愛への挑戦

ジャネット・スミス
University of Dallas

回勅:“フマネ・ヴィテ”は愛への挑戦


愛への挑戦

回勅:“フマネ・ヴィテ”に向けられた敵意が余りにも大きいので、人工避妊が初代教会のころから論争点でなったと初めて聞いた人はあっけにとられるほどです。一九三0年八月十四日、英国国教会は重大な理由があれば夫婦が避妊することは許されると決定したのですが、キリスト教諸派はそれまで避妊に関して一致して反対していたのです。教皇ピオ十一世は同年十二月三十一日、回勅『カスティ・コンヌビイ』で、避妊は本質的に悪であるというカトリック教会の伝統的教えを確認なさいました。

一九三0年以来、この点について論争が絶えなかったであろうとわたしたちは思いがちですが、事実は違っています。この時期の調査によると一九六0年代初期まで合衆国に住む65%のカトリック信者は教会の教えに従っていました。ジョン・ヌーナン著の「人工避妊」には避妊に反対する教会の教えの歴史を詳細に伝えています。それによると、教会はその歴史の初めから避妊に関して「常に明白に」反対でした。

掟の変更を求める要求は、一九五0年代の終わりごろから避妊ピルが広く入手可能になった一九六0年代の始めにかけて聞かれるようになりました。一部のカトリック神学者たちもピルがカトリック信者にとって合法的産次制限であるかもしれないと考え始めたものです。つまり、ほかの産児制限法と異なり、それが性行為の完全性を損なわないと考えたからです。避妊が道徳的に許されるかもしれないと教会内で議論が試みられたのは歴史始まって以来これが初めてのことでした。その間、政治、経済の分野では人口過剰が話題になり始め、大家族を奨励し続ける教会の「政策」が非人道的であると思う人たちも現れ始めました。フェミニストたちが女性にも政治、職業分野に男性と同じく参加する権利があると主張し始めたのもこのころです。子どもがいなければ職場での昇進も可能になり、女性の地位が向上すると彼女らは子どもを産み、育てることが、障害になっていたという議論を繰り広げました。

教皇ヨハネ二十三世はこれらの問題に関して助言を求め、六人の神学者からなる委員会を設置しました。その後継者教皇パウロ六世は委員会を引き継ぎ、幾組かの夫婦と各分野から多数の専門家の参加を得て、それを拡充し始めました。この委員会の過半数が教会はそれまでの教えを変更すべきであるという意見に賛成しました。委員会の少数意見は、それは人間の法でなく神の掟であるので、教会であってもだれであっても避妊が道徳的に許されると宣言することができないので、教会は人工避妊に関してその教えを変更すべきでないどころか、それを変更することは不可能であるというものでした。委員会のそれ以外の記録も含めて、この票決の結果と勧告の内容は教皇だけが目にするはずでした。委員会 が作業を終えたのは一九六六年のことでしたが、一九六七年、委員会の最終勧告も含めてすべての記録はロンドンのカトリック雑誌タブレットと米国のナショナル・カトリック・リポーターにリークされてしまいました。

事情に詳しい人たちはこの委員会のことを心得ており、何年も前から教会の決定を待ち望んでいました。一九六三年から一九六七年にかけて、避妊に関する記事が数多く雑誌に掲載されたものですが、そのほとんどは避妊に賛成する記事でした。例えば、そのころある大司教が書いた本の題名は「避妊と教皇」というものであり、その内容は結婚した人々とか避妊に賛同する人たちの記事を集成したものでした。委員会の報告は疑いなくこのような反対を扇動するためにリークされ、案の定、それは変化を希望する人たちの期待をあおったものです。


出会った反対

(回勅:“フマネ・ヴィテ”への公然たる反対は、教会史の流れの中でまるで分岐点のようでした。この現象はそれまでの間見えないところで煮えたぎっていたものが結晶化したか、それ以後に来るはずであったもろもろの反論のカタリスト(触媒)であったかのどちらかでしょう。)

一九六八年七月、回勅:“フマネ・ヴィテ”が発表されたときは、まるで爆弾が落ちてきたかのような騒ぎになったものです。もちろん回勅への強い支持はありましたが、これ程の反論を呼び起こした回勅はかつてありませんでした。反対の先鋒は主にチャールス・カラン神父とベルナルド・ヘーリング神父でした。

