慈善事業の勇気ある新世界:与える側が、人の生死を決定することになるのだろうか?

ウェズリー・J・スミス
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

20世紀初頭の30年あまりの間、アメリカや多くの西欧諸国では優生学運動が盛んであった。『生まれながらに優れた』という意味を持つこの優生学の推進論者は、選択的生殖技術を用いれば、肉体的、精神的、文化的、そして社会的健全性を改善し、その結果、精神薄弱や癲癇、犯罪行為、精神病、アルコール中毒症、貧困状態を社会から一切なくす事ができると信じていた。

この理想郷は、二種類の出産方法によって創造されるはずであった。まず第一はいわゆる『正の優生学』と言われている優生学的に正しい結婚を奨励する方法、そして第二は、『負の優生学』として知られる『不能者』を産まないようにする方法である。

勿論、結果は惨澹たるものであった。実際、そうなっていなかったらどんなことになっていただろう?なにしろこの運動は、優れた人とそうでない人がいるという邪悪な思想の前提に成り立っていた。公共政策の基本が不平等である場合、弾圧は避けられない。アメリカでは、1907年から1963年の間に6万人の人々が不本意にも断種させられるという形で優生学的弾圧が行われた。これが、ドイツでは大量虐殺への道を開いてしまった。

一体これらの事実が慈善事業と何の関係があるのだろうか?それは資金が関係しているのである。

一国の道徳感や公共政策をすべて変えるためには、資金が必要である。つまりは、研究のための基金、大学での講座創設、理論提唱者への援助、研究の有料化、学術誌や医療関連の雑誌記事への費用負担、広告のための費用等、様々な資金使途での大衆文化への影響などを与えるためにお金が必ず必要になる。

残念ながら優生学は当初、国の最も裕福かつ勢力のあるいくつかの財団に実質上支えられていた。例えばロックフェラー財団は第一次世界大戦前から優生学を後援し始めていたし、我が国で最も影響力のある優生学研究センターであるコールド・スプリング・ハーバー実験進化論研究所への初期の資金供給は、ワシントンカーネギー協会による多大な寄付によって賄われた。

陳腐化したものが再び新しくなる

いくつかの州では断種法が1960年代中頃まで存続していたものの、優生学の人気は1930年代には衰え、大量虐殺が行われた後には完全になくなった。しかし優生学の全盛期から一世紀近く経った現在、新たな社会運動が法律、医療、政府、そして学界のエリート達の間で広がりつつある。

それより以前から優生学を支持してきた人々は、人間を恵まれた者とそうでない者という区分に選別する作業を行い、もし実行されていれば、最も弱く、無防備な立場にある者を医療的に差別するという公共政策を提案してきた。そして、物事が変れば変るほど彼らは現状に留まっている事を証明しつつ、民間の慈善事業団体はこの運動が拡大していく勢いの背景にある多くの情熱を生み出しているのである。

この運動には『生命倫理学』という名前があり、当初は学者や哲学者、弁護士、医者などのいわゆる生命倫理学者として知られるエリート集団が実践した分析的哲学の難解な分野である。

生命倫理学者は、医学的および科学的実験によって引き起こされる道徳的ジレンマをいかにして解決していくかを難解な雑誌上や学術シンポジウムなどで熱い議論を身内で繰り広げている事で知られる。しかし彼らの計画が知的である一方、その支持者でない我々にとっては実際にそれが意味していることが重荷となっている。生命倫理学プロジェクトは、一般人の健康、臨床薬の倫理、そして社会の倫理を自らの観念形態上でのイメージにおいて法律を作り替えようとしているに過ぎない。

この時点で多くの生命倫理学者は、生命倫理学は統一された目標のない単なるイデオロギーではないと主張し、異議を唱える事は間違いない。「生命倫理学は一枚岩ではない。」とワシントンD.C.にあるジョージタウン大学の提携である生命倫理学アカデミック・センターのジョゼフアンドローズ・ケネディー倫理学研究所の所長、マディソン・パワーズは述べた。「人々の意見は様々です。」どうやらその通りである。どんな運動には、同じ運動をしている者のなかでも反対意見がつきものである。(しかも、多くの場合、相互理解を得ているばずの最も重要な信念体系上におこる。)ゆえに、バプティストとカトリック信者が共有しているキリスト教信念の流れの中でもそれぞれ理論的反対意見があると同様に、生命倫理学者の間でも、本来共有しているはずの道徳的信念をいかに適用するかで意見が食い違っている場合が多い。

