避妊と中絶の関係

ジャネット・スミス
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

中絶反対運動に関わっている人々の中には避妊と中絶を結びつけて考えたがらない人々が多くいます。そのような人々は、これらは別個の非常に異なった行為、つまりいのちが生まれるのを妨げる避妊と、すでに始まってしまったいのちを奪い取る中絶は全く違ったものだと主張しています。

いくらかの避妊法については、中絶との関連があるばかりでなく、中絶と全く同じものもあります。避妊薬の中には堕胎剤であるものもあります。すなわち、それらは早期中絶を引き起こす働きをしているのです。避妊リングは、受精した卵子、つまり生まれたばかりの小さな人間が子宮壁に着床するのを妨げています。ピルは必ずしも排卵を阻止するだけでなく、成長途上の人間の着床を妨げるときもあるのです。そして、もちろんRU−486は、新しい胎児、つまり新しい赤ん坊を中絶するという働きのみをするものです。中絶反対運動に関わっている人のなかには、堕胎の要素を持った避妊法に反対の声を上げる人もいますが、たいていは避妊の問題を避けて通っています。

避妊は中絶を生み出す

避妊の問題を避けて通ることは、私には間違ったことのように思われます。私たちが、避妊と中絶の間に多くの重大な関連があることがわかり、勇気を持って、この真実を語るようになるまで、私たちは、全ての新しいいのちが危険にさらされることなく、真にいのちを尊重し、中絶が恐ろしい現実ではなく、恐ろしい過去の出来事となった社会を作るために、十分な進歩を遂げることができないのではないかと私は思うのです。避妊法が広く使用されている社会は、避妊が助長する生活様式や考え方が認められているため、、中絶のない社会を維持することが非常に難しくなるだろうということを認識する必要があります。

「ロー対ウェイド」訴訟を一層強固なものにした「家族計画協会対ケイシ−」訴訟の最近の最高裁の判決文には、「いくつかの非常に重要な点で、中絶は避妊法を使用する決定と同じ性質のものである。20年間の経済的社会的発展の間に人々は、避妊が万一失敗したときには中絶が受けられるということを信じて、親密な関係を築き、自分自身と社会における自分が占める位置に対する考え方を明確にする選択をしてきた。」と述べられています。

最高裁の判決によって、現代の考え方と中絶の関連の背後に実際にあるものを「暴こうとする」全ての努力が完全に不必要なものになりました。最高裁が率直に述べているように、私たちは、避妊に頼った生活様式を続けるために中絶が必要なのです。毎年百五十万人の女性が、避妊に失敗したときの予備の手段として中絶を求めているのは、避妊法が効果的でないからではないのです。避妊によって助長される「親密な関係」は,中絶を「必要」なものにしているのです。ここで言う「親密な」とは、遠回しな言葉で,もしかすると誤解をもたらすかもしれません。ここでは,「親密な」という言葉は、「性的な」ということを意味しているのです。つまりそれは、「愛情に満ちて親しい」という意味ではないのです。中絶とはしばしば、本当の親密さと愛情のほとんどない性的関係、そして性交の自然の結果である赤ん坊に対する余地のない性的関係の結果なのです。

学者は人口過多の脅威に疑問を抱いている

しかし、最高裁はめったにないほど率直に見解を述べています。避妊を推し進めるためには、しばしば、もっともっともらしい理由づけがなされます。たとえば多くの人々は、巨大な人口爆発と考えられているものを抑制するために、避妊は絶対に必要なものだと考えています。しかし大抵の人々は、地球上の大部分の国における人口爆発の脅威の正当性を真剣に疑問視している学者がいることに気がついていないのです。ベン・ワッテンバ−グやジュリアン・シモンやジャクリ−ン・カサンのような学者は、特に西洋の国々の中には、人口転換という問題に直面している国があり、人口が増えていないために経済的に非常に困難な時代を迎えことになるだろうと主張しています。これらの学者は、人口過多と言われている地域においてさえ、その地域がかかえている問題の多くは、人口統計上の問題というより、政治的経済的な問題である、つまり問題は人口が多すぎるという問題ではなく、物資が十分に行き渡らないという問題だと考えているのです。

