避妊がいけないわけ

ジャネット・スミス

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「避妊がいけないわけ」は1994年5月オハイオ州コロンブスにある教皇庁立ヨゼフィーヌス・カレッジで開催された米国カトリック医師会での講演です。講師紹介はデニス・ドゥーディー博士。 講師紹介

講師のジャネット・スミス博士はグリンネル・カレッジ卒業後ノースカロライナとトロント各大学で古典言語学修士号と博士号を取得されました。ノートルダム大学で十年間教壇に立った後、現在に至るまで、ダラス大学哲学部で助教授を勤めておられます。教授は各地の大学で聖職者や信徒を相手に講演活動を続け、教皇ヨハネ二十三世医学倫理研究所では三回にわたって全米司教団に講義なさっておられます。著作は多く、中でも回勅『フマネ・ヴィテ』に関してはすでに著作・編集が二冊あります。その他、プラトン、徳、中絶、避妊に関する専門的記事が種々の学術誌に掲載されています。スミス博士は現在オハイオ州各地を講演旅行中ですが、運良くわたしどものためにも時間を割いて下さることになりました。家庭と結婚に関する教会の伝統的教えに関する興味と熱意を、スミス教授が新たにして下さることを願います。では、ジャネット・スミス博士、どうぞ。

挨拶と導入

ありがとうございます。当地で皆さんにお話しする機会を得て、うれしく思います。何しろ父はアシュタブラ、母はクリーヴランド、わたしはここからさほど遠くないペンシルヴァニア州ウォーレンで育ちましたから、これは里帰りのようなものです。 さて、ドゥーディー博士が言われたように、この件に関してはかなりの量の著作があります。一冊は四百二十五ページ、もう一冊はそれ以上あります。ですからわたしがここで言いたいことがどれほどたくさんあるかお分かりでしょう。聴衆にとってこれはさほどいいニュースではありません。ことに、皆さんが座っている椅子もだいぶ堅いようですし、また、わたしはしゃべり始めると途中で止まることができません。どうしましょう?しかし、頭の中にある多量の情報を処理する一ついい方法があります。それは簡潔な文章の中に言いたいことを全部圧縮してしまうことです。ラジオで耳にしたガリソン・キーラーがこんなことを言っていました。「エミール神父は一年に一度避妊について説教をします。それは『もしあんたたちがミネアポリスに行きたくないのなら、何でミネアポリス行きの列車に乗っているのかね?』というたった一つの文章から成り立っています」。賢明な皆さんはお分かりですよね?

さて、今夜、わたしは避妊とそれに関連する性の問題に関する教会の教えについて話します。ご存じの通り、わたしたちは避妊法が人類の歴史始まって以来最高の発明であると考える文化の中に生きています。もし、車、コンピュータ、避妊ピルの中でどれか一つ断念しなければならないとすれば、どれを選ぶか答えに窮してしまう人は多いことでしょう。ピルはそれほどまでも現代生活に欠かせず、現代医学最大の発明であると思われています。それにもかかわらず、わたしたちの古めかしいカトリック教会はピルが人類の歴史で最悪の発明だと主張します。教会によれば、ピルこそわたしたちの歴史始まって以来最大の災難なのです。

この世はそれが最高の発明である、カトリック教会はそれが最大の災難であると主張しているのですから、これは他に類を見ない二極化と言えましょう。今夜は、なぜ教会の教えにはわたしたちが真剣に受け止めるだけの価値があるか、皆さんに分かっていただけるよう努力するつもりです。

人工避妊の登場

ほとんどの人が知らないことですが、1930年8月14日までは、キリスト教のどの宗派も一致して避妊などとんでもないと確信していました。その日、英国国教がこの連綿たる伝統を破って、深刻な理由があれば夫婦が避妊することを認めたのです。同年12月31日、教皇ピオ十一世は回勅『カスティ・コンヌビイ』で、教会の伝統的教義を確認なさいました。カトリック教会内部では、1960年代半ばまで異論が聞かれることはほとんどありませんでした。反論が出始めたのは1963年になってからです。それまではまるで一枚岩のように教会内部にこの点に関する一致が見られました。1960年、カトリック信者の66%は教会の教えを実践していました。現在、80%のカトリック信者が何らかの避妊行為をしています。30%のカトリック信者は不妊手術を受けています。NFPを実践しているカトリック信者はわずか4%と言われます。わたし個人としてはこの数字はもう少し低いのではないかとさえ思っています。

