臓器提供:困った真実

Shea, John B. (シー・ジョン)
September 11, 2007
許可を得て複製
英語原文より翻訳: LifeIssues.net

「心臓死」の宣告後、臓器移植が2006年6月にオタワ病院で初めて実施されて以来、カナダ国民は、臓器移植に賛成するメディアを利用して世論を操作しようとする雄弁な人々の絶え間ない宣伝活動にさらされてきた。下記の論評は、移植目的でヒトの臓器を提供および収集することの道徳的原理ならびに科学的事実の双方について、真実を一般大衆に知らせる目的で提供されている。医師の多くが、ヒトの臓器移植の道徳性および臓器が回収されるときに実際に何が起こっているかについて正しい情報がないという事実について、重大かつ熟慮された懸念を抱いている。

(編集者:2007年7月、イギリスの首席医務官は、臓器要求在庫に対処するため、臓器移植に対する患者の同意を推定的承諾にするための早期提案を繰り返した。その結果、特に免除されていない限り、すべての患者が臓器提供者として考慮されることになった。)

オンタリオでは、3人の国会議員が、最近、同様の提案を含む議員立法案を提起した。この政権において、臓器移植は義務となるが、それは非常に危険な展開である。以下にその理由を説明する。

法王ヨハネパウロII世は、2000年8月29日の第18回国際移植学会において、「体内に1つしかない生命維持に不可欠な臓器は、死後にのみ摘出できる;すなわち、確かに死亡した人の体からのみ摘出できるのである。人の死は、結合と統合による自己という全体の完全な分解を含む1つの出来事である。人の死は、どのような科学技術や経験的方法でもすぐには特定できない出来事である。現代医学で用いられている死を確認するための「基準」は、人の死の正確な瞬間の技術的科学的判断として理解されるのではなく、人が死亡したという生物学的兆候を特定する科学的に確実な手段として理解されるべきである。」法王は、「死の事実を確認する方法として最近採用されている基準―すなわち脳のすべての活動の完全かつ不可逆的な停止―は、厳密に適用された場合、健全な人類学の必須要素と矛盾しないだろう」(1)とも述べている。これは、一見、明らかな是認のように思われた。

カリフォルニア大学神経学部の副学部長であるAlan Shewmonは、臓器や組織の集りである多様体としてではなく、「全体としての生物」の結合として定義しようとすることで、理論上、哲学的領域から物質的領域への転換が可能であると述べている。しかし、彼は、すべての事例を明確、非独断的、二項選択的に分類する目的で、「全体としての生物」を定義しようとすることは無用の行為ではないかと考えている。また、Shewmonは、「健康な生物が統合された結合体であることは明らかであり、分解が始まっている死体は明らかに結合体ではなく、その間に、本質的に判断不可能な曖昧な部分はない」とも述べている。(2)

教会がディベートを再開している。

5年後に、法王ヨハネパウロII世がディベートを再開した理由が、脳の活動の完全な停止は死に相当しないという一部の主張にあることは明らかである。2005年4月に亡くなる数ヶ月前、法王は、ローマ教皇庁科学アカデミーに対し、死の兆候を再調査し、そうした兆候が有効であることの科学的確証を得るように依頼した。

また、法王ベネディクトXVI世は、このディベートを復活するよう依頼した。2006年9月14日、アカデミーの総長であるサンチェス司祭は、同アカデミーは、脳死を人の死と認めることを再確認したと述べている。しかし、ディベートは終わらなかった。2006年のバチカン研究に参加したAlan Shewmon医師は、脳死単独では、「終末期、深い昏睡状態が起こるだけで、その人が死亡するわけではない」と述べた。サンチェス司祭は、「バチカンの意見を待つ」と述べた。

2003年2月4日の世界病者の日のメッセージで、ヨハネパウロII世は次のように述べている。「別の人を助けるために、一人の人を殺すことは適法ではない。」カトリック教会の教義問答には下記のように書かれている(第2296段落);「他の人の死を遅らせるためであっても、人に障害を与えるような変化や死をもたらすことは道徳的に容認できない。」(3)

臓器摘出方法

現在、臓器は、4つの異なる状況下において摘出されている:

  1. 生存中のドナーからの摘出;例えば、腎臓1個または肝臓の一部。適切なインフォームドコンセントが存在し、ドナーの生命や健康に重大なリスクがないことから、これは道徳的に全く問題ない。
  2. 死後硬直に加え、呼吸機能や心臓機能に関する以前の基準によって死亡を宣告された人からの摘出。骨髄、角膜、心臓弁および皮膚が摘出される。この処置は道徳的に容認される。
  3. 患者が「脳死」を宣告された後。
  4. 患者が「心臓死」を宣告された後。「脳死」と「心臓死」の道徳的状態については疑問が残る。