それは教会史に残る歴史的、決定的瞬間であったとさえ言えます。反対がまるで流行のようにさえなりました。回勅:“フマネ・ヴィテ”以前にこのような現象は見られませんでした。どのような問題に関してであっても、反対意見の神学者たちがこれほど公然と教導職の指導に反抗したことはかつてありませんでした。回勅:“フマネ・ヴィテ”への公然たる反対は教会史の流れの中でまるで分岐点のようでした。この現象はそれまでの間見えないところで煮えたぎっていたものが結晶化したか、それ以後に来るはずであったもろもろの反論のカタリスト(触媒)であったかのどちらかでしょう。すぐに、神学者だけでなく後には一般信徒までもが避妊についてだけでなく、同性愛、自慰行為、婚外セックス、離婚、その他多くの問題に関して反対しなくても別に良いではないかと言い始めました。

カトリック信徒の避妊を良しとする人々の間における広範囲な避妊の実施にもかかわらず、教会は避妊を重大な道徳的悪として常に繰り返してきています。教皇ヨハネ・パウロ二世は避妊への反対をその教皇職の基礎に据え、この点に関して多くの文書を書き、事あるごとに発言しておられます。


避妊が社会にもたらす影響

(回勅:“フマネ・ヴィテ”は、避妊法の普及が必ず道徳低下をもたらすと予言していました。さて、特に性的分野で現代の道徳低下は明らかであると思います。)

過去二、三十年の経験から判断すると、避妊が社会にもろもろのひどい悪をもたらしていることがよく見えるようになった今、教会がこの教えを常に教え続けてきたのは非常に賢明であったと思います。例えば、それは望まれない妊娠と妊娠中絶の原因となった性の革命に道を開きます。それはまた男性が女性を性的に利用しやすくしています。実に、回勅:“フマネ・ヴィテ”は、避妊法の普及が必ず道徳低下をもたらすと予言していました。さて、特に性的分野で現代の道徳低下は明らかです。性の革命がもたらした諸悪を、ことさらにいろいろ統計を持ち出してきて証明する必要はないでしょう。十代の妊娠、性病、離婚、エイズ、その他が疫病のように急増していることはだれでも知っています。

西欧社会の性行動は急速に変化しましたが、それが良い方向に変化したと思っている人はいないはずです。例えば、わずか十年前まで、三組に一組の夫婦が離婚していたのに、今では二組に一組の夫婦が離婚してしまいます。

わずか十年前、十代少女十人のうち四人が性的に活発であったのに、今はもうそれが六人になったと言われます。白人の赤ちゃんの二二%、黒人の赤ちゃんの六七%は婚外子です。過去十年だけで何百万人の赤ちゃんが中絶されました。エイズも蔓延しています。これだけでも、性に関して大変な問題をわたしたちが抱え込んでいることがよく分かります。十年前の統計はすでにひど過ぎるので、多くの人は事態がこれ以上悪化することはないと思ったものです。二十年前も、三十年前も多くの人たちは同じように思っていました。この一世代の間に婚外性活動の頻度と付随の諸問題は二倍、三倍、いやそれ以上に増加しました。性に関連する問題の増加がその頂点に到達したと考える理由は特にありません。


未熟なセックス

(未熟で不特定多数相手のセックスは良い結婚と良い家庭生活の敵。)

世界中に拡散している性的不道徳に付随する諸悪を、統計的に計測することはできません。未熟で不特定多数相手のセックスは良い結婚と家庭生活の敵です。人間の幸福と福祉にとって健康なセックスと強固な家庭生活は欠かせません。強く、揺るぎない家庭にはアルコール・セックス、麻薬の問題が少なく、そういう家庭の子どもはノイローゼとか精神病には大方無縁です。健康な人たちは自分自身の問題で手一杯になることがないので、彼らは強力なリーダーになり、社会の問題と正面から取り組むことができます。片親家庭で多くの親たちが子どもを育てるために英雄的努力をしていることは確かでしょうが、悲しいことに崩壊家庭の子どもたちは、成人しても犯罪率が高く、アルコールとか麻薬中毒になるとか心理学的障害に悩まされる傾向が比較的に高いことは否めません。


深く理解

(教会による避妊の断罪は何世紀もの間挑戦を受けることがありませんでした。現代、この断罪の理由を説明しながら、教会は結婚とその意味、性行為の意味を更に深く理解するようになっています。)