なぜこのことがそれほど厄介であるかと言うと、生命倫理学の主たる道徳上の仮説は、その運動が対象とするであろう大衆のものと著しく異なっているからである。例えば、多くの人は『害のない』ヒポクラテス的医学の価値観を持っている一方、生命倫理学者は一般的にはヒポクラテス的医療を『温情主義的』として切り捨てる場合が多い。

同様に、多くの人は(必ずしもいつもその考えに固執しているわけではないが)、いのちの平等性や生命倫理を尊重し、すべての人間が等しく公平な道徳的価値を有していると認めている西洋文明の道徳上の中心的考え方を信じている。しかしかなり前から生命倫理学運動の主流は、生命は神聖でもなければ平等でもないという結論に達している。実際、生命倫理学のイデオロギーでは、人間として産まれたということ自体は個人的道徳価値と何の関係もないという考えである。生命倫理学の根本的考え方においては、人間社会ではなく、すべての人が含まれるわけではない道徳社会が問題となる。生命倫理学は、道徳上の結論としての人生を考えうる、十分な経験的認識に基づく能力を個人が具備しているかどうかを、人間の価値を決定する際に基にするいわゆる『生命の優良性』と呼ばれる基準を通じて、誰が道徳社会の一員として認められるかどうかを決定する。このある種の検閲を通過したものだけが通常『人間』と認められ、そうでない者は『非人間』と呼ばれる。『人間』は、生きる権利を含む法的および道徳的権利を存分に享受でき、『非人間』にはその権利が与えられない。

シンガー博士の著書

オーストラリア人生命倫理学者、ピーター・シンガーはこの考え方を支持する最も有名な人物と言えよう。「実践倫理学」という彼の著書の中でシンガーは、『二つの重要な特質』を持つ人が人間と呼ばれるに値すると強く主張している。それは『合理性と自覚』である。

何に生まれてきたか自体はあまり重要でないと考えているシンガーは、「鯨、イルカ、猿、犬、猫、豚、アザラシ、熊、牛、羊等、ある意味ではほとんどの哺乳類を含む動物も人間と見なす事ができる」と主張している。それ以外の生き物、例えば鳥や魚などは人間ではない。シンガーにとっては、生まれたばかりの人間の赤ん坊(障害があるなしにかかわらず)や、重度のアルツハイマー患者(シンガー博士はロナルド・レーガン前大統領を思い浮かべているのかもしれない)、また、重度の認識障害をわずらっている人々も人間と見なされない。

動物であろうと人間であろうと、非人間は人間と同じ道徳的価値がないので、人間に科しては許されないような方法で殺したり利用したりできる。ゆえにシンガーは、幼児殺害の法制化を支持する世界的に有名な人物である。例えば、彼の著書「生と死の再考」という本の中で、赤ん坊のいのちを絶つことと、イワシを殺すことは道徳的には同じであると明白に述べている。「新生児も魚も人間ではないので、人間を殺すという罪の重大性とは比べ物にならない。」

シンガーは、新生児は『取り替えがきく』と考えており、だからこそ家族が望むのであれば殺しても構わないと信じている。この結論にいたるために彼は、我が子を生かすか殺すかを決断するために両親に28日間の猶予を与えるべきであると繰り返し主張してきた。最近では、産まれてきた子どもや家族環境をケースバイケースによって分析した上で、この期限を1年に延ばしている。

時が時ならば、幼児殺害を支持するピーター・シンガーは知的追放人という汚名を着せられていたであろう。実際、25万人もの幼児や大人が医師の手にかけられたという大量虐殺の辛い思い出のあるドイツやオーストリアに降り立つ際は、怒りのデモが必ず起こる。

しかしながら、生命倫理学や学界関係者の間で極端論者として扱われるどころか、むしろシンガーの考え方が主流で、世界各地で開かれるセミナーやシンポジウム、哲学連盟大会などでの講演に彼はしばしば招待されている。さらにブリタニカ百科事典の生命倫理学に関するエッセーの執筆も頼まれたというから、シンガーの思想はまさに社会的慣習に合ったものなのであろう。

