努力を続け、学習によって予期せぬ障害に対応することで、不可避である苦労に立ち向かい(「美徳の倫理を中絶の問題に当てはめる」の13ページ中11ページ目)人生と仕事の必然的結果を克服するよう教えられている。しかしながら、仕事と個人の目標を達成するための唯一の方法とされるこうした責任と自己鍛錬の成熟倫理は、性に対する認識において軽視されている。…責任を持って中絶を選択することで、若い女性が自分の人生に責任を持ち、自分自身で決断し、慎重に避妊を実行するようになると期待されている。しかし、法律の甘さに加え、性欲が許容される社会的動向が、中絶の繰り返しを促している。中絶という選択によって力を得る代わりに、中絶を受ける若い女性は、この世に子どもを生み出さない;相手の男性に頼れない;胎児のいのちを守れるだけの十分な強さ、あるいは経済力を持っていないという虚しい現実に直面している。若い女性が、中絶を通じて、男性優位の社会に対抗するための自尊心、自己鍛錬、自信を得る可能性は低い。

以上の点において、中絶する女性が十分な美徳や道徳的長所を示すこともなければ、中絶という選択が彼らに美徳や道徳的長所を与える行為になるとも考えられない。美徳の観点から行動を分析する基本として、本稿の始めに、人格の一覧を暫定的に示した。我々の誰もがそうした人格を持ちたいと願い、自分が関わる人々にもそうした人格を持って欲しいと思っている。人格の一覧には、思いやり、寛容さ、自信、忠誠心、献身的、責任感、信頼性、協力的、決断力、誠実さ、正直、気立てのよさ、信用性、自制心などが含まれている。中絶を選択した女性との面談から、彼女たちがこうした言葉で形容できない人物であることが明らかになった。

中絶の結果

最後に、中絶後の女性の生き方について、十分な資料は揃っていないが、それが決して肯定的な経験ではないことを示す根拠が多少存在する。実際、年間の中絶件数の約3分の1は2回目以降の中絶である。少なくとも、こうした女性の多くは、中絶の前に彼らが送っていた生活と同じ生活に戻る可能性が高い。彼女たち自身の証言により、中絶の前に節度のない生活をしていた女性は、その後も同じような生活に戻ることがわかっている。彼女たちの大半は、男性と長期的な関係を築くことに問題を抱えている。ほとんどの女性が憂うつや混乱を経験するものの、多くの女性は、中絶による直接的な結果は安堵であると述べている。中絶経験のある女性を対象にした心理学的調査では、著しく異なる結果が示されている。中絶が合法化される以前の調査では、中絶は女性を傷つけるものと報告されていた。一方、中絶が合法化された後の調査では、中絶後、長期にわたって精神的影響を受ける女性は少ないと報告されている。これらの調査結果の妥当性については、科学的な信頼性という観点から疑問が残る。当然ながら、調査の結論は、中絶の権利に対する観念的態度が生む偏見によっても影響されると考えられる。

女性が中絶を後悔し、中絶後に深刻なトラウマに苦しむことは、十分に立証されている。彼女たちは、一様に、中絶するようプレッシャーを受けたと言う。また、中絶を決めたときは混乱していた、家族やボーイフレンドとの関係に問題があったとも口にする。さらに、自殺願望や、中絶後の疎外感や孤独感も彼女たちから多く聞かれている。中絶を後悔するようになった女性を支援するために、複数の団体が結成されている。Women Exploited by Abortion(中絶により搾取された女性)およびVictims of Abortion(中絶の犠牲者)は、こうした団体の一例である。中絶経験のある女性について著述しているある人物は、後悔を受け入れている女性でさえも「…自分の意思決定力が衰え、自己不審が自分を支配するようになった。その結果、大きな過ちを犯してしまった。今度はいつ過ちを犯してしまうのか?」と悩んでいることを伝えている。中絶を後悔している女性は、「自分以外にも」何百万人もの女性が、中絶について「心を痛め」、苦しんでおり、中絶に対する自分の気持ちを受け入れられない状態にあると確信している。

中絶の心理的影響に関する情報は、中絶後の女性の人格の評価において、どのように役立つのか。当然ながら、人格には、精神的な弱さと強さが密接に関係している。自尊心が高い人は、自分に自信を持ち、その状況に関わるすべての要因を考慮し、適切な判断を下せる知性を持っている。また、周囲からの不要なプレッシャーに対抗することができ、臆病さから来る行動の原因となる恐れを抱くこともない。事実、自尊心の高さと自分の人格に対する評価には、深い関係があると考えられる。すなわち、自分を道徳的に善良であると信じる人は、高い自尊心を持っているのである。憂うつに陥ると、自分の責任や義務を果たせなくなり、信頼・信用できる人物として道徳的に行動することができなくなる。ただし、中絶の精神的影響に関して行われた調査が標準化され、十分な信頼性を獲得するまでは、さらに無作為に集めた証言を基にした判断が引き続き主流となるだろう。私が今回示した証言から、中絶経験の後、女性の多くが道徳的長所を伸ばす上で妨げになる特徴を示していることがわかる。

美徳の倫理では、その行動を生み、選択する人の人格によって行動を評価する。この解釈を適用した場合、中絶は、今回の分析に従い、道徳的行動と相容れないことになる。中絶の道徳性を評価しようとする人、中絶の道徳性に関する議論および説明の根拠を求める人は、どのような道徳的判断で中絶が選択され、中絶の結果、どのような人格が生じるかを熟考すべきである。

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