過去三十年の間に従順の度合いが66%から4%に急落したのはなぜでしょうか? 理由の一つは、六十年代には効き目のある避妊薬がまだ登場していなかったということです。ピルはその少し前に開発が始まったばかりで、まだ市販されていませんでした。少なくとも州境を越える取引に関しては、ほとんどの避妊剤とか避妊用具はほぼ全米各州で非合法でした。避妊剤とか避妊用具を非合法化したのはプロテスタントの議員たちでした。避妊は常に社会における性的放縦の源と見なされ、道徳的にまともな社会であれば禁止されて当然であると思われていたものです。しかし、皆さんもご承知の通り、合衆国憲法の周縁部に見つけた「プライバシーの権利」のために、それらの法律が廃止されました。州境を越えた避妊剤とか避妊用具の取引禁止法を廃止した最高裁の決定はロー対ウェイド判決の前触れでした。プライバシーの権利はグリスウォルト対コネティカット州判決中に見られ、次に、中絶を合法化したロー対ウェイド判決で繰り返されることになります。そのころはまだ、カトリック信者にとって従順は徳であると考えられていました。まだ、教会が病気になっていなかったのです。カトリック信者は理解するしないにかかわらず、教会がそう教えるから従う心づもりがありました。

1960年代にピルが入手可能になりました。同時に避妊薬に関連する革命が起きました。ピルはいくつかの理由で人類にとっての救いであると考えられたのです。当時、人口に関して人類は破滅に突き進んでいると人々は考えるようになり始めていました。わたしが高校生であった頃、地球から人間がこぼれ落ちているポスターが校内に張り出されていたものです。当時、地球が満員になってしまうと本気で予想されていたものです。しかし、実際はといえば、人口増加のために大飢饉と数々の戦争を預言したマルサスとポール・エーリッヒ以上の大間違いをした人物を見つけるのは至難の業です。

人口過剰の神話について詳しく話す時間はありませんが、何人かの著者を紹介することならできます。お薦めは人口学者のジュリアン・サイモンとベン・ワッテンブルグ。たくさんいるうちからもう一人だけ挙げるとするとマルサスとエーリッヒの著書を批判したジャックリン・カズンです。

マルサスの主張は、人口は幾何学的に増加するのに食料供給はせいぜい数学的にしか増加しないであろうというものでした。人口が著しく増加したのは確かですが、これは必ずしも悪いニュースではなく、そういう事実があったというに過ぎません。いいニュースはマルサスが夢想だにしなかったほどの食糧増産です。アメリカ合衆国だけで世界中の人間を養っていけるほどの食料生産があるのです。ですから食糧危機は問題ではありません。現代農業技術のお陰で食糧増産は指数関数的に増加しました。海洋での食糧増産も可能ですが、それすら今のところ必要がなさそうです。限りある鉱物資源に関しても、マルサスによれば、石炭、銅、貴金属はすでに不足しているはずですが、現状がどうかと言えば、一人当たりのこれらの資源は彼の時代より豊富なのです。また、たとえば原子力エネルギーのようにこれら以外の資源も人類は発見していす。

繰り返しますが、わたしはここで人口過剰という神話を打破しようとしているのではありません。わたしが言いたいのは人口過剰神話を疑ってかかるだけの根拠があるということだけです。それでも、皆さんはテレビ画面でやせこけた子供たちの姿を目にするのはいったいどうしたことだろうと不思議に思われるでしょう。飢えさらばえた子供たちの写真を見せられたりすると、つい人類は人口過剰に悩まされていると思いたくもなります。しかし、飢餓は人口過剰と何の関わりもありません。飢餓の原因は部族間、人種間の憎しみと争いにあります。また、腐敗した政府と食料配分の不手際もその原因です。さらには人類が制御することのできない自然災害にもよります。にもかかわらず、避妊ピルによって人類が進歩したと考える根拠には人口過剰の心配があるのです。

フェミニズムも避妊ピル受け入れフィーバーの一因です。フェミニストによると、避妊ピルを使用して子供をたくさん産まないようにしなければ、女性が職場で自己実現することが不可能であり、子供の数を減らすには高性能避妊ピルが必要なのです。

さらに、避妊剤、特に避妊ピルによって結婚生活はもっと幸せになると信じられています。その理由は明らかです。結婚した人たちが避妊ピルを使用すれば、自分たちが望んでいたあの至福の性生活に水を差す妊娠の恐怖がなくなると思ったものです。人々はすぐにこぞってそう信じ込みました。避妊ピルが結婚した人たちの性生活から妊娠の恐怖を取り去るのであれば、結婚前の人たちの性生活からも同じく妊娠の恐怖を取り除くはずです。であれば、婚前セックスをしない方が間違いなくおかしいと人々は考え始めたのです。