シンガーは遠く離れたオーストラリアに拠点を置いていたため、彼の大衆的影響力は一時期衰えていた。しかし今では、数人の慈善家のおかげで注目の的となっている。一夜にしてシンガーはエリート集団の間で常に話題となる有名人となった。ほぼ一ヶ月間は彼の書いた記事やインタビュー内容が大衆紙に掲載されない日はないほどであった。この状況が生み出されたた背景には、プリンストン大学が、彼を人間的価値研究センター初の生命倫理学のアイラ・W・デキャンプ教授に任命したという事実がある。人間的価値研究センターはローレンス・ロックフェラー寄付金により設立され、アイラ・W・デキャンプ財団がその名前を刻印した椅子を寄贈している。

シンガーの思想を伝授するための教壇を提供するために自らの資金が使われる事について、アイラ・W・デキャンプ財団はどの様に感じているのだろうか?シンガーの価値観は、財団の受託者や職員の思想を反映しているのだろうか、それとも、学問の自由という強い信念のもと、本当はぞっとしているものの敢えて反対できないだけなのだろうか?

財団のニューヨーク支部に何度も問い合わせたが返答がもらえなかったため、事実はわからない。しかし、人間的価値研究センターの副所長であるウィリアム・C・ガラハーによれば、「デキャンプ財団にはシンガーの任命について、そして彼の思想に関する情報を十分に伝えてあります。直接聞いた訳ではないので想像でしかありませんが、きっとわくわくしていると思いますよ。」と述べている。こうして西洋的価値観の中核部分が、わけのわからない慈善事業団体による寄付によって続々と破壊されていくのである。

理不尽な部分がすべて改善されていくことを期待

多くの財団資金は、貧しい人々が医療処置をより受け易くし、また、亡くなっていく人々の最終段階の介護を改善することを目的に投資価値のある医療処置の発案に投資を行なう。カーター・センターは、アフリカで苦しむ人々に多大な救援を施した。我が国では、ロバート・ウッド・ジョンソン財団資金によるミソウラ・デモンストレーション・プロジェクトが、 亡くなっていく人々の介護や医療処置を改善するための立派な構想を促進するのに役立った。

この流れで、多くの基金が、保証を受けていない人々が包括的により広範囲の医療を受けられることを目的とし、投資価値のある生命倫理の発案に投資をしている。残念なことに、この問題に従事している生命倫理学者の指導的立場にある人の多くは、この全国的ジレンマへの最良の解決策は医療供給であるという意見を強く支持している事である。

供給制度は、一部の人が利益を被るために、健康な人々をあからさまに犠牲にする法的に認可されたある種の医療差別である。多くのアメリカ人は供給制度を望んでいないであろうにもかかわらず、生命倫理学者のそもそもの論点は、供給をするか否かではなく、『公正な供給制度』をいかにして作り上げるかにあるのである。

しかしながら、司法はこれらの方法の多くに逃げ道があると認めている。なぜなら、個人的特性に基づく医療方法は排除するべきであるという考えを常に奨励しているからである。例えば、非営利生命倫理学シンクタンク(実際はモンサント社や、W.K.ケロッグ財団やロバート・ウッド・ジョンソン財団等から資金を受けている)であるヘースティングス・センターの共同設立者、ダニエル・カラハンは、年齢ベースの供給を唱えている。

多種多様な供給制度の提案に賛否両論が運動の中で議論されているにもかかわらず、無益介護理論、すなわち、回復の見込がない病気や大怪我を負った人々に対する延命的医療処置の否定がすでに全国の一部の病院や介護施設で巻き起こっている。

無益介護理論は通常、『無益な医療』、『不適切な介護』、あるいは『無益の介護』などど言われているが、これにより医師が一方的に人生最終期の医療処置を患者が求めているにもかかわらず、患者のいのち、すなわち、機械につながれ、非自発的に生かされている亡霊のような存在のいのちの質を内科医の主観的物の見方によって拒否する権限を与えてしまう。

