≪生命倫理について≫(3)

Shimazaki, Hiroki (シマザキ・ヒロキ)
出典:『LOGOS(みことば)』 2007年7月掲載より
執筆: 2007年7月5日
許可を得て複製

今回は、体外授精を取り上げたいと思います。体外授精には、配偶者間と非配偶者間の二パターンがあります。教会では、どちらも正常な生殖行為によって行われるものではないので、否定されています。(ただし、配偶者間においては、不妊で悩んでいる夫婦に対して同情を示しています。)この二つに共通する問題は、まずは、現在の医療技術では、授精させるためには複数の卵子と精子が必要となり、運良く着床し、胎児が成長してくると、使用されなかった卵子と精子が残り、それらは処分されることになります。教会では、この行為は中絶するのと同じ行為であると指摘しています。また精子を採取する方法も問題だとも指摘しています。ただ倫理的には、配偶者間においては、上記で言ったように同情の余地があります。

しかし、非配偶者間においては、倫理的にも問題が生じます。一つには、生まれた子どもが誰のことであるのかがはっきりしなくなります。子どもを産んだ夫婦が親なのか、卵子や精子を提供した人が親なのかという問題が生じます。また、今まで言ってきたように、その子どもに万が一障がいがあった場合、その責任は誰が取るのかといったことも生じてきます。最悪の場合、賠償責任が生じたり、生まれてきた子どもに対する虐待の危険性も起きてきます。これでは、子どもは大人のペットかおもちゃのような存在となり、一人の人間としての尊厳も失われてしまいます。

それは、何年か前によくメディアに取り上げられたクローンにもつながってきます。たとえば、政府が優秀な人材を育てようと自分たちの思い描く優秀な人材をクローンによってつくるといった可能性もあります。これでは、生まれてきた子どもは、人間なのか、政府のロボットなのかわからなくなってきます。(なお、クローンも一度は母胎に着床させ、普通の人間と同じような成長をしていく必要があります。けっして、コピーではありません。また、人間として成長していくので、周りの環境に影響されて遺伝子的には同じでも全く同じ人間にはなりません。)

もう一つ胎児に対する診断に触れおきたいと思います。これには一つの条件があり、胎児の治療目的に行うのであれば教会はその行為を認めていますし、胎児への直接の医療行為も認めています。しかし、その胎児が障がいをもっているかどうかを診断し、障がいの確率が高いときに堕胎をしてしまうための診断について教会が認めることはありえません。

体外授精は、不妊治療の延長線上に位置するものです。子どもに恵まれないご夫婦の気持ちは痛いほどわかりますが、その子どもをもうけたいという動機には、子どものことよりも自分たちのエゴが隠されていたりします。その究極的なものが、堕胎であるといえます。そこで、次回は、この問題について考えてみたいと思います。


*「生命のはじまりに関する教書」カトリック中央協議会
1987年初版参照のこと

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