理論および実践

臓器は、臨床および技術的情報を利用して、「脳死」と診断された後の意識のない患者から入手される。一般市民は、このような臓器収集に対して下記の深刻な批判があることに気付いていない。脳死の理論については、さまざまな議論が行われており、実利目的で利用されることがある(4)。ローマ法王庁科学アカデミーは、1985年と1989年に再び、脳死を「死亡の真の基準」と宣言している。ただし、2005年2月、法王ヨハネパウロII世は、生きている臓器を摘出する前に、ドナーが死亡していることを確認するためのより正確な方法を要求している。臓器移植は、「生命とその人に対する尊厳が守られる」方法で行われた場合にのみ容認できる」と彼は続けている。(5)

全脳死(大脳、小脳および脳幹の機能の不可逆的喪失)とは、ヒトにおける統合的な有機結合の喪失を意味する、という概念は、神経学者Alan Shewmonによる強力な批判を受けてきた。(6)一部の医師は、米国では「全脳」、英国では「脳幹」という基準によって死亡を宣告された患者において、脳全体が死んでいるかどうかを確信できるのかという疑問を呈している。(7)神経学的基準は、損傷を受けていない心臓呼吸器系が機能している場合、宣告に十分ではない。こうした基準では、特定の脳反射が失われていないかを検証する。考慮されない脳の機能として、体温管理、血圧、心拍、体液の塩分バランスがある。患者が脳死と判断されても、こうした機能は尚も存在するだけでなく、活発である場合が多々ある。

脳死の診断基準についてコンセンサスはない。それについては、国際的に激しいディベートが行なわれている。脳死の診断には、さまざまな神経学的基準が用いられている。ある方法で脳死と診断されなくても、別の方法で脳死と診断されれば、その人は脳死と診断されることになる。(8、9、10、11)

神経学的基準による死亡の診断は、憶測であり、科学的事実ではない。また、神経機能の不可逆性は、予後であって、医学上の観察可能な事実ではない。容認されている脳死のガイドラインを守ることが低いという証拠でもある。(12)

実用的な理由づけ

脳死は、純粋に実用的な理由づけで利用されることがある。2005年、ミュンヘン大学の前任の哲学者であったRobert Spaemann医師は、ローマ法王庁科学アカデミーに対し、死亡の定義に脳死を使うことは、新たな優先事項を反映したものだと述べた。それはもはや、早すぎる「死亡」宣告を回避するという、死を目前にした人にとっての利益ではなく、できるだけ早急に彼らに死亡宣告するという社会の利益になっているというものである。

それには2つの理由がある:1)家族と社会に金銭的および人的な負担を課すことになる延命治療の中止に対して、法的な免責を保証する、ならびに2)移植によって他の人の生命を救う目的で、生きている臓器を収集する。(13)

目標は、人々が臓器移植を社会的責任と見なし、臓器提供が死に行く過程での通常の行為として受け入れられる社会への移行である。自分の臓器を提供することに関して明確な記録を留保する選択をしている人の場合、残される家族が臓器提供に同意することになる。(14)米国では、連邦規則において、医療機関は、死亡または死が差し迫っている場合に、地元の臓器調達組織に連絡し、臓器移植の提案に熟達した専門家が適切な時期に家族に接触するよう求めている。

バチカンの審議

ネブラスカ州リンカーンのFabian Bruskewitz司教は、ローマ法王庁アカデミーに対し、その2005年のミーティングにおいて、「尊敬され、博学で、広く認められた道徳観を持つカトリックの神学者において、友人のために自分の生命を捨てることに関するイエスの言葉(ヨハネ15:13)が、他の人の生命を継続させるために自殺を命じたり、それを承諾するものであると考えている人はいない。」と述べている。司教は、現在のテクノロジーにより、医師が「脳の外側1‐2cmにおいて」脳の活動を観察できるようになったとも述べ、「では、脳の活動の存在、ましてや停止に関して、我々は、いずれにせよ、必然的真理と呼べる道徳的確信を持っているのだろうか」という疑問を呈している。(15)