米国医療協会が発行する雑誌にも記述されている通り、無駄を前提とした病院内のプロトコルがすでにヒューストン近郊の医療センターを初め、表向きはカトリック協会であるサンホセにあるアレクシアン・ブラザーズ・ホスピタル(最近、コロンビアHCAに売却された)など全国の病院でも普及している。ケンブリッジ・クオータリー・オブ・ヘルスケア・エシックスによると、カリフォルニア州で調査対象となった26病院のうち24の病院が無益介護対策をとっていると書いていた。この無益介護理論がなぜ社会にとって、また、いつこうした医療処置を受ける事になるかわからない個人にとっても、どれほど危険かと言うと、これによって、医療行為を存続するか否かを患者あるいはその家族の反対の有無にかかわらず、人間のいのちの価値を費用対効果の観点から決定すると言う原理を確立しかねないからである。この点から見ると、無益介護理論は人間のいのちの神聖なる平等性や、現状のヒポクラテス的医療制度を滅ぼし、そして主観的な一定レベルの『生活水準』に基づく医療を供給する新しい医療制度の方向へ我々を押しやるものである。

慈善事業による死滅

無益介護理論を促進するため、あるいはそれから我々を守るための財団の資金提供の役割の例証となるある実例をご紹介しよう。コロラド州の内科医で倫理学のコンサルタントでもあり、無益な医療の顕著な支持者であるドナルド・J・マーフィー博士は、いつどのような状況下において、医師が医療処置を提供するのが不適切であるかを『社会』が定義するべきであると信じている。

マーフィー氏は一時期、患者やその家族が処置の存続を望むと望まざるとにかかわらず、患者に対する延命措置的医療行為をやめるような正式なガイドライン作成に従事しているコロラド・コレクティブ・フォア・メディカル・ディシジョン(CCMD)という非営利組織のトップを務めていた。

この組織の協議事項を促進するため、マーフィー氏は、『利用しやすくかつ手頃な医療プログラム』を推進するためのプロジェクトに資金を提供している慈善事業財団、コロラド信託に借り入れを申し込んだ。

この信託会社はCCMDに、ガイドラインを創り上げるために130万ドル助成した。「とてもユニークな資金提供でした」とコロラド信託の上級評価オフィサーのナンシー・ボーグマン・スーティ氏は述べた。「これは上記のような提案に対する単なる申し入れに応える形でなされたのではありません。マーフィー博士は正に組織のリーダーとして来社し、資金の借り入れに関する強烈なアピールを行なったのです。」

CCMDはコロラド信託の寄付金を人生の最終期に受ける医療に対する一般の人々の態度を決定づける、そして固めることを目的とした地域のフォーカスグループのために使った。マーフィーの目的は、病院やHMO(健康維持機関)、さらには医師が現在普及している『不適切な』医療を思い切って即座に止める事ができるようなCCMDが提案するガイドラインに、一般人の賛同を得る事であった。しかし、マーフィー氏の思惑とは違い、『社会』は無益介護理論を大概受け入れなかった。「自分が受ける処置は自分で決めたいと人々が思っていると言う事が明らかになりました。」とスーティー氏は述べた。

壁への落書きを見てコロラド信託はCCMDへの資金提供を止め、人生の最終期に、より人間的な医療処置が受けられるような新たな緩和的医療イニシアティブ(威圧的なモデルをベースにしたプログラムではなく)を創るために、フォーカスグループから収集した情報を使った。

なぜ方向転換したのだろうか?スーティー氏は、「わが財団は、医療に対する新たな姿勢をもっと民衆が取らなければならないと信じているのです。ガイドラインが実現しない事は明白なので、財団は今新たな道を模索しているところです。」と述べている。この話には、慈善団体の後押しによって成り立っている団体はまた、慈善団体によって駄目になる事もあるという皮肉な後書きが付いている。コロラド信託が手をひいた事はCCMDにとっては命取りになった。マーフィ博士は現在新たな方面に力を注いでおり、組織はもはや無活動の状態である。

優生学運動の道徳的破滅は、社会的、医療的問題の解決策として差別的な政策を取り入れようとした事に対する警告の役割を果たした。

ゆえに、資金提供を決断する際寄付者は、特定の生命倫理学的行為を行なっている相手を後援する事によって、より公正かつ利用しやすい医療システムの導入の方向へ国を動かす事になるのか、それとも、前進という名のもとに、実際には普遍的な人間の平等性という根本的理論を密かに傷つけることになるのか、熟考するべきである。資金援助を受けている生命倫理学者は我々を新しい優生学の方向へ積極的に導こうとするので、少なからず注意が必要である。


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