六十年代にわたしは十代でしたが、こういう考え方は当時当たり前になっていました。なるほど、運転しないのであれば車を買うことはありません。もちろん、どうせ結婚する相手なら婚前セックスをしない方が馬鹿みたい、ということになりました。本当に車を買うのであれば、まず何台か試乗しないで買う人はいないでしょう。どのモデルが気に入るかもまずは試乗しないと分かりません。乗り心地と性能も確かめてみたいものです。結婚に関しても六十年代はこんな風でした。それ以前の世代の人たちは、性の衝動を抑えることができなかったので結婚するか、結婚するまでは歯を食いしばって我慢するしかなかったのは不幸なことでした。しかし、避妊ピルがある今、結婚していなくてもセックスができるので、結婚前に試してみることで、もっと落ち着いて将来の配偶者を評価・選択できるようになりました。何といういい時代になったものだと考えられたのです。

また、避妊ピルがあれば望まない妊娠の劇的減少が可能になるとも思われました。理論上、避妊によって計画外妊娠を減らすことは可能でした。計画外妊娠の減少には必然的に妊娠中絶の減少が伴うはずでした。これが避妊ピルに対する六十年代の願望でした。以上のどれ一つとってみても、愚かしい期待であったと言うつもりはありません。皮肉に聞こえるかもしれませんが、これらの期待はすべてもっともであり、論理的でもあるように思えます。

回勅『フマネ・ヴィテ』の預言

しかし、当時のカトリック教会は異議を唱えたのです。1968年7月25日教皇パウロ六世は回勅『フマネ・ヴィテ』を発表しました。当時すでに成人していらした方もここにいらっしゃいます。それは教会とそれ以外の社会の上に落とされた爆弾のように感じた記憶がありませんか? カトリック教会が避妊に関する昔からの教えを再確認したのはすべての人にとってショックだったのです。避妊ピルの入手が容易になり、社会に蔓延すれば何が起こるかについて、教皇は回勅『フマネ・ヴィテ』十七でいくつかの預言をなさっています。

その一は社会に広く道徳低下が見られるであろうというものです。六十年代の事情を知っている方で、九十年代の現在、目が覚めている人であれば、この預言がどれほど正しかったか説得する必要はないでしょう。六十年代に十代の少女であったわたしはDonna Reed Show, I Love Lucy Show, Father Knows Best, The Spin and Marty Show など家族そろって楽しむことのできる健全な番組が数多くありました。ところが今はどうでしょう!ソフトポルノとして通じるような午後のソープオペラ、想像もしなかったような性的倒錯を恥ずかしげもなく紹介するトークショーはもちろんのこと、画面に登場する広告を見て腹が立たないことはないぐらいです。これをわたしは「水の中のカエル現象」と名付けました。もう耳にしたことがおありかもしれませんが、カエルを熱湯に入れると、熱いのですぐに飛び出します。しかし、ぬるま湯の中のカエルは、だんだん熱くなって湯が沸騰するまで危険に気づかないので、煮えて死んでしまいます。わたしたちもこのカエルと同じです。六十年代のわたしの父親だったら、いやどこの家の父親でも、MTVを目にしたら、腹を立ててテレビを窓から放り出してしまったことでしょう。しかし、現代、わたしたちはテレビもろとも煮え殺しの目にあっています。通りすがりの犯罪、車中からの銃撃、ギャングによる犯罪、校内で起こる子供たちによる銃撃事件、その他わたしたちを怯えさせる諸々の悪は言うまでもありません。「それが避妊とどうつながるのだろう」といぶかる方もいらっしゃることでしょう。すぐに分かりますが、その前にまず教皇パウロ六世の預言を最後までかいつまんで見てみましょう。 第二の預言。教皇パウロ六世は男性が女性の肉体的、心理的幸福を広く侵害するであろうと預言なさっています。ポルノは男性による女性の肉体的、心理的幸福の侵害でなくて何でしょうか?

