生命倫理について (2)

Shimazaki, Hiroki (シマザキ・ヒロキ)
出典:『LOGOS(みことば)』 2007年6月掲載より
執筆: 2007年5月23日
許可を得て複製

タレントの向井亜紀さんのことで、代理母がマスコミに取り上げられました。代理母は、カップルの精子と卵子を受精させ、その受精卵を自分たちとは関係のない別の女性の子宮を借りて、着床させ、子どもを産ませるというものです。いくつかの問題があると思いますので、整理しながら考えてみたいと思います。

まず、代理母となった人は、自分のお腹の中で10ヶ月も宿し、お腹を痛めて生まれてきたことで、お腹の子どもがたとえ自分の子どもでないにしても、母性愛が生じてきます。精神的な面においては、すでに親子関係があるともいえるのです。そのきずなをたとえ契約がそうなっているにしても、断ち切るというのは問題があるのではないでしょうか?

そして、何よりも問題となるのが、代理母によって生まれた子どもに何らかの障がいがあった場合、その子はどうなるのかということです。依頼したカップルがたとえ障がいがあっとしてもその子を引き取るというのであれば、まだ良いのかもしれません。しかし、物と同じような考え方をして、障がいのある子どもを不良品扱いして、引きとりを拒否するならば、その子の行き場所はなくなります。これは、その子の人生を踏みにじるものであって、その子の人権や人格の否定にもつながるものです。またたとえ、依頼したカップルが引き取ったとしても、その子への愛情がどこまであるのかも疑問です。最悪の場合、虐待を行うことになるかもしれません。どちらにしても、この代理母の大きな問題は、そこに宿っている子どもをまるで商品であるかのように扱ってしまうということです。子どもは、商品でもなければ、ペットでもありません。一人の人間です。

何らかの事情で子どもができない女性が子どもを授かりたいと思うのは、人間として当然の感情です。しかし、この後で体外受精についても触れますが、お金のある人は子どもが授かることができて、お金がなくて子どもが欲しいと願う人は子どもを授かることができないというのも不公平なことです。だからといって、すべての人がこの代理母を利用するのは今まで話してきたとおり問題です。そして何よりも、人間が自分たちの都合や欲望によって子どもを授かろうとするのは問題ではないかと思います。たとえ、何らかの事情で子どもを授かることができないにしても、お互いが支えあい、愛を育み、愛に満ちあふれた家庭を築いていくのが、カトリック教会の立場です。また、その愛をこの世の中にいる子どもたちに向け、自分の子どものように他人の子どもを愛するということもまた大切なことです。

少なくとも、一人の人間として命を授かるのは、わたしたち人間の身勝手な理屈ではなく、神様からの授かりものです。ですから、もっと一人の人間の命の大切さを考え、キリスト教でいうところの愛で互いに愛し合っていきたいものです。

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