教会が避妊を断罪するのはそれに悪影響が付随するからではありません。そうではなく、教会は避妊が本質的に邪悪な行為であるので、悪い影響が伴うと教えます。教会は、それが人間の性行為に属する目的と本質に反し、それ故に人格の尊厳に反するので、避妊が悪であると教えます。過去何十年かの経験は教会の教えがいかに英知に溢れるものであるかをひたすら証明するのに役立ちました。しかし、わたしたちは教会の教えを実践的レベルでより深く理解できただけでなく、理論的理解も進歩を見せています。挑戦を受けるまで、教会はなぜ特定の教えを教えるのかその理由を十分に理解していないことが多いのです。教会による避妊の断罪は何世紀もの間挑戦を受けることがありませんでした。現代、この断罪の理由を説明しながら、教会は結婚と性行為の意味を更に深く理解するようになっています。教皇ヨハネ・パウロ二世が性行為が完全な自已贈与を意味し、避妊がこの自己贈与の意味を減じると主張なさったお陰で、わたしたちは避妊がどれほど悪いことであるか更に深く理解することができるようになっています。


避妊の悪に関する教会の教え

(婚姻行為にあるきずなをはぐくむ側面と生殖にかかわる側面は不可分の関係にあり、両側面とも婚姻行為に内在します。神がお定めになったこの関係を人が恣意的に破壊することは許されません。)

避妊が悪であるかどうかを、教会が断固として常に教えてきたかいくつかの文書で調べてみましょう。回勅「カスティ・コンヌビイ」は以下のように教えます「どれほど重大な理由があったとしても、本質的に自然に反しているものが自然に即したものになったり、道徳的に良いものになったりすることはありません。婚姻行為は第一義的に、またその性質からして子どもを目的としているので、その自然の目的と性質を意図的に挫折させる者は、自然に反する罪を犯し、恥ずべきそして本質的に悪である行為を犯すことになります」。更に続けます。

いのちを生み出す自然の力を意図的に挫折させるどのような婚姻行為の方法も、神と自然の法に反する罪であり、そのような行いをするものは大罪を免れることができません。」回勅:“フマネ・ヴィテ”(#11)はこれを以下のように教えています。「その伝統的教えをとおして自然法を解釈する教会は、結婚している人々が自然法に基づいた教えに従わなければならず、また個々の婚姻行為はそれ自体においていのちの誕生に向けられていることが必要であることを思い起こさせます」。

同回勅は更に以下のように続けます(#12)。「教会教導職がしばしば説明している教えですが、(婚姻行為にある)きずなをはぐくむ側面と生殖にかかわる側面は不可分の関係にあり、両側面とも婚姻行為に内在します。神がお定めになったこの関係を人が恣意的に破壊することは許されません」。


いのちの贈り物

(セックスは赤ちゃんと男女のきずなを生み出すためにあります。もし赤ちゃんもきずなもいらないのであれば、性行為はあるべきではありません。現代人には赤ちゃんを神からの贈り物としてでなく、重荷として受け止める傾向があります。受胎能力はまるで気を付けて治療しなければならない病気のようです。)

教会は、赤ちゃんと男女のきずなを生み出す人間の性行為にある両側面を侵害する避妊行為を断罪します。避妊は性行為から本質的に重大な意味を減じてしまいます。性行為は新しい生命を創造し、男女間に強い感情的きずなを作り出す可能性を秘める行為ですが、避妊行為はその可能性をなくす行為であります。セックスは赤ちゃんときずなを生み出すためにあります。もし赤ちゃんもきずなもいらないのであれば、性行為はあるべきではありません。現代人には赤ちゃんを神からの贈り物としてでなく、重荷として受け止める傾向があります。受胎能力はまるで気を付けて治療しなければならない病気のようです。現代人はしばしば「妊娠のおそれ」を口にしますが、変な話だと思いませんか? 貧困、核兵器による大量殺傷、独裁制のおそれなら理解できますが、なぜ妊娠をおそれなければならないのでしょうか? また「偶然に妊娠した」という言い方も耳にします。しかし、それでは妊娠がまるで交通事故のようなひどい事故のようではないでしょうか? しかしもし性行為の結果妊娠したのであれば、それが意味するのは何かとんでもないことが起こったのでなく、性行為に正常な結果が伴ったということです。現代人は、もし赤ちゃんを産む準備ができていないのであれば、性行為の準備もできていないという基本的真理を見失っています。性行為、男女間の愛、赤ちゃんを産むことは十分な理由があって、互いに本質的に関係していることを見失っています。現代人は性的関係を余りにも軽く考えすぎ、異性との性行為が決して責任を意味するわけではありません。赤ちゃんは性行為に侵入してくる歓迎されざる客でしかないと思っています。教会はこのような態度に反対し、性行為と子どもが密接に結ばれており、性行為は重大な責任を伴い、子どもたちはその責任の本質的部分であり、責任も子どもたちもすばらしい贈り物であると主張します。