しかしここでの話題は、人口過多でもなければ人口過多と戦う手段としての避妊のメリットでもありません。人口抑制が、現代が避妊に夢中になっている主な原因ではありません。むしろ、避妊は性革命の結果として生じる問題に対する解決策として今歓迎されているのです。多くの人々が、より優れた避妊法とそれをもっと責任をもって使用することによって、望まない妊娠と中絶の数が減り、ある程度は性病の広がりを防ぐことができると考えています。

もっと責任ある避妊法の使用によって、中絶の数が減少するだろうという主張を支持するために、大抵の中絶は「避妊の目的」で行なわれていると言う人がいます。つまり、女性がレイプや近親相姦の犠牲者となったからとか、妊娠によっていのちが危険な状態になるとか、障害を持った赤ん坊や奇形の赤ん坊が生まれそうだとかいった理由での中絶はほとんど行なわれていないのです。むしろ、赤ん坊を望まない男女が性交をし、計画もしておらず望んでもいない妊娠に直面したために、大抵の中絶は行なわれるのです。避妊に失敗したためとか、避妊法を使用できなかったために、予備の手段として中絶という手段に訴えているのです。多くの人々が、もし私たちが避妊法を責任を持って用いるように男女を説得することができるなら、望まない妊娠の数を減らし、したがって中絶の数を減らすことができるだろうと信じています。30年前であれば、このような考え方はもしかすれば妥当性があったかもしれませんが、今はそうではありません。私たちは、避妊法と中絶が浸透した文化とともに30年間暮らしてきました。もはや私たちは、もっと避妊法を用いることによって中絶の数が減るとは考えられないのです。むしろ、避妊法が容易に利用できる所では至る所で、望まない妊娠の数と中絶の数が大幅に増加しているのです。

性革命は避妊なくてはありえない

避妊と中絶の関係は主としてこのようなものです。避妊は、中絶へとつながっていきがちな関係を助長し、さらにそのような考え方や道徳性を助長するのです。避妊をすればよいという考え方は、性交をまるで赤ん坊との当然の関係がほとんどないかのように扱い、赤ん坊のことを性交の「思わぬ失敗」とみなし、また性的な関係への招かざる侵入者、つまり重荷とみなすのです。その性的な関係は性交と赤ん坊との関連を全く望まないもの、考える余地を持たないものなのです。性革命は、かなり信頼できる避妊法が使えるようになって初めて可能となったのです。

性革命を抑制するものであるどころか、避妊は、性革命の始まりを助長し、それに氾濫をあおるものなのです。昔は、親になる責任の準備ができていないという理由で、社会的に認められていない性的な結合を控える男女が多かったのです。しかしいったんかなり信頼性のある避妊法が登場すると、結婚という境界を越えたところでのセックスに対するこの障壁が崩れてしまったのです。セックスと愛との関係もまたすぐに崩れてしまいました。避妊法が広く用いられるようになって以来ずっと、ゆきずりのセックスとか楽しむためのセックスがたくさん話題になり、受け入れられ、行なわれるようになってきたのです。性交のもつ固有の深い意味は見失われてしまったのです。相手との性交を求めることはもはや相手に対する深い約束の結果ではないのです。それはもはや、二人の子どもを作り、赤ん坊がもたらすいろいろなわずらわしさを相手とともに引き受けようという強い気持ちを表わすものではないのです。避妊は、性交を本当の約束の必要のないものにしてしまったので、性的な関係の相手を単なる性欲の対象物にしてしまうことを助長しているのです。

今、性的な関係に容易に入れることにともなって、避妊法を容易にそしてよく注意せずに使用することが生じているのです。調査によって、中絶を受ける女性は避妊方法について非常によく知っていることがわかっています。80%もの大多数の人が、避妊法にはよく慣れているのですが、その使用にあたっては、さまざまな理由で不注意で無関心なのです。ある研究者は、次のような理由をあげています。性的関係にあった相手と別れて、もはや避妊の必要はないと確信しているが、それでも何らかの性的関係を維持している女性がいるという観察結果がある。ピルを使用するための診察がいやだったり、ピルの副作用がいやだったりする女性もいれば、避妊薬を手に入れることの煩わしさや難しさから避妊をしない女性もいる。多くの未婚女性は自分が性的関係にあると思うことをいやがる。避妊薬を使用することは自分が望む自己イメ−ジと矛盾する。避妊法を使用できないということは、性的な関係にあることに不安を感じている女性が多いということを示しているものです。つまり、多くの女性が性的関係にはあるが、それを何らかの理由で自分では認めたくないということなのです。