男性による女性の性的乱用は激増しました。統計によると同じ所帯に住む男性によって乱暴される女性の数は鰻登りしています。また、合衆国貧困層の60%が母子家庭であることは何を意味するのでしょうか? こういうことが女性の肉体的、心理的幸福の侵害を意味するのは明らかです。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか? これほど多くの未婚の母親がどうして存在するようになったのでしょうか? すぐそれに触れます。

第三の預言は避妊薬が入手可能になったら政府が強制的目標のために家族計画政策を採用するであろうということでした。この点に関する現行の政策はひどいものです。合衆国が強力に後押ししている国連は、第三世界諸国への経済援助を厳しい人口政策の実施と結びつけています。これらの諸国で先進国が食料その他の援助を受けるのであれば、避妊薬を強制的に配布し、不妊手術を実施し、妊娠中絶も合法化しなければなりません。ニュースで見られたかもしれませんが、カトリック系のメディアでは女性代表がこういうことに激怒して抗議していました。これは弱い者いじめに他なりません。これらの女性は自分たちがまるで家畜並の扱いを受けいると感じています。彼女たちに必要なのは避妊政策とタイアップされない出生前健康診断、教育、子供たちのための食料ではありませんか? 中国での強制的一子政策を描いたスティーヴン・モーシャー氏の著作A Mother's Ordeal(邦訳は「チャイニーズ・マザー」上下巻、祥伝社、定価各巻千八百円―訳者)をご存じの方もいらっしゃるでしょう。中国各地で二人目以降の胎児は強制的に中絶されてしまいます。妊娠後期であっても女性は畑から強制的に連行されて中絶手術を受けさせられます。わたしたちはここ何週間か、シンガポールで一人の若者がむち打ち刑を受けたことで、全国的憤激の嵐を経験しました。それがとんでもない人権侵害であるというのです。それなのに中国で現在毎日のように起きつつあることについて同じような世論があったでしょうか?

パウロ六世の第四の預言は、わたしたちが人間の体をあたかも機械であるかのように見なし始めるということでした。わたしたちが肉体と霊魂の完全統一体である人間人格に対する尊敬を失ってしまい、肉体は自分たちの好き勝手に取り扱うことのできる機械になってしまうということでした。この預言が実現した証拠に、二、三の例を挙げると、わたしたちが使用している生殖技術の使用、代理母、試験管ベビー以上のものを考えつくことができるでしょうか?

昨年のクリスマスの頃でしたが、英国では五十九歳の女性が試験管受精で妊娠しました。エルマ・ボンベックに言わせると、これは不可解だそうです。彼女曰く、五十九歳にもなっていれば赤ちゃんをどこかに置き忘れることもあり得ます。高校の卒業式に行っても自分がなぜそこにいるのか分からないかもしれません。しかし、この話の要は女性が今や赤ちゃんを購入できるという点にあります。女性であればだれでも試験管ベビークリニックに行って精子を購入して、好みの赤ちゃんを入手できるようになりました。ですから「デザイナー・ジーンズ」には新しい意味が付け加わったことになります(genes=遺伝子jeans=ジーンズ―訳者)。ノーベル賞受賞者の精子が欲しければスタンフォード大学に、切れ者の赤ちゃんが欲しければマサチューセッツ工科大学隣接のクリニックに、アイヴィーリーグの天才の子を産みたければハーヴァード大学の近くに出向けばよくなりました。結婚していようがいまいが、レスビアンであってもなくても、女性であればだれでも支払い能力さえあれば赤ちゃんを買うことができます。現代人は肉体を機械のように扱っていないでしょうか?

離婚の理由

さて正しかったのはこの世だったでしょうか? 教皇パウロ六世だったでしょうか? 避妊法がすばらしい発明であった、結婚生活が改善されるはずだ、とした世俗的世界の預言は成就したのでしょうか?

ある意味でよくなった結婚があったかもしれません。しかし、離婚率が示しているのは、悪い結婚がたくさんあったということに他なりません。しかし離婚に終わる結婚は当事者にとって悪い結婚であったからではありませんか? 実際、1965年から1975年までの期間に離婚率は倍増しました。離婚率は今世紀に入ってから、25%だった1965年に至るまで緩やかな上昇を示していました。ところが1975年にはすでに50%になりました。わずか十年の短期間に離婚率は倍加したのです。スタンフォード大学にロバート・マイケルという社会学者がいます。かれは離婚率のこの異常増加率に注目しました。1975年から1976年にかけて避妊ピルが自由に入手できるようになると離婚率も平坦化したのです。

統計・科学的調査で、彼は避妊ピルが離婚率の急上昇に貢献した三つの理由を発見したと信じています。この急上昇の45%は避妊ピル使用にあると主張しています。以下に彼がいう三つの理由を挙げますが、わたしはそのほかにも理由があると信じます。 マイケルがまず観察できたのは、統計データによると避妊ピルを使用する夫婦には子供の数が少なく、高年になってから出産する傾向があるということでした。彼の統計によると結婚して二年以内に初子を、その後二年以内に次子を出産する夫婦の結婚はそうでない場合よりも永続性があるということでした。さて、皆さんの中には二十五年も結婚していて、子供が八人とか十人いる知人で、結局離婚してしまったケースを知っている方もいらっしゃるだろうと思います。しかし、こういうことは非常に珍しいのです。彼のデータによると子供を早くもうけた場合の離婚率は比較的低いのです。

彼はその理由については触れません。三秒ほど上げますから、皆さんも考えてみませんか?