避妊に伴う負の側面

決して忘れてならないのは、受胎能力がすばらしいものであるということです。大人の女性にとって受胎能力があるのは健康な証拠です。受胎能力がない人たちこそ専門医による不妊治療を必要とします。現代、女性は受胎能力をそぐために「避妊ピル」を服用しますが、これではまるで受胎能力は治療を要する病気のようではありませんか?

避妊は女性の健康な体を、それがあたかもどこか悪いので治療を要するかのように取り扱うことです。避妊行為の意味は、神が女性の体を創造したときの不具合をわたしたち人間が訂正しなければならない、ということです。汚染物質を環境に廃棄しないように気を付ける時代に、女性が自分の体内に熱心に汚染物質を取り込むのは皮肉な現象です。避妊ピルの箱に付いてくる説明書を一目見れば分かるように、避妊が女性の健康にもたらす危険はかなりのものです。製造会社に対する訴訟が相次いだために、避妊リング(IUD)は現在もはや市販されていません 。自然な家族計画なら安全でもあるし、信頼性もあるというのに、女性たちはなぜこんな危険に身をさらすのでしょうか?

更に、かなりの避妊手段には中絶促進作用があることも付け加えねばなりません。これらは極初期中絶の原因になります。これらの手段には排卵を抑制するのでなく、受精卵つまり小さな人間が子宮内壁に着床できないようにする作用があります。避妊リングにはこのような機能があります。ノルプラントとか(時としては)避妊ピルにも同じ作用があります。ですから、中絶に反対する人、女性の幸せを大事に思う人であればこれらの避妊法を使用したくないでしょう。その他の方法は信頼性がそれほどありません。

ですから、避妊は性行為にとんでもない否定的雰囲気を持ち込みます。しかし、性行為は相手を肯定する最高に驚嘆すべき行為、配偶者に対して心から「イェス」と言う行為、相手に対して、彼もしくは彼女がすばらしい人であることを分からせる行為であるべきです。自分が完全に受け容れられていることを相手に理解させるのが性行為です。このメッセージは自分を余すところなく相手に与えることで伝わるものです。ところが、避妊する男女が発するメッセージはわたしはあなたに自分を上げたいけれど、受胎能力だけはあなたと分かち合いたくない、あなたは欲しいけれどあなたの精子(卵子)はお断り、ということではありませんか? 

避妊(contraception)という言葉について考えてみましょう。それは「始まりに反対」つまり新しい命の始まりに反対するという意味です。ですから、避妊する男女は新しいいのちを生み出すように神が計画した行為をしていながら、新しいいのちを阻んでいます。彼らは愛し合うのでなく、まるで戦争でも始めるかのように、防御のために精子を殺傷する「障壁」を装着します。これを果たして愛の行為と呼ぶことができるでしょうか?


夫婦は神と共に創造者

(避妊は神に向かって「ノー」と言うことです。つまり、避妊する男女は性の肉体的快楽は望んでも、神に創造の業をさせることを拒むのです。)

わたしたちは、新しい人間を生み出せることがどれほどすばらしいことであるか忘れています。神は夫婦の愛を通してこの世に新しい人間のいのちを生み出す選択をなさいました。全世界はわたしたちのために、そしてわたしたちと似た全ての人たちのために創造されました。神はご自分が創造なさった世界を新しい人間とも分かつことを望み、男女の愛を通して新しい魂をこの世にもたらされます。神は世界を愛の業として創造なさいました。新しいいのちをこの世にもたらすことがもう一つの愛の業の産物であることは理にかなっています。男女が協力して子どもを設けるとき、もはや決して存在を失うことのない何者かが新しく存在するようになるので、それは宇宙を変えてしまうほどの出来事です。一つ一つの魂は不死であり、永遠のいのちに召されています。