しばしば、妊娠を中絶することが計画的なことがある

中絶に賛成の社会科学者であるクリスティン・ル−カ−というある研究者が、「一か八かやってみる:中絶と避妊をしない決断」というタイトルの本の中で、なぜ避妊法がこんなにも普及し、避妊について実際に熟知しているこんなにも多くの女性が、望まない妊娠と望まない中絶をするのかを発見しようと試みました。研究の結論として彼女は、女性が中絶を受けるようになるのは、単に「不注意である」とか「無責任である」とかの理由でなく、しばしば中絶されることになる妊娠は計画的で計算されたリスクの結果ではないかと述べています。彼女はなぜ女性が中絶をするのかということについて一般的に考えられていることを否定することから話を始めています。彼女は中絶はパニック状態になった若者が普通受けるものだいうことや、中絶をしなければ、嫡出でない子どもを生むこととなる未婚女性が受けるものだということを否定しています。

彼女はまた、統計は、中絶が貧しい女性や「生活保護を受けている母親」によって用いられた最後の必死の行為であるとは示していない、また中絶は養いきれないほど子どものいる女性がしばしば求めるものではないということを示していないと主張しています。彼女が明らかにしようとしていることは、避妊法の経験があり、避妊法を用いないことに関わる危険について知っていたにもかかわらず、なぜ避妊をしなかったのかということです。ル−カ−は、彼女の研究において、「望まない妊娠は、十分知った上での決断の過程の最終結果である。とにかく妊娠が発生したことは、この研究における女性にとっては、彼女たちの大部分が、単に妊娠を防ぐという以上の選択の幅の広い目的を達成しようとしていたからなのである」ということを実証しようしているのです。

ル−カ−は,(避妊をしないセックスをしているが、子どもを産むつもりはない)このような女性にとって、避妊をするということにはある「犠牲」が伴い、妊娠をすることにはある「利点」が伴うと主張しています。女性は、避妊をしない利点と妊娠をする利点が、妊娠をする危険と中絶を受ける必要性に勝るという計算をしているのです。彼女は、多くの女性が「ゆきずりのセックス」を好み、自分自身を「性的関係にある」とは考えたがらないという意見に同意しています。彼女は、妊娠できるかどうかわからなくて、避妊薬を飲まなかった女性がいると述べています。多くの女性にとって、妊娠の「利点」はたくさんあったのです。妊娠することで、「自分が女性である」こと、つまり自分が妊娠できることを証明するとか、「無理矢理二人の関係の位置付けをはっきりさせる」ための言い訳になるとか、そのことで女性または少女の親にむりやり関心を持たせることができ、またそのことが「心理的に自分の人生の意味を見つける手段」として用いられるのです。

結局、ル−カ−が面接調査を行なった未婚女性の大部分には、結婚するという(そしてその妊娠を全うすると考えられる)選択肢があったのですが、その選択肢を選んだ人は誰もいませんでした。ル−カ−は、このことの原因は、女性がそのような状況下では結婚をしたがらないということ、このような結婚と自分が夢に描いている結婚との違い、自分がその妊娠に対して責任があり、したがって男性の支援を求めなかったことにあると考えています。そのような女性の一例として、ピルを使用すると太るからピルを使うことを嫌がった女性がいます。と同時に彼女は、ボ−イフレンドに、自分との関係を、自分を拒絶した彼の親にむりやり公然と認めさせたい、できるなら結婚を強要したいという願いがあって、避妊をしないことに決めたのでした。妊娠するとすぐ、この女性は中絶をしました。