いくつかの理由が考えられます。その一は、皆さんの中にはもう長いこと結婚している方も、新婚の方もいらっしゃるように見えますが、結婚初期のあの幸せな時代が確かにあっても、それが永続しないことを皆さんご存じです。わたしの知人も夫婦喧嘩をすると、もう帰ってやるものかと思いながら車に飛び乗って、そこらを一回りすることがあるそうです。何かの理由でかんかんに怒っています。しかし、子供が家にいると、朝起きてその笑顔を見るあの幸せを放棄したくありません。それで仕方なく、腹を立てている相手がいる家に帰って、仲直りしてしまうのです。家には愛している人が二人います。そのうちの一人に腹を立ててはいても、もう一人の笑顔は何物にも代え難いとあなたは思っています。腹を立てていてもうちに帰って仲直りする他ありません。結婚生活においては、何とか妥協を見つけだすことが非常に大切なのです。

子供のいる人が、子供がいる前よりいい人になるのは事実であると思います。しかも、その現象は子供が産まれたほとんど直後に起こります。わたしは分娩室からでて来たばかりの何人かの男性同僚を目撃する幸運に恵まれました。皆さんも同じことを体験なさったかもしれませんし、またそのような親戚や知人を見たこともあるでしょう。彼らは普通もう有頂天になって「信じられない。今までの人生で体験してきたことの中で最も奇跡的で、すばらしく、神秘的なことだ。ぼくが見たことは本当だったんだろうか?」とか「もうすべてが変わってしまった」などと言うものです。そしてそれは正にその通りなのです。なぜなら前日までは、だれが市長であろうが、警察署長であろうが、教育委員長がだれであろうが、公園が安全な遊び場であるかとか、成人向けの映画がどの程度あるかとか、テレビ番組の質が悪いとかは彼らと関係がなかったのです。しかし、今日からは違います。これからはこういう事柄に関して注意深くなります。独身時代にだれがこんなことで心配するでしょうか?

それはあなたと関係ないのです。子供がいなければそんなことはどうでもいいのです。しかしこの世に送り出さねばならない子供がいると、突然あなたはこの子を保護したくなり、前記の事柄が重みを帯びてくるのです。あなたは忍耐強く、寛大、親切、勤勉になります。この赤ちゃんがそれを要求するからです。赤ちゃんはあなたの時間と関心を要求し続けます。それであなたはいい人になり、よくなった人の配偶者になり、それがいい結婚に役立つのです。

マイケルが発見した第一の理由は、避妊する夫婦は子供の数が少なく、しかも高年にならないと子供がいません。ですから彼らの結婚は弱いのです。全く同感。 第二の理由。彼は避妊ピルの出現以来、以前より不倫が増加したと言います。二秒差し上げますから皆さんも考えてみて下さい。歴史始まって以来人類にはその誘惑がありました。不倫をしたくなるのは理解できますが、その結果の妊娠を望む人はいません。しかしほとんどの女性が避妊しているのであれば、ある意味で、ほとんどの女性は間違いなく入手可能になります。しかし不倫は結婚生活にとってタブーです。 第三の理由。女性が経済的に以前より独立するようになりました。子供が少ないから職に就けます。繰り返しになりますが、結婚生活に困難を感じると、それを乗り越えるよりも家を飛び出してしまう方が簡単に見えてきます。何しろ以前と比べると夫と和解しなければならない理由が一つ少なくなったのですから。