そして、新しいいのちが存在するようになるとき、神だけが不死の魂を創造できるのですから、神は新たに創造の業を繰り返されます。性行為の際に、夫婦は神にその創造の業を行う機会を提供します。回勅:“フマネ・ヴィテ”の冒頭にあるように、神は夫婦にいのちを伝達する使命をお与えになります。避妊は神に向かって「ノー」と言うことです。つまり、避妊する男女は性の肉体的快楽は望んでも、神に創造の業をさせることを拒むのです。


避妊は性行為に付随するきずな形成の側面を侵す

(複数相手のセックスを望むのはたやすいことでも、普通であれば、赤ちゃんを作る相手は一人の人間とだけにしておきたいものです。「君とはセックスしたいだけなんだ」もしくは「君と一緒になって子どもの親になりたい」という体の言葉には全く異なる意味が込められます。)

避妊が間違っているのは、それが性行為にある産児の側面だけでなく、きずなの側面も冒すからです。教皇ヨハネ・パウロ二世は、避妊をする夫婦がなぜ性行為の際に真の夫婦の一致に至らないかを熱心に説明なさいます。教皇によれば、性行為は自分を与え尽くす行為であるはずです。ですから自分の受胎能力を配偶者に拒むことは相手に自分を与え尽くさないことになるです。教皇は「体の言語」という興味深い言い方を駆使してそれを論証なさいます。その主張によれば、体の動作には言葉と同様に意味があります。わたしたちの行為に意味が込められていないのであれば、言葉でうそをついてはいけないのと同じく、そういう行為は控えるべきであると言われます。両方の場合とも、うそをつくことになるのです。

性的一致にはだれでも認める意味があります。それが意味するのは「君は魅力的だ」、「君が好きだ」、「君を幸せにするよう努力するよ」、「君との間に強いきずなが欲しい」ということです。ある人たちは性行為の際にもこういうことを言うつもりがありません。彼らは単に自分の性的欲望満たすために相手を利用したいだけです。彼らは自分の体でうそをついています。それはちょうどある人にひたすらに何かをしてもらいたいから口先だけで「あなたを愛しています」というのと同じです。複数相手のセックスを望むのはたやすいことでも、普通であれば、赤ちゃんを作る相手は一人の人間とだけにしておきたいものです。「君とはセックスしたいだけなんだ」もしくは「君と一緒になって子どもの親になりたい」という体の行為は同じに見えても、その言葉は全く異なります。一般的に、わたしたちは一緒に子どもを産み、育てたいと思う人を真に愛し、全生活がその人の生活とかかわることを望むものです。わたしたちは子どもがいることで互いに一つになるような方法でそのような人と一つになりたいのです。わたしたちは全生活がその人の全生活と絡み合うほどに一つになることを望みます。その人と共におしめを買いに行きます。その人と共に御誕生会をします。その人と共に子どもたちを学校に出し、彼らの結婚式の準備をします。避妊などしない性行為の意味は「幸せなときもそうでないときも、病気のときも健康なときも、死がわたしたちを分かつまで」という結婚式の誓いの言葉のとおりです。共に子どもを設けることはその人と一生の仕事を分かち合うことにほかなりません。

産児の可能性に開かれた性行為は夫婦が同意したあのきずなを象徴しています。人工避妊はその反対に、性交は欲しても、相手との永久的きずなが欲しくないというメッセージを伝えます。永久的なきずなの可能性が、正にそのようなきずなの望みを最もよく表現するはずの行為から、意図的に取り除かれてしまっています。その性行為はうそになってしまいます。ですから、避妊は神にも、相手にも、自分の体にも反逆行為となるのです。


自然な家族計画(NFP)

(NFPを実行している夫婦はほとんど離婚することがありません。彼らには避妊する夫婦より強いきずながあるようです。)

夫婦は物理的に可能な限りたくさん子どもを設けなければなりませんか? これは決して教会の教えであったことがありません。夫婦には子どもの養育について責任を持ち、よく育てることができるだけの子どもを産むことが期待されています。しかし家族のサイズを制限する方法は道徳的なものでなければなりません。家族のサイズを決定するために、NFPは非常に効果があり、道徳的な方法です。この方法によって夫婦は希望するときに妊娠することができ、また妊娠することが無責任であると感じるときにそれを避けることができます。NFPを実行する夫は妻の体をいたわり、妻を完全に尊敬し、妻と共に神に従うことができます。