「不注意」は計画的である

このデ−タの多くは、性交と、愛情や約束や子どもとを切り離すことに不満感を抱かせるものが、私たちの本質の深いところにあることを示唆しています。私たちが見てきたように、女性はさまざまな理由で避妊法の使用にあたって不注意になるのですが、その理由の一つはまさしく、女性が意味のないセックスより、意味のあるセックスをしたいと願っていることなのです。女性たちは、自分たちのセックスを握手や一緒に食事をすることよりも意味のあるものにしたいと思うのです。彼女たちは、自分たちが自分たちの体に対して行なっていることと、自分たちの関係に対して行なってることに対して避妊法を用いることについて心の奥底で不快感を抱いているのです。しばしば彼女たちは、自分と関係のある男性とより確かな関係を持ちたいと望みます。彼女たちは相手の愛情と誓いを確かめるために妊娠をするのです。しかしその関係は永遠のものにはならず、何の約束も得られなかったので、起きるかもしれない妊娠に対して心の底で決心がつかないのです。彼女たちは、自分で望んだかもしれない妊娠を中絶する可能性が非常に高いのです。自ら中絶してしまうまさにその妊娠を、ある意味では「計画している」あるいは「望んでいる」かもしれない女性がいると主張することは不自然に聞こえるかも知れませんが、この分析は中絶賛成の立場にある社会学者によって行なわれた研究から生まれたものなのです。

なぜ女性はこのような自虐的な行動に関わるのでしょうか。再び、その理由の大部分は現代という時代が自由というものを信じられないほどに重視していること、つまり私たち全員が望んでいる本当の自由、善で真実なものを追求できる自由ではなく、一種のより勝手気侭に近い自由、善で真実であるものとは無関係に自分がしたいことを何でもできる自由を信じられないほどに重視していることなのです。私たちは、善で真実であるものを発見する自由でなく、何が善で真実であるか自由に決められる自由を求めているのです。

再び私たちは、「自由の中心には自分の存在、意味、世界、人間のいのちの神秘についての考え方を決定する権利が存在する」と述べている「家族計画協会対ケイシ−訴訟」において、現実の意味を明確にしたいという私たちの願望に対する明確な証拠を見つけることができるのです。確かに、全ての人は自分の「考え方」を明確にすることを自由にできますが、この「考え方」が行動に移されるとき、そのような考え方から生じる邪悪な行動に対して他人を守る権利が民衆にはあるのです。ある人種あるいは民族集団の人間は劣っているので、平等な権利は与えられるべきではないという「考え方」を持っている人もいます。どんなに間違っていても、そのような考えを持つことは自由ですが、彼らが自分の考え方を他人に押しつけることは許されていないのです。全ての考え方が平等に創られているわけではないのです。

善なるものより自由を望んでいる

究極的には、現代は考え方においては、異常なほどに無政府主義的なのです。自由社会においてさえも、法律は主として人間の自由に対する招かれざる制約とみなされているのです。ただ個人に大きな害が及ばないためだけの制約は認めても、制約は少なければ少ないほどいいのです。私たちは、法律は人間の自由に適切な制約を与えることができ、人間の財産を守るために不可欠のものであるという感覚をほとんど失っているのです。私たちは、法律と正義との関連が少しはわかるのですが、私たちの良いところをさらに高める法律よりも、自分の自由を守ってくれる法律のほうが大抵の場合いいのです。

たとえば、ポルノは文化にとって決して有害ではないと主張する人はほとんどいないけれども、善なるものよりも自由のほうを私たちが望むので、それは一般的に容認されるのです。啓蒙運動以後、人間は基本的に善であり、自分がなりたいものになれる自由が人間の最も重要な特徴であるという考え方が行き渡りました。この考え方は超自然的なものへの理解が欠けていて、人間は動物よりも少しだけ発達したものだという考え方なのです。

ニ−チェの教えにあるように、人間は熱情を理性によってコントロ−ルするべきではありませんが、人間が熱情を満たす手助けとなるために、つまりこの究極的に無意味な世界の中で、人間がつかみうるどのような幸せであってもそれを人間がつかみとる手助けとなるために、理性を用いるべきなのです。この考え方が、人間は原罪を背負っているが、神の最も崇高な創造物であり、自然と神の法則に服従することと慈悲を通して、神との永遠の一体化への旅の途上にある生きものとしてのキリスト教的人間観に取って代ったのです。

乱交の増加

一九六0年代後半から一九七0年代前半までに、人間は感情のままに行動してよいという考え方が、性革命を促進していた人々の考え方の中に確立されてしまったのです。性革命を推し進めた最大のものの一つが、「家族計画協会」という団体だったのです。一九六0年、一九七0年代に、「家族計画協会」の公報担当者は恥ずかしげもなく結婚という枠外のセックスを提唱し、乱交を奨励さえしたのです。若者たちは、親の世代の抑圧的な道徳感を捨て、自由な恋愛に参加するように言われたのです。彼らは、複数の相手との積極的な性生活を送ることは、心理学的に健康なことであり、全く正常で道徳的なことだと言われたのです。