2006年、ローマ法王庁アカデミーは、「脳死の概念が死亡の定義として有効な理由」と題した声明を発表した。慣習を破り、脳死宣告の倫理に関する2005年のバチカン主催会議に参加した数人が、ディベートの内容を文書として発表した。バチカンは公表しないことを決定していたが、こうした文書が発表されたことは、法王庁生命アカデミーの少数のメンバーが脳死について強い感情を抱いていることを示している。イタリア国家研究会議の副議長であるRoberto De Matteiは、2007年4月20日のカトリック・ニュース・サービスに対し、「多くの人が懸念しているのは、人の生命の終わりについて疑問があるにも関わらず、バチカンが適切な立場を取っていないということである。魂が人間の体に入る瞬間と同様に、肉体から魂が分離する瞬間も謎に包まれている。」

ハーバードの撞着(どうちゃく)語法

1968年、再びもとの状態に戻れない昏睡状態に関するハーバード特別委員会は、機能しなくなった、あるいは機能を再開する可能性がない臓器は、事実上、実際に死亡していなくても死亡しているという基準を発表した。次に、彼らは、再びもとの状態に戻れない昏睡とそれに付随した脳の永久的な機能停止の診断に関する基準を提示した。彼らは、昏睡状態と脳死を同等と見なし、患者を脳死と宣言した。彼らは、再びもとの状態に戻れない昏睡状態にある人は、それによって死が必須となり、事実上、実際に死亡していなくても死亡しているという理由で、脳死を死亡と見なすべきだとそれとなく伝えている。言い表せない程ひどい意味の混乱はこの撞着語法の考えの結果として起ってくる。(16)

致命的な無呼吸検査

「脳死」のどの基準にも、脳死の診断における最も重要な手順として無呼吸試験が含まれる。人工呼吸器が止められる。「無呼吸」とは、呼吸が無い状態である。この検査の唯一の目的は、「脳死」を宣告するために、患者が自力で呼吸できないかを判断することである。この検査により患者の状態が悪化する上、検査は患者の家族の知識や同意がないまま行なわれることが多い。人工呼吸器が最大10分間止められると、血中の二酸化炭素が増加し、心臓発作の発生を示す血圧の降下が起こる。この検査によって回復の可能性が著しく低下し、心臓発作や再びもとの状態に戻れない脳障害により患者が死亡する可能性がある。名古屋の心臓専門医であるWatanabe Yoshio医師は、患者が無呼吸検査を受ける必要がないなら、低体温(冷却)治療を適時的に受けることで、彼らは60パーセントの確率で通常の生活に戻ることができる、と述べている。後述する心臓死との類似性に注意する。(17)

臓器の摘出中にドナーが動かないように、何らかの麻酔が必要になる。外科的な摘出の最中にドナーの血圧が上昇することがある。通常の手術中に同様の変化が起こるのは、麻酔の深さが不十分な場合に限る。体の動きと血圧の上昇は、ドナーに麻酔がかかっていない状態での皮膚切開と手術によるものである。ドナーが痛みを感じると考えることは妥当ではないか?場合によっては、臓器の摘出中にドナーが動かないように、筋肉の収縮を麻痺させる薬を使うことがある。さらに、ドナーに麻酔が投与されない場合がある。ドナーが動くことは、医師や看護士にとって痛ましい光景である。それが、麻酔薬や筋肉を麻痺させる薬が一般的に利用されるもう1つの理由である。

「心臓死」後の臓器収集

1960年代後半から、移植目的でヒトの臓器を摘出することが道徳的、法的に有効であるとして脳死が用いられており、「脳死」患者は、それ以来、臓器の主な入手源となってきた。それでも、臓器に対する需要は、供給を益々上回っている。1993年、患者を「死亡」と分類する新しい方法が考え出された。ピッツバーグ大学で開発された手順によると、患者は、「循環器および呼吸器機能が再びもとの状態に戻れない喪失」に陥っていると宣告されれば、「脳死」でなくても、死亡と宣告できる。米国医学研究所によると、いわゆる「管理心停止後の臓器提供」において、典型的な患者は、5歳から55歳、重大な脳障害があり、脳死ではなく、麻薬使用者やHIV陽性でなく、癌や敗血病でないことがわかっている。こうした患者は、交通事故により無意識に陥っていることが多い。