NFPは、今はもう廃ってしまったカレンダーに基づくリズム法ではありません。それどころか、NFPは種々の徴候に基づいて女性が受胎可能である期間を知る非常に科学的な方法です。妊娠を避けたい夫婦は受胎可能期に禁欲します。NFPの信頼性に関する統計は最も効果があるとされる避妊ピルよりも高いことが分かっています。それだけでなく、それには健康を害する危険が皆無であり、しかも経済的で道徳的です。

NFPを実行する夫婦は、それが自分たちの夫婦関係に、また神との関係にも良い結果をもたらすと証言します。夫婦が受胎可能期に禁欲しても、彼らは性交を控えているわけですから、性交の行為を無に帰しているわけではありません。不妊期に性交があっても、その時期は受胎が可能でないのですから、彼らは自分たちの受胎能力を抑圧していることにはなりません。彼らは自分たちに内在する自然のリズムに従って生きることを学びます。一口に言えば、受胎可能期に禁欲するNFPの実行は非生殖的行為ではあり得るでしょうけれど、それは決して反生殖的行為はありません。

多くの人々は、定期的禁欲が結婚にとって害になるどころか、非常に有益であるのが不思議であると感じます。しかし、ちょうど結婚していない人たちとか、性交によって一定の危険がもたらされるような人たち同士にとってそうであるように、禁欲はもう一つの愛の表現であり得ます。確かに、NFPを実行し始める人たちはほとんど、特に結婚前に純潔でなかった人たちとか、以前避妊の習慣があった人たちは、一般的に言って、要求される禁欲を重荷に感じたり、いらいらしたりすることはあります。もちろん、禁欲は食事制限とかほかの克己の業と同じく困難ではありますが、食事制限とかほかの克己の業と同じく、それには利点もあります。そして考えてみると、夫婦は、例えば片方が旅行で家にいないとか病気であるとか、いろいろな理由のために禁欲を強いられるのは日常茶飯事ではありませんか? NFPを使用する夫婦は相互の意志疎通が格段に良くなります。禁欲がそうさせるのです。また、自分たちの愛情を性交以外の手段で伝えることを学ぶ彼らは、性交を控える能力のおかげで新たな解放感を持ちます。多くの夫婦は禁欲期間にロマンスの要素が再登場したと感じます。更に、禁欲期間が終わったときに彼らは再度ハネムーンの興奮を味わいます。一般的に、NFPを実施する女性たちは不健康で不快な避妊剤の使用を夫から要求されないので、夫から尊敬されていると感じます。夫たちも自分の性欲をコントロールする能力を得て、単なる性欲のはけ口としてでなく、愛の行為としての性交ができるようになるので、以前に増して自尊心が高まります。NFPがどれほど結婚にとって有益であるかは、米国で50%以上の結婚が離婚に終わるのに比べて(離婚する夫婦は大方避妊の経験があると推定できます)、NFPを実行している夫婦はほとんど離婚することがないことからも分かります。彼らには避妊する夫婦より強いきずながあるようです。


なぜ人工避妊を断罪するか?

(人工避妊が本質的に悪であると教えるとき、教会はカトリック信者に懲戒を含む法律を押しつけているのではなく、自然と福音が教えていることを伝えているだけです。)

教会は夫婦に性の快楽を禁止したいからではなく、彼らが結婚の幸福を見いだし、幸せな家庭を築くことを望むからです。そういうこと無しに、個人また社会の幸福は非常に危うくされるからです。以下に回勅:“フマネ・ヴィテ”(十八)を引用します。

「…教会は、神であるその創立者と同様に「さからいの印」にされることを不思議とは思いません。そのため、教会は、謙虚に、しかし確固として、すべての自然的および福音的道徳法を宣言するつとめをおこたらないのであります。もとより、教会は、このふたつの法の立法者でもなけれぱ、その裁決者でもありません。ただその守護者であり、解釈者であるにすぎません。したがって教会は、事実不正であることを正当であると宣言することはできません。それは、本性上人間の真の価値 にいつも反するからであります。

結婚倫理の全き姿を守ることによって、教会は自分が、人間社会の真の文化を建設するために貢献することを知っています。」

人工避妊が本質的に悪であると教えるとき、教会はカトリック信者に懲罰を含む法律を押しつけているのではなく、自然と福音が教えていることを単に伝えているだけです。これほどひどい目にあったわたしたちは、自然の掟に反抗してまでセックスにふけったりしないで、自然と神の掟に反することは、わたしたち個人また社会に手ひどい損害をもたらすことを理解してもよさそうなものです。


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