さて、わたしが思うに、避妊が結婚生活に有害であると考える理由は他にもいくつかあります。明白な統計こそありませんが、最近読んだU.S.A. Todayにあった世論調査によると、37%の高校生が性的に活動的であるそうです。別の調査によるとこの数は57%に跳ね上がります。さらにもう一つの調査によると、大学生の87%にはセックスの体験があるそうです。童貞、処女のまま結婚する人たちが激減していることは皆さんもご承知のはずです。こういう人たちはますます少なくなりつつあります。婚前セックスには結婚にとっていいことが一つもありません。こういう人たちはどこかでうそを信じさせられています。彼らは約束をしたことがあり、それを破った経験があります。約束を履行してもらえなかった経験もあります。彼らはうそをついたことがあり、約束をしながらそれを破った人たちと結婚します。ですから互いに相手をそれほど信用しません。彼らは自分自身さえも信用せず「わたしはあんなことを言ったし、こんな約束もしたけど、約束を守ることができるだろうか? 彼はあんなことを言ったし、こんな約束もしたけど、彼は約束を守ることができるのだろうか?」と考えざるを得ません。

多くの人たちが結婚生活にそれこそ滑り込むのをわたしは見てきました。結婚前のセックスで配偶者のよりよい選択ができるという考えは、どう考えても間違っています。性的情熱は物事を明瞭に見定めさせるどころか、目をくらませてしまわないでしょうか? 性的関係が習慣的になってしまうと、相手が利己的であるとか、怠け者であるとか、いずれ二年も経つとはっきり見え始めるかもしれないことを無視するようになります。現在進行中の性的関係のためにこういうことには目をつぶってしまうのです。以下は交際中のボーイフレンドがいたある友人のことです。二人は互いにどうしようもない性的魅力を感じていました。それで二人の性的関係が始まったのですが、両方ともその結果惨めになるばかりでしたが、別れることはできませんでした。二人はそれぞれ西岸と東岸に住んでいるにもかかわらず、その関係は五年か六年続いたと思います。その間、互いに電話で情熱的会話を続けたものです。ある時点でわたしは彼女に言いました。「彼と結婚するつもりが本当にあるの? こんな関係が永遠に続くなんて! 彼がいるからあんたはほかのだれとも交際していないじゃないの?」考えたあげく彼女は「彼の子供を産むなんてわたしには考えられないわ。彼はあまりにも変わり者だし、わたしたちの考え方はあまりにも違いすぎるんだわ。わたしはカトリック信者だし、彼はカトリック教会が大嫌いなの」。彼女はこう言ったとたんに彼と別れなければならないことに気づきました。しかし、何年も続いたあの性的執着はこの日に至るまで彼女の目をくらましていたのです。

結婚前に同棲していた人たちを何組か知っています。そして、事実、同棲は結婚が失敗に終わる明白な前兆です。これは確認がいるのですが、先日ある司祭が自分の小教区で行った研究結果である統計を見る機会を得ました。婚前セックスの体験があるだけでなく、同棲した男女が三年以内に離婚する確率は75%であるということです。わたし自身そのような男女を知っています。二十五歳から二十八歳の人たちです。彼らは二、三年同棲しており、周りの人たちからしつこく「なぜ結婚しないの?」と聞かれます。それで、互いに「結婚しようか?」と思い始めます。あまり喧嘩もしないし、別の人と最初からやり直す気もないので、結婚しようかということになります。彼らは「ここ二、三年は難しい時期だったから、またやり直しもしたくない。もうそろそろ結婚しよう」と思いますが、これは結婚への最善の道ではありません。ですから、避妊はよりよい結婚に役立ちません。

ピルと婚外子

避妊ピルは望まない妊娠を減少させたでしょうか?

この点に関する統計には驚いてしまいます。1960年、白人の赤ちゃんの6%が婚外子でした。1992年その率は22%になりました。四倍に近い増加率であり、現在もさらに増加中です。どなたか詳しい数字をご存じですか? 68%?

68%の黒人の赤ちゃんが婚外子です。それには三十年かかりました。現在の道をたどるなら、22%の白人の婚外子が68%に上昇するのに三十年はかからないと見ています。以下がその根拠です。まず、この世が主張しているのは、より効果的な避妊薬が広く入手可能になればこれらの問題を解決できるというものです。つまり望まない妊娠が減少するというのです。しかし、大事なことは、1960年、特に十代の若者にとって、避妊薬はまずは入手不可能でした。安くでコンドームを買える薄汚い給油所を知っていればどうにかなったかもしれませんが、それ以上は不可能でした。しかし現今の十代は学校でカウンセラーから簡単に避妊ピルをもらうことができます。入学時に受け取る歓迎キットの中にそういう物が含まれている場合もあります。現今、学校でコンドーム配布は認められても、聖書の配布は禁止されています。これが現代社会です。ですから、より効果的避妊薬のより簡単な入手可能性は何らの解決にもなっていないことがお分かりでしょう。十代の若者たちがどれほど簡単にそういう物を入手できるかは信じられないほどです。しかし、十代は自分の部屋を掃除したり、宿題をしたりするのと同じ程度にしか避妊薬を使いこなせません。効果が上がらないのも当然です。