通常、患者は緊急治療室に人工呼吸器をつけた昏睡状態で搬送される。治療が無効と医師が判断すれば、親族に人工呼吸器を外す許可を取り、患者の心臓が止まっている場合は臓器摘出の許可を求める。その後、人工呼吸器を取り外す。1時間以内に心臓が停止したら、25分待ってから臓器を摘出する。1時間以内に心臓が停止しなかったら、患者は病院のベッドに戻り、それ以上の治療を行わず、自然な死を待つ。患者の担当医には、利害の対立があることに注意する。待ち時間が長いほど、酸素不足による損傷から、臓器が移植に適さなくなる。医師が治療の無効を早く宣言するほど、患者が自発的に回復するチャンスが低くなる。(18)

動物実験や臨床実績において、蘇生努力が成功した場合に、心臓停止から数分経っても意識の完全な回復が可能であることが示されているにも関わらず、こうした手順が実施されている。こうした蘇生の成功は、ヒトにおいて心静止から10分以上経った場合でも報告されている。(19)心臓発作の時に生じる心室細動による心臓停止は、心臓の活動の再びもとの状態に戻れない停止を意味するものではない。(20)ドナー候補の腹部および胸部の臓器の生存を維持するために、死亡後に人工循環および人工呼吸装置を再開する場合があることから、心臓死後の臓器提供の基準の適用には疑問が生じる。(21)体外での人工循環補助により、心臓死に至る前に、神経系に損傷の無い人が神経機能を回復させることがある。(22、23)

最後に、心臓発作から15分間心臓が停止した患者は、体を33℃まで冷却する方法、心肺バイパス、心臓麻痺(化学的に心拍を止める)および24時間かけてゆっくりと酸素供給を増加するという治療を行うことで回復する可能性があることが、今では広く知られている。こうした患者の最大80%が退院し、55%に神経学的に良好な転帰が認められている。心拍が停止してから5分経てば患者は死亡するという医師の前提は間違っている。(24)

憂慮すべき恐ろしい展開として、臓器提供過程で緩和医療の介護担当者を利用する動きが広まっていることが挙げられる。こうした介護担当者は、「心臓死後の臓器提供に適用されるスキルと方針」を提供すると言われている。実際には、彼らは、「家族がこの非常な困難な時に心を鎮め、力添えを得る」ためのプログラムを穏やかに売り込む仲介者なのである。この動きは、臓器移植:行動のための機会と題した2006年の米国医学研究所の報告概要に沿ったものである。IOMの目標は、「人々が臓器移植を社会の責任と考える社会に移行し」、「臓器提供が死を目前にした過程での通常の行為として受け入れられ、患者が自分の臓器移植について明確な選択を示さずに死亡した場合は、残された家族が安心して臓器提供を承諾できる社会にする」ことである。(25)

(意見:臓器を入手する方法自体が道徳的に正しければ、臓器提供は道徳的に正しい行為と言える。これが通用する状況が説明されている。重要な問題は、「脳死」と宣告された場合、あるいは「心臓死」である場合に、その人が本当に死亡しているかどうかである。その答えは、科学的証拠に照らし、心臓死または脳死の基準が、患者が本当に死亡しているかを確実に示すことが立証されていないことにある。Mauro Cozzoliは、胚の地位に関する記述において、「我々が人間を扱っているかどうかの不確実性は、理論、原理または教義上の立場(dubium uris)において、抽象的な疑念ではない。したがって、それはヒトの生命、ヒトが今ここに存在することに関する事実(dubium facti)についての疑念なのである。」と記している。真の意味において、「確実性と同じ義務が生じるのである。」(26)

意志の目的は、仲介者の動機(finis operantis)および身体的特徴、外部の行為のなくてはならない特徴(finis operis)により決定する。実際的か潜在的かに関わらず、行為の身体的および臨床的現実を軽視したり、無視したりしてはならない。(27)暴行を受けた女性に人工中絶薬のレボノルゲストレルを投与するカトリック病院の介護提供者は、その女性が排卵しており、妊娠するかもしれない可能性を除外できないという事実を軽視または否定しているのである。脳死または心臓死の後に臓器を収集する人も、「ドナー」が生存する可能性を軽視または否定している。リヒテンシュタインにある国際哲学アカデミーのJoseph Seifert教授は、「医療倫理学者は、「どんなに小さくても、我々の行為が生きている人を殺すかもしれないという正当な疑問があれば、その行為を控えなければならない」というカトリック教会の伝統的な道徳的教示を思い出すべきである」と述べている。(28)

脳死または心臓死の宣告は、道徳的確信に達するほど十分なものではない。したがって、その宣告に基づいた臓器の回収は非道徳的である。


Endnotes:

click here: http://www.lifeissues.net/writers/she/she_41organdonation.html

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