今では、主としてエイズの広がりや十代の若者の妊娠といった深刻な事態のために、「家族計画協会」でさえ純潔を重視しています。しかし、その団体の人々は、若者が性交を控えることができる、あるいは若者にその意志があるという確信は全くないのです。だから彼らは、「安全な」セックスとか「責任ある」セックスを提唱しているのですが、それは避妊法が用いられる性交を意味しているのです。性教育者は、(いくつかの点で自己達成的な推定ですが)若者は結婚をしない状態で性的関係を持ち続けるであろうと想定しています。したがって、彼らの計画の主たる目標は、彼らに避妊法を用いさせるようにすることなのです。「家族計画協会」は、性教育によって、妊娠の数が減り、したがって中絶の数が減ることになるだろうと考えています。しかしまた、全ての研究が、「家族計画協会」がすすめる性教育が、乱交や十代での妊娠や中絶の増加につながっていることを示しているのです。

若者には「家族計画協会」がすすめるような性教育は必要ないのです。彼らは、性交は結婚して初めて、責任を持って安全に行うことができるということを学ぶ必要があるのです。若者の頭を自由についての間違った考えで一杯にするよりも、また、若者の財布をコンド−ムで一杯にするよりも、私たちは、若者が、人間の性の営みの本当の意味が理解できるように手助けをする必要があるのです。私たちは、若者たちが性欲の奴隷とならないよう、彼らが自制と自己統制を学ぶ手助けをする必要があるのです。若者は、性交は結婚生活の中に存在場所があり、結婚するという約束とともに真の自由、つまり自分自身を完全に相手に捧げる自由、自分の子どもに対して責任ある行動を取る自由がやってくるということを学ぶ必要があるのです。

責任ある性の在り方に対する教育が築かれるには、二つの基石が必要ですが、その両方ともが避妊の手段を用いるセックスによって蝕まれています。一つの基石は、性交は相手に対する深い愛情、つまり自分の全てを相手のために捧げたいと思わせる深い愛情の表現であるということです。たいていの人は、いつかは貞潔な結婚生活をしたい、お互いに深く愛し合える人との結婚生活を送りたいと望んでいます。

そのような深い愛情の主要な構成要素の一つは、ただ一人の相手にしか自分の全てを捧げないという貞潔の約束です。多くの人々にとっては、結婚前から相手に対して貞潔であることの必要性について話すことは奇妙に聞こえるかも知れませんが、実際はそうなのです。ある意味では、人は自分の相手に出会う前から、その人を愛するべきなのです。人は一生涯、良き恋人であり、良き配偶者となるための準備をしておくべきなのです。このことは、自分の全てを捧げるのを結婚するまで控えるということを意味しています。なぜならある意味においては、自分の体は自分のものであるのと同じくらい、将来の配偶者のものであるからなのです。数世代前は、若者が結婚まで「体を与えるのはとっておく」ことを話すことはまれなことではありませんでした。これは今日では馬鹿にされるような言葉ですが、それでも愛と性と結婚に対する適切な考え方を示している言葉なのです。人は結婚のために自分を捧げる準備をし、結婚のために自分を捧げるのは取っておくべきなのです。

結婚しない状態での性交によって、当事者が大きな被害を受けることがあります。多くの人は利用されたとか他人を利用したとかの感覚を持つようになります。多くの人が疎外感を感じ、他人を完全に信頼できなくなってしまいます。あるいは、自分たちが味わっている性的な喜びのために、性行為の相手の本質がわからなくしてしまい、誰と結婚をすべきかについての間違った判断をしてしまいます。私たちは、結婚前の意味のない避妊しながらのセックスに関わるという、安易で、おろかで自滅的な道をなぜたどってはいけないのかを若者たちが理解できるよう手助けをしなければなりません。