避妊と中絶

わたしはかつてサウスベンドで妊娠ヘルプセンターでボランティアを勤めた経験があります。妊娠してしまった女の子たちに「避妊薬は使っていたの?」と聞くと、返事は「いいえ、今月はプリンスのアルバムを買いたかったので、お小遣いはもうなかったの」とか「わたしたちは喧嘩別れしたので、彼と会うこともないと思っていたら、突然彼が帰って来たの」というものでした。そのあげく妊娠して、びっくり仰天しているのです。この国には毎年百五十万件もの妊娠中絶があります。どうしてこんなことになったのでしょうか?

中絶クリニックに行く女性の半数は避妊に失敗したからだと白状しています。50%ですよ。8.0%は避妊の経験があり、その使用法を心得ており、以前使用したことがあるけれど、何らかの理由で肝心なときには避妊していなかった、とわたしたちに教えてくれます。

しかし、わたしが思うに、大事な点は避妊薬が、婚外セックスを導入するような、赤ちゃんと男女の親密の切り離せない関係が歓迎されそうもない生活様式をもたらしたことです。ですから妊娠は即災難になってしまいます。ですから、婚外セックスの結果妊娠すると「偶然に妊娠した」などというおかしなことを平気で言います。わたしはいつもこの不正確な言い方を耳にする都度「もう一度言ってちょうだい。どうして妊娠したの?」と言ってみるのです。世間知らずに聞こえるかもしれませんが、しばらくするうちにその本当の意味を理解し始めました。偶然に妊娠したりはしないものです。偶然に車にはねられたり、崖から落ちたりすることはあるかもしれません。しかし、偶然に妊娠はしません。それが意味するのは性交に伴ってしかるべきことが起こったということです。その反対ではありません。しかし、彼女たちは避妊薬を使用しているので、妊娠は意外なのです。「どうしよう?

妊娠してしまった。そんなつもりはなかったのに。だからどうにか処置しなくては。どうしよう? ああ、そうだ、中絶クリニックに行かなきゃ」ということになるのです。 さて、米国でこういうことに関する最高の権威筋である最高裁をご紹介しましょう。「避妊と中絶の関係」という記事のコピーが出口に置いてあります。自由にお取り下さい。そこに家族計画連盟対ケーシーの判例が記載されています。そこには少し省略した形ではありますが「いくつかの重要な側面で、避妊薬使用の決定は妊娠中絶の決定と同一である」という判決文が引用されています。つまり、中絶する決定は避妊する決定と同じというわけです。そして次のような説明があります。「ここに十年の間夫婦は避妊に失敗した場合妊娠中絶の可能性に彼らの親密な関係を基づかせていました」。さて、妊娠中絶に関する最高裁判決決定のどこを見ても、胎児の人権については一言も触れていません。胎児に人格があるかどうかについては一言も触れていません。それが疑問であるとさえ言われていません。全く考慮に含まれていないのです。その代わりに言われているのは、避妊があるのだから、妊娠中絶も許されるということです。最高裁は妊娠中絶が必要であると決定しています。二十年もの間、避妊が失敗した場合、夫婦は妊娠中絶に頼ってきたと述べています。何しろ最高裁がそう言っているのです。

さて、元に戻りますが、六十年代に避妊薬が結婚をもっと幸せにし、望まれない妊娠を減らし、妊娠中絶も少なくするであろうとの期待はそれほど愚かしいものではありませんでした。しかし、今日の文化を鑑みるとそれが全く正反対なのです。でも、現代文化、大統領、その内閣が、現代社会にはもっと高性能の避妊薬がさらにふんだんに必要であると繰り返しているからです。

教会はその正反対を教えています。先ほど触れたように、教皇パウロ六世はこれを詳しく述べることはしていません。しかし、現代に起きていることを大まかに預言しています。「どのようにして教皇にはそれが分かったのだろう?

わたしたちには予想もできなかったのに。わたしたちは知らなかったのに教皇に分かっていたのは何だったのだろう?」とわたしたちは考えてしまいます。教皇は二千年にもなる教会の全歴史を参照することができましたし、わたしたちの中には教皇に聖霊の導きがあり、それが人間の知恵に基く判断でなかったが故に、教皇が間違うことは不可能であったと考える人たちもいます。人間的知恵がたどり着いた結論は全く異なるものでした。それに説得力がなかったともわたしは思いません。しかし結果を見ると、それがとんでもない間違いであったことがはっきり分かります。

教皇には何か特別の秘密があったのでしょうか?

教会の教えはカトリック信者だけが知っていることに基づくのではありません。その教えはいわゆる自然法に基づきます。今、三分ほどいただいて、自然法の講義をしたいと思います。自然法によれば、物事を成功させたければ、何事であれその性質に従った取り扱いをすること、その実体もしくはその性質に沿った扱いをすることが肝心です。トマトの収穫を上げたければ、日光、水分、肥料、土壌を与えなければなりません。車を走らせたければ、ガソリンとオイルを供給してやらねばなりません。トマトの苗を押入に入れておけば収穫は期待できません。水をやらずにおいてその収穫を期待する人はいません。車にガソリンでなく泥を入れても走るわけがありません。教会が教えるのは人間の性には特定の性質があり、その性質に沿った生き方をしない限り、混乱が生じるということでした。水などトマトが必要とするものを与えずにトマトの収穫は不可能、ガソリン無しに車が走るわけがないのと同じく、人間のセックスに与えられた性質を大事にしなければ、人間が幸せになるわけがありません。性に関する教えは啓示に基づいていない知恵であると教会は主張します。教会の教えによれば、それは人間の理解力が特定の文化によって暗くなっていなければ、自分の理性の力で発見することができるのです。しかし、わたしたちの文化は知恵をくらます文化に他なりません。

性交の意味と性質はいったい何でしょうか?

わたしにとってそれは全く明白でしかありません。その目的は二つあります。一つは赤ちゃん、もう一つは夫婦のきずなです。性交があるとき、この二つ、つまり赤ちゃんときずなが伴います。赤ちゃんが欲しくなければ、また互いにきずなが欲しくなければ、性交をするべきではないと思います。性交に伴う赤ちゃんときずなは結婚だけで実現すべきものです。この点をどこかのラップミュージックのグループが歌ってくれないかなと思います。「赤ちゃんときずなを望まないのであれば、セックスは御法度! 結婚していないのであれば、セックスなんてとんでもない!

赤ちゃんときずなは結婚特有のものだから!」わたしたちの文化によれば、セックスはセックス、赤ちゃん作りときずなはセックスと全く無関係なのです。ですから、現代「一緒に食事をしたい、あなたとテニスをしたい、君と映画を見に行きたい、あなたとセックスをしたい」などと平気でセックスをそのほかの活動と同じレベルに置くことができるのです。セックスは大したことでなくなりました。避妊がそうさせるのです。ですから女性は妊娠するとショックを受けます。男女二人が互いに魅力を感じていても、妊娠と聞くと彼らはショックを受けるのです。それはそれはすてきな女性がごくありふれた男性にぞっこん惚れ込んでしまった話はよく耳にします。「どうしてこんなことになったの?」答えはセックスによるきずなです。

まとめてみますと、現代社会にとってセックス、赤ちゃん、きずなは無関係に存在すると思っています。教会は「これら三つは緊密に結びついている」と主張します。ある人たちは「とんでもない! 何か勘違いしているのじゃありませんか?

明らかにセックスは快楽のためであり、セックスを追い求める人たちは正にセックスの目的である快楽だけを求めている」と言いたいのでしょう。わたしは「とんでもない」と言います。快楽は多くの事柄に付属しています。快楽は目的ではありません。快楽は動機ではあります。快楽は結果であっても、目的そのものではありません。事実、神はわたしたちにして欲しいこと、わたしたちの生存と幸福のために必要な事柄に快楽を付属させて下さいました。ですから食べること、飲むことには快楽が伴い、眠ること、運動をすることにも快楽が伴います。そして性交にも快楽が伴います。セックスに伴う快感は目的ではありません。ある人たちはどうか知りませんが、快楽は食べることの目的ではありません。わたしたちは、例外的な少数の人たちをを除けば、快楽を味わうために眠るのではありません。快楽はこれらの行動の本来の目的ではありません。これらの行動は色々な意味でわたしたちを回復させ、わたしたちの生存のために必要です。だからこそ、神は、最終的な救いのためではなくとも、わたしたちがこの世で幸せになるためにして欲しいことすべてに快楽を付属させました。しかし、それらの行為が許されるためには適切な時、適切な方法、適切な相手、その他色々が定められています。確かに食べることは楽しくても、食べる分量には適量というものがあります。性交には快楽が伴うとしても、してもいいことには制限があり、自分がしていることの性質と実体に応じた快楽を求めなければなりません。


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