避妊はセックスと子どもの関係を引く裂く

もう一つの性教育計画の基石は、もし子どもを産む覚悟ができていないなら、性交をする心構えもできていない。そして結婚するまでは子どもを産む心構えはできないという、決まり文句なのです。人はたいてい、いい親になりたいと思っています。自分の子どもを養い、いい子育てをしたいと思っています。避妊は性交と子どもとの関係を切り裂こうとするものです。それは私たちの性の営みに責任を感じさせると同時に、私たちを無責任にさせることもできるのです。未婚の母から生まれた子どもは、人生のスタ−トから困難な状態にあるのです。彼らは責任ある大人になるために必要な躾や強さがなかなか得られないのです。未婚の母の人生は、子どもの要求も、自分の感情的な要求も満たすために頑張らなければならないので大変なのです。子どもを中絶してしまった人はしばしばひどい心の傷を負っているのです。未婚の状態で妊娠することの代償は高いのです。

実際、結婚生活においても、避妊は非常によくないのです。それは、性行為の意味を低下させるのです。また、性行為というものに刻み込まれている大きな約束、つまり愛する人との子どもをいつでも持てるという約束を奪うものなのです。

したがって、避妊をしている人々とは違って、自然な家族計画の方法を用いている人々は、万一予定外の妊娠がおきても中絶という方法に訴える可能性は非常に少ないのです。自然な家族計画の方法を実践している夫婦は避妊の手段を用いている人々と同じように、子どもを持つことに対して扉を閉ざしていて、同じように「子どもができない」性交をしたいと望んでいると主張する人々がいます。しかし、決定的な違いは、その本質を妨害したいと望むような行為に、自然な家族計画の方法を用いている人々は関わっていないということです。彼らは性に関する責任という原則を堅く守っているのです。彼らの性行為は、自然なままに、出産に対して扉を開いているのです。彼らは妊娠するかもしれないことがわかっている時には性交をするのを控え、妊娠できないときに性交をしているのです。それはまさしく彼らが子育てに対して責任を持ちたいという願望からなのです。

中絶する人々は避妊をしていた人々である

避妊と自然な家族計画の違いが自ずとわかる一つは、中絶をする人々は一般的に避妊をしていたということです。自然な家族計画の方法を用いている人々は、ほとんど中絶をしません。自然な家族計画の方法を用いている人々が予定外の妊娠をしてしまった場合、彼らはその妊娠を完全に受け入れます。一般的に彼らは、完全に妊娠を避けるためにではなく、妊娠を遅らせるために、自然な家族計画の方法を用いているのです。そのような人々は、一般的に子どもが好きで、子どもを持ちたいと思っているのです。だから、妊娠が都合の悪いときがあっても、それは最悪の事態ではないのです。結婚している人にしか自然な家族計画の方法が用いられていないことは重要なことです。彼らには、その方法を実行できるだけの相互の信頼と約束があるのです。

一方、避妊法を用いている人々は、予定外の妊娠をした場合、とても腹をたてるのです。なぜなら彼らは妊娠しないためにあらゆることをしたからなのです。結婚していない人は悲劇的状況に陥り、性的関係のある相手との間には、永遠の誓いはなされていないので中絶するしかないように思われるのです。結婚していても子どもを持たないような人生設計をしている人々がしばしばいますが、そのような人たちは自分たちの設計どおりの、子どもを持たない生活を維持するために中絶したいと思うかも知れません。もちろん私は、避妊をした人が全て中絶をしがちだとは言っていないのです。私が言っているのは、自然な家族計画の方法を実践している人よりも、避妊をしている人のほうが、はるかに多く中絶をしているということなのです。

避妊は、性交から子どもを作るという要素を奪ってしまうのです。それは妊娠というものを、責任ある個人なら心構えができているはずの自然な結果というよりむしろ、性交の失敗と思わせるのです。だから、中絶が予定外の妊娠に対する解決策として考えられるようになるのです。避妊することで、子どもの世話をする心構えのできていない人々が性交をすることができるようになります。そのような人々は、妊娠すると、自分たちの人生の邪魔者として胎児に対して腹を立て、中絶という解決方法に訴えるのです。避妊の手段を用いたセックスが行き渡っている国々が、全ての子どもが子宮の中でも外でも生きられることを保障するためよりも、中絶の権利を求めて闘っていることは、驚くべきことではありません。中絶反対の人々が、避妊と無責任な性行為の問題を避けて、中絶との闘いに勝利できると考えることはばかげています。なぜならば、最高裁の判決が述べているように、中絶は、避妊法を用いたセックスによって親密な関係が築かれてる人々にとって、「必要」だからなのです。


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